空手道 空手道の概要

空手道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/27 06:24 UTC 版)

空手道
からてどう
空手道の「組手」の試合風景の一例
別名 空手・唐手
競技形式 型・組手
発生国 琉球王国
発生年 不明。15世紀など諸説。
源流 歴史
派生種目 テコンドーキックボクシング日本拳法
主要技術 徒手
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琉球王国において漢学などの学問と共に士族の嗜みであった空手道は、大正時代に沖縄県から他の都道府県に伝えられ、昭和8年(1933年)に大日本武徳会において日本の武道として正式承認を受け、沖縄に大日本武徳会の支部が置かれる[3]。さらに第二次世界大戦後は世界各地に広まった。現在普及している空手道は、試合方式の違いから防具を着用して直接打撃を行う防具付き空手寸止めルールを採用する伝統派空手、直接打撃制ルールを採用するフルコンタクト空手などに大別できる。

今日の空手道は打撃技を主体とする格闘技であるが、沖縄古来の空手道には取手(トゥイティー、とりて)、掛手(カキティー、かけて)と呼ばれる関節技投げ技や掛け掴み技も含んでいた[4]。また、かつては空手道以外に棒術術、ヌンチャク術といった武器術も併せて修行するのが一般的であった。沖縄では現在でも多くの沖縄系流派が古来の技術と鍛錬法を維持しているが、最近の本土系の流派では失伝した技を他の武術から取り入れて補う形で、総合的な体術への回帰、あるいは新たな総合武道へ発展を目指す流派・会派も存在する。

防具付き試合の一例

名称の変遷

手、唐手、空手、カラテ、KARATE

空手は、もともと明治初頭の頃の沖縄では(て、琉球方言でティー)もしくは唐手(とうで、琉球方言でトゥーディー、トーディー)と呼ばれていた(花城長茂説)[5]摩文仁賢和によれば、「手」とは主に琉球固有の拳法を指し、唐手とは中国から伝来した拳法を指していたという[6]。しかし、1901年(明治34年)に空手が沖縄県で学校の体育科に採用された頃から、唐手表記のまま、読み方が「トゥーディー」から「からて」へ改められ、意味も「手」も含めた琉球拳法一般を指すようになった。それゆえ、唐手(トゥーディー)と唐手(からて)は、言葉の意味する範囲が違うことに注意する必要がある。

「空手」の表記がいつから始まったかについては諸説がある。18世紀に編纂された正史『球陽』に、京阿波根実基が「空手」の使い手であったことが記されているが、この「空手」が今日の空手の直接の源流武術であったのかは、史料が乏しいため判然としない。船越義珍によれば、もともと「沖縄には『から手』という呼び方があったことは事実である」とされ、しかしそれが「唐手」なのか「空手」なのかは不明であるという[7]。つまり、琉球王国時代から空手という表記が存在した可能性は考えられるが、これを史料から追跡するのは困難である。

今日知られている廃藩置県以降での空手表記の初出は、1905年(明治38年)に花城長茂が空手空拳の意味で使い始めたものである。次に大正年間の船越義珍の著作[8]本部朝基の著作[9]に断片的に「空手」の文字が使用されている。そして、1929年(昭和4年)に慶應義塾大学唐手研究会(師範・船越義珍)が般若心経の概念を参考にしてこれを用い、その後この表記が東京を中心に広まった

また、柔術諸派では、空手(からて)という表現に先立って、空手術(くうしゅじゅつ)という表現が用いられていた。これは徒手空拳を意味し、当て身を意味した。大日本武徳会が昭和9年に唐手術部門を新たに開設した際に、唐手術として登録し直された総合系柔術(空真流、神道自然流)においても、唐手技、当て身技を空手術(くうしゅじゅつ)と呼んでいたという。ここから、唐手(とうで)、唐手(からて)、空手(くうしゅ)が混淆して、空手(からて)という呼び名が誕生したとも考えられる。[10]

1936年(昭和11年)10月25日、那覇で「空手大家の座談会」(琉球新報主催)が開かれ、この時、唐手を空手に改めることが決まった。1960年代までは唐手表記も珍しくなかったが、現在では空手の表記が一般化し定着している。また、1970年代からは、主にフルコンタクト系の空手団体において、カラテやKARATEと表記されることも多い。

「道」の付加

空手(唐手)に「道」を付加して、空手道(唐手道)の表記がいつ始まったのかについても諸説がある。船越義珍によると、唐手の表記はしばしば中国拳法と認識されたので、慶応大学唐手研究会の同門諸君と相談して「大日本拳法空手道」に改めたとされる[11]。時期は慶応大学空手部の当時の記録によれば、1929年(昭和4年)もしくは1930年(昭和5年)であったという[12]

改称理由について、沖縄唐手は大学において「科学的に解剖され分析され研究され批判された」[13]結果、一度解体される必要性が生じたため、新しく日本精神に基づいて日本の武道として再組織されて「空手道」に改められたとしている[14]

一方で、同じく船越義珍が師範を務めていた東大唐手研究会でも同時期に「唐手道」の名称を使用していた事実が当時発行された書籍から確認することができる[15]。その理由について、船越義珍の伝えた沖縄唐手は組み手の技法を伝えず「型法の修練」に終始したが、これは「唐手道」到達における前段階にすぎず、これに試合制を加味してはじめて「唐手道」に至るのであるとしている[16]


名称の変遷
15 - 18世紀 19世紀 1901年(明治34年) - 1929年(昭和4年) - 1970年代 -
手(ティー) 手(沖縄手) 唐手(からて) 空手(道) カラテ、KARATE
唐手(トゥーディー)

※上記表はあくまで概略図であり、実際の名称の変遷は多少の時期の重複を含む。

歴史

空手は、琉球王国時代に発祥した武術であるが、空手について書かれた当時の文献は現在まで確認されていない。それゆえ、今日語られている空手の歴史は、主に明治時代の空手の古老たちが伝え聞いた話に基づいている。

起源

空手の起源に関しては諸説あるが、主なものは下記の通りである。

久米三十六姓輸入説

那覇の久米村(クニンダ、現・那覇市久米)に、1392年、当時の福建省から「閩(ビン)人三十六姓」と呼ばれる職能集団が移住してきたとされる。彼らは琉球に先進的な学芸、技能等をもたらしたが、この時、空手の起源となる中国拳法も同時にもたらされたとする説。ただし当時は中国でも拳法が未発達だったことが知られており今日ではこの説に疑問を呈する見解もある。同じ中国伝来説に、禁武政策以降にもたらされたとする「慶長輸入説」や『大島筆記』の記述を元に公相君が伝えたとする「大島筆記説」等もある[17]

「舞方」からの発展説

舞方(メーカタ、前方とも)は、琉球舞踊の一種である。沖縄の田舎には舞方と呼ばれる音曲にあわせて踊る武術的な舞踊があり、戦前まで各地に見られた。また、日本の「(やっこ)」のように、舞踊行列において前払いをする者は前方(メーカタ)と呼ばれ、行列の先頭で音曲に合わせて空手のような武術的な踊りをしていたともいう[18]。こうした武術的要素をもった舞方から「手(ティー)」が生まれ唐手へと発展した、ないしは舞方の中に唐手発達以前の「手」の原初的姿が残されている、とする説。安里安恒やその弟子の船越義珍がこの説を唱えている[19]

この「手」に中国武術が加味されて唐手へと発展したとする説は今日の主流になっている。本部朝基の「(支那拳法が)琉球在来の武術と合し、取捨選択洗練の結果、唐手として隆々発達を遂げた」[20]とする説や、宮城長順が記す「慶長輸入説」のうち、「外来の拳法が在来の『手』と合流して異常の発達を遂げ」[17]たとする説もこれに該当する。

他にも、沖縄角力(シマ)からの発展説、本土から伝来していた柔術[21]が起源とする説などがある。

琉球王国時代

唐手佐久川の以前と以後

琉球の歴史において、唐手(とうで、トゥーディー)の文字が初めて現れるのは唐手佐久川(とうでさくがわ)とあだ名された佐久川寛賀においてである。佐久川は20代の頃(19世紀初頭)、当時のへ留学し中国武術を学んできたとされ、この佐久川が琉球へ持ち帰った中国武術に、以前からあった沖縄固有の武術「手(ティー)」が融合してできたものが、今日の空手の源流である唐手であったと考えられている[22]

佐久川以降、「手」は唐手に吸収・同化されながら、徐々に衰退していったのであろう。一般に空手の歴史を語る際、この唐手と「手」の区別が曖昧である。それゆえ、狭義の意味での唐手の歴史は佐久川に始まるというが、厳密に言えば、佐久川はあくまで「トゥーディー」=中国武術の使い手であり、「日本の武技の手・空手」の起源を考えるならば、佐久川の弟子の松村宗棍以降になるともいわれる。「手」も含めた沖縄の格闘技全般という意味での空手の歴史は、もちろんそれ以前にさかのぼる。以下、広義の意味での空手の歴史について叙述する。

薩摩藩の琉球侵攻

伝我謝盛保筆『我謝親方弓射図』(19世紀初期)。剣術、槍術、弓術は琉球貴族のたしなみであった。禁武政策と空手発展の因果関係は、近年、疑問視されることも多い。

琉球沖縄本島で空手が発展した理由として、従来言及されてきたのが、二度にわたって実施されたという禁武政策である。一度目は尚真王(在位1476年 - 1526年)の時代に実施されたというもので、このとき、国中の武器が集められて王府で厳重に管理されるようになった。二度目は1609年(慶長14年)の薩摩藩による琉球侵攻後に実施されたという禁武政策である。二度の禁武政策を通じて、武器を取り上げられた琉球士族が、薩摩藩家臣に対抗するために武器を持つことができなかった首里の王府に仕える士族から自らが仕えていた主君を示現流という薩摩藩に伝わっていた古流剣術から守るために広がっていったものとする説が、従来、歴史的事実として言及されている。

例えば、松村宗棍尚育王の御側守役となったが、やがて那覇の薩摩藩在番奉行・町田平の知遇を得て、薩摩藩の御家流剣術・示現流の稽古に精を出すことになる。松村の門人・糸州安恒が、後年に唐手術の「形」に「段」の名称をつけたのは、師匠である松村の示唆に従ったもので、これは示現流の目録から援用したものである[23]

禁武政策の虚実

しかし、禁武政策と空手発展の因果関係については、近年、これを疑問視する研究者が少なくない。例えば、尚真王の禁武政策とされるものについては、従来「百浦添欄干之銘」(1509年)にある「もっぱら刀剣・弓矢を積み、もって護国の利器となす」という文言を、「武器をかき集めて倉庫に封印した」と解釈してきたが、近年では沖縄学の研究者から「刀や弓を集めて国の武器とした」と解釈するのが正しいとの指摘がなされている[24]

また、薩摩藩の実施した禁武政策(1613年の琉球王府宛通達)も、帯刀など武器の携帯を禁じただけで、その所持まで禁じたものではなく、比較的緩やかな規制であったことが判明している。この通達は「一、鉄砲の所持禁止。二、王子・三司官・士族の個人所有武器の保有は認める。三、武器類の修理は在番奉行所を通して薩摩にて行うこと。四、刀剣類は在番奉行所に届け出て認可を受ける事」という内容であり、武器の所持(鉄砲を除く)やその稽古まで禁じるものではなかった[25]。実際、薩摩への服属後も、琉球の剣術、槍術、弓術などの達人の名は何人も知られている。また、素手で鉄砲や刀などの武器に対抗するという発想そのものが非現実的であり、このような動機に基づいて琉球士族が空手の鍛錬に励んだとは考えられない、との指摘もある。それゆえ、禁武政策による空手発展説を「全く根拠のない巷間の浮説」(藤原稜三)と一刀両断する研究者もいる[26]

手(ティー)の時代

古くは16世紀、命を狙われた京阿波根実基(きょうあはごんじっき)が「空手」という武術を用いて暗殺者の両股を打ち砕いたとの記述が正史『球陽』(1745年頃)にあり、これは唐手以前の素手格闘術であったと考えられているが、これが現在の空手の源流武術であったのかは証明する史料に乏しく、その実態ははっきりしない。また、17世紀の武術家の名前が何人か伝えられているが、彼らがいかなる格闘技をしていたのか、その実態は明らかではない。明確に手(ティー)の使い手として多くの武人の名が挙がるのは、18世紀に入ってからである。西平親方、具志川親方、僧侶通信、渡嘉敷親雲上、蔡世昌真壁朝顕などの名が知られている。

また、土佐藩の儒学者・戸部良煕が、土佐に漂着した琉球士族より聴取して記した『大島筆記』(1776年)の中に、先年来琉した公相君組合術という名の武術を披露したとの記述があることが知られている。この公相君とは、1756年に訪れた冊封使節の中の侍従武官だったのでないかと見られており、空手の起源をこの公相君の来琉に求める説もあるが、組合術とは空手のような打撃技ではなく、一種の柔術だったのではないかとの見解もあり[27]、推測の域を出ていない。

1784年に没した琉球士族の阿嘉直識の遺言書に「からむとう」なる武術の名前が記されている[21]が、これが空手の起源であるかどうかは未詳である。また同遺言書は柔術を指す「やはら」についても記されており、少なくとも「からむとう」と柔術は別の武術と認識されていたようである。

唐手(トゥーディー)の時代

松村宗棍遺訓。武芸を三段階に分けて、型偏重(学士の武芸)を戒め、臨機応変の大切さを説き、武芸の目的はおのれのためではなく、国王や両親を守る(忠孝)ためにある(武道の武芸)と説く。

19世紀になると、唐手という名称が使われ出す。しかし、唐手と「手」の相違は判然としない。明治初頭の頃まで、唐手以前の「手」は特に沖縄手(おきなわて、ウチナーディー)と呼ばれ、唐手とは区別されていたとされるが[28]、両者の間にどのような相違があったのかは不明である。19世紀以降の唐手の使い手としては、首里では佐久川寛賀とその弟子の松村宗棍、盛島親方、油屋山城、泊では宇久嘉隆、照屋規箴、那覇では湖城以正、長浜筑登之親雲上などである。この中でも、特に松村宗棍は琉球王国時代の最も偉大な唐手家の一人と言われている。琉球国王の御側守役(侍従武官)の職にあり、国王の武術指南役もつとめたという。

また、この頃から薩摩を経由して伝来した日本武術も、唐手の発展に影響を及ぼしたとされる。最初は薩摩の在番役人から示現流剣術やその分派の剣術を修業する琉球士族の一部から伝わったものと思われるが、18世紀には薩摩藩士を介さず琉球士族から示現流剣術を学ぶ者もあった[21]。また、松村宗棍のように、薩摩に渡って示現流を修業してくる者もいた。空手の「巻藁突き」は、示現流の「立木打ち」からヒントを得たとも言われている[29]。また、空手の一撃必殺を追求する理念にも、示現流の影響があるという説もある。[誰によって?]

さて、空手に流派が登場するのは、空手が本土に伝えられた大正末期以降である。それ以前は、空手の盛んだった地域名から、単に首里手泊手那覇手の三つに、大まかに分類されていたにすぎない。もっとも首里士族の中には首里手以外に、泊手や那覇手も同時に習っていた例もあり、この分類もあまり厳密に受け取るべきではないと言えよう。

廃藩置県後

唐手(からて)の公開(明治時代)

元来、琉球士族の間で密かに伝えられてきた唐手であるが、明治12年(1879年)、琉球処分により琉球王国が滅亡すると、唐手も失伝の危機を迎えた。唐手の担い手であった琉球士族は、一部の有禄士族を除いて瞬く間に没落し、唐手の修練どころではなくなった。不平士族の中には国へ逃れ(脱清)、独立運動を展開する者もいた。開化党(革新派)と頑固党(保守派)が激しく対立して、士族階層は動揺した。

このような危機的状況から唐手を救ったのが、糸洲安恒である。糸洲の尽力によって、唐手はまず明治34年(1901年)に首里尋常小学校で、明治38年(1905年)には沖縄県中学校(現・首里高等学校)および沖縄県師範学校の体育科に採用された。その際、読み方も「トゥーディー」から「からて」に改められた。唐手は糸洲によって一般に公開され、また武術から体育的性格へと変化することによって、生き延びたのである。糸洲の改革の情熱は、型の創作や改良にも及んだ。生徒たちが学習しやすいようにとピンアン(平安)の型を新たに創作し、既存の型からは急所攻撃や関節折りなど危険な技が取り除かれた。

このような動きとは別に、中国へ渡った沖縄県人の中には、現地で唐手道場を開いたり、また現地で中国拳法を習得して、これを持ち帰る者もいた。湖城以正東恩納寛量、上地完文などがそうである。もっとも、日中国交回復後、日本から何度も現地へ調査団が派遣されたが源流武術が特定できず、また中国武術についての書籍や動画が出回るにつれ、彼らが伝えた武術と中国武術とはあまり似ていないという事実が知られるようになると、近年では研究者の間で彼らの伝系を疑問視する声も出てきている[30]

本土へ(大正時代)

52歳の頃に外国人ボクサーを一撃で倒した本部朝基。空手の真価を実力でもって証明し、空手の存在を一躍全国に知らしめた。
船越義珍。本土において初めて空手を本格的に指導し、また史上初の空手書の出版などを通じて、その普及に尽力した。

最近の研究によれば、最初に本土へ唐手を紹介したのは、明治時代に東京の尚侯爵邸に詰めていた琉球士族たちである[31]。彼らは他の藩邸に招かれて唐手を披露したり、揚心流起倒流などの柔術の町道場に出向いて、突、蹴を披露していた。

また、1908年(明治41年)、沖縄県立中学校の生徒が京都武徳会青年大会において、武徳会の希望により唐手の型を披露としたとの記録があり、このとき「嘉納博士も片唾を呑んで注視してゐた」[32]というように、本土武道家の中にはすでにこの頃から唐手の存在に注目する者もいた。

しかし、本格的な指導は、富名腰義珍(後の船越義珍)や本部朝基らが本土へ渡った大正以降である。1922年(大正11年)5月、文部省主催の第一回体育展覧会において、富名腰は唐手の型や組手の写真を二幅の掛け軸にまとめてパネル展示を行った[33]。この展示がきっかけで、翌6月、富名腰は嘉納治五郎に招待され、講道館で嘉納治五郎をはじめ200名を超える柔道有段者を前にして、唐手の演武と解説を行った。富名腰はそのまま東京に留まり、唐手の指導に当たることになった。(船越義珍#本土時代も参照。)

同じ頃、関西では本部朝基が唐手の実力を世人に示して、世間を驚嘆させた。同年11月、たまたま遊びに出かけていた京都で、本部はボクシング対柔道の興行試合に飛び入りで参戦し、相手のロシア人ボクサーを一撃のもとに倒した。当時52歳であった。この出来事が国民的雑誌『キング』等で取り上げられたことで、本部朝基の武名は一躍天下に轟くことになり、それまで一部の武道家や好事家のみに知られていた唐手の名が、一躍全国に知られるようになったと言われている[34]。本部は同年から大阪で唐手の指導を始めた。富名腰や本部の活動に刺激されて、日本本土では大正末期から昭和にかけて大学で唐手研究会の創設が相次いだ。

また、本部のこの試合の勝利は、屋部憲通のハワイ唐手実演会(1927年)でも紹介され[35]、海外での初期の唐手宣伝にも一役買った。ジェームズ・ミトセエド・パーカーエルヴィス・プレスリーの武術師匠)等、ハワイ出身のアメリカン・ケンポー(ケンポー・カラテ)の創始者達が、本部朝基との伝系のつながりを主張しているのも、こうした宣伝が影響を及ぼしたと考えられる。

沖縄では、大正13年(1924年)、本部朝勇が会長となって「沖縄唐手研究倶楽部」が設立され[36]、さらに大正15年(1926年)には「沖縄唐手倶楽部」へと発展しながら、在沖縄の唐手の大家が一堂に会して、唐手の技術交流と共同研究の試みが行われた。参加者は花城長茂本部朝勇、本部朝基、喜屋武朝徳知花朝信摩文仁賢和宮城長順許田重発、呉賢貴など、そうそうたる顔ぶれであった。

空手道の誕生(昭和初期)

本土で活躍する空手の大家が一堂に会した写真。左から、遠山寛賢(修道館)、大塚博紀和道流)、下田武(船越高弟)、船越義珍松濤館流)、本部朝基本部流)、摩文仁賢和糸東流)、仲宗根源和(空手研究社)、平信賢(保存振興会)。東京、1930年代。

昭和に入ると、摩文仁賢和宮城長順遠山寛賢らも本土へ渡って、唐手の指導に当たるようになった。1934年(昭和9年)、大日本武徳会においてそれまでは柔術部門の科目とされていた唐手術が正式に部門として昇格し、同時に昭和9-12年には、小西康裕(神道自然流)、上島三之助(空真流)、宮城長順(剛柔流)といった人たちに教士号が授与された。 これは沖縄という一地方から発祥した唐手が晴れて日本の武道として認められた画期的な出来事だった。[10]

また、近年になり、こうした本土への空手普及には柔道の嘉納治五郎が深く関わっていたことが知られ始めている。1927年(昭和2年)に沖縄県の唐手術を視察した嘉納治五郎は、宮城長順ならびに摩文仁賢和と交流し、意気投合した。嘉納は両師範に上京して唐手術を本土に普及させてほしいと依頼するととにも、その後の宮城長順による大日本武徳会を通じた普及活動にはいろいろと便宜を図ったと思われる。(宮城はすぐに教士に列せられたが、船越は下位の錬士にしか列れられなかった)宮城長順は嘉納の武道思想の影響を受け始めたこの頃から「唐手道」という表記を用い始めている。両者の手紙による交流は長く続いたという。また、嘉納治五郎は沖縄視察から帰京すると、精力善用国民体育という初等中等学校向けの兵式体操(突き蹴りが中心)のようなものを考案したが、そこには剛柔流の基本の影響が見てとれるという。[10]

1929年(昭和4年)、船越義珍が師範を務めていた慶應義塾大学唐手研究会が般若心経の「」の概念から唐手を空手に改めると発表したのをきっかけに、本土では空手表記が急速に広まった。さらに他の武道と同じように「」の字をつけ、「唐手術」から「空手道」に改められた。沖縄でも1936年(昭和11年)10月25日、那覇で「空手大家の座談会」(琉球新報主催)が開催され、唐手から空手へ改称することが決議された。このような改称の背景には、当時の軍国主義的風潮への配慮(唐手が中国を想起させる)もあったとされている[37]。なお、空手の表記は、花城長茂が、明治38年(1905年)から使用していたことが明らかとなっている。また本土の柔術諸派では空手術(くうしゅじゅつ)という表現が徒手空拳の当て身をさす言葉として用いられていたことも関係している。

このような徒手格闘としての空手の競技化に当たり、当初もっとも研究されていたのは防具付き空手であった。昭和2年(1927年)、東京帝国大学の唐手研究会が独自に防具付き空手を考案し、空手の試合を行うようになった。これを主導したのは坊秀男(後の和道会会長・大蔵大臣)らであったが[38]、当時この師範であった船越は激怒し、昭和4年(1929年)東大師範を辞任する事態にまで発展した。演武会などでは、唐手の武術として一端を見せるためにやむなく組手も披露したが、普段の練習では基本と型の練習に終始した。初期の高弟であった大塚博紀和道流)や小西康裕神道自然流)によると、船越は当初15の型を持参して上京したが、組手はほとんど知らなかったという[39]

ほかにも、本土では摩文仁賢和とその弟子である澤山宗海(勝)らが独自に防具付き空手を研究していた。また、沖縄では屋部憲通が防具を使った組手稽古を沖縄県師範学校ではじめた。こうした中で東京都千代田区九段に設立されたのが、後に全日本空手道連盟錬武会に発展する韓武舘である。いずれにしろ戦前の空手家が当初目指したのは、防具着用による組手方式であった。

戦後(本土)

武道禁止令と活動再開

連合国占領期に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令によって、文部省から出された「柔道、剣道等の武道を禁止する通達」のため、空手道の活動は一時、停滞した。しかし、この通達には「空手道」の文字が含まれていなかったため、空手道は禁止されていないとの文部省解釈を引き出して、空手道は他武道よりも、早期に活動を再開することができた。

全国組織と競技空手の誕生

世界空手道連盟の試合風景(世界空手道選手権大会)
2020東京オリンピック銅メダルの荒賀龍太郎

空手道の競技化(試合化)は戦前から試みられていたが、試合化そのものを否定する考えもあり、組織的な競技化は実現していなかった。しかし1954年(昭和29年)錬武舘が「第1回全国空手道選手権大会」を防具付きルールで実施した。錬武舘(旧名・韓武舘)は遠山寛賢の無流派主義を受け継ぐ道場で、戦後の空手道言論界をリードした金城裕が防具付空手を主導した。この大会は全日本空手道連盟錬武会主催の全国防具付空手道選手権大会という名称で、空手道界最古の全国大会として現在も開催されている[40]

錬武舘1959年(昭和34年)実業家であり内外タイムス社、代表取締役社長の蔡長庚から支援を受けて、全日本空手道連盟(旧)に発展。遠山寛賢の修道館を総本部とし、会長に蔡長庚、副会長に小西康裕神道自然流)、金城裕韓武館)、顧問に大塚博紀和道流)、山田辰雄(日本拳法)、儀間真謹松濤館流)、理事に保勇少林寺流錬心舘)など当時の空手界重鎮多数が就任し、主催する全日本空手道連盟選手権大会には少林寺流錬心舘や日本千唐会等も参加していた。しかし当時の防具は安全性が十分に確保されていないものであり、危険度が高く、競技として普及するにはまだまだリスクの大きいものであった。

そのため、拓殖大学空手道部などが中心になって創案した「寸止めルール」が、次第に主流を占めることとなった。当たる寸前に技を止めるこのルールは年齢・性別を越えて容易に取り組むことができるとして、多くの流派で用いられることとなった[41]。 こうして1950年(昭和25年)に結成された全日本学生空手道連盟の主催により1957年(昭和32年)に寸止め空手ルールによる「第1回全日本学生空手道選手権大会」が開催。同年には、日本空手協会主催により「全国空手道選手権大会」が開催された。

また1962年(昭和37年)には、山田辰雄後楽園ホールで、「第一回空手競技会」としてグローブ空手の大会を開催した。

1964年(昭和39年)には、全日本空手道連盟(全空連)が結成された。全空連は四大流派をそれぞれ統括する日本空手協会松濤館流)、松涛館松濤館流)、剛柔会剛柔流)、糸東会糸東流)、和道会和道流)、それ以外の諸派を統括する連合会全日本空手道連盟(旧)であり防具付き空手諸派を統括する錬武会の6つの協力団体を中心に、「日本の空手道に統一的な秩序をもたらす」ことを目的として結成された。そして1969年(昭和44年)9月、全空連主催による伝統派(寸止め)ルールの「第1回全日本空手道選手権大会」が日本武道館で開催された。

しかし同年同月、伝統派空手に疑問を抱き、独自の理論で直接打撃制の空手試合を模索していた極真空手創始者の大山倍達によって、防具を一切着用しない、素手、素足の直接打撃制(足技以外の顔面攻撃禁止制)による第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会が代々木の東京体育館で開催され空手界に一大旋風を巻き起こした。一方の全日本空手道連盟は翌年、第1回世界空手道選手権大会を開催した。

流派の乱立と空手の多様化

このように、空手道の全国化・組織化は着実に進んでいった。しかし、その一方で、もともと流派、会派などが存在しなかったと言われていた空手道界であったが、大日本武徳会を機に流派、会派など増え始めていった。1948年(昭和23年)、東京では船越義珍の門弟たちによって松濤館流最大会派である日本空手協会が結成され、1957年(昭和32年)4月10日、日本空手協会を社団法人として文部省が認可した。しかし1958年(昭和33年)には早くも空手道の試合化を否定する廣西元信たちが戦前からの松濤会を復活させ、独立していった。分裂、独立については、ほかの流派も事情は似たり寄ったりであった。遠山寛賢やその高弟らによって設立された錬武会のように、無流派主義を標榜する空手家や連盟もいたが、多数にはなり得なかった。

また、全空連の試合規則、いわゆる「寸止め(極め)」ルールに対する不満などから、大山倍達極真会館に代表されるような、フルコンタクト空手という、直接打撃制スタイル(中には顔面攻撃を認める会派もある)を採用する団体もあらわれ、一大勢力を形成するようになった。しかし、大山倍達が存命中は一枚岩と言われていた極真会館もまた、大山の死後、極真を名乗る複数の団体に分裂し、独自会派を立ち上げる者が多数出現することになる。そして、極真会館出身の大道塾空道に代表されるような、打撃技に特化された現在の空手へのアンチ・テーゼとして、空手道に関節技投げ技を取り入れて、かつての空手がそうであった、総合武道の姿へと復元を目指す会派などもあらわれた。

戦後(沖縄)

統一組織の誕生

戦後の沖縄では、戦争の爪痕も深く、県下の各流派・道場は個別に活動しており統一組織は存在していなかったが、まず1956年(昭和31年)、上地流剛柔流小林流、松林流の4流派によって沖縄空手道連盟(会長・知花朝信、沖空連)が結成された。次に全日本空手道連盟(旧)理事の保勇少林寺流錬心舘)が仲立ちとなって全日本空手道連盟沖縄地区特別本部(会長・島袋善良)が1960年(昭和35年)に結成された。翌1961年(昭和36年)には、古武道系諸団体を中心に沖縄古武道協会(会長・比嘉清徳、古武道協)が結成された。

1963年(昭和38年)、沖空連から知花朝信一派が脱退、その4年後の1967年(昭和42年)に沖空連は解消され、全沖縄空手道連盟(会長・長嶺将真、全沖空連)が新たに結成された。同年、全日本空手道連盟沖縄地区特別本部は沖縄空手道連合会へ、古武道協は全沖縄空手古武道連合会(会長・比嘉清徳)へとそれぞれ改組された。

国体参加問題

1981年(昭和56年)、沖縄空手界では、国体への参加問題と、これに伴う全日本空手道連盟(全空連)への加盟問題がこじれて大問題に発展した。全空連は、沖縄県体育協会(会長・大里喜誠)傘下の全沖空連に対して、沖縄側の加盟にあたって審査資格を八木明徳(剛柔流)、比嘉佑直(小林流)、上地完英(上地流)の長老三氏にのみ認め、ほかは本土側の審査を受けると通告したため、沖縄側が本土の支配下に置かれるとして反発した。しかし、海邦国体を間近に控え、業を煮やした沖縄県体育協会はついに、全沖空連を「不適当団体」として脱会処分にし、代わりに剛柔流(宮里栄一)、小林流(宮平勝哉、比嘉佑直)、松林流(長嶺将真)、本部御殿手(上原清吉)等によって結成された沖縄県空手道連盟(県空連、会長・長嶺将真)の入会を認めた[42]

全空連加盟を容認する県空連に対して、全沖空連側は「沖縄伝統の空手が日本空手道連盟の支配下に置かれることは納得できない」と強い不満を表明したが、県空連側も「全空連の内部にとび込んで、沖縄空手の向上を図るべき」(長嶺将真)として両者の主張は平行線をたどった[43]

揺れる沖縄空手

1982年(昭和57年)、くにびき国体(島根県)の予選も兼ねた県空連主催の第一回空手道選手権大会が開催された。そして、1987年(昭和62年)、沖縄県で海邦国体が開催され、沖縄勢は型で全種目優勝を果たすなど空手道競技9種目中5種目を制覇して、本場の面目を保った。

しかし、当初全空連に加盟して内部から改革すると意気込んでいた県空連の改革姿勢も、本土側によって無視され不発に終わった。特に国体における指定型は、当初全空連(江里口栄一専務理事)は首里系4つ、那覇系4つの「名称のみの指定である」と沖縄側へ説明していたが、実際は本土四大流派の型であり、同一名称でも沖縄の型で試合に出ることはできなかった。この事実を知らされショックを受けた県空連は全空連に要望書を提出したが、沖縄に型の権威を奪われることを警戒する本土側によって黙殺された[44]

こうして、国体参加を通じて沖縄空手を本土に広めるとした沖縄側の理想は不発に終わり、むしろ近年では競技空手にいそしむ若手を中心に本土側の型や型解釈が広まってきており、沖縄空手はそのアイデンティティーをめぐって揺れている。


注釈

  1. ^ 中田瑞彦「本部朝基先生・語録」1978年(小沼保『琉球拳法空手術達人 本部朝基正伝』所収)に「古流唐手」の使用例がある。それ以降では、岩井作夫『古伝琉球唐手術』(愛隆堂、1992年)等に見いだされる。
  2. ^ 元・月刊空手道編集長の小島一志が、“フルコンタクト空手”という名称がアメリカ発で、それを日本で行われている極真会館に代表される直接打撃制の空手ルールに呼びやすい名前をつけるために拝借したと自身の著作、“リアルバトロジー2 新世紀格闘技論”にて告白している。
  3. ^ 英語版の記事ではそう記述されているが、日本側の文献では本部朝基に中国人の弟子がいたかどうか確認できていない。
  4. ^ 前 IOC副委員長で世界跆拳道連盟の会長であった金雲容は 「テコンドー協会長になった頃、シルムやサッカーの関係者は自分たちのスポーツが国技であると主張していた。当時のテコンドーはいろんな面で弱かったので、私は(訳者注:1971年3月20日に)、朴正煕大統領に頼んで『国技テコンドー』と親筆揮毫していただいた。そしてこれを大量にコピーして、全ての道場に掛けるように命じた。このことがきっかけになってテコンドーは国技になった。」と『mooto media、www.mooto.com、2010年2月9日』で語っている。

出典

  1. ^ 「危険に立ち向かう力が身につく。心技体を鍛えて強くなる」、2016年1月15日発行、発行者・小川雄一、14頁。
  2. ^ 船越義珍『琉球拳法唐手』3頁参照。
  3. ^ 「空手の歴史」 宮城篤正 おきなわ文庫 2014年2月12日
  4. ^ 糸洲十訓第6条を参照。
  5. ^ 「本社主催・空手座談会(二)」『琉球新報』1936年10月28日。
  6. ^ 摩文仁賢和・仲宗根源和『攻防拳法空手道入門』43頁参照。
  7. ^ 船越義珍『愛蔵版 空手道一路』榕樹書林、2004年、98頁参照。
  8. ^ 富名腰義珍『琉球拳法唐手』武侠社、1922年、2頁。
  9. ^ 本部朝基『沖縄拳法唐手術組手編』唐手術普及会、1926年、4頁。
  10. ^ a b c 『空手道:その歴史と技法』嘉手苅、小山、和田, 2020年日本武道館(ベースボールマガジン社)
  11. ^ 船越義珍『愛蔵版 空手道一路』榕樹書林、2004年、99頁参照。
  12. ^ 『創立十周年記念・空手道集成第一巻』慶応義塾体育会空手部、1936年、7、25頁参照。
  13. ^ 『創立十周年記念・空手道集成第一巻』慶応義塾体育会空手部、1936年、25頁参照。
  14. ^ 『創立十周年記念・空手道集成第一巻』慶応義塾体育会空手部、1936年、4、25頁参照。
  15. ^ 三木二三郎・高田瑞穂『拳法概説』東大唐手研究会、1929年、改訂版1930年、復刻版、榕樹書林、2002年、221頁参照。
  16. ^ 同上。
  17. ^ a b 宮城長順「唐手道概説」 1936年、参照。
  18. ^ 山内盛彬「空手随想」『月刊空手道』七・八月合併号、空手時報社、1956年、61頁参照。
  19. ^ 安里安恒談・富名腰義珍筆「沖縄の武技」(『琉球新報』1913年1月17日-19日記事)。
  20. ^ 本部朝基『私の唐手術』、岩井虎伯『本部朝基と琉球カラテ』所収、10頁。
  21. ^ a b c 本部直樹「「阿嘉直識遺言書」に見る18世紀の琉球の諸武術―示現流、柔術、からむとう―」(『日本武道学会第42回大会研究発表抄録』日本武道学会、2009年)
  22. ^ 長嶺将真『史実と伝統を守る・沖縄の空手道』50頁。
  23. ^ 『日本武道体系第8巻空手道・合気道・少林寺拳法・太極拳』 今村嘉雄編 同朋舎出版 1982年 ISBN 4810490173 P,105
  24. ^ 上里隆史『目からウロコの琉球・沖縄史』ボーダーインク、2007年、64頁参照。
  25. ^ 儀間真謹・藤原稜三『対談 近代空手道の歴史を語る』43頁参照。
  26. ^ 同上、42頁。
  27. ^ 藤原稜三『格闘技の歴史』640頁参照。
  28. ^ 船越義珍『愛蔵版 空手道一路』95頁参照。
  29. ^ 岩井虎伯『本部朝基と琉球カラテ』愛隆堂、平成14年、146頁参照。
  30. ^ 渡久地雅昭「空手の歴史、その信憑性を考察する」『JKFan』2006年10、11、12月号、2007年5、7月号、チャンプ
  31. ^ 藤原稜三『格闘技の歴史』657頁参照。
  32. ^ 『球陽』第18号、1909年、沖縄県公文書館所蔵。高宮城繁・仲本政博・新里勝彦『沖縄空手古武道事典』柏書房、2008年、736頁参照。
  33. ^ 船越義珍『愛蔵版 空手道一路』149頁参照。
  34. ^ 長嶺将真『沖縄の空手・角力名人伝』新人物往来社、昭和61年、144頁参照。
  35. ^ 「唐手実見の感想」『日布時事』1927年7月6日[1]
  36. ^ 比嘉敏雄・高宮城繁編著『武魂 -奥妙在錬心-』沖空会北谷道場、2002年、90頁参照。
  37. ^ 長嶺将真『史実と伝統を守る・沖縄の空手道』52頁参照。
  38. ^ 儀間真謹・藤原稜三『対談・近代空手道の歴史を語る』147頁参照。
  39. ^ 『空手道』収録の寄稿文、大塚博紀「明正塾前後」の55頁、ならびに小西康裕「琉球唐手術の先達者」の58、59頁を参照。
  40. ^ 月刊空手道2012年10月号 防具付空手の開拓者 一撃必殺錬武会[リンク切れ]
  41. ^ 空手道の歴史について 組手の競技化を実現した「寸止めルール」(福昌堂)[リンク切れ]
  42. ^ 『創立十周年・記念誌』沖縄県空手道連盟、1991年、19頁参照。
  43. ^ 『創立十周年・記念誌』沖縄県空手道連盟、1991年、16頁参照。
  44. ^ 長嶺将真「国体における空手道型の指定について」『創立十周年・記念誌』沖縄県空手道連盟、1991年、188頁参照。
  45. ^ 「対談・ゲスト小西康裕/聞き手池田奉秀・空手道を語る――過去と現在の武道的視点――」『対談集・空手道を語る』武道出版研究所、1977年、6頁参照。
  46. ^ 糸洲十訓参照。
  47. ^ 岩井虎伯『本部朝基と琉球カラテ』199頁参照。
  48. ^ 船越義珍『愛蔵版・空手道一路』105頁参照。
  49. ^ 外間哲弘編著『空手道歴史年表』42頁参照。
  50. ^ 時津賢児『武道の力』(大和書房、2005年)の「古流空手から中国拳法へ」(62-66頁)参照。
  51. ^ フル・コム編『公開!沖縄空手の真実』東邦出版、2009年、48頁。
  52. ^ 全日本空手道連盟. “「空手」東京2020オリンピック追加競技に決定!”. 2016年8月25日閲覧。
  53. ^ 東スポWeb. “空手五輪入りへ大きな一歩!フルコン初の統一大会大成功”. 2014年5月19日閲覧。
  54. ^ John CorcoranとEmil Farkasの著作、The Original Martial Arts Encyclopedia: Tradition, History, Pioneers を参照。
  55. ^ アメリカ空手界歴史研究家,Jerry Beasleyの著作、Mastering Karateを参照。
  56. ^ eFight【イーファイト】. “大幅ルール改正、松井館長「より実戦的な空手でクオリティの高い競技を」”. 2017年9月8日閲覧。
  57. ^ eFight【イーファイト】. “2018年6月から新ルール導入、五輪空手ルールに対応へ=下段蹴り禁止、顔面寸止め有効など”. 2017年11月4日閲覧。
  58. ^ 儀間真謹・藤原稜三『対談・近代空手道を語る』273頁参照。
  59. ^ 三木二三郎・高田瑞穂『拳法概説』184頁参照。
  60. ^ 富名腰義珍『錬胆護身 唐手術』掲載写真参照。
  61. ^ 儀間真謹・藤原稜三『対談・近代空手道を語る』104頁参照。
  62. ^ 富名腰義珍『空手道教範』大倉広文堂、昭和10年、37頁参照。
  63. ^ 『日布時事』1927年4月12日記事






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