空手道の誕生(昭和初期)
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昭和に入ると、摩文仁賢和、宮城長順、遠山寛賢らも本土へ渡って、唐手の指導に当たるようになった。1933年(昭和8年)、唐手は大日本武徳会から、日本の武道として承認された。これは沖縄という一地方から発祥した唐手が晴れて日本の武道として認められた画期的な出来事だったが、一方でこの時、唐手は「柔道・柔術」の一部門とされ、唐手の称号審査も柔道家が行うという条件を含んでいた。 1929年(昭和4年)、船越義珍が師範を務めていた慶應義塾大学唐手研究会が般若心経の「空」の概念から唐手を空手に改めると発表したのをきっかけに、本土では空手表記が急速に広まった。さらに他の武道と同じように「道」の字をつけ、「唐手術」から「空手道」に改められた。沖縄でも1936年(昭和11年)10月25日、那覇で「空手大家の座談会」(琉球新報主催)が開催され、唐手から空手へ改称することが決議された。このような改称の背景には、当時の軍国主義的風潮への配慮(唐手が中国を想起させる)もあったとされている。なお、空手の表記は、花城長茂が、明治38年(1905年)から使用していたことが明らかとなっている。 本土の空手道は、大日本武徳会において柔道の分類下におかれていたこともあり、差別化のために取手(トゥイティー)と呼ばれた柔術的な技法を取り除き、打撃技法に特化した。また、併伝の棒術やヌンチャクなどの武器術も取り除かれた。松濤館空手に見られるように、型の立ち方や挙動を変更し、型の名称も、新たに日本風の名称に改める流派もあった。さらに、沖縄から組手が十分に伝承されなかったため、本土で新たな組手を創作付加し、こうして現在の空手道が誕生した。これらの改変については、本土での空手の普及を後押ししたとの評価がある一方で、空手の伝統的なあり方から逸脱したとの批判もある。 このような徒手格闘としての空手の競技化に当たり、当初もっとも研究されていたのは防具付き空手であった。昭和2年(1927年)、東京帝国大学の唐手研究会が独自に防具付き空手を考案し、空手の試合を行うようになった。これを主導したのは坊秀男(後の和道会会長・大蔵大臣)らであったが、当時この師範であった船越は激怒し、昭和4年(1929年)東大師範を辞任する事態にまで発展した。演武会などでは、唐手の武術として一端を見せるためにやむなく組手も披露したが、普段の練習では基本と型の練習に終始した。初期の高弟であった大塚博紀(和道流)や小西康裕(神道自然流)によると、船越は当初15の型を持参して上京したが、組手はほとんど知らなかったという。 ほかにも、本土では本部朝基、摩文仁賢和、澤山宗海(勝)山口剛玄(剛柔流)等が独自に防具付き空手を研究していた。また、沖縄では屋部憲通が防具を使った組手稽古を沖縄県師範学校ではじめた。こうした中で東京都千代田区九段に設立されたのが、後に全日本空手道連盟錬武会に発展する韓武舘である。いずれにしろ戦前の空手家が目指したのは、防具着用による直接打撃制空手であった。
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