鸕野讚良皇后とは? わかりやすく解説

持統天皇

(鸕野讚良皇后 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/30 16:32 UTC 版)

持統天皇(じとうてんのう、645年大化元年〉 - 703年1月13日大宝2年12月22日〉)は、日本の第41代天皇(在位:690年2月14日〈持統天皇4年1月1日〉 - 697年8月22日〈持統天皇11年8月1日〉)。天武天皇皇后天智天皇の娘、天武天皇のにあたる)、のちに持統天皇となり皇室史上3人目の女性天皇[2]となった。


注釈

  1. ^ 同一人である可能性を指摘しつつ「同一人か否かは問題がある」とする説もある[6]
  2. ^ 北山茂夫は、皇族出身の妻のうちただ一人、と限定する[9]
  3. ^ これには新制度が定めた官職を補充するために人材の数が必要になったという事情もあったであろうが、皇位継承のライバルとなる皇族の登用を持統天皇が望まなかったという可能性も指摘される[18]
  4. ^ この行幸の筆頭の目的地は神郡度会郡多気郡)とされ、確実ではないが伊勢神宮を参拝した可能性が高い。『万葉集』巻1、44番には行幸に従った石上麻呂の歌が収められており、この歌では大和国を「日本」と記している(『万葉集』歌謡における「日本」の初出。690年の紀伊行幸で阿閇皇女(後の元明天皇)が詠んだ35番の歌では「倭」)。『新唐書』日本伝は名前や系譜の誤りはあるが、持統天皇が倭国を改めて日本としたと記している。また日本は小さな国だったとも記し、『旧唐書』日本国伝にも同様の記事がある。
  5. ^ 本間満はその根拠として軽皇子の立太子に関する記事について、『続日本紀』の文武天皇の即位前紀には記されているものの、肝心の『日本書紀』の持統天皇紀には東宮職員の任命記事こそあるものの立太子と言う重要な出来事には全く触れられておらず、天武天皇の諸皇子の皇位継承を巡る動きの中で、軽皇子の立太子が行い得なかったとする[31]
  6. ^ 『後漢書』明徳馬皇后紀にほぼ同文があると指摘されている[36]
  7. ^ 西郷信友は、壬申の乱の後に詠んだとの注釈によって天武天皇を指して詠まれたと一般に解される大伴御行の2首を、持統天皇による藤原京造営にあてる。そうすると、「大君は神にしませば」とは持統天皇の代に固有のものになる。
  8. ^ 桑田王の母は石川夫人という説もある為、この説に則った場合、桑田王の子孫に持統天皇の血は入っていない事になる。

出典

  1. ^ 直木 1985, p. 1.
  2. ^ 瀧浪貞子『女性天皇』(集英社、2004年)89頁
  3. ^ 告井幸男「名代について」『史窓』第071巻、京都女子大学史学会、2014年、1-21頁、hdl:11173/1496ISSN 0386-8931NAID 120005407781 
  4. ^ 伊勢行幸に同行した石上麻呂は「吾妹子乎去来見乃山乎高三香裳日本能不所見国遠見可聞」と、伊勢行幸の行宮で「倭」を「日本」と記している。
  5. ^ 直木, pp. 51–53.
  6. ^ 新編古典文学全集『日本書紀』第5巻178頁注2
  7. ^ 『日本書紀』持統紀即位前紀「天命開別天皇元年生草壁皇子於大津宮」
  8. ^ 直木, pp. 122–123.
  9. ^ 北山, p. 132.
  10. ^ 直木, pp. 160–161.
  11. ^ 北山, p. 153.
  12. ^ 北山, pp. 155, 159–160.
  13. ^ 『日本書紀』巻第三十
  14. ^ 北山, p. 165; 直木, p. 206.
  15. ^ 上田 1996, pp. 153–155.
  16. ^ 熊谷 2008, pp. 343–344.
  17. ^ 北山, pp. 184–185.
  18. ^ 直木, pp. 213–215.
  19. ^ 渡辺, pp. 30, 37.
  20. ^ 渡辺, p. 33.
  21. ^ 直木, pp. 217–219.
  22. ^ 直木 1985, p. 193.
  23. ^ 直木 1985, p. 194.
  24. ^ 北山, pp. 177–182.
  25. ^ 『日本書紀』、巻第三十
  26. ^ 直木, pp. 226–227.
  27. ^ 北山, pp. 202–203.
  28. ^ 北山, pp. 210–212.
  29. ^ 直木.
  30. ^ 懐風藻』葛野王の伝。小島憲之・校注『懐風藻・文華秀麗集・本朝文粋』(日本古典文学大系69)81-82頁。
  31. ^ 本間 2014, pp. 222–227, 229.
  32. ^ 北山, pp. 2230–231.
  33. ^ 直木, pp. 257–269.
  34. ^ a b 直木 1985, p. 274.
  35. ^ 直木 1985, p. 275.
  36. ^ 持統即位前紀。新編日本古典文学全集版『日本書紀』474頁注12
  37. ^ 遠山 2007, pp. 38, 42–51.
  38. ^ 直木孝次郎 著「持統天皇と呂太后」、三品彰英 編『日本書紀研究 第1冊』塙書房、1964年。 
  39. ^ 倉本 2007, pp. 35–36.
  40. ^ 北山, pp. 153–154; 直木, pp. 182–188.
  41. ^ 『万葉集』巻2、109。岩波文庫『新訓万葉集』75頁。
  42. ^ 吉永登「大津皇子とその政治的背景」『日本文学』5巻1号、1956年
  43. ^ 直木孝次郎『古代国家の成立』中央公論社〈中公文庫 日本の歴史2〉、1973年、377-378頁。 
  44. ^ 外池昇『事典陵墓参考地 もうひとつの天皇陵』吉川弘文館、2005年、49-52頁。 



鸕野讚良皇后

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吉野の盟約」の記事における「鸕野讚良皇后」の解説

天武天皇皇后。6皇子のうち、草壁皇子のみが彼女の子

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