鸕野讚良皇后の称制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 07:42 UTC 版)
天智天皇崩御後に勃発した壬申の乱に勝利した夫の大海人皇子(天武天皇)崩御後、鸕野讚良皇后は息子の草壁皇子への皇位継承を望んでいたのだが、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ライバルの大津皇子を自害に追いやった為に却って反発を買い、草壁皇子の凡庸な器量も相まって、草壁皇子を即位させる事が出来なかったため[要出典]、鸕野讚良皇后が政務を執り草壁皇子を支えた。結局皇太子のまま草壁皇子は早世してしまい、彼女は草壁皇子の遺児の珂瑠皇子(後の文武天皇)が成人するまでの中継ぎとして、690年旧正月にようやく持統天皇として即位した。天智天皇の皇女の鸕野讚良皇后の称制は自らが産んだ草壁皇子の血統が続くのをより確実にしたいがためであった。彼女は草壁皇子の早世にめげず、強いリーダーシップで律令国家体制確立への舵を執り、孫の珂瑠皇子への譲位(直前に天武天皇第一皇子の高市皇子が薨去したが、鸕野讚良皇后・藤原不比等による暗殺説もある)を果たした。天武と持統の間から生まれた草壁皇子の子孫は奈良時代の皇統となって平城京で政治・文化の担い手になったが、称徳天皇を最後に断絶してしまい、皇統は天智系(白壁王、のちの光仁天皇)に戻る事となった。
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