開始当初 - 1960年代とは? わかりやすく解説

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開始当初 - 1960年代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:14 UTC 版)

NHK紅白歌合戦」の記事における「開始当初 - 1960年代」の解説

第二次世界大戦終結直後1945年大晦日に『紅白音楽試合』というラジオ番組放送された(『紅白音楽試合』は非公開番組だった)。番組は「新時代にふさわしい音楽番組作ろう」と考えたディレクター近藤積発案であった近藤剣道紅白試合念頭に置きつつ、「Speed, Sexuality, Sports」という娯楽の3要素取り入れた番組制作しようとした当初は『紅白音楽合戦』の番組名で放送する予定だったが、GHQが「敗戦国バトルとは何事だ」との判断下し仕方がなく、バトルから試合という意味のマッチ変えたというものである勝敗の判定審査員はなく、応援団相当する者も存在しなかったという。当時大晦日終夜電車はなく、終電間に合わない歌手NHK東京放送会館音楽部部屋椅子でざこ寝をしてもらっていた。音楽試合ということから歌以外の出場者も登場し木琴マンドリン尺八による曲を披露した(ただし先述通り、この『NHK紅白歌合戦』でも楽器演奏者・グループ出場は可能である)。川田正子歌った汽車ポッポ」は元は「兵隊さんの汽車」という戦時童謡であったが、近藤作詞者富原薫依頼して兵隊さん 兵隊さん 万々歳」を「鉄橋鉄橋だ 楽しいな」にするなどの変更加えたまた、大ヒットした「リンゴの唄」で同年新人並木路子ベテラン勢と肩を並べて出場した川田並木とも、のちの『NHK紅白歌合戦』には生涯出場していない)。この事実上第1回放送大みそか2220分 - 24時00分(元日0時)での放送で「年越し番組であった午前0時からは『除夜の鐘』を放送し、これが『ゆく年くる年』の原型となる。 あまりの好評となったが、当時大晦日に同じ番組続けるという発想はなく(当時同じ内容のものを翌年放送するのは能なしと見なされていたという)、1946年以降大みそか番組として『紅白音楽試合』が編成されることはなかった。しかし、スタッフは『紅白音楽試合』の反響大きさ忘れられず、放送の約5年後1951年、「大みそか番組なければいだろう」と正月番組として『第1回NHK紅白歌合戦』を放送した。なお、第1回出場歌手全員1950年12月31日放送NHK明星祭』に出演しなかった者である。 第1回1951年においては放送前出場歌手曲目曲順公表されなかった(出場歌手公表されており、放送前1951年1月1日付の『毎日新聞』の番組紹介記事出場歌手名の記載がある。対抗戦形式意識し紅組キャプテン渡辺はま子白組キャプテン藤山一郎それぞれ相手出方を見ながら誰に何を歌わせるかを決めるというものだった)。 第3回1953年1月2日)までは正月番組として放送されていたが、同じ1953年12月31日には第4回放送され、この第4回機に紅白音楽試合』同様となる大みそか放送定着した。またこれにより1953年放送が2回あった。なお、大みそか開催行った理由当時年末年始には大みそかしか大規模な会場開いていなかったことが一因という(番組側としても大みそかの方がトップ歌手確保しやすいと踏んでいた)。ただ番組側は大みそか観客が集まるか不安がったという。これはそれまで大みそか夜の催し物絶対に当たらないというジンクスがあったためで、それを打破すべく第4回では出場歌手数を前回より5組増やす処置をとった。 正月開催時代ステージ上方には「謹賀新年」のプレート飾られていた。また正月開催時代では、岡晴夫田端義夫小畑実といった当時人気歌手正月公演のため、出場しなかったが、これらの歌手大みそか開催移行後に出場するようになった第3回から実況アナウンサー登場するうになる初期ではこのポジションは「スポーツ」がコンセプトのひとつであることから、一線級のスポーツアナウンサー務めていた。 第4回におけるテレビで本放送開始同時に視覚的な演出行われるようになり、選手宣誓優勝旗返還授与開始された。同回より番組名に回数カウントされるようになる。また初期3回はすべて白組優勝となったが、同回で紅組初め優勝果たした初め敗北喫した白組出場歌手口を揃えてテレビは怖い。今回は(紅組女性軍の)衣装負けた」と悔しがったという。 紅組歌手衣装重視傾向は、のちのカラー放送開始後はさらに拍車かかった1953年NHKテレビ本放送開始したが、一般家庭へのテレビ普及には程遠くテレビ番組として独自に制作をするには予算的にも厳しくNHKラジオ人気番組中継するということがしばしば行われており、紅白そのひとつだった。またしばらくはラジオが主でテレビが従という考え方制作されていた。 会場初期3回までは内幸町にあったNHK東京放送会館だった。1953年12月第4回ラジオ・テレビ同時中継開始以降東京宝塚劇場日本劇場日劇)・日比谷公会堂産経ホール新宿コマ劇場などを転々としたが、第24回1973年以降NHKホール固定されている。なお、第72回2021年)はNHKホール耐震補強と設備更新などの工事休館するため、東京国際フォーラム開催された。紅白歌合戦NHKホール以外で行われるのは第23回1972年)の東京宝塚劇場以来49年ぶりである。 黎明期紅白については現存する資料限られており、保存状況次の通りとなっている。写真資料については、第1回写真残っておらず、第2回1952年以降すべての回の写真現存する音声については、長らく初期の回はNHK保存無かったものの、愛知県名古屋市在住一般視聴者第5回1954年)からラジオ中継音声録音していたオープンリールテープ1999年末に発見されNHK提供された。同回以降ラジオ中継音声は、すべて上記男性から提供されたものかどうか詳細不明だが、第13回1962年)までのすべての回の音声現存する初期回の音声については、NHKラジオラジオ第1NHK-FM)の特集番組紹介されることがある映像については、テレビ放送の開始初期には映像保存技術確立されておらず、1950年代末の2インチVTR導入後テープ使い回し一般的であったため、初期の回の現存少ない。現存する映像全編だと第14回1963年)が最古で、第13回1962年)はラジオ中継音声とともに当時ニュースでごく一部紹介され映像残っている。第15回1964年)からカラー放送となったが、同回の映像カラー白黒とも現存せず、ラジオ中継音声現存する第15回除いた第14回以降1960年代すべての回の映像現存するが、ほぼ白黒のみ(第16回1965年)は欠落部分があるがカラーVTRが、第19回1968年)は保存状態よくないカラーフィルム現存する)である。第21回1970年)はカラー現存するフィルム映像保存状態がよくなく、一部欠落している。第22回1971年)はカラービデオ映像現存する保存状態よくない部分がある。第23回1972年)からNHKVTR保存するようになり、同回以降映像はすべて安定したカラービデオ映像現存する第8回1957年)まで出場歌手ソロ歌手限られていた。しかし、第9回1958年)に水谷良重東郷たまみ沢たまきダークダックスグループとして初め選出され以後グループ多く出場するようになった第13回1962年)までグループは必ずグループ対戦する格好となっていた。 第14回1963年)より、全国ファンからの関心高まってきたことから当時芸能局内に「紅白歌合戦実施委員会」を設置毎年秋になると同時に実施準備が始まることになる。 1950年代紅白では、外国曲選曲多く行われた黎明期第7回ごろ)までは戦前戦中派歌手常連として名を連ねていたが、第8回1957年をもって戦前からの第一人者存在である藤山一郎後進に道を譲る形で歌手としての出場辞退以後、回を重ねるごとに戦前派歌手の名は消えていく。入れ替わるように、第10回1959年)では新世代デュオ歌手ザ・ピーナッツが(姉妹または兄弟での出場はこれが初めて)、翌第11回1960年)では御三家筆頭として1960年代歌謡界牽引するスター歌手となる橋幸夫や、ロカビリーブーム第一人者である平尾昌章(現・平尾昌晃)が、第12回1961年)では当時NHK放送中であった夢であいましょう内の今月の歌コーナーから誕生した上を向いて歩こう」のヒットにより坂本九それぞれ初出場するなど、出場者の顔ぶれにも「世代交代」の色が年々強く反映されるようになっていく。そして第13回1962年)では前年まで連続出場していた淡谷のり子林伊佐緒伊藤久男落選、完全に戦後派歌手のみの顔ぶれとなった第11回1960年前後まで、同じレコード会社歌手同士対戦させるのは極力控えていたという。その後は同じレコード会社歌手同士対決行われるようになったが、トリ対決についてはこの後もしばらくこの慣例続いた紅組トリ第1回以降第27回1976年)まで第4回除き一貫してコロムビア所属歌手務めていた。この慣例により村田英雄などのコロムビア所属男性歌手白組トリ務めることができなかった。紅白史上初めコロムビア所属歌手白組トリ務めるのは第34回1983年)の細川たかしまで待つことになる。 ビデオリサーチ社によるテレビ視聴率調査第13回1962年)から開始される(そして、いきなり80.4%を記録)。翌第14回1963年)において、81.4%の視聴率記録する。これは、紅白史上およびビデオリサーチ社全統計史上最高のテレビ視聴率である。 美空ひばり第14回 - 第23回まで、一貫して紅組トリ(ほとんどの回で大トリ)を務めていた。しかし、先述通り、翌1973年実弟暴力団絡み事件逮捕されたことが発端となり、全国各地でひばり公演の開催中止相次ぐなどして人気急降下し同年第24回落選となったその後第30回1979年〉に藤山一郎とともに30記念特別ゲスト扱い1回のみ復帰、「ひばりのマドロスさん「リンゴ追分」人生一路」のメドレー披露した)。 1960年代グループサウンズ全盛時代長髪グループは“不良”という意見根強く加えて当時NHK会長意向もあって一切出場できなかった。実際NHK会長が「長い髪の毛のグループ・サウンズ出演させない」と発言し国会で参考人招致される事態にまでなったほどである(NHKの不祥事参照)。第18回1967年)のザ・タイガースはその一例である。出演できたのは短髪ジャッキー吉川とブルー・コメッツのみであった。時が経ち演歌歌手アイドル長髪にするケース出たため当然ながら長髪解禁になった沖縄県アメリカ合衆国施政権にあったため、第15回1964年)まではテレビで中継ができなかった。本土沖縄を結ぶテレビ中継マイクロケーブル完成した第16回1965年)からテレビ沖縄テレビラジオラジオ沖縄それぞれスポンサーをつけるという形で放送開始したテレビ1968年沖縄放送協会中央放送局テレビ放送開始する同年第19回から同局での放送となり、1972年本土復帰NHK沖縄放送局としての放送となったラジオ1972年NHK沖縄放送局ラジオ放送再開する同年第23回から同局での放送となった第20回1962年)よりオープニング入場行進時に出場歌手名がテロップ流れようになった。また1969年からTBS系列日本レコード大賞』も同日19時から21時に開催テレビ生中継されるようになり、歌手の『レコード大賞』から紅白への大移動始まった(この大移動は『日本レコード大賞』の開催日繰り上げにより2005年終了した)。この時期では、『レコード大賞』と同じ衣装出演する歌手存在した1960年代後半から1970年代にかけて、ステージ後ろ出場歌手並んで座る「歌手席」が設けられることが一般的だった詳細は以下を参照1951年 1952年 1953年1月 1953年12月 1954年 1955年 1956年 1957年 1958年 1959年 1960年 1961年 1962年 1963年 1964年 1965年 1966年 1967年 1968年 1969年

※この「開始当初 - 1960年代」の解説は、「NHK紅白歌合戦」の解説の一部です。
「開始当初 - 1960年代」を含む「NHK紅白歌合戦」の記事については、「NHK紅白歌合戦」の概要を参照ください。

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