開始当初 - 1960年代
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「NHK紅白歌合戦」の記事における「開始当初 - 1960年代」の解説
第二次世界大戦終結直後の1945年の大晦日に『紅白音楽試合』というラジオ番組が放送された(『紅白音楽試合』は非公開番組だった)。番組は「新時代にふさわしい音楽番組を作ろう」と考えたディレクターの近藤積の発案であった。近藤は剣道の紅白試合を念頭に置きつつ、「Speed, Sexuality, Sports」という娯楽の3要素を取り入れた番組を制作しようとした。当初は『紅白音楽合戦』の番組名で放送する予定だったが、GHQが「敗戦国がバトルとは何事だ」との判断を下し、仕方がなく、バトルから試合という意味のマッチに変えたというものである。勝敗の判定や審査員はなく、応援団に相当する者も存在しなかったという。当時は大晦日に終夜電車はなく、終電に間に合わない歌手はNHK東京放送会館の音楽部の部屋の椅子でざこ寝をしてもらっていた。音楽試合ということから歌以外の出場者も登場し、木琴、マンドリン、尺八による曲を披露した(ただし先述の通り、この『NHK紅白歌合戦』でも楽器演奏者・グループの出場は可能である)。川田正子が歌った「汽車ポッポ」は元は「兵隊さんの汽車」という戦時童謡であったが、近藤が作詞者・富原薫に依頼して「兵隊さん 兵隊さん 万々歳」を「鉄橋だ 鉄橋だ 楽しいな」にするなどの変更を加えた。また、大ヒットした「リンゴの唄」で同年の新人・並木路子がベテラン勢と肩を並べて出場した(川田・並木とも、のちの『NHK紅白歌合戦』には生涯出場していない)。この事実上の第1回の放送は大みそかの22時20分 - 24時00分(元日0時)での放送で「年越し番組」であった。午前0時からは『除夜の鐘』を放送し、これが『ゆく年くる年』の原型となる。 あまりの好評となったが、当時は大晦日に同じ番組を続けるという発想はなく(当時同じ内容のものを翌年も放送するのは能なしと見なされていたという)、1946年以降の大みそか番組として『紅白音楽試合』が編成されることはなかった。しかし、スタッフは『紅白音楽試合』の反響の大きさを忘れられず、放送の約5年後の1951年、「大みそかの番組でなければいいだろう」と正月番組として『第1回NHK紅白歌合戦』を放送した。なお、第1回の出場歌手は全員1950年12月31日放送のNHK『明星祭』に出演しなかった者である。 第1回(1951年)においては、放送前に出場歌手の曲目や曲順は公表されなかった(出場歌手は公表されており、放送前の1951年1月1日付の『毎日新聞』の番組紹介記事に出場歌手名の記載がある。対抗戦形式を意識し、紅組キャプテンの渡辺はま子、白組キャプテンの藤山一郎がそれぞれ相手の出方を見ながら誰に何を歌わせるかを決めるというものだった)。 第3回(1953年1月2日)までは正月番組として放送されていたが、同じ1953年の12月31日には第4回が放送され、この第4回を機に『紅白音楽試合』同様となる大みそかの放送が定着した。またこれにより1953年は放送が2回あった。なお、大みそかの開催を行った理由は当時年末年始には大みそかしか大規模な会場が開いていなかったことが一因という(番組側としても大みそかの方がトップ歌手を確保しやすいと踏んでいた)。ただ番組側は大みそかに観客が集まるか不安がったという。これはそれまで大みそか夜の催し物は絶対に当たらないというジンクスがあったためで、それを打破すべく第4回では出場歌手数を前回より5組増やす処置をとった。 正月開催時代、ステージ上方には「謹賀新年」のプレートが飾られていた。また正月開催時代では、岡晴夫、田端義夫、小畑実といった当時の人気歌手は正月公演のため、出場しなかったが、これらの歌手も大みそか開催移行後に出場するようになった。 第3回から実況アナウンサーが登場するようになる。初期ではこのポジションは「スポーツ」がコンセプトのひとつであることから、一線級のスポーツアナウンサーが務めていた。 第4回におけるテレビでの本放送開始と同時に視覚的な演出も行われるようになり、選手宣誓や優勝旗の返還や授与が開始された。同回より番組名に回数がカウントされるようになる。また初期3回はすべて白組優勝となったが、同回で紅組が初めて優勝を果たした。初めて敗北を喫した白組の出場歌手は口を揃えて「テレビは怖い。今回は(紅組女性軍の)衣装に負けた」と悔しがったという。 紅組歌手の衣装重視傾向は、のちのカラー放送開始後はさらに拍車がかかった。 1953年にNHKはテレビ本放送を開始したが、一般家庭へのテレビ普及には程遠く、テレビ番組として独自に制作をするには予算的にも厳しく、NHKラジオの人気番組を中継するということがしばしば行われており、紅白もそのひとつだった。またしばらくはラジオが主でテレビが従という考え方で制作されていた。 会場は初期3回までは内幸町にあった旧NHK東京放送会館だった。1953年12月・第4回のラジオ・テレビ同時中継開始以降は東京宝塚劇場や日本劇場(日劇)・日比谷公会堂・産経ホール・新宿コマ劇場などを転々としたが、第24回(1973年)以降はNHKホールに固定されている。なお、第72回(2021年)はNHKホールが耐震補強と設備更新などの工事で休館するため、東京国際フォーラムで開催された。紅白歌合戦がNHKホール以外で行われるのは第23回(1972年)の東京宝塚劇場以来49年ぶりである。 黎明期の紅白については現存する資料が限られており、保存状況は次の通りとなっている。写真資料については、第1回の写真は残っておらず、第2回(1952年)以降、すべての回の写真が現存する。 音声については、長らく初期の回はNHKに保存が無かったものの、愛知県名古屋市在住の一般視聴者が第5回(1954年)からラジオ中継の音声を録音していたオープンリールテープが1999年末に発見され、NHKに提供された。同回以降、ラジオ中継の音声は、すべて上記の男性から提供されたものかどうかは詳細不明だが、第13回(1962年)までのすべての回の音声が現存する。初期回の音声については、NHKラジオ(ラジオ第1、NHK-FM)の特集番組で紹介されることがある。 映像については、テレビ放送の開始初期には映像の保存技術が確立されておらず、1950年代末の2インチVTR導入後もテープの使い回しが一般的であったため、初期の回の現存は少ない。現存する映像は全編だと第14回(1963年)が最古で、第13回(1962年)はラジオ中継の音声とともに当時のニュースでごく一部が紹介された映像が残っている。第15回(1964年)からカラー放送となったが、同回の映像はカラー・白黒とも現存せず、ラジオ中継の音声が現存する。第15回を除いた第14回以降の1960年代はすべての回の映像が現存するが、ほぼ白黒のみ(第16回(1965年)は欠落部分があるがカラーVTRが、第19回(1968年)は保存状態はよくないがカラーフィルムも現存する)である。第21回(1970年)はカラーで現存するがフィルム映像で保存状態がよくなく、一部が欠落している。第22回(1971年)はカラーのビデオ映像で現存するが保存状態のよくない部分がある。第23回(1972年)からNHKがVTRで保存するようになり、同回以降の映像はすべて安定したカラーのビデオ映像で現存する。 第8回(1957年)まで出場歌手はソロ歌手に限られていた。しかし、第9回(1958年)に水谷良重・東郷たまみ・沢たまき、ダークダックスがグループとして初めて選出され、以後グループも多く出場するようになった。第13回(1962年)までグループは必ずグループと対戦する格好となっていた。 第14回(1963年)より、全国のファンからの関心が高まってきたことから当時の芸能局内に「紅白歌合戦実施委員会」を設置。毎年秋になると同時に実施の準備が始まることになる。 1950年代の紅白では、外国曲の選曲が多く行われた。 黎明期(第7回ごろ)までは戦前・戦中派の歌手も常連として名を連ねていたが、第8回(1957年)をもって戦前からの第一人者的存在である藤山一郎が後進に道を譲る形で歌手としての出場を辞退。以後、回を重ねるごとに戦前派の歌手の名は消えていく。入れ替わるように、第10回(1959年)では新世代デュオ歌手のザ・ピーナッツが(姉妹または兄弟での出場はこれが初めて)、翌第11回(1960年)では御三家の筆頭として1960年代の歌謡界を牽引するスター歌手となる橋幸夫や、ロカビリーブームの第一人者である平尾昌章(現・平尾昌晃)が、第12回(1961年)では当時NHKで放送中であった『夢であいましょう』内の「今月の歌」コーナーから誕生した「上を向いて歩こう」のヒットにより坂本九がそれぞれ初出場するなど、出場者の顔ぶれにも「世代交代」の色が年々強く反映されるようになっていく。そして第13回(1962年)では前年まで連続出場していた淡谷のり子、林伊佐緒、伊藤久男が落選、完全に戦後派の歌手のみの顔ぶれとなった。 第11回(1960年)前後まで、同じレコード会社の歌手同士を対戦させるのは極力控えていたという。その後は同じレコード会社の歌手同士の対決も行われるようになったが、トリ対決についてはこの後もしばらくこの慣例が続いた。紅組トリは第1回以降、第27回(1976年)まで第4回を除き一貫してコロムビア所属の歌手が務めていた。この慣例により村田英雄などのコロムビア所属の男性歌手は白組トリを務めることができなかった。紅白史上初めてコロムビア所属の歌手が白組トリを務めるのは第34回(1983年)の細川たかしまで待つことになる。 ビデオリサーチ社によるテレビ視聴率調査が第13回(1962年)から開始される(そして、いきなり80.4%を記録)。翌第14回(1963年)において、81.4%の視聴率を記録する。これは、紅白史上およびビデオリサーチ社の全統計史上最高のテレビ視聴率である。 美空ひばりは第14回 - 第23回まで、一貫して紅組トリ(ほとんどの回で大トリ)を務めていた。しかし、先述の通り、翌1973年に実弟が暴力団絡みの事件で逮捕されたことが発端となり、全国各地でひばり公演の開催中止が相次ぐなどして人気が急降下し、同年の第24回も落選となった(その後、第30回〈1979年〉に藤山一郎とともに「30回記念特別ゲスト」扱いで1回のみ復帰、「ひばりのマドロスさん」「リンゴ追分」「人生一路」のメドレーを披露した)。 1960年代のグループサウンズ全盛時代、長髪のグループは“不良”という意見が根強く、加えて当時のNHK会長の意向もあって一切出場できなかった。実際、NHK会長が「長い髪の毛のグループ・サウンズは出演させない」と発言し、国会で参考人招致される事態にまでなったほどである(NHKの不祥事参照)。第18回(1967年)のザ・タイガースはその一例である。出演できたのは短髪のジャッキー吉川とブルー・コメッツのみであった。時が経ち、演歌歌手やアイドルが長髪にするケースも出たため当然ながら長髪は解禁になった。 沖縄県はアメリカ合衆国の施政権下にあったため、第15回(1964年)まではテレビで中継ができなかった。本土と沖縄を結ぶテレビ中継用マイクロケーブルが完成した翌第16回(1965年)からテレビは沖縄テレビ、ラジオはラジオ沖縄がそれぞれスポンサーをつけるという形で放送を開始した。テレビは1968年に沖縄放送協会の中央放送局がテレビ放送を開始すると同年の第19回から同局での放送となり、1972年の本土復帰でNHK沖縄放送局としての放送となった。ラジオは1972年にNHK沖縄放送局がラジオ放送再開すると同年の第23回から同局での放送となった。 第20回(1962年)よりオープニングの入場行進時に出場歌手名がテロップで流れるようになった。また1969年からTBS系列『日本レコード大賞』も同日の19時から21時に開催・テレビ生中継されるようになり、歌手の『レコード大賞』から紅白への大移動が始まった(この大移動は『日本レコード大賞』の開催日繰り上げにより2005年で終了した)。この時期では、『レコード大賞』と同じ衣装で出演する歌手も存在した。 1960年代後半から1970年代にかけて、ステージの後ろに出場歌手が並んで座る「歌手席」が設けられることが一般的だった。 詳細は以下を参照。 1951年 1952年 1953年1月 1953年12月 1954年 1955年 1956年 1957年 1958年 1959年 1960年 1961年 1962年 1963年 1964年 1965年 1966年 1967年 1968年 1969年
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