経緯と変遷とは? わかりやすく解説

経緯と変遷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 08:20 UTC 版)

京枡」の記事における「経緯と変遷」の解説

公家政権政治力低下に伴い朝廷定めた延久宣旨枡用いられなくなると、日本各地まちまちな基準作られるようになり、大は十四から小は二合まで各種普及し室町時代にはその弊害深刻化した。 戦国時代になると、商品流通進展代銭納普及によって商取引活発化し、統一求め動き生じ10合=1升となる十進法十合枡じゅうごうます、十合斗)へと収斂されるようになった。 特に京都では「京都十合枡」と呼ばれる用いられ畿内一帯行われた。これを略して京枡」と称した永禄11年1568年)に上洛した織田信長は「十合枡」を領国統一として採用し豊臣秀吉太閤検地石盛決定年貢徴収の際にこの用いた。後、江戸幕府施政至り、「新京升」という改正され京都十合枡公定として認めらるようなった論説される。 織田豊臣統治した時代京枡は、今日知られる京枡よりもひとまわり小さかった一般に5寸四方深さ2寸5分すなわち容積62500立方分のものが知られるが、この容量は切れがよく、ちょうど1立方尺の16分の1の容量に当たる。異説あって、他の容量言及されている。 はその正確性維持するために枡座呼ばれる座の設置認められ京都では福井左衛門管掌していた。一方徳川家康江戸移封の際に旧領遠江国樽屋藤左衛門江戸招いて自領における京枡生産一任し、これが江戸枡座発展するとともに江戸幕府成立後には江戸枡座京都のそれと同様に重んじられた。 ところが、江戸幕府成立によって京都枡座への統制緩くなったことで[要出典]、寛永初期頃かそれ以前より、やや口の狭いかわりにやや深いものが制作されるようになった竹尺で4寸9分四方深さ2寸7分の64827立方分のである。これが現在に至って踏襲される一升容量であるが、以前京枡区別のため新京枡しんきょうます)と呼称される場合がある。 寛永初頭には、この新升に制定されていたのであろう、というのが、その年代文献調べた中村惕斎見解である。さらに文献をあたると、惕斎の論法をよしとるなら、"京枡寸法改正元和8年1622年)の春から翌9年の末までの間"に遡れるとされる従来の製法維持してきた江戸京枡は「江戸枡」と称され産地によって製品差異生じた京枡の方は普及し、「江戸枡」は江戸市中以外では使用されないほどになったので、江戸幕府寛文9年1669年2月統一令御触書寛保集成134号)を発布し新京枡をもって統一した公定とした(寛文年間制定との解釈である)。そしてこの発令のもと、全国66国を東西分割し東側江戸枡座、西側京枡座管掌させ、それぞれに京枡独占的製造・販売検定与えた。偽づくりの罰則極刑で「引廻シノ獄門」に処すと1742(寛保2)年御定書百箇条定める。 江戸時代京枡には穀用の「弦(つるがねます)」と液用の「木地(きじます)」の2種類があり、前者には口辺対角線状準(弦)を渡していた。種類はともに1合・2合半・5合・1升・5升・7升・1斗の7種類存在した天領多くの藩では枡座から購入して自領に流通させていたが、歴史ある大藩中には自藩伝来固守したり、京枡同一を自藩もしくは自藩指定枡座多くは藩内の商人)に製造させたりするなど独自の藩法に基づく用いて幕府命令拒絶した(藩)。もっとも、どこの藩経済京枡中心である京都・大坂との取引なくして成り立たない時代となっていたため、藩維持している藩でも次第京枡準拠ものを作るようになっていった。もっとも、全てのもしくは領主京枡従ったではなく、また一部商人なども含めて正目的で京枡異な用い場合もあったため、統一は困難をきわめた明治政府明治3年1870年)に尺貫法維持して京枡そのまま用い方針を採った。明治24年1891年度量衡法でも「升(単位)」は64827立方分(新京枡容量)と定義されており、これを同法定義の現尺(10/33メートル)で換算した積が現升であり、分数表記で 2401/1331000 m3、割り算値で1803.9 cc(1.8039リットル)に値する政府明治8年1875年)の 度量衡取締条例 によって枡座廃止して検定政府が行い、製造・販売民間任せ方針打ち出したその後昭和34年1959年)のメートル法実施5年後の完全移行伴って京枡はその使命終えることになった

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経緯と変遷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/05 20:48 UTC 版)

津和野川河川景観整備」の記事における「経緯と変遷」の解説

津和野川は、山並み囲まれたこちんまりとしたスケール盆地位置しそれゆえ小京都とも称される津和野町のほぼ中心部流れている。津和野江戸明治面影いまだに色濃く残す旧城下町であり、森鷗外明治思想家西周輩出した文化人の町でもある。さらに石州瓦の墓の波が印象的な景観をなし、多く観光客がその魅力惹かれ津和野訪れる。 なぜ津和野川整備しなければならなかったのかは、河積が不足していて、洪水溢れさせることなく安全に流すことができないかであった洪水となって被害受けないようにするためには様々な方法があるが、津和野川において当該事業区間町の中心部で、この区間では河床掘削という方法採用されていた。この河床掘削案を採用すれば必然的に護岸作り直す必要にせまられるわけで、このため改修に件ってどう護岸整備するかが求められていたのである整備かかわった篠原修は、1991年夏から津和野川デザイン取りかかり、以後8年長きわたって設計務め岡田一天と津和野通い続けることとなったいきさつを、自著土木デザイン論』(東京大学出版会2003年)に挙げている。これによると、「ある時急に島根県庁の人から電話かかってきて、お訪ねしたいと言う建設省河川局の関さん(関正和)からの指示と言う会って話を聞いてみると、あるコンサルタント設計によって県が津和野川護岸整備し後で現場行ってみる丸山橋下流の区間であった)、引き続き今年度もよろしく、と話しに行くと、関さんにダメだと言われとのことであった。関さんは長年川に川本来の姿を取りもどそう努力して人物で、より具体的に言えばコンクリート護岸をやめて近自然型工法取り入れよう推進してきた省内のリーダー格だった。」という経緯で、このとき事業者島根県は、国(建設省)から「ふるさとの川整備事業」を採択していた。施工されてでき上った護岸篠原によると、ただ単に川石を積み上げた代物で、これではダメを出すのをもっともだ思ったという。 そして完成予想パースから、当初プラン欠陥少なくとも三つあると考え、さらに原因現状縦割りな行政では無理からぬ思える点と、デザイン力不足によるとした。 欠陥のひとつは、当初プラン立てたエンジニア簡単に言えば勉強不足で、津和野川随所現れている伝統的な型を踏まえなかった点を挙げる津和野大橋の上流部を観察すると、津和野川護岸角ばった山石の空積となっていることが容易にわかり、丸山橋下流の際に施工したような川石(玉石)ではなかったという。もっともこれは川により、また同じ川でも上・中下流の州により、何が護岸基本の型であるのかはそのときどきで異なるが、それでこそ川の多様性保証されているのだとしている。 もうひとつ欠陥として短絡的な親水志向を示す。従来型整備で、ある同一断面区間全体適用し、そこに河川敷降りる階段付けるという、これでは川の空間変化生まれようもないし、風景としていかに単調になっている点で、篠原は「おそらく設計計画担当したコンサルタントエンジニアには手抜き意識はなく、行政指示にしたがって型通り作業進めただけだと言うのだろう。」としたうえで、「しかし、このような意識に留まっていでは、新しい、思い川中間生まれるはずもない。」と感じていた。 そして、プラン最大欠陥として河川敷内への閉じこもり指摘する。これは河川管理者が自らの力で何とかできる範囲内プラン立てデザインしようとする姿勢から生ず縦割り的な発想欠陥挙げる。この発想プラン作りデザインを行うと、いきおいそれは道路、より広く言えば間と切れた自己完結性の強すぎる川となり、利用しにくい空間周辺から浮いた川の風景となってしまうため、川の空間をもっと周囲開いたものとし、道や建築有機的につながなければならないそうすることによって初めて、川が本来持つ、のびやか空間ができるとした。 こうして津和野川デザイン課題は、町の裏になっていた川を表の空間とすること、川と通りを結ぶこと (川と町をつなげること)、さらに川を町を回遊する散歩道基軸にすることで、そのために、津和野目抜き通りであり、もっとも観光客でにぎわう殿町通りと川との接点津和野大橋左岸側橋詰広場確保し、さらに殿町通り面する旧藩校の養老館の裏庭を買収して河川区域とりこみゆるやかなスロープ芝生広場として養老館敷地と川の空間一体化している。この橋詰広場芝生広場は、イベントにも利用できる晴れやかな空間として構想されている。広場舗装右岸護岸パラペットの壁には、地場材である石州瓦仕上げ用いている。 そして篠原は『建設業界1996年11月号において、「津和野良くするために、津和野川を“まち”と結んで観光津和野もうひとつの顔とするために、橋詰広場が、養老館裏に大きな芝生広場が、その土地必要なのです」と、県庁とその出先土木事務所町役場の人たちを前に小さな演説をしたという。そして県と町の人たち努力によって整備なされた橋詰広場には多く観光客憩い記念撮影を楽しみ、大きな芝生広場では子供たち駆け回っていることで、川は川、、「まち」は 「まち」、という具合に「バラバラにやっていたのでは良いものはできない。その失敗繰り返したくないと痛切に思っていたからである。」という。 一方津和野大橋上流側は、主に地元の人たちの日常的な利用応える空間として、太鼓谷稲荷前広場や小さな広場河川敷内に設けられた「出会い広場」や河原広場など小さなオープンスペース点在させ、最上流部には子どもの水遊び生態系配慮した落差工を設けている。 護岸構造コンクリート裏込め用いた自然石積みであるが、意図的に目地としてコンクリート目立たぬようにするとともに、土がたまってつきやすいようにしている。引き締まった印象外観を得るため、勾配三分とあえてきつめにされている。 施工面では、設計陣が江戸時代からの護岸伝統継承して山石を使う際、下は大きく、上にいくに従って小さくという自然石込み指示をする。当初露骨に現場で嫌な顔をされ、しばらくして施工現場を見にいくとワイヤークレーンで石を一つずつ吊って2、3人の作業員がそれをコンクリート護岸丁寧に一つひとつ埋め込んでおり、これでは現場嫌な顔をするわけであるとみていたが、極めてめんどうな作業ができ上がってみると立派な護岸となるのが、施行者側にも得心のいくものに仕上がったことから、その嫌な顔は次の年には活き活きとした顔に変わったという。 このほか、途中から急に皇太子御成婚記念鷺舞モニュメント設置浮上し、これを巡って彫刻家やり取りをし、県の土木事務所担当者地元山口線鉄橋上流部再設計設計者同士論争などもあったというが、論争を経るごとに土木事務所担当者現場作業員たち着実に進歩し工事のほうも着々と成果積み重ねていったという。 なお、津和野では川の整備一段落したのち、 殿町通り整備川沿い鴎外記念館(宮本忠長設計)、津和野駅近く安野光雅美術館上流右岸側に道の駅なごみの里」など、 さらなる施設整備まちづくりを展開させている。

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