経緯と変遷
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公家政権の政治力に低下に伴い、朝廷が定めた延久宣旨枡が用いられなくなると、日本各地でまちまちな基準で枡が作られるようになり、大は十四合枡から小は二合枡まで各種枡が普及し、室町時代にはその弊害が深刻化した。 戦国時代になると、商品流通の進展や代銭納の普及によって商取引が活発化し、枡の統一を求める動きが生じ、10合=1升となる十進法の十合枡(じゅうごうます、十合斗)へと収斂されるようになった。 特に京都では「京都十合枡」と呼ばれる枡が用いられて畿内一帯で行われた。これを略して「京枡」と称した。永禄11年(1568年)に上洛した織田信長は「十合枡」を領国内統一の枡として採用し、豊臣秀吉も太閤検地の石盛決定や年貢徴収の際にこの枡を用いた。後、江戸幕府の施政に至り、「新京升」という改正された京都十合枡が公定の枡として認めらるようなったと論説される。 織田・豊臣が統治した時代の京枡は、今日知られる京枡よりもひとまわり小さかった。一般に5寸四方、深さ2寸5分すなわち容積62500立方分のものが知られるが、この容量は切れがよく、ちょうど1立方尺の16分の1の容量に当たる。異説あって、他の容量の枡も言及されている。 枡はその正確性を維持するために枡座と呼ばれる座の設置が認められ、京都では福井作左衛門が管掌していた。一方、徳川家康は江戸移封の際に旧領の遠江国の樽屋藤左衛門を江戸に招いて自領における京枡生産を一任し、これが江戸の枡座に発展するとともに江戸幕府成立後には江戸の枡座は京都のそれと同様に重んじられた。 ところが、江戸幕府の成立によって京都の枡座への統制が緩くなったことで[要出典]、寛永初期頃かそれ以前より、やや口の狭いかわりにやや深いものが制作されるようになった―竹尺で4寸9分四方、深さ2寸7分の64827立方分の枡である。これが現在に至って踏襲される一升の容量の枡であるが、以前の京枡と区別のため新京枡(しんきょうます)と呼称される場合がある。 寛永初頭には、この新升に制定されていたのであろう、というのが、その年代の文献を調べた中村惕斎の見解である。さらに文献をあたると、惕斎の論法をよしとるなら、"京枡の寸法改正は元和8年(1622年)の春から翌9年の末までの間"に遡れるとされる。 従来の製法を維持してきた江戸の京枡は「江戸枡」と称され、産地によって製品の枡に差異が生じた。京枡の方は普及し、「江戸枡」は江戸市中以外では使用されないほどになったので、江戸幕府は寛文9年(1669年)2月、枡の統一令(御触書寛保集成134号)を発布し、新京枡をもって統一した公定枡とした(寛文年間に制定との解釈である)。そしてこの発令のもと、全国66国を東西に分割し東側を江戸枡座、西側を京枡座に管掌させ、それぞれに京枡の独占的製造・販売権・検定権を与えた。偽枡づくりの罰則は極刑で「引廻シノ上獄門」に処すと1742(寛保2)年御定書百箇条に定める。 江戸時代の京枡には穀用の「弦鉄枡(つるがねます)」と液用の「木地枡(きじます)」の2種類があり、前者には口辺に対角線状の鉄準(弦鉄)を渡していた。種類はともに1合・2合半・5合・1升・5升・7升・1斗の7種類存在した。天領や多くの藩では枡座から購入して自領に流通させていたが、歴史ある大藩の中には自藩伝来の枡を固守したり、京枡と同一の枡を自藩もしくは自藩指定の枡座(多くは藩内の商人)に製造させたりするなど独自の藩法に基づく枡を用いて幕府の命令を拒絶した(藩枡)。もっとも、どこの藩経済も京枡の中心である京都・大坂との取引なくして成り立たない時代となっていたため、藩枡を維持している藩でも次第に京枡準拠のものを作るようになっていった。もっとも、全ての藩もしくは領主が京枡に従った訳ではなく、また一部商人なども含めて不正目的で京枡と異なる枡を用いる場合もあったため、枡の統一は困難をきわめた。 明治政府は明治3年(1870年)に尺貫法を維持して京枡をそのまま用いる方針を採った。明治24年(1891年)度量衡法でも「升(単位)」は64827立方分(新京枡の容量)と定義されており、これを同法定義の現尺(10/33メートル)で換算した積が現升であり、分数表記で 2401/1331000 m3、割り算値で1803.9 cc(1.8039リットル)に値する。 政府は明治8年(1875年)の 度量衡取締条例 によって枡座を廃止して検定は政府が行い、製造・販売は民間に任せる方針を打ち出した。その後、昭和34年(1959年)のメートル法実施と5年後の完全移行に伴って京枡はその使命を終えることになった。
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経緯と変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/05 20:48 UTC 版)
「津和野川河川景観整備」の記事における「経緯と変遷」の解説
津和野川は、山並みに囲まれたこちんまりとしたスケールの盆地に位置し、それゆえ小京都とも称される津和野町のほぼ中心部を流れている。津和野は江戸や明治の面影をいまだに色濃く残す旧城下町であり、森鷗外や明治の思想家西周を輩出した文化人の町でもある。さらに石州瓦の墓の波が印象的な景観をなし、多くの観光客がその魅力に惹かれて津和野を訪れる。 なぜ津和野川を整備しなければならなかったのかは、河積が不足していて、洪水を溢れさせることなく安全に流すことができないからであった。洪水となっても被害を受けないようにするためには様々な方法があるが、津和野川において当該事業区間は町の中心部で、この区間では河床掘削という方法が採用されていた。この河床掘削案を採用すれば、必然的に護岸を作り直す必要にせまられるわけで、このため改修に件ってどう護岸を整備するかが求められていたのである。 整備にかかわった篠原修は、1991年夏から津和野川のデザインに取りかかり、以後8年の長きにわたって設計を務める岡田一天と津和野に通い続けることとなったいきさつを、自著『土木デザイン論』(東京大学出版会、2003年)に挙げている。これによると、「ある時急に島根県庁の人から電話がかかってきて、お訪ねしたいと言う。建設省河川局の関さん(関正和)からの指示だと言う。会って話を聞いてみると、あるコンサルタントの設計によって県が津和野川の護岸を整備し(後で現場に行ってみると丸山橋下流の区間であった)、引き続き今年度もよろしく、と話しに行くと、関さんにダメだと言われたとのことであった。関さんは長年川に川本来の姿を取りもどそうと努力してた人物で、より具体的に言えばコンクリート護岸をやめて近自然型工法を取り入れようと推進してきた省内のリーダー格だった。」という経緯で、このとき事業者の島根県は、国(建設省)から「ふるさとの川整備事業」を採択していた。施工されてでき上った護岸は篠原によると、ただ単に川石を積み上げた代物で、これではダメを出すのをもっともだと思ったという。 そして完成予想パースから、当初プランの欠陥は少なくとも三つあると考え、さらに原因は現状の縦割り的な行政では無理からぬと思える点と、デザイン力不足によるとした。 欠陥のひとつは、当初のプランを立てたエンジニアが簡単に言えば勉強不足で、津和野川の随所に現れている伝統的な型を踏まえなかった点を挙げる。津和野大橋の上流部を観察すると、津和野川の護岸は角ばった山石の空積となっていることが容易にわかり、丸山橋下流の際に施工したような川石(玉石)ではなかったという。もっともこれは川により、また同じ川でも上・中・下流の州により、何が護岸の基本の型であるのかはそのときどきで異なるが、それでこそ川の多様性は保証されているのだとしている。 もうひとつの欠陥として短絡的な親水志向を示す。従来型の整備で、ある同一断面を区間全体に適用し、そこに河川敷に降りる階段を付けるという、これでは川の空間に変化は生まれようもないし、風景としていかにも単調になっている点で、篠原は「おそらく設計、計画を担当したコンサルタントのエンジニアには手抜きの意識はなく、行政の指示にしたがって型通りに作業を進めただけだと言うのだろう。」としたうえで、「しかし、このような意識に留まっていでは、新しい、思い川の中間は生まれるはずもない。」と感じていた。 そして、プランの最大の欠陥として河川敷内への閉じこもりを指摘する。これは河川管理者が自らの力で何とかできる範囲内でプランを立て、デザインしようとする姿勢から生ずる縦割り的な発想の欠陥を挙げる。この発想でプランを作りデザインを行うと、いきおいそれは道路や橋、より広く言えば間と切れた自己完結性の強すぎる川となり、利用しにくい空間、周辺から浮いた川の風景となってしまうため、川の空間をもっと周囲に開いたものとし、道や橋や建築と有機的につながなければならない、そうすることによって初めて、川が本来持つ、のびやかな空間ができるとした。 こうして津和野川のデザインの課題は、町の裏側になっていた川を表の空間とすること、川と通りを結ぶこと (川と町をつなげること)、さらに川を町を回遊する散歩道の基軸にすることで、そのために、津和野の目抜き通りであり、もっとも観光客でにぎわう殿町通りと川との接点、津和野大橋の左岸側に橋詰広場を確保し、さらに殿町通りに面する旧藩校の養老館の裏庭を買収して河川区域にとりこみ、ゆるやかなスロープの芝生広場として養老館敷地と川の空間を一体化している。この橋詰広場と芝生広場は、イベントにも利用できる晴れやかな空間として構想されている。広場の舗装や右岸側護岸パラペットの壁には、地場材である石州瓦を仕上げに用いている。 そして篠原は『建設業界』1996年11月号において、「津和野を良くするために、津和野川を“まち”と結んで観光津和野のもうひとつの顔とするために、橋詰に広場が、養老館裏に大きな芝生の広場が、その土地が必要なのです」と、県庁とその出先の土木事務所、町役場の人たちを前に小さな演説をしたという。そして県と町の人たちの努力によって整備がなされた橋詰広場には多くの観光客が憩い、記念撮影を楽しみ、大きな芝生の広場では子供たちが駆け回っていることで、川は川、橋は橋、「まち」は 「まち」、という具合に「バラバラにやっていたのでは良いものはできない。その失敗を繰り返したくないと痛切に思っていたからである。」という。 一方、津和野大橋喬上流側は、主に地元の人たちの日常的な利用に応える空間として、太鼓谷稲荷前広場や小さな桜の広場、河川敷内に設けられた「出会いの広場」や河原の広場など小さなオープンスペースを点在させ、最上流部には子どもの水遊びと生態系に配慮した落差工を設けている。 護岸構造はコンクリートを裏込めに用いた自然石練積みであるが、意図的に深目地としてコンクリートを目立たぬようにするとともに、土がたまって草がつきやすいようにしている。引き締まった印象の外観を得るため、勾配は三分とあえてきつめにされている。 施工面では、設計陣が江戸時代からの護岸の伝統を継承して山石を使う際、下は大きく、上にいくに従って小さくという自然石埋込みの指示をする。当初は露骨に現場で嫌な顔をされ、しばらくして施工現場を見にいくとワイヤークレーンで石を一つずつ吊って、2、3人の作業員がそれをコンクリート護岸に丁寧に一つひとつ埋め込んでおり、これでは現場が嫌な顔をするわけであるとみていたが、極めてめんどうな作業ができ上がってみると立派な護岸となるのが、施行者側にも得心のいくものに仕上がったことから、その嫌な顔は次の年には活き活きとした顔に変わったという。 このほか、途中から急に皇太子御成婚記念の鷺舞のモニュメント設置が浮上し、これを巡って彫刻家とやり取りをし、県の土木事務所の担当者と地元山口線鉄橋上流部の再設計や設計者同士の論争などもあったというが、論争を経るごとに土木事務所の担当者や現場の作業員たちも着実に進歩し、工事のほうも着々と成果を積み重ねていったという。 なお、津和野では川の整備が一段落したのち、 殿町通りの整備、川沿いの鴎外記念館(宮本忠長設計)、津和野駅近くに安野光雅美術館、上流右岸側に道の駅「なごみの里」など、 さらなる施設整備とまちづくりを展開させている。
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