投降兵・捕虜の扱いと戦時国際法
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「南京事件論争」の記事における「投降兵・捕虜の扱いと戦時国際法」の解説
南京戦では、最も多いとされる殺害事案が、日本軍による中国人捕虜の組織的殺害である。この組織的殺害の場合、山田支隊の行ったとされる1万人単位の大掛かりな捕虜の殺害は稀な例であり、数十人や数百人単位の虐殺が数多く発生し、合計で約3万人の捕虜・投降兵などが殺害されたと、秦郁彦は説明する。(但し、実際には、揚子江での数千から数万程度の大量処刑の各種証言や大量処刑との関連性を疑わせる一か所での大量死体埋葬の記録が存在する。) 当時の捕虜の取り扱いに係る戦時国際法として日中間でともに受け入れていたものはハーグ陸戦条約(1907年改定後)であり、日本・中華民国がともに条約として批准(中華民国:1917年5月10日、日本:1911年12月13日)していた。同条約の第4条には「俘虜は人道をもって取り扱うこと」となっており、同条約の第23条第3項では「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞へる敵を殺傷すること」が禁止されている。なお、同じく捕虜などの保護を定めた条約でありハーグ陸戦条約に定めた捕虜の取り扱いを補完する役割を持つ、赤十字国際委員会の提唱がきっかけとなって成立した俘虜の待遇に関する条約(ジュネーブ条約)は、中華民国は1929年7月27日に署名、1935年11月19日に批准していたが、日本は署名のみで批准していなかった。 さて、日中戦争時に、日本の軍部が、日中が批准した戦時国際法(ハーグ陸戦条約)を遵守・履行しなくても良いと解釈できる命令を出した記録が残っている。日中戦争初期の1937年8月に、日中が批准した戦時国際法(ハーグ陸戦条約)の扱いについて日本陸軍上層部から以下の様な通知が現地の中国への派遣軍に送られていた。つまり、日本陸軍次官から北支那駐屯軍参謀長宛の1937年8月5日の通牒「交戰法規ノ適用ニ關スル件」(陸支密第198号)では、「陸戦の法規慣例に関する条約その他交戦法規に関する諸条約中、害敵手段の選用等に関し、これが規定を努めて尊重すべき」とあり、また「日支全面戦を相手に先んじて決心せりと見らるるがごとき言動(例えば、戦利品、俘虜等の名称の使用、あるいは軍自ら交戦法規をそのまま適用せりと公称すること)は努めてこれを避け」と指示している。秦郁彦はこれは国際法を遵守しなくともよいとも読めるが、解釈の責任は受け取る方に任せて逃げたともとれるとした。また吉田裕は、日本軍は明確な軍令を出してはいないが、殺害を事実上黙認していたかのように読める命令を発していたと主張している。その理由として、海軍省軍務局長・軍令部第一部長が陸軍と協議のうえ第三艦隊参謀長宛に発した通牒(1937年10月15日付軍務一機密第40号)「我権内に入りたる支那兵の取扱に関しては対外関係を考慮し不法苛酷の口実を与へざる様特に留意し少なくとも俘虜として収容するものについては国際法規に照らし我公明正大なる態度を内外に示すこと肝要なるに付き現地の事情之を許す限り概ね左記に依り処理せらるる様致度」とあり、「現地で」「俘虜にしないかぎり」殺害しても良いとのニュアンスが読み取れる。 このように、日本側が、自ら批准した戦時国際法に忠実にならなかった背景には、日本側が宣戦布告を行わず「事変」とみなす政策をとったため(もし宣戦布告した場合、アメリカが中立法を発動して軍需品をアメリカから輸入できなくなるなど不利であるため)に、本来と公的に「戦争」を宣言しないことの影響として、戦争なら当然適応される戦時国際法による捕虜の対処策などがおろそかになったのでは、という説が日中歴史共同研究にて指摘されている。 そのうえ、このときの日本陸軍は捕虜管理のための機構を設置しなかった。捕虜を管轄する軍務局にいた武藤章(参謀本部)によれば、1938年に「中国人ノ捕ヘラレタル者ハ俘虜トシテ取扱ハレナイトイフ事ガ決定」されており、つまり、陸軍は戦争ではない支那事変では捕虜そのものを捕らないという方針を採用、したがって、正式の捕虜収容所も設けなかった(但し、1941年には俘虜情報局と俘虜収容所が設置された)。但し、これは勿論、捕虜に人権を認めないということではなく、捕虜は北支の政権(傀儡)に引渡されそちらの法に基づいて処理されるし、日本軍側の非行については日本の軍法や一般の刑法に基づいて処理されるということを意味する。これに基づいて、武藤は直前まで捕虜を管轄する軍務局にいて事件当時は中国に派遣されていたのだが、戦後の東京裁判前の尋問で、これらの捕虜たちがどうなったかはもはや自分らの管轄ではないので知らない、汪兆銘や北支の政権に引渡され、後はそこで兵士か人夫として使われるのだろうと思っていた、自ら降伏したものは犯罪者ですらなく単なる市民であると彼自身は考えていたと弁明している。 戦陣訓はまだ公布されていなかったが、日本軍では捕虜をタブー視しており、秦は「捕虜になることを禁じられた日本兵が、敵国の捕虜に寛大な気持ちで接せられるはずはない」とする。また日本は大量の捕虜がでたときの指針に欠け、上海戦では捕虜処刑が暗黙の方針になっていたが、首都の南京攻略では明確な方針があるべきだったと秦郁彦は述べる。 当時の報道を見ると、捕虜処刑を当然視する考えや論調は見られない。寧ろ、捕虜が自分らを国民党軍側に返さないでくれと言ったとか、捕虜を故郷に返しそこで職を世話してやったとか云ったことが、'皇軍’の宣伝のために国内向けに報じられている。 一方で、日本軍による中国人捕虜の組織的殺害は、そもそも戦時国際法上、合法だったという意見がある。つまり、作戦遂行の妨げになる場合、敵兵の降伏・投降を拒否することは戦時国際法上でも合法であるので捕虜にしないで殺害してもよかった、また、中国側の違法行為に対する復仇なども殺害の理由となり得る、という意見を国際法学者の佐藤和男は唱える。佐藤は、自身の主張は軍事作戦遂行のために捕虜を拒否することも許される場合があるという国際法学者ラサ・オッペンハイムの考えに沿っており、「日本軍の関係部隊には緊迫した「軍事的必要」が存在した」と主張する。その理由として、①ラサ・オッペンハイムの「多数の敵兵を捕えたので自軍の安全が危ないとき、捕えた敵兵に対し助命を認めなくてもよい」という考えは1921年の学説で1937年の南京事件から時間がたっていないので有効な考えであるとする(ただしこの考えに反する1929年捕虜条約(注:俘虜の待遇に関する条約(ジュネーブ条約)のこと)がその間にあることも佐藤は記述)。[←注:オッペンハイムによれば論文の時点で、投降する者を殺害してはならないというルールは国際社会で普遍的に承認(オッペンハイムの学説によれば既に普遍国際法化しているとの意味になる)され、今やハーグ陸戦条約で明示的に制定されたものとしている。また、オッペンハイム自身は法用語としての緊急避難に当たる場合に例外を認めているものの、単に給養困難や捕虜が多数であることを理由としてはならず、彼ら捕虜の関わる実際の危険性があることを必要としている。例えば圧倒的な敵に頑強に抵抗して降伏しただけの籠城軍を殺害することは今や認められないとしている。その意味では、寧ろ、南京事件はオッペンハイムの言うところの認められないケースにまさに該当する可能性が高い。本文記載の通りであれば、本来は法用語として急迫した状態における緊急避難を意味するimperative necessityが、日常の言葉である"緊迫した必要"に変えて訳されていることになるし、少なくともオッペンハイムは"軍事的"必要を例外が認められるnecessityとはしていない。]②中国側も残虐行為を行った通州事件の復仇であった(ただし佐藤は同じ論文の中で1929年の俘虜の待遇に関する条約(ジュネーブ条約)によって捕虜への復仇が禁止されていたことも記述)[←注:復仇は、国際法の通念においてもオッペンハイムの考えにおいても、そもそも相手方の戦争法規違反の抑止の為に同害報復を超えない限りで行われるものでなければならない。日本の友好政権(冀東防共自治政府)下で突発的な叛乱として起こった通州事件の報復としてであれば、全くの民族意識感情に基づく復讐であって、相手方の行動に対する復仇としての意味をなさないことになる。また、通州事件については同様な事態の今後の勃発が予想されていたわけでもなく、被害の程度も同害報復の範囲を超えている。]③日本の開城勧告を無視して自国の多数の良民や兵士を悲惨な状態に陥れた中華民国政府首脳部の責任、④日本軍は和平開城勧告を行い、それを無視されても難民区などの砲撃を自粛したので(許され得る)[←注:中国側も難民区を非武装地帯とし、それを守っている。さらに、それにより、そもそも純粋に軍事的に難民区を砲撃する意味がない]、の4点をあげている。なお、復仇に関連して、南京に派遣された16師団経理部の小原少尉の日記によれば、310人の捕虜のうち、200人を突き殺し、うち1名は女性で女性器に木片を突っ込む(通州事件での日本人殺害で行われた方法)と記し、戦友の遺骨を胸に捧げて殺害していた日本兵がいたと記した。 それに対して、戦時国際法に則った、捕虜の人道的扱いが必要であったとする意見がある。北岡伸一は「捕虜に対しては人道的な対応をするのが国際法の義務であって、軽微な不服従程度で殺してよいなどということはありえない。」と主張している。また、当時の国際法学者の信夫淳平は、例えば18世紀の欧州では捕虜に食べさせる食糧が不足していることを理由にした捕虜処分(虐殺)があったものの、これは”現在の戦時国際法では許されない”(「今日の交戦法則の許さざる所」)と述べて、同時に、”捕虜にして安全に収容することができないときは解放すべきである。捕虜を解放したら敵の兵力が増えるので不利というが、人道法の掟を破ることによる不利益に比べれば、不利といっても小さいものである”(「俘虜にして之を安全に収容し置く能はざる場合は之を解放すべきである。敵の兵力を増大することの不利は人道の掟則を破るの不利に比すればヨリ小である」)という、ウイリアム・エドワード・ホール(英語版)の学説を紹介している。吉田裕は、「仮に不法殺害に該当しないとしても」日本軍の行動は非難・糾弾されると批判した。 また、捕虜の審判なしの処刑に関しては、日本軍は、「便衣兵と戦時国際法」でも記載したように、軍律違反の場合、「軍律会議を経て審判により処罰(審判第1条)」そして「長官の許可を得たうえで死刑(審判第8条)は可能」と定めていたため、原剛は、(問題とされる中国兵であっても即処刑でなく)当時の国際法や条約に照らしても軍法会議や軍律会議によって処断すべきであったと主張する。 なお、日本軍は、以前、つまり日露戦争のときは、戦時国際法つまり1900年に批准したハーグ陸戦条約を忠実に守りつつ、外国人の捕虜に対する人道的配慮を行ったことが国際的にも知られており、その後の第一次大戦のときも同様に、中国山東省で捕えたドイツ人捕虜への配慮、日本国内での捕虜収容所での生活ぶりなどにおいて、人道的扱いで広くその名誉ある行動が知られていた。また、軍務局の元局長であった武藤章は、東京裁判に備えて行われたGHQ側の尋問において、シベリア出兵以来、日本軍の質が落ちて、窃盗や強姦・強盗を行うようになったと述べている。 なお、水間政憲は、日本軍が中国兵を大切に扱ったと主張する証拠として、占領後に中国軍負傷兵を日本軍が市内で集めて病院で治療したと、ニューヨークタイムズの記事と当時の日本の雑誌の写真から説明する(ただし、このニューヨークタイムズの記事によると、実際の中国兵の負傷兵の病院への搬送は、日本軍ではなく、旧中国政府施設の野戦病院を継承した欧米人の医療関係者の自発的メンバー(彼らが国際赤十字を設置したうえでの活動)であると記載されている。
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