「虐殺」否定説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 14:03 UTC 版)
「南京事件の被害者数」の記事における「「虐殺」否定説」の解説
虐殺否定派は、日本軍は戦時国際法に違反した殺害をしておらず、安全区の外国人の記録も公正さに疑問あり、などとして、30万人の市民の虐殺はなかったと主張している。主な主張者は、新しい歴史教科書をつくる会・日本「南京」学会・南京事件の真実を検証する会のほか、田中正明 (元拓殖大学講師)、東中野修道(亜細亜大学教授)、冨澤繁信(日本「南京」学会理事)、阿羅健一(近現代史研究家)、勝岡寛次(明星大学戦後教育史研究センター)、渡部昇一(上智大学名誉教授)、中川八洋(筑波大学名誉教授)、杉山徹宗(明海大学名誉教授)、早坂隆(ノンフィクション作家)など。 主張の内容 中国兵殺害は、戦時国際法上、殺しても合法な便衣兵(ゲリラ兵)であり、投降兵等の殺害も戦闘行為の延長であった。 (ただし、この主張には南京事件論争#便衣兵と戦時国際法、南京事件論争#投降兵・捕虜の扱いと戦時国際法などに反論も存在する。) 戦闘終了前後に、多くの難民の避難した南京安全区に対しては日本軍は残虐行為をほとんど行っていないし、残虐行為の多くの記録の出所である安全区在住の欧米人やその話をもとにしたジャーナリストの記録の信頼性には疑問がある。例えば、安全区の欧米人のマイナー・シール・ベイツは中華民国政府の顧問であるという資料が存在する。国民党の戦略は例え虚偽を用いてでも「支那の悲惨」と「日本軍の残虐」を世界中に訴えてアメリカを味方につけ、支那事変に巻き込んだ日本を叩き潰すためであり、マイナー・シール・ベイツはこの国民党の戦略に沿い日本軍の残虐行為という政治的謀略宣伝を世界に発信したのではないかとセオドア・ホワイトらの回想に依拠して主張。またハロルド・J・ティンパーリの編著の『戦争とは何か』(1938年)にて「日本軍による南京での市民虐殺」が大々的に取り上げられ、アメリカ人に日本軍の非道を訴えその後の日米戦争の一因となったが、実際ハロルド・J・ティンパーリは上海にいて南京には居なかった。「戦争とは何か」の記述も多くが伝聞に基づくものであり、鈴木明は、ハロルド・J・ティンパーリが中国国民党顧問の秘密宣伝員であったと主張している。 2007年4月9日、「南京事件の真実を検証する会」は温家宝首相に対し、公開質問状を提出した。質問状は以下の点につき温首相に考えを聞き、日中友好のためにも検証を進めたいと述べた。 毛沢東は生涯ただの一度も南京虐殺に言及しなかった。毛が30万市民虐殺に触れないのは極めて不自然で不可解であるが、どう考えるか。 国民党の中央宣伝部国際宣伝処は1937年12月1日から1938年10月24日まで漢口で300回の記者会見を行ったが、一度も南京の虐殺について言及されたことがないが、どう考えるか。 国民政府が監修し1939年上海で出版された南京安全区国際委員会記録では、南京の人口は日本軍占領直前20万、占領1ヵ月後の1月には人口25万と記録されていたが、この記録と「30万の市民虐殺」はありえないが、どう考えるか。 また同記録には、日本軍の非行として訴えられたものが詳細に列記されているが、殺人は合計26件、目撃された事件は1件のみで、その1件は合法殺害と注記されているが、この記録と「30万の市民虐殺」は矛盾するが、どう考えるか。 虐殺を証明する写真がただの1点もなく、発表されているものについてはいずれもその問題点が指摘されているが、虐殺を証明する写真を提示してほしい。 ただし、以上については南京事件論争#当時の中国政府の認知、南京事件論争#人口推移の論点、南京事件論争#文献記録と口述資料、写真・映像などに反論も存在する。 秦郁彦は、こうした否定派は、従来無批判に認められていた中国側資料の一部に南京事件と無関係なものがあることを見出すなどの成果をあげたと評価している。一方で、笠原十九司は、反中国姿勢が行き過ぎて、学術的には無理のある一次資料批判や事実の一方的否定の可能性を批判している。
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