投降とその最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 07:28 UTC 版)
日中戦争の拡大に加え、1938年に張鼓峰事件、1939年にノモンハン事件が起こり、ソ連との国境線が緊張して、満州国では、国内の抗日共産軍の討伐に力を入れるようになった。帰順を誘い、投降した者を討伐隊に組み込んで、罰しないばかりではなく、衣食住を保証したことで、東北抗日聯軍は壊滅的な打撃を受けた。また、討伐側が1941年当時、一路軍主要メンバーにかけていた懸賞金額が作戦命令の書類に残されているが、政治委員・魏拯民三千円、軍需処長・呉成崙三千円、第二方面軍指揮・金日成一万円、第三方面軍第13団団長・崔賢一万円であり、過去に襲撃実績のある現場指揮官が一万円、首脳部が三千円だったことがわかる。 1940年2月、第一路軍総司令楊靖宇が投降を拒んで射殺され、3月、一路軍の首脳部は、樺甸県第四区水曲柳にあった呉のアジトで会議を開き、「呉が責任者となって新たに工作し、大衆に根を下ろす。軍は小部隊に分散して第二、第三路軍と合流する」ことを決議した。しかし呉の工作は失敗し、一方の金日成は、同年の秋ころ、わずかな手勢を引き連れてソ連領沿海州へ逃れた。 翌1941年1月、呉は、撫松県北方で、通化地区討伐隊に投降、帰順し、満州国の治安部顧問となった。呉は山本秀雄と名乗り、熱河省警務庁警尉補の職についていたともいわれる。 これまで、呉の最期は、1945年、日本の敗戦により、通化に進駐してきた八路軍に処刑されたといわれていた。しかし、近年発表された中国の文献によれば、日本の敗戦直後、呉は、熱河省承徳市の韓僑同盟委員長兼朝鮮独立同盟責任者を務めていたが、八路軍が承徳市に進駐したときに逮捕され、撤退を迫られた八路軍によって内蒙古の林西に連れて行かれ、捕らわれたまま、1947年の初めに病死したとされている。
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