投降、投獄、政界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 04:42 UTC 版)
「プーラン・デーヴィー」の記事における「投降、投獄、政界」の解説
司法当局と、プーランに敵対する盗賊団は、プーランを捕縛しようと試みたが、プーランは容易に捕まらなかった。インディラ・ガンディー政権及びインド警察当局とプーランの間で彼女自身と彼女の率いる盗賊団員を死刑から免ずるという司法取引が成立し、1983年、プーランは10,000人が見守る舞台の上で投降した。 プーランは裁判を受けることなく11年間投獄されていたが、1994年ウッタル・プラデーシュ州で新たに選出されたポピュリストのムラーヤム・スィン・ヤーダヴ(Mulayam Singh Yadav)州首相が検察官に働きかけて彼女に対する訴追を全て取り下げさせたため釈放される。彼女の釈放はインドで下位カーストに属する人々が団結を強め、政治活動を活発に行い始めたことと時を同じくした。プーランの投獄は当時のインドの公民権運動にとって非常に象徴的な事件となっていたため、ムラーヤム・スィン知事による恩赦に影響を与えた可能性がある。釈放後、プーランはインドにおける仏教再生運動に感銘を受け、仏教に帰依した。もっとも、帰依後もヒンドゥー教の女神カーリーを熱心に崇拝していたとの証言もある。 1996年、プーランの釈放に尽力したサマージワーディ(社会主義者)党から国会議員選挙に出馬し当選、国会議員となる。 引退した警察・司法関係者の中には、プーランの復権と政治参加に否定的な見方をする者もあった。 プーランは、2回日本を訪問している。1回目は1997年12月末で、このときは、ニューデリーで駐在をしていた期間に彼女と知り合った日本人の友人が招待した。彼女は日本の文化に触れる目的で日光、鎌倉、浅草、横浜、箱根等を訪問した。日本滞在中には正月の風習も体験し、杉並区の大宮八幡宮を参拝した。2回目は1999年1月で、京都精華大学が招待し、日本のマスメディアにも登場した。この時の京都精華大学での講演内容は、同大学のHPに掲載されている。尚、同大学の出版物には、彼女の講演内容が、正確に記述されている。彼女は、日本人は、勤勉であると賞賛していた。又その時に、日本の病院の視察の目的で、徳洲会の大阪の病院を訪問している。これについては、彼女のコメントが、徳洲会の新聞にも記載されている。 2001年7月25日、ニューデリーの自宅前で射殺される。逮捕された容疑者のシェール・シン・ラーナー(शेर सिंह राणा, Sher Singh Rana)は暗殺の動機について、ベヘマイー虐殺事件の報復であると自白したが、警察当局は信用し難いとしている。 遺族に夫のウンメード・シン(उम्मेद सिंह, Ummed Singh)がいる。
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