ファラデー【Michael Faraday】
ファラデー (Faraday, Michael)
ファラデーという人は
イングランド・ニューイントンのサリー村(現在ではロンドン市内)に鍛冶職人の第3子として生まれる。 当時の職人は工場に仕事を奪われており、家が貧しかったファラデーは13歳で製本屋の見習いとなる。 学問好きなファラデーはここで知識を蓄え、特に化学、電気に興味をもち、本格的な化学の勉強ができる仕事につきたいと考えるようになる。
ファラデーのノート
ファラデーに幸運が訪れるのは彼が22歳のときであった。 王立研究所の化学者デービーの助手を志願するため、 デービーの講演を聴いてとったノートを製本し、これを持ってデービーに会見を申し込んだ。 ノートの出来、製本の出来ともに好印象だったようで、ちょうど助手の欠員が出たところでもありファラデーは採用される。 最初に与えられた仕事はビートから砂糖を抽出することで、さとうきびを輸入していたイギリスでは国産のビートから砂糖を作ることは、政治的、経済的に大きな意義があった。
デービーのお供で18ヶ月にわたりヨーロッパ各地を旅し、各地の学者や、研究を目にする機会に恵まれる。 デービーのもとでさまざまな研究成果をあげ、1825年、王立研究所の実験主任となる。
ファラデーの主な経歴
ファラデーの電動機
1820年、エルステッドやアンペールが相次いで発表をし、このころからファラデーも電磁気の研究を始め、1821年、電流と磁石の間の相互作用を発見する。 ある日、師であるデービーと高名な学者ウラストンとの議論を耳にし、その会話から独断で単独実験を行って”ある新しい電磁気運動について。また磁気の理論について”という論文を発表する。 これは電磁気エネルギーが機械的エネルギーに転換する最初のものであり、モーターの原理となるものであった。 論文はただちにフランス語に訳されて全ヨーロッパに広がり、これによってファラデーは一挙に第一級の科学者として認められた。 しかし、この発見はウラストンの研究に割り込んだものと王立研究所内では評価されてしまうことになる。
1824年、ロンドン王立協会の会員に選ばれる。 すでにフランス科学アカデミー、フィレンツェ科学アカデミーの通信会員には選ばれていた。 入会には保証人が必要であり、通常は10人程度である。ファラデーの場合、先のウラストンを含め29人の署名が集まった。 このころにはデービーとの関係が悪化しており、ファラデーの選出に唯一反対票を投じたのはデービーであった。
1825年、王立研究所の実験主任に就く。 これまでの収入は助手の週給30シリング(入所時は25シリング。これは製本見習いより安い。)であったが、この昇進により年給100ポンドとなった。 ファラデーを実験主任に推したのはデービーであった。 この後1853年に年金300ポンドが追加されるが、このとき時の首相メルボルンに頭をさげさせたという逸話がある。
1825年、さまざまな油の性質を調査していたファラデーは、ガス灯の容器にこびりついた油状の物質からベンゼンを発見する。
1827年、”化学処理”(Chemical Manipulation)という656ページもの化学実験の本を出版する。 ファラデー自身の経験をまとめたもので、電気配線やガス配管がなく、純度の高い化学薬品などほとんどない時代の実験技法や指図が詳細に示されており、 何十年も教科書として用いられた名著である。
ファラデーのコイル
1831年、ファラデーの電磁誘導現象を発見。 エルステッドは電気から磁気を発生させた。ならばその逆も可能ではないか?というのがはじまりであった。 二つのコイルを離して置き、片方のコイルに電流を流し、片方のコイルに検流計を接続して電流を流した直後、検流計は大きく振れたがすぐに止まった。 電流を止めると検流計は逆に振れたが、これもすぐに止まった。 磁石をコイルに近づけたり離したりするとその速さに比例して検流計の振れが大きくなることも発見し、 ロンドン王立協会で”電磁誘導の法則”を発表する。これが最初の変圧器であり、電磁気学の飛躍的な進歩の幕開けである。 数ヵ月後に、アラゴの回転磁気を利用し、銅板の周りに磁石を設置し、銅板を回すと電気が発生する装置を発明する。 世界初の発電機であり、機械エネルギーを電気エネルギーに変換する最初のものとなった。
物質1[g]当量を析出するのに必要な電気量である96500クーロンを1ファラデーと呼んでいる。 ファラデーは正イオンをカチオン(cation)、負イオンをアニオン(anion)と呼んだ。 現在の陰極(cathode)、陽極(anode)をはじめ、 電極(electrode)、電解質(electrolyte)、電気分解(electrolysis)、イオン(ion)などはファラデーの命名である。 (正確にはファラデーに助力を求められたケンブリッジの大物で哲学、数学の専門家であるウィリアム・ヒューエルの提案によるもの)
1833年、ファラデー暗部を発見する。 5[Torr]程度の真空度の放電管に電流を流すと、グロー放電の陽光柱直前に暗部が発生することに気づく。 これがファラデー暗部であり、電場が弱まり、分子の励起も電離も行われない領域である。
1837年、電気力の遠達作用を否定する。 電気の吸引・反発力は引力のように、間に何もなくても作用する力であるという遠達作用論があったが、弾性的な媒体を介して伝わるとする近接作用論を提唱する。 数学が不得手であったファラデーは電磁誘導現象を理解したとき、電磁石の上に鉄粉を撒き、磁力線を認識していた。 ファラデーの頭の中には電流の流れる線を中心とし、宇宙空間に限りなく広がる磁力線のイメージが出来上がっていたようだ。
1839年、半導体性物質を発見する。 酸化銀にランプを当てると導電性が増し冷却すると絶縁性が増加した。 世界初の半導体性物質の発見であるが、本格的に半導体が研究されるまでにはあと100年を要することになる。
1845年、反磁性の発見。 硼珪酸鉛ガラスを電磁石の間に吊るしたところ、鉄であれば磁力線の方向を向くが、磁力線とは垂直の方向を向いた。 金属、ガラス、血、水、蠟など50種のとりまぜで追試した結果、 物体が向く方向は磁力線の方向かその垂直方向のいずれかであったので、物質には磁性体と反磁性体の2種類が存在するとした。
1845年、光の偏光面が磁界により回転するというファラデー効果を発見する。偏光面は磁界の強さに比例して回転し、回転方向は磁場コイル電流の方向を同じであることが確認された。
1846年、光の電磁波説を思いつく。 これが世に出たのはホイートストンの代役で講演をしなければならなくなったことがあり、 時間が余ったので仕方なく「まだ確信には至りませんが、このようなことを考えています」と発表したところ、 反響をよんで”光線の振動に関する考察”という短い論文を書くはめになったためである。 ここで光の電磁波説について先見している。光については多くの人が議論しているがファラデーもその一人である。
1862年、彼の生涯最後となる実験を行う。 光源を磁場の中に置いて、そこから出る光に磁場が与える影響を見つけ出そうといった試みであったが、実験装置が不十分で予期した影響を検出することはできなかった。 34年後、ファラデーのこの試みを読んだオランダの若き実験家ゼーマンによって解明されることになる。
マイケル・ファラデー
”ドイツ物理学の総理大臣”と呼ばれたヘルムホルツがその妻に送った手紙のなかにファラデーについての記述がある。 「ヨーロッパ髄一の物理学者に会うことを得た。つまりファラデーだよ。……これは私には素晴らしく楽しいひとときとなった。 この人は純朴で穏やかな人柄で、控えめなことはまるで子供のようだ。こんなに好ましい人物にはあったことがないよ。 その上本当に親切な人で、私一人を案内して、そこにあるものはみんな見せてくれた。 もっとも、実はそういうことにはあまり大した意味はないんだ。 何しろこの人は、木にきれっぱしや針金や鉄のかけらを使うだけでも最大級の発見をやってしまう人だからね。」
電磁誘導の発見後はフラー化学教授に任命されて年給が100ポンド追加された。 さまざまな収入をあわせると1830年代の終盤には年給900ポンドを超えており、このころから金のために研究をする必要はなくなった。 金をとって仕事をするプロフェッショナルな姿を嫌い、発明しても特許はとらず、政府の依頼は報酬を断るのがファラデーの原則であったという。
大学の教授職やナイトの称号、王立研究所の会長就任要請、 さらにはロンドン王立協会の会長就任要請さえ「最後まで、ただのマイケル・ファラデーでいたい」と断り、 生涯一研究者であること貫く。
王立研究所の講義を受けもち続け、クリスマス休暇には子供向けのやさしい科学講座を始め、1966年以降、このクリスマス講演はテレビ放映されるようになった。 数あるクリスマス講演の中でもファラデーの"Chemical History of a Candle"はいろいろな国語に翻訳され(和名:ろうそくの科学)、数え切れないほど多くの子供を喜ばせ、鼓舞してきた。
数々の輝かしい功績を残し、1867年8月26日、77歳でこの世を去る。 多くの偉人が眠るウェストミンスター寺院に埋葬したいという案があったが、ファラデーは国教徒ではなかった。 異なる宗派の墓では眠れないとのことで、皇太子が総裁となって募金が集められ、ファラデーの大理石像が作られた。 彼の最も馴染んだ家でもある王立研究所のロビーに飾られている。
ファラデー同様、数学を苦手とする偉大な科学者がいる。 アインシュタインの書斎には常にファラデーの肖像が飾られていたという。
静電容量の単位・ファラド
ファラデー
マイケル・ファラデー
(ファラデー から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/24 16:56 UTC 版)
マイケル・ファラデー(英: Michael Faraday、1791年9月22日 - 1867年8月25日)は、イギリスの化学者・物理学者(あるいは当時の呼称では自然哲学者)で、電磁気学および電気化学の分野での貢献で知られている。
注釈
- ^ これの意味するところは、ジェームズがサンデマン派信者のつながりから職を得たということである。ジェームズは1791年2月20日にロンドンのサンデマン派の集会に参加し、その後すぐに住居を見つけて引っ越している。詳しくは Cantor 1991, pp. 57–8
- ^ 1857年ごろ撮影された写真をベースとした版画。詳しくは National Portrait Gallery, UK
出典
- ^ See National Portrait gallery NPG 269
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- ^ ファラデーの幼少期を含む生涯の簡潔な説明として次がある。
EVERY SATURDAY:A JOURNAL OF CHOICE READING, Vol III published at Cambridge in 1873 by Osgood & Co., pp.175-83 - ^ "Michael Faraday." History of Science and Technology. Houghton Mifflin Company, 2004. Answers.com 4 June 2007
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を指定する場合、|url=
も指定してください。 (説明);|transcripturl=
に対応するタイトル引数を入力してください。 (説明) - ^ Cantor 1991, pp. 41–43, 60–4, 277–80
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- ^ ファラデーの日記の1849年3月19日の記述
- ^ Faraday & Schoenbein 1899, p. 349 Christian Friedrich Schönbein への1861年9月19日付けの手紙。
- ^ See but still try
- ^ Jones 1870, 2:389
ファラデー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/16 14:17 UTC 版)
カルタギア帝国の技官。帝国でもトップクラスの技術者で腕は確かだが、偏屈で相手に対して妙な呪いにかかれと言ったりする。アニメを見るなどしていつも部屋に引き込もっている駄目人間だが、前述の通りマジックアイテムを作る腕は一流。
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ファラデー(Faraday)
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「デ・ハビランド DH.91 アルバトロス」の記事における「ファラデー(Faraday)」の解説
1939年8月に郵便機型が「ファラデー」と命名されインペリアル・エアウェイズ(英語版)に納入され、登録記号G-AEVVが与えられた。この機体は1940年の再編時にBOACへ移管されたが、英空軍に徴発されシリアル番号AX903を与えられて英空軍第271飛行隊により運用された。本機は1941年8月11日にレイキャヴィクで着陸事故を起こした後で廃棄された。
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