佐藤信淵 思想と主要著書

佐藤信淵

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思想と主要著書

思想

佐藤信淵の著作は300部8,000巻に及ぶとされているが、必ずしも全ては伝わっていない[1]。また、生存中は彼の著作は広くは知られておらず、読者も限られていた[1]。書名に「秘策」「秘録」を付すものが多いのも、公にできない性格をもっていたからであった[1]。広く読まれるようになったのは明治以降であり、主なものは滝本誠一編『佐藤信淵家学全集』にまとめられている[2]。その著作はきわめて多種多様で、農学から兵学、兵器製造、経済、社会政策、教育行政、さらに国家経営におよび、きわめて実際的なものから理論的、観念的なものまで含んでいる[2]。そのなかのひとつ、文政12年(1829年)成立の『草木六部耕種法』は有用植物の利用対象を、・皮・の六部に分け、それぞれに属する植物の栽培法を解説するというもので、この書によって信淵は、宮崎安貞大蔵永常と並ぶ「江戸時代の三大農学者」と称せられている[10][11][注釈 1]。信淵はまた、「百姓は国家の根本、農業は政事の基源」という趣意のもと天保3年(1832年)に『農政本論』を著しており、富農・富商による土地兼併を百姓困窮の一因とみて、その禁止を説き、天災への救助法なども説いて、万民の困窮を救って国家の富盛をもたらすべき諸策を論じている[12]

信淵の経世論のなかで特に注目に値するのは、封建制度を基盤とする幕藩体制のもとで、来たるべき「統一国家」としての日本の姿を考え、それを方法としては科学的に、そして、社会的および経済的な内容をともなうものとして打ち出したということである[2]。また、信淵は、平田国学を学んだことで、実学専門だった佐藤家の学問に「哲学」を取り入れたともいわれる(しかし、森銑三は後述のように信淵は世に出ようとして「粉飾された家学」を書いたとしているので、留保が必要である)[3]

文政10年(1827年)成立の『経済要録』で信淵は、「我が家の学問の原規則は、古今にわたり和・漢・印度の道学をもって基本とし、これを高皇産霊神(タカミムスビノカミ)が天地をつくり給いたる神意に折衷したるものなり」と記している[1]。平田篤胤の説く産霊神による万物生成論の影響が強くみられ、その経済論の土台は生産力の原理であった[1][13]。これはまた、文政期の社会問題が貧困から発していたことに即応したものでもあった[1]。信淵は、「経済とは国土を経営し物産を開発して領地内を豊かにし、万民を救済することにある」として、経済の最重要政策として、創業、開物、富国、垂統の4条を掲げている[1]。このなかの「垂統」こそ信淵の政治経済学の核心をなすものであり、これを拡大し具体的に述べたのが『垂統秘録』であった[1]

『経済要録』は、しばしば近世の経世論として最も体系化されたもののひとつとされる[14]。それは、「垂統」すなわち「子々孫々万世衰微すること無く、其の国家をして永久全盛ならしむるを云ふ」として強大な中央集権的政府を構想し、政府が中心となって国土を開発し、諸産業をおこして政府統制下におき、秩序ある交易を振興し、国を富まし、もって国民生活の安定を計るべきことを説くものであった[1][14]

『垂統秘録』は,信淵が天保2年(1832年)ころに口述(したものを,子息の佐藤信照と門人大久保融が筆記したものとされ,信淵の死後に成立した[15]。欠失した箇所があり、すべて伝わっていないが、日本全国に「三台」(神祇台・教化台・太政台)と「六府」(本事府(農業)・開物府(鉱業・林業)・製造府(工業)・融通府(商業)・陸軍府・水軍府)を設置して、人民を「八業」(草・樹・鉱・匠・賈・傭・舟・漁)に六府に分属させて兼業を禁ずるという、一種、国家社会主義的とみなされる日本を構想しており、とりわけ、「病養館」という現在の国立保養所国民健康保険につながる考え、また、「慈育館」「遊児館」という、貧困家庭の無償保育の場を設けよという主張のみえるのが注目される[5][15]

「垂統」において基本原理となった「大地はことごとく皆皇朝の所領なり」の考えをもとに論述した文政6年(1823年)の経世済民論が『宇内混同秘策』であった[1][16]。『宇内混同秘策』(あるいは単に『混同秘策』)では、江戸首都をおいて王城の地となし、もって「東京」と改称すべし、また、大坂(西京)とで二都制を設けるべしと主張し、さらに地方を14省制として行政機構を分置し、10学部制の大学を設置すべきと提案している[1][5][16][注釈 2]

経世家としての信淵は、しばしば海保青陵本多利明と並び称される[8]。信淵の重商主義論はこの2人、とりわけ本多利明の重商主義論から強い影響を受けた[5]。海保青陵の一藩重商主義に対し、本多利明によって示された一国重商主義は彼によって引き継がれ、武士階級による経世論に多くみられる市場経済よりも政治に傾斜した論であることにも共通点があり、対外進出論の面でも利明の重商主義論を継承している[5]。動機のうえでも、北越や奥羽の農民の困窮や荒廃した農村を救済するという同じ問題意識のうえに立っていた[5]。信淵の本領は、統一国家構想を立て、そのなかに農業・商業・鉱業をとりこんで議論を展開する点にあり、数学者であった利明がわずかな体験と書物から得た西洋事情だけであったのに対し、信淵が鉱山学や農学などの幅広い知識をもとに同じ一国重商主義でも国内生産力の増進を盛り込むかたちで論を展開しえたところに大きな違いがあった[5][8]。また、対外進出についても利明が平和的なものであったのに対し、信淵の場合は戦争をともなう軍事的な侵略が明確に示されていた[5]。いずれにせよ、徳川体制下において、対外的・対内的両視野をもつ統一国家を構想したことは希有なことといってよい[5]。さらに、海防通商に関して信淵は、イギリスの富強は世界各国との貿易によっており、通商航海はおおいに必要であると説いて公然と開国論を唱え、貿易の官営、産業の独占によって幕政や幕藩体制下の経済の行き詰まりを打開しようとしたのである[5][8]

評価と批判

佐藤信淵の経歴については、とくにその家学伝承において謎の部分が多い。身分制社会の中で学者として身を立てるための方便であったとも考えられるが、彼自身が述べている経歴の所伝に矛盾がある。

また、『宇内混同秘策』の冒頭に「皇大御国は大地の最初に成れる国にして世界万国の根本なり。故に能く根本を経緯するときは、則ち全世界悉く郡県と為すべく、万国の君長皆臣僕と為すべし」と書いて、日本至上主義を唱えたのみならず、満州朝鮮台湾フィリピン南洋諸島の領有等を提唱したため、近代日本の対外膨張主義の先取り、さらには「大東亜共栄圏」構想の「父」であるとみなす見解が存在する[16][17]。これは、今日からすればあからさまな侵略思想にほかならず、非難の対象となる[5]

第二次大戦中の日本では、信淵は大東亜攻略を世に先駆けて述べた人物として大いに称揚され、軍人を中心に愛読された。また、信淵にいたる佐藤家5代の家学は、かつては「5代の苦心」の題で小学校読本にも収載された有名な美談であったが、森銑三はこれに対し、1942年昭和17年)10月、信淵の履歴には嘘や信用できないものが多く、仕官のために誇大な宣伝をした「山師」であるとして『佐藤信淵 - 疑問の人物』を刊行した[3]。信淵の故郷では困ってこの著作に対する反対運動を起こし、それに当局も応じて、戦争末期には再版不可となった[注釈 3]谷沢永一は森説を受けて、「最初から最後まで嘘をつきハッタリで通している」詐欺師であり、「5代にわたって学者を輩出した家系」とか、先祖が農政家、思想家、旅行家、事業家であり、また先祖の学問を自分が集大成したというのも全て嘘だとして厳しく批判している[18]

ただし、虚言を用いてまで自己を売り込もうという姿勢に関しては、仕官を強く望む者にはありがちなことではないかという弁護論もある[5][19]。処士身分としての失業知識人が、ひとつには生活のため、ひとつには自分の才能と知識を発揮せんがため、牢人の境涯を脱するために禄仕を求めたことを、果たして誰が責めることができるだろうというのである[19]

森銑三『近世人物夜話』(1968年)には、吉田松陰が獄中で信淵の『経済要録』を読んだときの感想が紹介されている[3]。それによれば、「細見して大いに実得さり(中略)民事に在り最も闕(か)くべからずと為す」とあり、松陰は信淵を農学に関しては最先端をいく人と理解しているが、それでも広言空論とみた部分もあったようである[3]

一方では、奈良本辰也のように、信淵が平田派の影響を受けたことで「非科学的で形而上学的な点も多くある」としながらも、「かれの描いた国家像は明治維新を望見していたということは、かれがなみなみならぬ思想家であったことを証明している」として、高く評価する声がある[2]。また、農学で再評価されるべき点があり、干拓や埋め立てによる都市建設、自走火船などのアイディアも当時の日本人としては非凡で、とりわけ都市論などにおいては今後再検討されるべき要素を備えているという指摘がある[3]

主要著書

  • 『天柱記』
  • 『種樹園法』
  • 『物価余論簽書』
  • 『経済要録』
  • 『内洋経緯記』
  • 『天地鎔造化育論』
  • 『致富小記』
  • 『経済提要』
  • 『薩藩経緯記』(1830年) - 薩摩藩の重臣にあて藩内の開発、経営手法などを説いた[20]
  • 『農政教戒六箇条』
  • 『養蚕要記』
  • 『農政本論』
  • 『混同秘策』
  • 『垂統秘録』
  • 『草木六部耕種法』
  • 『復古法概言』(1845年)

電子書籍

  • 1876 『種樹園法』全3巻
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[1][2] [3]
  • 1876 『物価余論簽書』全2巻
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[4][5]
  • 1877 『経済要録』全7巻
  • 1880 『内洋経緯記』
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[13]
  • 1881 『天地鎔造化育論』全3巻
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[14][15][16]
  • 1881 『致富小記』
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[17]
  • 1882 『経済提要』全2巻
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[18][19]
  • 1883 『薩藩経緯記』
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[20]
  • 1885 『農政教戒六箇条』
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[21]
  • 1888 『養蚕要記』
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[22]
  • 1888 『混同秘策』
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[23]

注釈

  1. ^ この分類は、他に類をみないもので、信淵の独創である。
  2. ^ のちに大久保利通がこれを読んで東京奠都を建言、採用されることとなった。
  3. ^ 柳田守『森銑三』(1994)。当該森著は『森銑三著作集』第九巻に収録されている。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 『近世の秋田』(1991)pp.217-223
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 奈良本(1979)p.133
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 『秋田人名大事典 第2版』「佐藤信淵」(2000)p.284
  4. ^ 丸山(1952)p.290
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 折原裕「江戸期における重商主義論の展開 : 佐藤信淵と横井小楠」『敬愛大学研究論集』第44号、1993年9月、105-129頁、NAID 120006016093 
  6. ^ 荒川秀俊, 「佐藤信淵考案の自走火船 : ロケット推進船」『日本航空学会誌』 1963年 11巻 118号 p.364, 日本航空宇宙学会, doi:10.2322/jjsass1953.11.364, NAID 130003957436
  7. ^ 彌高神社「御祭神」
  8. ^ a b c d 逆井(1989)pp.76-79
  9. ^ 『秋田のお寺』「延命山寶泉寺」(1997)p.388
  10. ^ 賀川(1992)p.258
  11. ^ コトバンク「草木六部耕種法」
  12. ^ コトバンク「農政本論」
  13. ^ 桂島(1989)pp.74-75
  14. ^ a b コトバンク「経済要録」
  15. ^ a b コトバンク「垂統秘録」
  16. ^ a b c コトバンク「宇内混同秘策」
  17. ^ エルドリッヂ(2008)p.31
  18. ^ 谷沢永一『新しい歴史教科書の絶版を勧告する』(2001)p.189、ビジネス社
  19. ^ a b 塚谷(1997)pp.131-132
  20. ^ 佐藤宏之 著 中塚武 監修「第二章 近世種子島の気候変動と地域社会」『気候変動から読み直す日本史6 近世の列島を俯瞰する』p51 2020年11月30日 臨川書店 全国書誌番号:23471480


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