佐藤信淵 佐藤信淵の概要

佐藤信淵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/21 07:26 UTC 版)

 
佐藤信淵
(さとう のぶひろ)
佐藤信淵(1769-1850)
時代 江戸時代後期
生誕 明和6年6月15日
1769年7月18日
死没 嘉永3年1月6日
1850年2月17日
82歳
別名 百祐
元海
松庵
万松斎
融斎
椿園
出羽国久保田藩郷士 → 徳島藩盛岡藩
氏族 藤原氏
父母 実父:佐藤信季
笹岡氏
渡辺氏
4男2女
嫡子:佐藤信照
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生涯

佐藤信淵の先祖は、横手盆地に勢威を張った戦国大名小野寺氏に仕えていたが、民間にあって医業を生業としていたといい[1]、5代前の歓庵(信邦)以来、元庵(信栄)、不昧軒(信景)、玄明窩(信季)と4代にわたって農学鉱山学など実学研究にたずさわった一家であったという[1][2]

信淵は、久保田藩領の出羽国雄勝郡に明和6年(1769年)6月15日に生まれた[1][2]。生家には、「バカフジ」という花の咲かないの木があり、幼少期の信淵は「バカフジ屋敷のバカオジ」(この場合の「オジ」は「弟」という意味)と呼ばれる悪童であった[1]。しかし、文章の読み書きや武芸には優れていたという[1]

天明元年(1781年)、父の玄明窩信季が諸国遊歴の旅に出たのでこれに従い、蝦夷地(いまの北海道)で1年を過ごしたのち、東北地方各地を転々として実学を学び、家学を人びとに講じながら、さらに1年を経た[2]。なお、この旅は父信季が藩政批判の科で追われ避難するのに同行したものだともいわれている[3]。かれは、こののちも遊歴で各地を周るが、特に心を痛めたのは奥羽中国地方などの旅で見聞した農村の悲惨な間引きであったという[1][4]。天明4年(1784年)、日光を経て下野国足尾銅山をおとずれ、そこで父とともにの精錬やの開発などの技術指導にたずさわったが、父信季がここで客死、父は信淵に対し、決して故郷に帰らぬこと、江戸に出て学問修業をすることを遺言した[1][2][3]

江戸に出た信淵は、16歳(数え、以下同じ)で美作国津山藩藩医であった宇田川玄随に入門し、動物学植物学・医学・本草学など蘭学の諸学を学び、とくに木村泰蔵からは天文学地理学暦算測量術を学んだ[1][2]。天明5年(1785年)、師の玄随の帰藩にしたがって津山に赴き、藩政改革のために一書を藩主に献上して献策に成功、篤く遇された[2][3]。翌年には津山を去って西国遊歴の旅に出かけ、その足跡は薩摩国にまで及んでいる[2]寛政元年(1789年)、一時帰郷し、母の許を訪ねた[1]。なお、久保田藩からも財政立て直しの諮問を受けたが、巨船を建造して航路を開発して交易による富国を建言したが容れられなかった[3]

江戸に戻ってからは幅広く諸学、とくに兵学や対外政策について学び、また、上総国山辺郡大豆谷(まめざく)村(現千葉県東金市大豆谷)に潜居して農業に従事し、農学の各種調査実験観察をくり返した[1][5]

寛政4年(1792年)、25歳になった信淵は、再び江戸に出て京橋柳町で医業を始めた[5]。翌年には結婚、さらに次の年には母を江戸に呼び寄せた信淵であったが、生活は必ずしも楽ではなかったようである[5]。母の死去後は大豆谷に引きこもり、医業のかたわら、農業を営んだといわれる[5]

文化4年(1807年)、39歳のとき、知り合いであった徳島藩蜂須賀氏の家臣に同行して阿波国に出向き、兵学顧問のような役に就き、海防についておおいに献策した[5]。この頃に書かれた『鉄砲窮理論』では火薬を用いて走る「自走火船」[6](ロケット推進船・軍艦)を発案したことにより、一気に名声が上り、その門に集まる人が増えたといわれる[7]。阿波国で暮らしたのは2年足らずで、江戸京橋柳町に戻り、そののち大豆谷村に引きこもって著述の生活に入った[2][5]

野心家であった信淵は、実際には牢人の身であり、それゆえ仕官を強く望んでいたが、なかなかその望みはかなえられなかった[5]。好奇心の強い信淵は、多種多様な知識を誇ってはいたが、どの分野の知識も専門家と呼ぶには中途半端であり、本業であるはずの医学に関してもみるべき著作はなく、また、信淵が称するところの佐藤家の家学(天文[要曖昧さ回避]地理鉱山土木兵学など)も個別にみるならば先人の説の受け売りという水準を大きく越えるものではない[5]。しかし、反面では実に幅広く各分野の諸知識を吸収・消化して自らのものにしていったことも確かであり、こうした知識の幅がときに時代の潮流や転換点を鋭敏につかみとらせる原因になっているように思われる。

45歳のころ、信淵は再び江戸に移り、幕府神道方の吉川源十郎に入門して神道を学び、文化10年(1813年)には47歳にして平田篤胤気吹舎に入門して国学を学んでいる[2][5]。この平田国学との出会いが信淵の学問に国粋主義的性格を色濃くもたせることとなった[5]

文化11年(1814年)、神道問題で罪を負い、江戸所払いとなったが、なおも平田塾などに往来して禁を破ったため、天保3年(1832年)には江戸十里四方お構いとなり、武蔵国鹿手袋村(現埼玉県さいたま市南区)に蟄居した[2]。しかし、この間、文政年間には大豆谷で『宇内混同秘策』『天柱記』『経済要録』を著し、鹿手袋では、天保年間に『農政本論』『内洋経緯記』を著しており、その声望はおおいに高まって宇和島藩薩摩藩からは出入りを許されている[2]。ただし、基本的には牢人身分であったところから、生活は困窮していたものと思われる[5]

天保10年(1839年)には親交のあった渡辺崋山高野長英小関三英とともに蛮社の獄連座したものの、わずかに罪を免れている[2]。翌天保11年(1840年)、綾部藩の藩主九鬼隆都に招かれて勧農策を講じた[2]。やがて、かれの学識は老中首座であった水野忠邦の買うところとなり、その罪も許されて、忠邦の諮問に応ずるために『復古法概言』を著した(弘化2年(1845年)刊行)[2]。信淵は幕府専売制ともいうべき「復古法」を実施し、流通を幕府の手によって直接統制し、流通過程への徴税による富国策を提示したが、忠邦の失脚によって実現しなかった[2][8]。信淵はまた、全国各地のに招かれて、政治、経済、産業等さまざまな分野にわたって講演している[1]

信淵は、「自分の学説は今の世に認められなくても、後世すぐれた君主があらわれれば必ずやわが家学をもって天下を一新することになるだろう」と述べ、生涯にわたって著述をつづけたが、嘉永3年(1850年)正月6日、病によって江戸で永眠した[1]。82歳。墓は浅草松応寺(現在は杉並区高円寺南2-29に移転)。故郷の西馬音内の宝泉寺東郷平八郎揮毫の「佐藤五代碑」がある[3][9]

親族

夫人は初め笹原氏。のちの渡辺氏は4男2女を産んだ[3]。嫡男は佐藤信照(昇庵)である[3]


注釈

  1. ^ この分類は、他に類をみないもので、信淵の独創である。
  2. ^ のちに大久保利通がこれを読んで東京奠都を建言、採用されることとなった。
  3. ^ 柳田守『森銑三』(1994)。当該森著は『森銑三著作集』第九巻に収録されている。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 『近世の秋田』(1991)pp.217-223
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 奈良本(1979)p.133
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 『秋田人名大事典 第2版』「佐藤信淵」(2000)p.284
  4. ^ 丸山(1952)p.290
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 折原裕「江戸期における重商主義論の展開 : 佐藤信淵と横井小楠」『敬愛大学研究論集』第44号、1993年9月、105-129頁、NAID 120006016093 
  6. ^ 荒川秀俊, 「佐藤信淵考案の自走火船 : ロケット推進船」『日本航空学会誌』 1963年 11巻 118号 p.364, 日本航空宇宙学会, doi:10.2322/jjsass1953.11.364, NAID 130003957436
  7. ^ 彌高神社「御祭神」
  8. ^ a b c d 逆井(1989)pp.76-79
  9. ^ 『秋田のお寺』「延命山寶泉寺」(1997)p.388
  10. ^ 賀川(1992)p.258
  11. ^ コトバンク「草木六部耕種法」
  12. ^ コトバンク「農政本論」
  13. ^ 桂島(1989)pp.74-75
  14. ^ a b コトバンク「経済要録」
  15. ^ a b コトバンク「垂統秘録」
  16. ^ a b c コトバンク「宇内混同秘策」
  17. ^ エルドリッヂ(2008)p.31
  18. ^ 谷沢永一『新しい歴史教科書の絶版を勧告する』(2001)p.189、ビジネス社
  19. ^ a b 塚谷(1997)pp.131-132
  20. ^ 佐藤宏之 著 中塚武 監修「第二章 近世種子島の気候変動と地域社会」『気候変動から読み直す日本史6 近世の列島を俯瞰する』p51 2020年11月30日 臨川書店 全国書誌番号:23471480


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