米国の関与
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「ハイチの進歩と発展のための戦線」の記事における「米国の関与」の解説
1992年の大統領選挙でビル・クリントン候補はハイチに民主主義を再建すると公約した。彼は1993年に就任するとフロリダへの難民問題に取り組み始めた。クリントンはFRAPHと軍事政権を「武装した凶悪犯」以外の何者でもないと非難し、多国籍軍と協力して1,500人の部隊を派遣し、ジミー・カーター、サム・ナン、コリン・パウエルなどのハイレベルの外交団を送り、軍事政権に圧力をかけて国際的な制裁と圧力が結果を生まなかった後の1994年8月にアリスティドを政権に戻した。米軍と国連平和維持軍の駐留で平静と治安が回復されたが、調査したリサ・A・マクガワンは解散された軍や準軍組織の武装解除を米軍や多国籍軍が拒絶したのでそれもなし崩しになったと非難した。 [USAID]はハイチの司法システムを強化するための技術的支援に資金援助しているが、米国はハイチ政府の求める米国で収監されているFRAPH指導者コンスタンの殺人罪での引渡しを拒否している。その代わり米司法省は彼を釈放した。それどころかクリントン政権はハイチ政府にFRAPH幹部から押収された文書の検閲していない写しを提供することを拒んだ。それらの文書にはCIAなどがハイチの準軍組織と協力してきたことを証拠付けるものが含まれる疑いが強い。例えば、ある得られた文書は、CIAがコンスタンが1993年の法務相ギ・マラリの殺人に直接関与したのを知っていながら、1994年のアリスティドの復帰までその従業員であり続けたことを明らかにした。 その後、米国政府が実際にFRAPHの創設と資金提供において重要な役割を演じたことが明白になった。調査報道家のアラン・ナイアンは1994年に『ザ・ネーション』誌にその記事を発表した。ナイアンは軍、準軍組織、情報機関、グリンベレー隊員への聴き取り、米国とハイチ軍の内部文書などをその「発見」の根拠とした。ナイアンは送還要請の前にメリーランドでコンスタンとも直接会って話を聴いている。コンスタンによればFRAPHとなるグループは米国防情報局に促されてつくった。そして1994年9月に米軍が占領すると「破壊活動」に対抗するために「我々の組織の他の者もDIAと一緒に活動した」。ナイアンが顔を合わせて会合を持ったと主張したことについてDIAに確認を求めたところ、コンスタントの接触を否定した。その説明を求めるとコンスタンはそれ以上話さなくなった。 コンスタンは1995年にCBSの『60 Minutes』に出演し、CIAが彼に月700$支払い、CIAとの関係のもとでFRAPHを結成したことを認めた。コンスタンによればFRAPHは「CIAとDIAの援助と資金により」創設された。(Miami New Times, 26 February 2004) 1996年2月ニューヨークに本部を置く米国の憲法上の権利センターは米国がFRAPHの残虐行為を知りながら公式には否定していたことを示す公文書が機密解除とされたものを手に入れたと発表した。CCRの弁護士のマイケル・ラトナーは米国政府職員の態度を評して、 彼らは2枚舌で話す。このクーデターの間に、一方でハイチに民主主義を再建すると言い、もう一方でハイチの人々にテロ活動を行ったグループを支援してハイチの民主主義を台無しにした。 ラトナーによれば、アリスティドの左派ポピュリズムへの米国の疑念がより残虐な反アリスティド分子への支援を刺激した。ラトナーやナイアン、リサ・マクガワンのような観測者は、FRAPHのような反民主的な部隊への陰の援助が、アリステッドを復帰させる際にアリスティドの社会的な改革のための野心的なプログラムを断念させ、無情な経済改革を採用させる圧力に使われたと主張する。 ニューヨークに本部を置く「ハイチ人の権利のための国民連合」の顧問のビル・オネイルによれば、CIAとペンタゴンの支援は早いうちに「数ヶ月か数週間で[米国の支援]は大半が放棄された」と考える。しかしながら、オネイルは米国がコンスタンが逮捕される1995年まで完全にFRAPHとの関係を断ち切るのを渋っていたということに関しては高位の人物が隠れることを許すためだろうとの考えを表明した。
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米国の関与
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米国は第二次世界大戦中から蔣介石政権崩壊と共産主義拡大を防止する対策を行った。日本の降伏とともにアメリカは、抗日戦末期の時点で既に弱体化の著しかった国民党軍に大量の援助を行い、これによって新たに39個師団に武装・訓練を施した。また、アメリカ船をもって在中国日本人の本国送還を急ぎ、空路・海路から約40万の国民党軍兵士とアメリカ海兵隊5万人を華北に派遣・上陸させて北京、天津など重要都市を占領、かつ国民党軍に代わってアメリカ軍自ら華北の炭坑、鉄道等を接収した(ブリーガー作戦(英語版))。 こうしたアメリカ軍による北上作戦援助は、公式には日本軍勢力一掃による中国の急速な主権回復のためと理由づけられていたが、アメリカの目的はそれだけではなく、華北の主要都市および輸送・産業上の戦略拠点が中共軍の手に落ちないよう先手を打ち、さらに国民党の東北(旧満州)支配の足場をいち早く固めることにあった。 アメリカは、戦後の東アジアの政治地図として、日本が再び台頭してくるのを抑えるためにも、中国になんらかの形で民主的な政権が生まれ、それが東アジアの安定勢力になることを期待していた。本国政府や中国駐留アメリカ軍の間で、多少の意見の相違はあったものの、「国民党のリーダーシップのもとに中国の統一を図る」、「国民党をできるだけ支援するが、共産党との対立が内戦に発展することは極力回避する」、「アメリカが中国の内戦に地上軍を派遣したりすることはしない」とする点では大筋大体一致していた。中国駐留のアメリカ軍総司令官・アルバート・ウェデマイヤー中将の次の会見談話は、なぜアメリカ軍が中国に駐留し続けるのか、中国の内戦にどういう関与をするのか、という連合国の記者の質問に答えたものであるが、アメリカの大体の姿勢が窺える。「米軍は中国における内戦に捲き込まれないだろう。しかし米陸軍省からの指令で、米国人の生命財産を保護するために軍隊を使用する必要があり、余の麾下司令官にはその旨指令してある。米軍が中国の内戦に参加し、中共軍に対し攻撃を加えているといった向きもあるようだが、これまで米軍がかかる侵略的行為に出たことはないことを断言する。余はこれまで個人的に国共が妥協するよう極力努めてきたし、部下にも中国の政争や陰謀画策に参加しないよう命令していた。」 ビルマ戦線の司令官衛立煌は国共内戦に反対し、共産党との問題は政治交渉により解決すべきと主張していた。傅作義は国共内戦に内心反対であった。商震も李済深も国共内戦に反対していた。 トルーマン政権のアジア政策も対中政策を最も重要視し、国共内戦の調停を成立させることによって中国の「大国化」を達成しようとした。したがって、トルーマン政権の対中政策は、「ルーズベルトの戦後構想」を基調とするものとして始まったといえる。12月15日、対中戦後政策に関する包括的な公式声明を発した。この声明は⑴中国共産党を含めた国民党主導下の統一政府樹立、⑵共産党軍の国民党軍への編入、⑶安定政権の基礎づくりのため、土地改革をはじめとする社会改革への着手の諸点を要求し、さらに⑷以上が実行されない場合、アメリカは対中援助の拒否権を使用することを宣明した。マーシャルが重慶に到着したころ、在華米軍兵力は11万を超えるピークに達していた。こうしてアメリカは、国民党軍に莫大な支援を集中して共産党側を圧倒しつつ、他方でアメリカのさらなる国家資本援助を報償として提示して国民党の譲歩をせまることによって国共両党を統一交渉のテーブルにつかせようとしたのである。アメリカ政府が統一新政府に中共の参加を要求した背景には、激しい経済混乱とみずからの腐敗を一掃しえずにいる現状のままの国民党では全土の統一は望みえず、かつ共産党を排除するとすでに東北を占領しているソ連の共産党援助を誘発し、その結果国共の主導権争いが米ソ代理戦争の様相を呈して泥沼化するのではないかという恐れがあった。 共産党軍の戦闘力の強さを誰よりもよく認識していたアメリカは調停に乗り出し、腐敗した国民党軍の崩壊を恐れ、蔣介石に大量の軍事援助を与えつつ、国民党軍が強化されるまで衝突を先にのばそうとしたのであり、1946年1月にジョージ・マーシャルを派遣した。マーシャルは、国民党が軍事手段で共産党を圧迫しようとすれば、国民政府の崩壊をもって終り、中国に共産党の支配をもたらすであろうと見ていた。そこで、彼は共産党を含めた連立政府を樹立し、双方の軍隊を国民軍に統一するという計画を持って乗り込んできたのである。マーシャル使節団は、国民党と共産党の和解のためにひたすら奔走した。共産党を少数派として政府に参加させることで、彼らを認め彼らの敵対性を除去することを考えた。国民党代表・張群、共産党代表・周恩来とアメリカ代表・マーシャルによる軍事調処執行部(中国語版)(三人委員会)が成立し、1月10日には「国共停戦協定」が調印された。2月25日の基本法案によると、陸海空三軍の最高統帥者が中華民国国民政府主席(蔣介石)であることを再確認した上で、一年以内にその陸上兵力を国民党軍90個師団、共産党軍18個師団に削減し、更にその半年後にはそれぞれ50個師団と10個師団にまで縮小することが取り決めされていた。多くの人から期待された。マーシャルは、中国国民から「平和の使徒」としてもてはやされた。同年1月、協定に基づき、政治協商会議(党派間の協議機関)が重慶で開催された。各党派の代表構成は、国民党が8、共産党が7、その他の政党・無党派が23であった。この会議では憲法改正案・政府組織案・国民大会案・平和建国綱領などが採択され、国民政府委員会(政府最高機関)の委員の半数が国民党以外に割りあてられるなど、国民党は共産党を初めとする諸党派に対して一定の譲歩を示した。 しかし、3月の党大会において国民党は共産党が提唱する「民主連合政府」の拒否と国民党の指導権の強化を決議し、国共両軍の衝突はやまなかった。同年3月5日にはチャーチルが「鉄のカーテン演説」を行い、冷戦構造が固まって行く。また6月にアメリカは国民党政府に向けて対中軍事援助法案を採択した。1946年6月28日、ディーン・アチソン国務次官は記者招待会の席上、アメリカの対中政策について演説し、アメリカの対中援助に関するさまざな行為は「破壊的な長期間にわたる日本との戦争による影響を除去するため、一国家としての中国を援助するというこれまでに確認された計画」を完遂するためであって、これが目標とするところは中国の統ーでありアメリカ政府としては「中国共産党を含むすべての重要な政党の十分かつ公平な代表からなる政府によってこうしたアメリカの援助が実行に移されることを特に希望する」のであり、「中国の各政党聞において統一政府を成立させるという協定が実現されない限り、アメリカ政府は対中援助を行うことはできない」と強調した。 中国共産党はこれに対して1946年6月22日に「アメリカの蔣介石に対する軍事援助に反対する声明」を提出し、アメリカの援助はいまや明らかに中国内政への武装干渉であり、中国を引き続き内戦・分裂・混乱・恐怖・貧困に陥れていると指摘し、アメリカに対して「一切の軍事援助の即時停止、中国におけるアメリカ軍の即時撤退」を要求した。マーシャル将軍は、中国への武器弾薬の輸出禁止措置をとった。8月10日にはトルーマンが蔣介石にその行動を非難するメッセージを送っている。マーシャルは当時トルーマン大統領に、国共間の調停が絶望的であること、その多くの責任は蔣介石にあるとして非難している。またトルーマン大統領自身も、国民党への不満を後に表明している。1946年8月31日にトルーマンは再度、国共聞の政治的解決こそが中国の再建という大事業を可能にさせるのであり、「中国全土に広がる内戦の危機の脅威を速やかに除去することができるならばアメリカは中国の工業および農業改革の復興を援助する計画を実行に移すことになろう」と警告を発したがそれもなんら効力を発揮することなし国民党の軍事攻勢は続けられた。1946年12月18日、トルーマン大統領は「対中政策」を発表し、アメリカは「中国の内戦に巻き込まれることを避けつつ、中国国民が中国に平和と経済復興をもたらすのを援助する」だけであるとしてマーシャル将軍の召喚と中国内戦からのアメリカの撤退を表明する。アチソンによれば「中国で内戦が再開されたならば国民政府とは関係を維持しつつ、合衆国兵力を中国から撤収し、物質的援助を停止することを考慮する」とし、「もしソ連が中国共産党を支持することになった場合には合衆国は政策を大幅に再検討することが必要になろう」というものであった。 つまり、マーシャル・プランのような中国の工業および農業改革の復興を援助する計画は、内戦を行ったことで破綻となったのである。またアメリカ軍を撤退させたことにより、後に共産化を招くこととなり、国民政府が台湾への遷都後に米華相互防衛条約の締結・在台米軍(中国語版)の駐留などアメリカの庇護を受けることになる。
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