南スーダン内部での派閥抗争とは? わかりやすく解説

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南スーダン内部での派閥抗争(2013年~)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 02:40 UTC 版)

日本と南スーダンの関係」の記事における「南スーダン内部での派閥抗争(2013年~)」の解説

南北対立終息は、南スーダンの平和の到来意味しなかった。今度は、北部スーダン)という共通の敵失った南部南スーダン)内で派閥抗争が始まることになる。 2013年7月23日独立時から初代大統領務めていたキール大統領は、南スーダン独立功労者である与党スーダン人民解放運動SPLM)の主要幹部一斉に解任する内閣改造行った独立時から初代副大統領務めていたリエック・マチャルも、この内改造解任され閣僚のうちの一人であった同年12月14日首都ジュバにおいてスーダン人民解放軍一部大統領警護隊衝突し部族対立相俟って死者500あまりもの流血惨事となったキール大統領は、この武力衝突をマチャル元副大統領首謀とするクーデターであると断定して閣僚を含む関係者逮捕。これにより、キール大統領首都ジュバ掌握することに成功した2015年3月赤松武南スーダン大使離任同年4月27日紀谷昌彦二代目大使として着任首都では一応の安定見たが、地方各地ではその後もマチャル元副大統領担いだ反乱が相次ぎキール大統領国際社会協力なしに武力紛争停止させることができなかった。 2015年8月国際社会調停の下で「南スーダンにおける衝突の解決に関する合意文書」が両関当事者によって署名されたことにより、南スーダン内部での派閥抗争は一旦、停止した2016年4月キール大統領対立関係にあったマチャル元副大統領第一副大統領就任させるという懐柔策取り南スーダン派閥対立解消復興へと向かうかと思われていた。 ところが、この懐柔策結果として派閥抗争解消には資さなかった。同年7月キール大統領派の正規軍とマチャル第一副大統領派の武装勢力との間で銃撃戦を伴う衝突発生し南スーダンは再び内戦状態へと逆戻りした。この武力衝突スーダン駐在していた外国人にも決し無関係ではなく国連平和維持活動参加していた中国人隊員2名(李磊楊樹朋)が殺害され、5名が重軽傷負ったまた、バングラデシュ宿営地攻撃受けており、隊員砲撃音から攻撃位置特定して単発式の銃で計44発ほど応射同宿営地では隊舎の一部壊れたほか監視所や車両の窓なども破損した国際協力機構JICA)の関係者在留邦人47人が退避し日本大使館員のうち4名も自衛隊C130搭乗して自衛隊駐屯している近隣国のジブチへと避難した南スーダン踏み止まった紀谷大使を含む日本大使館員も、ジュバ大使館では身の安全を図れないと判断して陸上自衛隊宿営地駆け込み戦闘状態が終息するまで同宿営地で宿泊続けた同月25日、マチャルは第一副大統領解任された。その後戦闘状態が沈静化して紀谷大使日本大使館員もジュバ大使館戻ったが、キール大統領派とマチャル元第一副大統領派の派閥抗争が完全には解消しないまま現在に至っている。 同年12月23日南スーダンに対して武器禁輸などの制裁科す国連安保理決議案票決が行われたが、常任理事国中国ロシア加えて非常任理事国日本アンゴラエジプトセネガルベネズエラマレーシアの計8ヶ国が棄権回り廃案となった。同決議案主導したのはオバマ政権アメリカであったが、安倍政権日本は、間もなく任期終了迎えオバマ政権意向よりも、南スーダン統治するキール大統領との関係維持優先したことになる。後日交渉担当者岡村善文国連次席大使朝日新聞取材に応じて現地自国部隊の派遣すらしていないオバマ政権アメリカの姿勢指摘した上で日本南スーダン自衛隊部隊送って汗をかいているが、米国の関与口先だけだ」と痛烈に批判し武器禁輸だけに限定せず南スーダン政府高官資産凍結などの余分な付帯事項含まれている制裁決議案を評して悪者懲罰すれば正義訪れるというカウボーイ発想に過ぎる」と一蹴あくまでも南スーダン政府進め国家建設支援することが必要である旨を強調した2017年3月10日これまで南スーダン国際貢献活動従事していた自衛隊施設部隊来たる5月末を目途撤退させるとの方針が、日本政府により正式に発表された。5月27日隊長田中仁朗1佐を筆頭とする南スーダン派遣施設隊第11次要員全員無事に帰国5年強に及ぶ活動期間陸自施設部隊の海外活動として過去最長となった同日16時青森駐屯地若宮健嗣防衛副大臣らが列席する任務完了報告式が開かれ田中1佐は「全隊員は異常な任務完了しました」と報告し、これに応えて若宮防衛副大臣は「最長最大規模となるPKO活動最後締めくくった皆さんには、国際平和協力歴史新たな一歩切り開いたことを誇り思ってほしい」と訓示し、情勢不安の中で国際貢献活動従事した隊員ねぎらった。¥

※この「南スーダン内部での派閥抗争(2013年~)」の解説は、「日本と南スーダンの関係」の解説の一部です。
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