第一次世界大戦~第二次世界大戦
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「大砲」の記事における「第一次世界大戦~第二次世界大戦」の解説
第一次世界大戦の犠牲者の七割は大砲によるものだった。第一次大戦では塹壕戦が中心であり、その前方に築かれた鉄条網や機関銃により従来の戦法(生身の兵士による突撃)の効果は薄くなっていった。大砲はそれらの防御陣地を遠距離から破壊することが可能だったため、戦術的な価値はより認められるようになったが、これには攻撃目標が敵に伝わってしまうという欠点があった。 戦闘では継続的な敵への攻撃が必要だったため、短期間で相手以上に多くの損害を与えられる巨大な火砲が必要とされた。そのニーズに伴い大砲の口径も巨大化を続け、その代表としてはより高く鋭い位置角度から敵地に砲弾を落とすことができた榴弾砲などが挙げられる。大砲の威力が増すと共に兵士たちへの精神的負担も増加したが、これをイギリスの人々は戦闘ストレス反応(シェルショック=砲弾によるショック)という言葉で表した。激しい砲撃で大きい心理的ダメージを受けたのが原因であり、シェルショックはその体験の現れだった。 速射砲が用いられたのはこの頃であり、M1897 75mm野砲、18ポンド野砲、77mm野砲などが開発された。特にM1897 75mm野砲のデザインは、それ以降の一部の大砲にも引き継がれている。 また当時、特に重要な箇所ではコンクリート製の地下に居住区を持つ要塞が作られ、遠距離からの砲撃ではそれを破壊することができなかった。そのため近距離まで肉薄し攻略する必要が生まれたが、主力部隊を前進させるには同士討ちを避けるため砲撃を停止させなくてはならず、それは敵側としても「相手の主力が今から侵攻してくる」という合図になった。守備兵は位置につくと接近する敵を機関銃や砲で倒すということを繰り返し、その度に攻撃側は多大な犠牲を積み上げることになった。その対抗策として装甲で守られた砲座や機銃座そのものを車両化して前進させ、守備側の迎撃に耐えつつ銃座や砲座を近距離から狙い撃ちして無力化させるアイデアを各国は具現化した。戦車の誕生である。 第二次世界大戦でも基本的には同様の戦法が使われた。太平洋戦争における米軍の「鉄の嵐」と言われる苛烈な砲撃はその一例といえる。前述した通り第一次大戦式の長い砲撃では事前に攻撃地点が敵に伝わってしまうという欠点があり、それを回避するため攻撃地点に火力を集中させ、短時間で多数の砲弾を送り込むように戦術は変化していった。ここで重要視されたのは「火力の集中」であり、それは大砲の高火力化のみならず、機動力の獲得も必要としたのである。これにより大砲には車輪が取り付けられ、より高速な陣地転換を可能にした。これには第一次大戦時のフランスの大砲をベースに米軍が開発した155mmカノン砲M2などがあり、これらは牽引砲と呼称される。 これらの兵器は「常に変わっていく戦況の中でどの様に対応していくのか」という問題に直面した。牽引砲はその名の通り牽引車で運ばれていた。その際車輪が付けられているものは戦場での移動を簡単なものにしたが、目まぐるしく変わる戦況の中に牽引による移動では限界があり、第二次大戦当初のドイツなど馬で大砲を引いていたものに関してはより一層致命的な問題であった。その解決策として大砲に車体・エンジンを搭載し、牽引を必要とせず独力で移動できるようにした自走砲が開発されたが、こういった大砲は戦車への随伴を可能にし、機動戦に対する適応力を向上させた。代表的な第二次大戦期の自走砲としては米国のM7自走砲(プリースト)や英国のセクストン自走砲などがあり、その自走砲は第一次大戦の頃には少数ながら登場していた。 また移動においても陸上を進むだけではなく、空を行くことも可能になった。大砲は空輸が可能となり、敵地に乗り込む空挺部隊で運用されるようになった。1944年のノルマンディー上陸作戦やマーケットガーデン作戦を通して、連合軍の空挺部隊は敵陣へと空から降り立った。輸送機で空挺部隊を空へ運ぶことが出来るのだから、大砲も輸送機で運べる大きさにすれば良いという発案のもと、必要な場所に直接送る方法を採用した。6ポンド砲、17ポンド砲、40mm対空機関砲、更に75mm榴弾砲も送った。これらの大砲は敵地で孤立している空挺部隊にとって心強い味方となった。敵に囲まれた空挺部隊の為、あらゆる種類の大砲が必要な場所に送られた。また、少数だが航空機に大砲を装着するようになった。大砲の重量や反動に耐えうる、かつ照準のための機動性を確保しうるB-25や四式重爆撃機(キ109)のような中型爆撃機クラスが選ばれることが多かったが、比較的軽量の攻撃機であるHs 129に75mm対戦車砲を搭載した例もある。 艦砲は海での戦いを制するために発達してきた。第二次大戦までに海に浮かぶ火力として戦艦や巡洋艦など[戦闘艦]の火砲が数々の砲弾を発射し、熾烈な砲撃戦を繰り返していた。海における戦闘は自身・標的共にに動き続けており、何もない海洋であるがために位置関係が把握しづらいなど、複雑な問題を抱えており陸での砲撃とはあらゆる面で異なっていた。戦闘艦に巨大な大砲が取り付けられるようになったのは第一次大戦の時期からであり、遥か遠方の敵を見定めるため海兵たちは高性能の測定器や観測用の航空機を使用した。高いな破壊力をもつ艦砲は戦いの行方を十分左右しえるものであり、大和型戦艦の象徴でもある45口径46cm3連装砲は、専用の運搬船「樫野」を建造するほど巨大なものとなった。アイオワ級戦艦のニュージャージーは、第二次大戦期の有名な戦艦の一つである。 一方陸でも戦闘艦と同様に巨大な大砲が開発された。第一次世界大戦ではより大きな火砲を使えば膠着状態を打破できるという思想のもと鉄道を利用した巨大な列車砲が設計されたが、ドイツ軍が作った当時最大の長距離砲「パリ砲」の効果はさほどではなく、それよりかはむしろ「恐怖の象徴」ともいうべきものだった。第二次世界大戦でも巨砲は進化を続け、ヒトラーとその側近たちは政治的宣伝効果を重視して巨大な火砲を追求していった。その極限がクルップK5 80cm列車砲(名称:ドーラ/グスタフ)であり、史上最大にして最後の列車砲となった。
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第一次世界大戦・第二次世界大戦
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「戦闘用ヘルメット」の記事における「第一次世界大戦・第二次世界大戦」の解説
第一次世界大戦時にドイツ軍は皮革製のピッケルハウベと呼ばれるヘルメットを兵士に支給していたが、頭部のスパイクが非常に目立っていた。これは、特に塹壕線において、榴弾や手榴弾の破片等の飛散物を阻止することが出来なかったため、後継としてシュタールヘルムと呼ばれる鋼鉄製ヘルメットを採用した。同様に第一次世界大戦を機に多くの国では、銃器の発達で伝統的な飾りに近い存在になっていたヘルメットが、実用的なヘルメットへと更新されるようになり、イギリス軍では、特に上空からの榴弾の破片防護を重視した浅く広い皿型のブロディヘルメットが用いられた。フランス軍でも丸くつばが付いたアドリアンヘルメットが採用された。日本軍では1920年代に欧米のものを参考に、サクラヘルメット(頭頂部の換気穴を覆う金具の形状にちなみ、後世に付けられた俗称)など様々な試作品を経て、満州事変前後の1931年に九〇式鉄兜(のち鉄帽に改称)を、中帽となる戦闘帽(略帽)と共に採用した。中帽とヘルメット本体(外帽)を独立させる事で、制帽を携行品から省略できる効果の他、後のM1ヘルメットを例に取ると外帽を洗面器、バケツ、椅子、果ては調理鍋代わりに使用する等の用途の多様化という利点も生まれた。 第一次から第二次の世界大戦の戦間期に、戦闘用ヘルメットはその材質面に於いて一つの変化が生じた。第二次世界大戦以前の戦闘用ヘルメットはニッケルクロム鋼などの強度の高い鋼を焼き入れして硬度を増した素材を採用しており、日本の九〇式鉄帽も欧米に倣って、素材の強度で衝突する飛散物を破砕して弾き返す目的でこのような焼入鋼を用いていた。焼入鋼の戦闘用ヘルメットは材質が高価な反面、銃床や円匙といった鈍器による打撃などの衝撃に際しても変形しづらく、帽体を薄く軽量に制作しても手榴弾や砲弾の破片程度であれば十分な防御力を発揮できる為、可搬性や生産時の鉄材節約の面でも優位性があった。反面、このような素材は帽体の強度限界を超えた衝撃が加わると、ほとんど変形を起こす事無く貫徹されてしまうという欠点も存在した。元より小銃弾の直撃を想定していなかった九〇式鉄帽の場合、7.7mm級の小銃弾の直撃には1000mからでも貫徹されてしまう為、日中戦争勃発後の1939年には帽体の厚さを倍に増して小銃弾の直撃への抗堪性を高めた九八式鉄帽を採用する事となったが、重量も九〇式の倍近いものとなった為、配備は十分な補給下で陣地攻撃を企図する前線部隊に限られ、多くの日本兵は終戦まで九〇式を用い続けた。 第二次世界大戦時には、アメリカ軍においてM1ヘルメットが開発された。1940年に採用されたM1ヘルメットはそれまでの戦闘用ヘルメットとは素材や防御の概念が異なり、素材には焼入鋼ではなくブルドーザーのバケットなどに一般的に用いられる高マンガン鋼が採用された。高マンガン鋼はニッケルクロム鋼に比較して入手性に富み安価な反面硬度は低いため、衝撃に対して比較的変形しやすく、帽体も大きく重くなりやすい。しかし、焼入鋼と異なり靱性が高いために強い衝撃を受けた際にも大きな変形を起こすのみで、装着者の頭部に致死的な損傷をもたらす貫徹を起こす可能性は低い。M1ヘルメットはこうした素材の長所を生かして、比較的大きな帽体の内側にプラスチック製のライナー(中帽)を被る二重構造とする事で、帽体が変形する事で小銃弾の直撃などの強い衝撃を受け止める設計思想となっている。ライナーを被る前提とする事により、大きな帽体であっても頭部への装着性が増し、頭部と帽体の間の隙間が確保される事で大きな変形を起こした際の安全性も増し、結果として耐衝撃性も増加する事となった。 日本の自衛隊でもライナーと併せて66式鉄帽として国産される事となったが、64式7.62mm小銃の開発者の一人である伊藤眞吉によると、66式鉄帽の帽体は「試験弾丸が命中した際に穿孔してはいけないが、1-1/2インチ(約38ミリ)以下の凹みで弾丸を受け止めればよい」、ライナーにおいては「着弾による亀裂は生じて良いが、衝撃で破片が飛散してはならない」事が性能要求に科されたという。高速で飛散する破片は樹脂といえども頭部に大きな損傷を与えうる為である。
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第一次世界大戦・第二次世界大戦
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「ドボイ」の記事における「第一次世界大戦・第二次世界大戦」の解説
20世紀に起こった第一次世界大戦時、ドボイには最大のオーストリア=ハンガリー帝国によるセルビア人の強制収容所が置かれていた。公式の記録によれば1915年12月27日から1917年7月5日までで、兵士や女性や子供を含む合計45,791人が収容された。ノーベル文学賞受賞の作家であるイヴォ・アンドリッチも一時、収容所に投獄されていた。 第二次世界大戦時には、パルチザン抵抗運動の拠点であった。1941年8月に最初の蜂起が起こり戦争が終わるまでの期間、占領軍への抵抗運動が続けられボスニア・ヘルツェゴビナでは最初に成功している。この期間、ナチスの傀儡政権であるウスタシャによってパルチザンを支持する、セルビア人やムスリム、ユダヤ人、ロマなどは含む市民は強制収容所に送られたり処刑された。公の記録では291名の様々な民族の市民がヤセノヴァツの強制収容所に送られ死んでいる。2010年にドボイ近郊で2つの穴から殺された23人のパルチザンの遺体が発見されている。 NGOはパルチザンが殺された疑いが残っている穴を発見している。ドボイは1945年4月17日に解放された。
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