第一次世界大戦第二次世界大戦とは? わかりやすく解説

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第一次世界大戦~第二次世界大戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 18:03 UTC 版)

大砲」の記事における「第一次世界大戦~第二次世界大戦」の解説

第一次世界大戦の犠牲者の七割は大砲よるものだった。第一次大戦では塹壕戦中心であり、その前方築かれ鉄条網機関銃により従来戦法(生身兵士による突撃)の効果薄くなっていった大砲はそれらの防御陣地遠距離から破壊することが可能だったため、戦術的な価値はより認められるようになったが、これには攻撃目標が敵に伝わってしまうという欠点があった。 戦闘では継続的な敵への攻撃必要だったため、短期間相手以上に多く損害与えられる巨大な火砲が必要とされた。そのニーズに伴い大砲口径巨大化続け、その代表としてより高く鋭い位置角度から敵地砲弾を落とすことができた榴弾砲などが挙げられる大砲威力が増すと共に兵士たちへの精神的負担増加したが、これをイギリスの人々戦闘ストレス反応シェルショック砲弾によるショック)という言葉表した激し砲撃大き心理的ダメージ受けたのが原因であり、シェルショックはその体験現れだった。 速射砲用いられたのはこの頃であり、M1897 75mm野砲18ポンド野砲、77mm野砲などが開発された。特にM1897 75mm野砲デザインは、それ以降一部大砲にも引き継がれている。 また当時、特に重要な箇所ではコンクリート製の地下居住区を持つ要塞作られ遠距離から砲撃ではそれを破壊することができなかった。そのため近距離まで肉薄し攻略する必要が生まれたが、主力部隊前進させるには同士討ち避けるため砲撃停止させなくてはならず、それは敵側としても「相手主力が今から侵攻してくる」という合図になった守備兵位置につくと接近する敵を機関銃や砲で倒すということ繰り返しその度攻撃側多大な犠牲積み上げることになった。その対抗策として装甲守られ砲座機銃そのもの車両化して前進させ、守備側迎撃に耐えつつ銃座砲座近距離から狙い撃ちして無力化させるアイデア各国具現化した。戦車誕生である。 第二次世界大戦でも基本的に同様の戦法使われた。太平洋戦争における米軍の「の嵐」と言われる苛烈砲撃はその一例といえる前述した通り第一次大戦式の長い砲撃では事前に攻撃地点が敵に伝わってしまうという欠点があり、それを回避するため攻撃地点火力集中させ、短時間多数砲弾送り込むように戦術変化していった。ここで重要視されたのは「火力集中」であり、それは大砲の高火力のみならず機動力獲得も必要としたのである。これにより大砲には車輪取り付けられ、より高速陣地転換可能にした。これには第一次大戦時のフランス大砲ベース米軍開発した155mmカノン砲M2などがあり、これらは牽引砲呼称される。 これらの兵器は「常に変わっていく戦況の中でどの様対応していくのか」という問題直面した牽引砲はその名の通り牽引車運ばれていた。その際車輪付けられているものは戦場での移動簡単なものにしたが、目まぐるしく変わる戦況中に牽引による移動では限界があり、第二次大戦当初ドイツなど馬で大砲引いていたものに関してより一層致命的な問題であった。その解決策として大砲車体エンジン搭載し牽引を必要とせず独力で移動できるようにした自走砲開発されたが、こういった大砲戦車への随伴可能にし、機動戦対す適応力を向上させた。代表的な第二次大戦期自走砲としては米国M7自走砲プリースト)や英国セクストン自走砲などがあり、その自走砲第一次大戦の頃には少数ながら登場していた。 また移動においても陸上を進むだけではなく、空を行くことも可能になった。大砲空輸が可能となり、敵地乗り込む空挺部隊運用されるようになった1944年ノルマンディー上陸作戦マーケットガーデン作戦通して連合軍空挺部隊敵陣へと空から降り立った輸送機空挺部隊空へ運ぶことが出来るのだから、大砲輸送機運べ大きさにすれば良いという発案のもと、必要な場所に直接送る方法採用した。6ポンド砲、17ポンド砲、40mm対空機関砲、更に75mm榴弾砲送った。これらの大砲敵地孤立している空挺部隊にとって心強い味方となった。敵に囲まれ空挺部隊の為、あらゆる種類大砲必要な場所に送られた。また、少数だが航空機大砲装着するようになった大砲重量反動耐えうる、かつ照準のための機動性確保しうるB-25四式重爆撃機キ109のような中型爆撃機クラス選ばれることが多かったが、比較軽量攻撃機であるHs 129に75mm対戦車砲搭載した例もある。 艦砲は海での戦い制するために発達してきた。第二次大戦までに海に浮かぶ火力として戦艦巡洋艦など[戦闘艦]の火砲数々砲弾発射し熾烈な砲撃戦繰り返していた。海における戦闘自身標的共にに動き続けており、何もない海洋であるがために位置関係把握しづらいなど、複雑な問題抱えており陸での砲撃とはあらゆる面で異なっていた。戦闘艦巨大な大砲取り付けられるようになったのは第一次大戦時期からであり、遥か遠方の敵を見定めるため海兵たちは高性能測定器観測用の航空機使用した。高いな破壊力をもつ艦砲戦い行方を十分左右しえるものであり、大和型戦艦象徴でもある45口径46cm3連装砲は、専用運搬船「樫野」を建造するほど巨大なものとなったアイオワ級戦艦ニュージャージーは、第二次大戦期有名な戦艦一つである。 一方陸でも戦闘艦同様に巨大な大砲開発された。第一次世界大戦ではより大きな火砲使えば膠着状態打破できるという思想のもと鉄道利用した巨大な列車砲設計されたが、ドイツ軍作った当時最大長距離砲パリ砲」の効果はさほどではなくそれよりかはむしろ「恐怖象徴」ともいうべきものだった第二次世界大戦でも巨砲進化続けヒトラーとその側近たちは政治的宣伝効果重視して巨大な火砲追求していった。その極限クルップK5 80cm列車砲(名称:ドーラ/グスタフ)であり、史上最大にして最後列車砲となった

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第一次世界大戦・第二次世界大戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 23:06 UTC 版)

戦闘用ヘルメット」の記事における「第一次世界大戦・第二次世界大戦」の解説

第一次世界大戦時ドイツ軍皮革製のピッケルハウベ呼ばれるヘルメット兵士支給していたが、頭部スパイクが非常に目立っていた。これは、特に塹壕線において、榴弾手榴弾破片等の飛散物阻止することが出来なかったため、後継としてシュタールヘルム呼ばれる鋼鉄ヘルメット採用した同様に第一次世界大戦機に多くの国では、銃器発達伝統的な飾りに近い存在になっていたヘルメットが、実用的なヘルメットへと更新されるようになり、イギリス軍では、特に上空からの榴弾破片防護重視した浅く広い皿型のブロディヘルメット用いられた。フランス軍でも丸くつばが付いたアドリアンヘルメット採用された。日本軍では1920年代欧米のものを参考に、サクラヘルメット(頭頂部の換気穴を覆う金具形状にちなみ、後世に付けられた俗称)など様々な試作品経て満州事変前後1931年九〇式鉄兜(のち鉄帽改称)を、中帽となる戦闘帽(略帽)と共に採用した中帽ヘルメット本体(外帽)を独立させる事で、制帽携行品から省略できる効果の他、後のM1ヘルメットを例に取ると外帽を洗面器バケツ椅子果ては調理鍋代わりに使用する等の用途多様化という利点生まれた第一次から第二次世界大戦戦間期に、戦闘用ヘルメットはその材質に於いて一つ変化生じた第二次世界大戦以前戦闘用ヘルメットニッケルクロム鋼などの強度の高い鋼を焼き入れして硬度増した素材採用しており、日本九〇式鉄帽欧米倣って素材強度衝突する飛散物破砕して弾き返す目的このような焼入鋼を用いていた。焼入鋼の戦闘用ヘルメット材質高価な反面銃床円匙といった鈍器による打撃などの衝撃に際して変形しづらく、帽体を薄く軽量に制作して手榴弾砲弾の破片程度であれば十分な防御力発揮できる為、可搬性生産時の鉄材節約の面でも優位性があった。反面このような素材は帽体の強度限界超えた衝撃が加わると、ほとんど変形起こす事無く貫徹されてしまうという欠点存在した元より小銃弾直撃想定していなかった九〇式鉄帽場合、7.7mm級の小銃弾直撃には1000mからでも貫徹されてしまう為、日中戦争勃発後の1939年には帽体の厚さを倍に増して小銃弾直撃への抗堪性高めた九八式鉄帽採用する事となったが、重量九〇式の倍近いものとなった為、配備十分な補給下で陣地攻撃企図する前線部隊限られ多く日本兵終戦まで九〇式用い続けた第二次世界大戦時には、アメリカ軍においてM1ヘルメット開発された。1940年採用されM1ヘルメットそれまで戦闘用ヘルメットとは素材防御概念異なり素材には焼入鋼ではなくブルドーザーバケットなどに一般的に用いられる高マンガン鋼採用された。高マンガン鋼ニッケルクロム鋼比較して入手性富み安価な反面硬度は低いため、衝撃に対して比較変形しやすく、帽体も大きく重くなりやすい。しかし、焼入鋼と異なり靱性が高いために強い衝撃受けた際にも大きな変形起こすのみで、装着者の頭部致死的な損傷もたらす貫徹起こす可能性は低い。M1ヘルメットはこうした素材長所生かして比較大きな帽体の内側プラスチック製ライナー(中帽)を被る二重構造とする事で、帽体が変形する事で小銃弾直撃などの強い衝撃受け止める設計思想となっている。ライナーを被る前提とする事により、大きな帽体であっても頭部への装着性が増し頭部と帽体の間の隙間確保される事で大きな変形起こした際の安全性増し結果として耐衝撃性増加する事となった。 日本自衛隊でもライナー併せて66式鉄帽として国産される事となったが、64式7.62mm小銃開発者一人である伊藤眞吉によると、66式鉄帽の帽体は「試験弾丸命中した際に穿孔してはいけないが、1-1/2インチ(約38ミリ)以下の凹み弾丸受け止めればよい」、ライナーにおいては着弾による亀裂生じて良いが、衝撃破片飛散してはならない」事が性能要求科されたという。高速飛散する破片樹脂といえども頭部大きな損傷与えうる為である。

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第一次世界大戦・第二次世界大戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/03 16:02 UTC 版)

ドボイ」の記事における「第一次世界大戦・第二次世界大戦」の解説

20世紀起こった第一次世界大戦時ドボイには最大オーストリア=ハンガリー帝国によるセルビア人強制収容所置かれていた。公式の記録によれば1915年12月27日から1917年7月5日までで、兵士女性子供を含む合計45,791人が収容された。ノーベル文学賞受賞作家であるイヴォ・アンドリッチ一時収容所投獄されていた。 第二次世界大戦時には、パルチザン抵抗運動拠点であった1941年8月最初蜂起起こり戦争が終わるまでの期間、占領軍への抵抗運動続けられボスニア・ヘルツェゴビナでは最初に成功している。この期間、ナチス傀儡政権であるウスタシャによってパルチザン支持するセルビア人ムスリムユダヤ人ロマなどは含む市民強制収容所送られたり処刑された。公の記録では291名の様々な民族市民ヤセノヴァツ強制収容所送られ死んでいる。2010年ドボイ近郊2つの穴から殺され23人のパルチザン遺体発見されている。 NGOパルチザン殺され疑い残っている穴を発見している。ドボイ1945年4月17日解放された。

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