投降兵捕虜の扱いと戦時国際法とは? わかりやすく解説

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投降兵・捕虜の扱いと戦時国際法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 20:12 UTC 版)

南京事件論争」の記事における「投降兵・捕虜の扱いと戦時国際法」の解説

南京戦では、最も多いとされる殺害事案が、日本軍による中国人捕虜組織的殺害である。この組織的殺害場合山田支隊行ったとされる1万単位大掛かりな捕虜殺害稀な例であり、数十人や数百単位虐殺数多く発生し合計で約3万人捕虜投降兵などが殺害されたと、秦郁彦説明する。(但し、実際には、揚子江での数千から数万程度大量処刑各種証言大量処刑との関連性疑わせる一か所での大量死埋葬記録存在する。) 当時捕虜の取り扱い係る戦時国際法として日中間でともに受け入れていたものハーグ陸戦条約1907年改定後)であり、日本中華民国がともに条約として批准中華民国1917年5月10日日本1911年12月13日)していた。同条約第4条には「俘虜人道をもって取り扱うこと」となっており、同条約第23条第3項では「兵器捨て又は自衛の手尽きて降を乞へる敵を殺傷すること」が禁止されている。なお、同じく捕虜などの保護定めた条約でありハーグ陸戦条約定めた捕虜の取り扱い補完する役割を持つ、赤十字国際委員会の提唱きっかけとなって成立した俘虜の待遇に関する条約ジュネーブ条約)は、中華民国1929年7月27日署名1935年11月19日批准していたが、日本署名のみで批准していなかった。 さて、日中戦争時に日本軍部が、日中批准した戦時国際法(ハーグ陸戦条約)を遵守履行しなくても良い解釈できる命令出した記録残っている。日中戦争初期1937年8月に、日中批准した戦時国際法(ハーグ陸戦条約)の扱いについて日本陸軍上層部から以下の様な通知現地中国への派遣軍に送られていた。つまり、日本陸軍次官から北支那駐屯軍参謀長宛の1937年8月5日通牒交戰法規適用ニ關スル件」(陸支密第198号)では、「陸戦の法規慣例に関する条約その他交戦法規に関する条約中、害敵手段の選用等に関し、これが規定努めて尊重すべき」とあり、また「日支全面戦を相手先んじて決心せりと見らるるがごとき言動例えば、戦利品俘虜等の名称の使用、あるいは軍自ら交戦法規そのまま適用せりと公称すること)は努めてこれを避け」と指示している。秦郁彦はこれは国際法遵守しなくともよいとも読めるが、解釈責任受け取方に任せて逃げたともとれるとした。また吉田裕は、日本軍明確な軍令出してはいないが、殺害事実上黙認していたかのように読める命令発していたと主張している。その理由として、海軍省軍務局長軍令部第一部長陸軍協議のうえ第三艦隊参謀長宛に発した通牒1937年10月15日軍務機密40号)「我権内入りたる支那兵の取扱に関して対外関係を考慮し不法苛酷口実を与へざる様特に留意し少なくとも俘虜として収容するものについては国際法規照らし公明正大な態度内外に示すこと肝要なるに付き現地事情之を許す限り概ね左記に依り処理せらるる様致度」とあり、「現地で」「俘虜にしないかぎり」殺害して良いとのニュアンス読み取れるこのように日本側が、自ら批准した戦時国際法忠実にならなかった背景には、日本側が宣戦布告行わず事変」とみなす政策をとったため(もし宣戦布告した場合アメリカ中立法発動して軍需品アメリカから輸入できなくなるなど不利であるため)に、本来と公的に「戦争」宣言しないことの影響として、戦争なら当然適応される戦時国際法による捕虜対処策などがおろそかになったのでは、という説が日中歴史共同研究にて指摘されている。 そのうえ、このときの日本陸軍捕虜管理のための機構設置しなかった。捕虜管轄する軍務局にいた武藤章参謀本部によれば1938年に「中国人ノ捕ヘラレタル者ハ俘虜トシテ取扱ハレナイトイフ事ガ決定」されており、つまり、陸軍戦争ではない支那事変では捕虜そのものを捕らないという方針採用、したがって、正式の捕虜収容所設けなかった(但し、1941年には俘虜情報局俘虜収容所設置された)。但し、これは勿論、捕虜人権認めないということではなく捕虜北支政権(傀儡)に引渡されそちらの法に基づいて処理されるし、日本軍側の非行については日本軍法や一般の刑法基づいて処理されるということ意味する。これに基づいて武藤直前まで捕虜管轄する軍務局にいて事件当時中国派遣されていたのだが、戦後東京裁判前の尋問で、これらの捕虜たちがどうなったかはもはや自分らの管轄ではないので知らない汪兆銘北支政権引渡され、後はそこで兵士人夫として使われるのだろうと思っていた、自ら降伏したものは犯罪者ですらなく単なる市民であると彼自身考えていたと弁明している。 戦陣訓はまだ公布されていなかったが、日本軍では捕虜タブー視しており、秦は「捕虜になることを禁じられ日本兵が、敵国捕虜寛大な気持ちで接せられるはずはない」とする。また日本大量捕虜がでたときの指針欠け上海戦では捕虜処刑暗黙方針になっていたが、首都南京攻略では明確な方針あるべきだったと秦郁彦述べる。 当時の報道を見ると、捕虜処刑を当然視する考え論調見られない寧ろ捕虜自分らを国民党軍側に返さないでくれと言ったとか、捕虜故郷返しそこで職を世話してやったとか云ったことが、'皇軍’の宣伝のために国内向けに報じられている。 一方で日本軍による中国人捕虜組織的殺害は、そもそも戦時国際法上、合法だったという意見がある。つまり、作戦遂行妨げになる場合敵兵降伏投降拒否することは戦時国際法上で合法であるので捕虜にしないで殺害してよかったまた、中国側違法行為対す復仇なども殺害理由なり得る、という意見国際法学者佐藤和男唱える佐藤は、自身主張軍事作戦遂行のために捕虜拒否することも許される場合があるという国際法学者ラサ・オッペンハイム考え沿っており、「日本軍の関係部隊には緊迫した軍事的必要」が存在した」と主張する。その理由として、①ラサ・オッペンハイムの「多数敵兵を捕えたので自軍の安全が危ないとき、捕えた敵兵対し助命認めなくてもよい」という考え1921年学説1937年南京事件から時間がたっていないので有効な考えであるとする(ただしこの考え反す1929年捕虜条約(注:俘虜の待遇に関する条約ジュネーブ条約)のこと)がその間にあることも佐藤記述)。[←注:オッペンハイムによれば論文時点で、投降する者を殺害してならないというルール国際社会普遍的に承認(オッペンハイム学説によれば既に普遍国際法化しているとの意味になる)され、今やハーグ陸戦条約明示的に制定されたものとしている。また、オッペンハイム自身法用としての緊急避難に当たる場合例外認めているものの、単に給養困難や捕虜多数であることを理由としてはならず、彼ら捕虜関わる実際危険性があることを必要としている。例え圧倒的な敵に頑強に抵抗して降伏しただけの籠城軍殺害することは今や認められないとしている。その意味では、寧ろ南京事件オッペンハイムの言うところの認められないケースにまさに該当する可能性が高い。本文記載通りであれば、本来は法用語として急迫した状態における緊急避難意味するimperative necessityが、日常言葉である"緊迫した必要"に変えて訳されていることになるし、少なくともオッペンハイムは"軍事的"必要を例外認められるnecessityとはしていない。]②中国側残虐行為行った通州事件復仇であった(ただし佐藤は同じ論文の中で1929年俘虜の待遇に関する条約ジュネーブ条約)によって捕虜への復仇禁止されていたことも記述)[←注:復仇は、国際法通念においてもオッペンハイム考えにおいても、そもそも相手方戦争法規違反抑止為に同害報復超えない限り行われるものでなければならない日本友好政権(冀東防共自治政府)下で突発的な叛乱として起こった通州事件報復としてであれば、全くの民族意識感情に基づく復讐であって相手方行動対す復仇としての意味をなさないことになる。また、通州事件については同様な事態今後勃発予想されていたわけでもなく、被害程度同害報復範囲超えている。]③日本の開城勧告無視して自国多数良民兵士悲惨な状態に陥れた中華民国政府首脳部責任④日本軍和平開城勧告行い、それを無視されても難民区などの砲撃自粛したので(許され得る)[←注:中国側難民区を非武装地帯とし、それを守っている。さらに、それにより、そもそも純粋に軍事的に難民区を砲撃する意味がない]、の4点をあげている。なお、復仇関連して南京派遣され16師団経理部小原少尉日記によれば310人の捕虜のうち、200人を突き殺し、うち1名は女性女性器木片突っ込む(通州事件での日本人殺害行われた方法)と記し戦友遺骨を胸に捧げて殺害していた日本兵がいたと記した。 それに対して戦時国際法則った捕虜人道的扱いが必要であったとする意見がある。北岡伸一は「捕虜に対して人道的な対応をするのが国際法義務であって軽微な不服程度殺してよいなどということはありえない。」と主張している。また、当時国際法学者信夫淳平は、例え18世紀欧州では捕虜食べさせる食糧不足していることを理由にした捕虜処分虐殺)があったものの、これは”現在の戦時国際法では許されない”(「今日交戦法則の許さざる所」)と述べて同時に、”捕虜にして安全に収容することができないときは解放すべきである。捕虜解放したら敵の兵力増えるので不利というが、人道法の掟を破ることによる不利益に比べれば、不利といって小さいものである”(「俘虜にして之を安全に収容し置く能はざる場合は之を解放すべきである。敵の兵力増大することの不利は人道の掟則を破るの不利に比すればヨリ小である」)という、ウイリアム・エドワード・ホール(英語版)の学説紹介している。吉田裕は、「仮に不法殺害該当しないとしても」日本軍の行動非難糾弾されると批判したまた、捕虜審判なしの処刑に関しては、日本軍は、「便衣兵と戦時国際法」でも記載したように、軍律違反場合、「軍律会議経て審判により処罰審判第1条)」そして「長官許可得たうえで死刑審判第8条)は可能」と定めていたため、原剛は、(問題とされる中国兵であっても処刑でなく)当時国際法条約照らして軍法会議軍律会議によって処断すべきであった主張する。 なお、日本軍は、以前、つまり日露戦争のときは、戦時国際法つまり1900年批准したハーグ陸戦条約忠実に守りつつ、外国人捕虜対す人道的配慮行ったことが国際的に知られており、その後第一次大戦のときも同様に中国山東省で捕えたドイツ人捕虜への配慮日本国内での捕虜収容所での生活ぶりなどにおいて、人道的扱い広くその名誉ある行動知られていた。また、軍務局の元局長であった武藤章は、東京裁判備えて行われたGHQ側の尋問において、シベリア出兵以来日本軍の質が落ちて窃盗強姦・強盗を行うようになった述べている。 なお、水間政憲は、日本軍中国兵大切に扱った主張する証拠として、占領後中国軍負傷兵日本軍市内集めて病院治療したと、ニューヨークタイムズ記事当時日本雑誌写真から説明する(ただし、このニューヨークタイムズ記事によると、実際中国兵負傷兵病院への搬送は、日本軍ではなく旧中国政府施設野戦病院継承した欧米人医療関係者自発的メンバー(彼らが国際赤十字設置したうえでの活動)であると記載されている。

※この「投降兵・捕虜の扱いと戦時国際法」の解説は、「南京事件論争」の解説の一部です。
「投降兵・捕虜の扱いと戦時国際法」を含む「南京事件論争」の記事については、「南京事件論争」の概要を参照ください。

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