子・龍とは? わかりやすく解説

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子竜

作者諸田玲子

収載図書昔日より
出版社講談社
刊行年月2005.4

収載図書剣と十手饗宴代表作時代小説 平成17年51
出版社光文社
刊行年月2005.6

収載図書昔日より
出版社講談社
刊行年月2008.12
シリーズ名講談社文庫


趙雲

(子・龍 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/10 09:15 UTC 版)

趙雲
清代『三国志演義』の挿絵
蜀漢
鎮軍将軍・中護軍・永昌亭侯
出生 不詳
冀州常山国真定県
死去 建興7年(229年
拼音 Zhào Yún
子龍
諡号 順平侯
別名 虎威将軍
主君 公孫瓚劉備劉禅
兄弟 兄(名は不詳)
趙統趙広
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趙 雲(ちょう うん、拼音: Zhào Yún  再生[ヘルプ/ファイル]簡体字: 赵云、?[注 2] - 建興7年〈229年〉)は、中国後漢末期から三国時代にかけての蜀漢の武将。子龍(しりゅう[4]・しりょう[5]拼音: Zǐ Lóng簡体字: 子龙[注 3]冀州常山国真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。諡号は順平侯。

蜀漢の初代皇帝である劉備の子・劉禅を救ったことで知られ、小説『三国志演義』では五虎大将軍の一人に数えられる。

三国志の趙雲

仁君を求めて

後漢~三国時代の全州と冀州の位置を示した略地図(□は異民族)

中平6年(189年)に霊帝が崩御すると、この政治混乱に乗じ、各地で諸侯が権力争いを始めた[11]。冀州では支配権をめぐって、冀州韓馥[12]、冀州北部に隣接する幽州の有力豪族出身で、白馬義従という白馬で揃えた精鋭騎兵を率い、鮮卑の討伐で功績を上げた公孫瓚[13]、朝廷に自ら降伏して官職を与えられ、常山国の支配を朝廷に容認させた黒山賊の張燕[14]、四代に渡って三公を輩出した名門出身の袁紹[15]らが対立していた。

『趙雲別伝』(以下『別伝』)曰く、趙雲は故郷の常山郡(国)から推挙され、官民の義従兵[注 4]を率いて幽州の公孫瓚のもとに参じた[17][4][注 5]

初平2年(191年)、『別伝』曰く、袁紹が冀州牧を称したため、公孫瓚は冀州の民が袁紹に従うことを憂いていた。そのような状況下で趙雲が義従兵を率いてやってきたので、公孫瓚はこれを大いに喜んだが、趙雲に対し「君の州の人々はみな袁紹を支持しているそうだが、君はなぜ心変わりして、迷いながらもわたしに仕える気になったのかね?」と嘲笑した。これに対し、趙雲はこう応えた。「天下は騒がしく混乱し、誰が正しいのかも判らず、民は未だ逆さ吊りに遭うような苦難に置かれています。わたしの州の議論では、仁政を行う者に従うべきだと考えました。けっして袁紹殿を軽んじ、私情で公孫瓚将軍を尊重したわけではありません」。こうして公孫瓚の配下となり、ともに征討した[17][19][注 6]

出会いと別れ

冀州での主な出来事
西暦 出来事 内容
191年秋 袁紹冀州牧を称す 韓馥を脅し奪う
秋~冬? 趙雲が挙兵する 公孫瓚の配下に
青・徐州黄巾残党
と公孫瓚の戦い
公孫瓚の勝利
青洲の田楷の救援 劉備に随行
劉備が平原相に 公孫瓚より任命
192年
正月
界橋の戦い 袁紹の勝利
不明 趙雲と劉備の別れ 公孫瓚から辞去
193年 袁紹と公孫瓚が停戦 朝廷が介入
公孫瓚と劉虞の戦い 劉虞を殺害
6月 袁紹と黒山賊の戦い 黒山賊が大敗
199年 易京の戦い 公孫瓚が自害
205年 張燕が曹操に投降 黒山賊が帰順
冀州周辺の各勢力図

『別伝』曰く、このとき黄巾の乱から挙兵し、名を揚げた群雄のひとりである劉備が公孫瓚の元に身を寄せていた。劉備は趙雲と接するたびに受け入れ、趙雲も劉備に好感を持ち、次第に二人は仲を深めていったという[17][23]

青州で袁紹と戦っていた公孫瓚配下の将・田楷の援軍として、公孫瓚が劉備を派遣した際に趙雲も随行し、劉備の主騎[注 7]となった[31][32][4][注 8]

『別伝』曰く、そののち趙雲の兄が亡くなり、服喪のために公孫瓚の下を辞して故郷へ帰ることになった。劉備は趙雲が自らの下にもう二度と戻って来ることはないだろうと悟り、趙雲の手を固く握って別れを惜しんだ。趙雲もまた、「絶対にあなたの御恩徳に背きません」と応えた[17][注 9]。劉備と別れた時期や、そこから建安5年(200年)頃までの趙雲の行動は不明である。

劉備との再会

趙雲と劉備の再会までの動き
西暦 出来事 内容
趙雲離脱とその後 200年頃まで不明
193-
194年
徐州の陶謙の救援 豫洲の小沛に駐屯
194年 劉備が徐州牧に 陶謙死後跡を継ぐ
195年 呂布が劉備を頼る 曹操に敗北した
呂布が劉備の下へ
196年 呂布の裏切り 下邳を掌握される
①呂布に敗北 曹操を頼る
198年 ②曹操とともに
呂布を討ち許昌へ
献帝の曹操暗殺
計画に賛同する
200年 曹操と争う 暗殺計画が露顕
小沛で曹操に敗北
③青洲へ逃走 袁譚を頼る
(袁紹の長男)
④袁紹を頼る 袁譚と平原へ
⑤袁紹と合流 鄴から200里地点
で袁紹が出迎える
⑥趙雲と再会 鄴で劉備に目通り
⑦劉表の元へ 関羽らが再集結
趙雲と再会するまでの劉備の動向を表した概要図と略地図
(丸数字の詳細は右表参照)

建安4年(199年)3月、公孫瓚に勝利した袁紹は華北一帯を支配下においた。建安5年(200年)頃、『別伝』曰く、白馬の戦いにて敗北した劉備が、曹操と対峙していた袁紹を頼って来ると[40][41]、趙雲は冀州ので久しぶりに劉備に目通りし、再会を喜んだ劉備は、趙雲と同じ牀(ベッド)を共にして眠った[17][23]。袁紹を見限っていた劉備は[40][41]、趙雲を派遣して秘かに数百人を募兵し、みな「劉備左将軍の部曲」と称したが、袁紹はこの動きに全く気付かなかったという。こうして劉備と共に荊州へ赴いた[17][23][注 10]

荊州略地図

建安5年(200年)8月、官渡の戦いにおいて曹操が袁紹に勝利した[43][41]。荊州牧の劉表を頼ってやってきた劉備たちは、曹操への対抗のため、豫州との州境に近い荊州最前線の地である新野を任されることになった[40][41]

建安8年(203年)、曹操の命を受けた夏侯惇于禁らが新野北東に位置する博望坡に侵攻し、劉備軍は伏兵を用いてこれを撃破した(博望坡の戦い[40][44]。『別伝』曰く、趙雲はこの戦いで敵将の夏侯蘭を生け捕ったが、小さい頃からの同郷の友人だったことから劉備に助命嘆願し、法律に明るい人物として軍正(軍の法律の官[45][46])に推挙し、認められた。趙雲は以降、降将の夏侯蘭が無用の疑いをかけられぬよう、自分から彼に接近しないよう気遣ったという[17][47]

長坂坡の戦い

長坂坡の略地図と概要図
正定県『趙雲廟』
阿斗を抱えた趙雲の騎馬像

袁紹の残党勢力に勝利し華北を平定した曹操は[43]、建安13年(208年)荊州への侵攻を開始した[43]。このとき劉表はすでに病死し、次男の劉琮が跡を継いでいたが、9月に曹操軍が新野に到達すると劉琮は降伏し、樊城に居た劉備達は劉琮の降伏を知ると、劉備を慕う劉琮の側近の一部と、荊州の民衆10万人とともに南下を開始した[40][43][48]。劉備軍は江陵を目指したが、荊州の当陽・長坂(または長坂坡)にて、曹操自ら指揮を執る精鋭5,000の兵に追いつかれると、劉備は妻子を捨てて、諸葛亮および張飛・趙雲ら臣下の数十騎とともに南へ逃走した[31][40][32][49]

劉備の娘たち二人は曹純に捕らえられたものの[50]、張飛が殿を務め[51][52]、趙雲が阿斗(劉禅)を身に抱え、さらにその母の甘夫人を保護したので、母子は危機を免れることができた[32][31][53][54]。この戦いののち牙門将軍中国語版に昇進した[31][4][注 11]

『別伝』曰く、「趙雲が北(曹操軍のいる方角)に逃げ去った」と言う者がいたが、劉備は手戟を投げつけて「子龍はわたしを棄て逃げることはない」と相手にしなかった。ほどなくして、趙雲が到着したという[17][32][23]

荊州平定戦

荊州南部の略地図

劉備軍は曹操軍に江陵を制圧されたが[43]漢水長江の支流)の漢津で関羽の船団と合流し、劉表の長男・劉琦の軍とも合流して夏口へ逃れた[40][49]揚州を治める孫権から派遣された魯粛を迎えた劉備軍は、孫権と同盟を結び、建安13年(208年)、劉備・孫権軍は赤壁において曹操軍に勝利した[61][62]

建安13年(208年)から建安14年(209年)にかけて、孫権軍と劉備軍はともに曹仁が守る江陵を攻めて陥落させると[63]、劉備はその間、軍事行動を起こす理由付けとして劉琦を荊州刺史に推薦、荊州南部四郡(武陵長沙零陵桂陽)を占拠し、公安(油江口)を本拠地とした[64][65]

『別伝』曰く、趙雲は荊州南部平定戦に参加して偏将軍中国語版・桂陽太守になると[注 12]、この桂陽攻略時に降伏した前太守の趙範が、自身の兄嫁である寡婦樊氏を趙雲に嫁がせようとしたが、趙雲は「わたしとあなたは同姓ですから、あなたの兄ならわたしの兄のようなものです」と同姓を理由に断わった[注 13]。しかし樊氏は絶世の美女だったので、なおも趙雲に娶るように薦める者がいたが、趙雲は「趙範は追い詰められて降伏したにすぎず、その本心は測りかね、信用ならない。天下に女性はたくさんいる」と言って、ついに娶らなかった。その後、趙範は逃亡したが、趙雲は樊氏に何の未練も持たなかったという[17][32][69]

阿斗奪還

公安周辺の略地図

建安16年(211年)、漢中に拠点を置く五斗米道の指導者の張魯と対立していた益州牧の劉璋は、劉備に救援を要請したので、劉備は益州へ向かう際、諸葛亮・関羽・張飛らとともに趙雲を荊州の守備として留め置いた[31][70]。『別伝』曰く、劉備はこのとき趙雲を留営司馬に任じた[17][47][注 14]

その頃、甘夫人が病没し[74][75]、孫権の妹の孫夫人が劉備の正妻となっていた。これは、劉備がまたたく間に荊州南部を平定し、その勢いに対する孫権の恐れから生じた政略結婚であった[40][65][76][77]。孫夫人は気丈な性格で、呉の官兵を率い、侍女にはみな刀を携えて侍立させ、劉備を戦々恐々とさせた[78][79]。『別伝』曰く、彼女は孫権の妹であることを鼻にかけ、軍法を無視するなどの振る舞いを見せ、劉備は手を焼いていた。そこで劉備は、厳格な趙雲にこの事態を収拾させるべく、目付役に任命し、内政を立て直させた[17][47]

建安17年(212年)頃、『別伝』曰く、孫権は劉備が益州入りしたことを知ると、船を出して孫夫人を呉に帰らせた際に、孫夫人は劉禅を連れて行こうとしたが、これを知った趙雲は、張飛と共に長江を遮って、孫夫人から劉禅を奪還した[17][32][47]。『漢晋春秋』では「諸葛亮の命を受けて、趙雲が奪還した」と記述されている[80][81]

益州平定戦

建安17年(212年)、劉璋と不仲になった劉備は攻勢に転じ、建安19年(214年)頃、劉備は荊州に留まっていた諸葛亮たちを援軍として召し出し、荊州の留守を関羽にまかせると、趙雲は諸葛亮・張飛・劉封と共に長江を遡って入蜀した[40][82]。趙雲は江州巴郡。現在の重慶市)から別の川に沿って西進して、途上で江陽を攻略・平定し、夏、成都にて諸葛亮らと合流した[31][83][84]。『華陽国志』では、趙雲はこのとき江陽のほか、犍為も攻略したとある[85][86]

諸葛亮ら援軍と合流した劉備は、劉璋のいる成都を完全に包囲した。このとき、211年に曹操に反乱を起こしたのち敗れ、張魯のもとに身を寄せていた馬超が劉備のもとへ帰順すると、それを聴いた劉璋はついに劉備に降伏し、劉備は益州を獲得した[40][87][83][88]。趙雲は翊軍将軍中国語版に任ぜられた[31][32][83][84][注 15]

『別伝』曰く、劉備は益州に備蓄してあった財産や農地を諸将に分配しようとしたが、趙雲はこう反対した。「霍去病前漢時代に活躍した名将)は匈奴がまだ滅んでいないとして、屋敷を持ったり私的なことに心を砕きませんでした。今の国賊は匈奴程度では済まされず、まだ平安を求めて暮らす時ではありません。天下が完全に平定されれば、それぞれ郷里に帰って故郷で農耕に励むのが一番です。益州の民は先の戦乱で家も田畑も失ってしまいました。今は彼らにこれを返して、安心して仕事に戻れるようになってから賦役や徴税を行なえば、民心を得ることができましょう」。劉備はこの意見に賛成して従ったという[17][32][94][84]

定軍山の戦い

建安20年(215年)、曹操が張魯を降し、漢中一帯を平定すると(陽平関の戦い[43]、建安22年(217年)、参謀の法正が劉備に漢中を攻めるよう進言、劉備は法正の策に従って自ら漢中に赴き[40][95]、趙雲も劉備の本隊に従軍した[96]。建安23年(218年)、劉備は陽平関に兵を置き、曹操軍との戦いは一進一退の攻防が1年続いた。建安24年(219年)正月、漢中を守る夏侯淵黄忠に討ち取られると[97][98][99]、3月、曹操は自ら軍を率いて漢中に赴いた[43][100][101]

『別伝』曰く、このとき曹操軍は数千万袋もの兵糧を北山の下に運んだ。黄忠はこれを奪うことができると考え、趙雲の兵を借りて出陣したが、約束の時間を過ぎても黄忠が戻ってこなかったため、趙雲は少数の兵を率いて軽装で偵察へ向かったところ、曹操軍の前鋒と遭遇した。趙雲は敵陣に突撃しては後退を繰り返して曹操軍を翻弄し、無事に自陣へ戻った。しかし部下の張著が負傷し、敵陣に取り残されていたので、趙雲は再び馬に乗って張著を迎えに行った。その後、曹操軍は再び盛り返して趙雲らの陣まで追撃してきた。陣にいた沔陽張翼は門を閉じようとしたが、趙雲は逆にこれを開かせ、旗を伏せて戦鼓を止めさせた。曹操軍が、静まり返った趙雲の陣に伏兵があると疑って引きあげたところを[注 16]、趙雲は戦鼓を叩いて合図し、うしろからを乱射した。曹操軍は驚き、互いに蹂躙して漢水の中に落ち、大勢が死んだという[17][32][103][104][注 17]

劉備は翌朝、趙雲の陣に自ら視察に向かい、「子龍の一身はすべてこれ肝(きも)である」と称賛し[注 18]、軍中は趙雲を「虎威将軍」と呼んだという[17][32][104][注 19]。5月、曹操は全軍を撤退させ、劉備は漢中を手に入れた[40][43][112][101]

対呉戦争

同年7月、劉備は漢中王を称し、この際、関羽を筆頭に馬超・張飛・黄忠が前後左右将軍に封じられたが、趙雲は翊軍将軍のまま据え置かれた[40][112][113][注 20]。この直後、関羽は荊州から北伐を遂行したが、荊州の領有を巡って劉備との関係が悪化していた孫権が曹操と密かに結んだことで、荊州の主要拠点を次々に失い、孫権軍に捕えられて処刑された(樊城の戦い[116][43][32][117][注 21]

建安25年(220年)正月に曹操が病死し、子の曹丕献帝禅譲されるかたちで皇帝に即位すると[119]、これを受け、建安26年(221年)4月、劉備は群臣に擁立され、漢の正統な継承者として「漢」の皇帝を称し、即位した[40][120]。また関羽の仇討ちと荊州奪還のため、劉備は呉への出兵を決意すると、多くの臣下が不利を説き、劉備を諫止したが聴き入れられず[121]、「天の時(天運)が味方しない」と諫言した秦宓は劉備の怒りを買い、一時投獄された[122][123]

「夷陵の戦い」進路地図
(青が蜀軍、赤が呉軍)
趙雲は江州で後詰となる。

『別伝』曰く、大いに怒った劉備に対し、趙雲はこう諫言した。「国賊は曹魏であり孫権ではありません。まず魏を滅せば、呉はおのずと降伏してきましょう。漢室を簒奪した曹丕を良しとしない民心に寄り添い、速やかに関中を平定し、黄河渭水の上流を拠点として凶逆を討伐すれば、関東義士は必ず食料を携え馬に乗り、漢の王師を支援いたしましょう。魏を放置して、先に呉と戦うべきではありません。一度戦端が開かれば、容易に終結させることは不可能です」[17][32][124][注 22]

しかし劉備は聴き容れず、同年7月、呉征伐のため荊州方面へ侵攻を開始、[32]戦いは約一年続いたが、章武2年(222年)6月、夷陵の戦いで呉の陸遜の火攻めにより、蜀漢は大敗を喫した[40][126]。『別伝』曰く、趙雲は後詰で江州として巴に留まり、劉備の大敗を知ると永安(白帝城)まで救援したが[32]、既に呉軍は撤退していた[17][124]

劉禅の即位

『白帝城』展示の塑像
弧を託す劉備と群臣たち
(右奥の青い服の人物:趙雲)

夷陵の戦いの大敗後、病を発して床に伏していた劉備は章武3年(223年)4月、永安宮にて崩御した[40][127]。同年5月、元号を建興に改め、子の劉禅が即位すると、趙雲は中護軍中国語版[注 23]・征南将軍[注 24]へ昇進し、永昌亭侯に封じられ[32]、のち鎮東将軍中国語版に昇進した[31][84][注 25]

第一次北伐

「第一次北伐」進路地図
(赤が蜀軍、青が魏軍)
右端の赤の点線は魏延が提案し、諸葛亮に退けられた進路。
隣の赤線は趙雲・鄧芝の進路。

建興4年(226年)、魏では曹丕が逝去し、曹叡が第二代皇帝に即位した[119]。建興5年(227年)、諸葛亮は出師表を劉禅に上奏し、趙雲は諸葛亮と共に曹魏への侵攻に備え、漢中に駐留した[134][31][135]

建興6年(228年)春、諸葛亮が斜谷街道を通ってを奪うと宣伝し[136]、曹叡から派遣された曹真は大軍を進める一方、趙雲と副将の鄧芝は別動隊を率い、箕谷で囮をさせ[31][84]、その間、諸葛亮は本隊を率いて祁山を攻撃し、動揺した南安天水安定の三郡が蜀に寝返った[137][138]。趙雲と鄧芝は兵力で劣り、敵は強大であったことから、箕谷の戦いでは不利を強いられたが、兵士たちをよくまとめて陣を堅守し、大敗には至らなかった[31][84][注 26][注 27]

しかし街亭では、諸葛亮が先鋒に抜擢した馬謖張郃に大敗し、蜀軍は手に入れた三郡を手放して漢中に撤退した[136][137][138]。『水経注』によると、この撤退戦の際に趙雲は赤崖より北の百余里に渡る架け橋を焼き落すことで魏軍の追撃を断ち切っており、その後しばらくは鄧芝と共に赤崖の守りにつき、屯田を行っている[142]

『別伝』曰く、諸葛亮は鄧芝に「街亭で退却した際、将兵は散り散りになってしまった。しかし箕谷での撤退では離散しなかった。何故だろうか」と尋ねた。鄧芝は「それは趙雲自らが殿となったため、軍需品や器物はほとんど捨てず、兵も離散せずに済んだのであります」と答えた。諸葛亮は恩賞として趙雲が持ち帰った軍需品のを将兵に分配しようとした。しかし、趙雲は「敗軍の将になぜ恩賞があるのですか。どうかその品々をそのまま赤岸(赤崖)の倉庫に納めて、10月になってから冬の褒賞として配られますよう、お頼みします」と述べて敗戦の責任を明らかにし、この進言に諸葛亮は大いに喜んだという[17][143][注 28][注 29]

諸葛亮は「街亭では命令を違える過ちを犯し、箕谷では警戒を怠るという過ちを犯しました。その責任は任命した私にあります」と上奏し[注 30]、諸葛亮は自身の位階を三階級下げ右将軍に降格[137][147]、趙雲は鎮軍将軍中国語版に降格された[31][32][84][注 31]。一方で、『華陽国志』では位階ではなく「を貶した」との記録がある[153]

最期

建興7年(229年)に死去[31][32][注 32]、趙雲の長子趙統が跡を継ぎ、官位は虎賁中郎(督)・行領軍中国語版に昇った[31][155]。なお、諸葛亮が建興6年(228年)11月に上奏したとされている『後出師表』では、「漢中に至ってより一年、趙雲・陽羣馬玉閻芝…(中略)…を失った」[156][157]とあり、228年11月以前に趙雲が亡くなったことになっている[158][注 33]

死後

死亡から32年後の景耀4年(261年)春3月、趙雲は順平侯の諡号を追贈された[161][31][32][143]。法正・諸葛亮・蔣琬費禕陳祗夏侯覇は死後すぐに、景耀3年(260年)9月に関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠が、半年後に趙雲が追贈された[161][31][162][注 34][注 35]。時の論はこれを栄誉とした[31][168]

『別伝』曰く、趙雲が諡を追贈される前、劉禅は詔勅で以下を述べた。

趙雲はかつて先帝(劉備)に仕え、功績はすでに顕著である。朕は幼い頃から多くの苦難を経験してきたが、忠義に溢れる彼を頼りに、幾多の危険を乗り越えることができた。諡号というものは、英雄の大いなる功績を称えるためのものである。世間の意見でも、趙雲に諡号を贈るのがふさわしいと声が上がっている。[17][168]

これを受け、大将軍姜維たちは議を行い、以下を上奏したという。

趙雲はかつて先帝(劉備)に仕え、その功績はすでに顕著であります。天下の経営に尽力し、法と秩序を重んじ、功績は記録に値するものでした。中でも当陽の役(長坂坡の戦い)における彼の義は金石を貫き、忠義を尽くして主君をお護りしました。主君がその功績を記憶にとどめ、彼を厚遇したのは当然であり、臣下は死を恐れず忠誠を尽くします。もし死者に知覚があるとすれば、その名は不朽の名声を得るに足るでしょう。生者もその恩義に深く感謝し、身命を捧げる覚悟です。謹んで諡法を調べますと、柔順・賢明・慈愛・恵愛を持つ者を「順」と称し、職務を秩序正しく、けじめのある事を「平」と称し、災禍・反乱を鎮め、平らげる事を「平」と称します。よって、趙雲殿に諡して順平侯と称すべきです。[17][168]

滅亡

趙雲の長子・趙統のその後については、史料に明確な記述はない。炎興元年(263年)、魏の蜀漢討伐が開始されると、趙雲の次子趙広は牙門将(軍)として姜維に随行し、沓中にて戦死した[31][168]

人物

出自に関する記録は「常山の真定人」のみであり、家族背景についても不明である[169]渡邉義浩は、『別伝』の「劉備と同じ床で眠った」という記述と、「趙雲が曹操軍に降った」と報告した者を劉備が打ちつけ、趙雲を信じた逸話に触れ、二人の間にとしての強いつながりが見られるとして、劉備・関羽・張飛らと同じく下層民と定義している[170]。一方、具体的な根拠は挙げられていないものの、矢野主税は趙雲の出自を豪族と推定している[171]。また、同じ趙姓であり、かつ常山真定の人でもある前漢の南越王・趙佗との繋がりがある可能性も挙げられているが[172][8]、趙佗との直接的な関係を示す記録はなく、あくまで推測の域を出ない。

また『別伝』曰く、趙雲は身長八尺(約185cm)[注 36]、姿や顔つきが際立って立派だったという[17][32][4]

家族と墓地

家族

正定県『趙雲廟

詳細はそれぞれの該当記事を参照。

  • :名は不詳。『趙雲別伝』に記載。『三国志演義』には登場しない。
  • :名は不詳。民間伝承や『演義』関連作品では様々な妻が登場する。
  • 趙統:長子。蜀漢の武将。『演義』では弟と共に趙雲の墓守を命じられる。
  • 趙広:次子。蜀漢の武将。『演義』では兄と共に趙雲の墓守を命じられる。

子孫

『三国志』および『趙雲別伝』には、趙雲の家族が蜀漢滅亡後にどうなったかの記述はなく、詳細は不明である。しかし、四川省西充県の趙氏に伝わる『西充趙氏宗譜』によると、蜀漢滅亡後、趙雲の長子である趙統と次子の趙広の子孫は皆四川に残り、趙広の息子とされる趙諮は射洪に、趙統の息子とされる趙纂は凡渓(現在の一碗水太平)にそれぞれ定住したが、元末の戦乱により一族は離散、明代にはわずか8人が残り、一族の趙権が西充から南部県神壩鎮中国語版橋楼村九龍山の麓に移住し、子孫は橋楼村を中心に広がり、後に三つの支流に分かれたと記される[174]。神壩鎮には数千人の趙氏一族が存在し、西充の趙氏一族は数万人にのぼるといわれるほか、趙雲の故郷にある河北省正定県には、趙雲の子孫と称する人々によって、『趙雲廟』が再建されている[175]

墓地

正史には趙雲がどこに葬られたのか記録はないが、趙雲の墓とされている墓が中国国内に複数存在する。中国学会から広く認められている大邑趙雲墓のほか、南陽趙雲墓、臨城趙雲墓などがある(各趙雲墓の歴史沿革、民間伝承などの詳細は→「大邑趙雲墓」を参照)。

趙雲別伝

正史『三国志』蜀書「趙雲伝」と裴注「趙雲別伝」(p.84左-87)

『趙雲別伝』は裴松之が引用した文献の一つであり、趙雲個人の伝記である[176]。本伝と区別するために「別伝」と称される[177]。『三国志』趙雲伝が簡素な記述に留まるのに対し[注 37]、『別伝』には趙雲の経歴や言動が詳細に記され、その文量は本伝のおよそ3倍に及ぶが、作者や成立時期が不明であるため、国家が編纂した正史と比べた場合、その信憑性は相対的に低く評価される[179][180][181]

『別伝』の記述に肯定的な意見として、矢野主税は、対象の人物の功績を残すのみならず、その人物周辺の政治的動向が反映されていることから、一般史書の欠を補う貴重な史料だとし、その一例として、『別伝』内に「蜀の後主が〔〕雲の死後賜った詔をのせているが如きにも見られる」ことを挙げている[182]。また、家伝に依拠した可能性も踏まえつつ、「当時、世上に流布していた人物評を基として書かれた」という想定のもと、別伝とは「ある個人の作というよりも、当時の社会の作というべきもの(中略)換言すれば、門閥社会の、その人物に対する評価」ではないかとも述べている[183]。また渡邉義浩は、「裴松之は、『趙雲別伝』については、内容的な誤りなどを指摘することはない。裴松之は、『三国志』を補うことができる史料と認定していたと考えてよい」と述べ[184]、方北辰や周思源中国語版は、歴史人物(趙雲)の講義をTV番組で行った際、正史と共に『別伝』を採用している[185][73]

一方、別伝作品がその偏向性を指摘されるように[186][187][188]、『別伝』もまた偏私の記述が多く[189]、「趙雲を美化する目的で書かれた」とされている[190]。渡邉義浩は、「陳寿の本伝と別伝の記述は大きく異なり、趙雲別伝は趙雲をはるかに立派な人物として描いている」とし、「〔『三国志演義』の作者は〕何の躊躇もなく趙雲別伝を採用している」とも述べている[191][192]。また別伝作品を含む人物伝については、『隋書』の雑伝評価を踏襲し、史官の手慰みによるものとして問題視されることもある[193][194][注 38]

評価

歴史的評価

成都武侯祠『昭烈殿』「武将廊」
清代に作られた趙雲の塑像
(左:孫乾

武の評価に関しては、『三国志』において趙雲が巻末に立伝されたのは、彼が他の武将ほど戦功が顕著でなかったためという見方が強い[197][198][73]

趙雲への評価は、主に誠実・謙虚・政治的見識などの品性とされ[199][73][200][201][注 39]、故郷・正定県では明代頃に「見識ある人物」と評し、県の『郷賢祠』に顕聖忠臣の筆頭として清末まで祀られ[203]、民間では清代に欒城と正定でそれぞれ『趙雲廟』が建てられた[204][注 40]。四川省の成都武侯祠では、清代から現在に至るまで「武将廊」の筆頭で祀り[206]、湖北・湖南省では品性面への評価に加え、忠勇は関羽にも劣らないとして、桂陽・南陽・安郷・芙蓉山・営盤嶺地方ほか、中国各地で「趙雲信仰」が起こり、これらはのちに、台湾やマレーシアへ移住した華人の趙雲信仰へと繋がっていくことになる[207]

このほか、康熙61年(1722年)には歴代帝王廟中国語版に従祀名臣の列に加わえられた[208]。小林瑞恵はこのことについて、趙雲を不忠者と評しなかった清代の『演義』版本の流行による影響を指摘している[209][注 41]。上野によると、「文武両道の儒将」という趙雲のイメージは『演義』から成立したといい[210](→#趙雲像の形象)、林盈翔によれば、趙雲の人物像およびそれに対する評価は、史書の記述のみに基づいたものではなく、歴史的記憶から創作物をもとに構築された文化的記憶英語版への変遷を経て形成されたという[211]。これは台湾の趙雲信仰においても同様である[212]。こうした正史・演義の趙雲評について、鄺龔子は「『演義』の選択的記憶と記述は、個人の性質よりも集団的なものであり、羅貫中が編次、毛宗崗が改評したのは、普遍的に認められた歴史的意義を持つものである。小説中の趙雲は、戦功・地位・性格がより際立っているが、細部の虚構性を強調するよりも、正史『本伝』『別伝』から文学的再創造への移行を認識し、歴史的記憶が文化的記憶として凝縮され、文化的価値の規範が体現されたことを認識するべき」と評している[213]

個人の評価

同時代の評価

  • 劉備:「子龍の一身はすべてこれ肝である」[17]
  • 楊戯:「征南(趙雲)は厚重、征西(陳到)は忠克。精鋭を指揮し、勲功をあげた猛将であった」[214]

明代以前の評価

  • 陳寿:「①黄忠・趙雲は共に彊摯壮猛、揃って軍の爪牙となった。灌嬰滕公の輩であろうか?」[215][注 42]「②陳到は名声・官位ともに常に趙雲の次にあり、どちらも忠節勇武な人物として称えられた」[217]
  • 薛登:「武芸に関しては、趙雲は勇気があるが、諸葛亮の指揮を必要とした。周勃は偉大な人物だが、彼には陳平の策略はない。もし樊噲が蕭何の役目を担ったならば、必ず状況を見極めて適切な指示を出すという機会を逃してしまっただろう。逆に、蕭何が前線に赴いたとしても、君主を危機から救うような効果はなかったであろう。闘将は敵の攻撃を打ち砕くことに長け、謀将は事態を的確に予測することに長けている」[218]
  • 大唐平百済国碑銘:「趙雲は一身全て胆、勇敢三軍。関羽は万人の敵、名声は百代に渡る」[219]
  • 朱黼:「(対呉戦争の諫言について)この意見は深い洞察に基づいており、天下の情勢を的確に捉えている」[220]
  • 陳造中国語版:「趙子龍が魏軍を退けた時、劉備は彼を「全身が度胸の塊」と称賛し、後世に語り継がれるべき武勇だと述べた。まさに死地から生還し、敗北を勝利へと転換させたのだ」[221]
  • 鄭元佑中国語版:「趙雲が蜀で民を安んじたように、無限の需要を限られた資源で共有するのは得策ではない」[222]
  • 蕭常中国語版:「趙雲は勇猛の臣でありながら、その建言は賢明であり、国体に通じていた。田畑や家屋を返還して民心を大切にしたり、軍資を冬の下賜にしたり、呉を赦免して魏を重視したりと、諸葛亮でも考えに至らない考えを有していた。同姓を理由に趙範の兄嫁を受け入れないなど、己への厳しさは当時の武将の中でも随一ではないか?」[223]
  • 郝経:「趙雲は忠誠を尽くして、その身をもって君主を守り抜いた。その志は初志貫徹であり、漢の忠義の士であった。功績と志は曹樊(曹参樊噲)の輩のようである。趙雲は特に深識遠慮である。勇ましいが注意深い。たびたび忠言を献じ、その度に時勢を的中させた」[224]

明代の評価

  • 方孝孺:「昭烈(劉備)のこの上ない仁愛と厚情、孔明の忠義と従順さは、まことに君臣の模範とすべきものである。また、蒋琬、費禕、董允の国を治める手腕、関羽、張飛、趙雲、馬超の用兵、さらには諸葛氏に諸葛瞻・尚が、関氏に関彝、張氏に張遵、趙氏に趙広など、その由来を推し量るに、昭烈と孔明の事績は、単なる功業の範囲や成敗の結果を超越したものがある」[225]
  • 楊時偉:「子龍の心は金石を貫き、雲天を凌駕し、関張にも劣らない」[226]
  • 范光宙:「趙雲の終始を鑑みるに、おのずとそれは大臣の器量であると言えよう。どうして単なる名将と評して済ませられようか?」[227]
  • 李賢:「智勇兼ね備わる。子龍はまさに古代の大臣の風格があると言えよう」[228]
  • 李紀:「昭烈(劉備)は趙雲を使って漢中を奪い、関羽を遣わし樊城を攻めた」[229]
  • 徐奮鵬中国語版:「子龍は全身が胆力であるだけでなく、おそらく全身が智謀である。まさに天下三分における完璧な人物と言えよう」[230]
  • 王士騏中国語版:「趙雲の言動を注視すると、彼は単なる名将ではなく優れた洞察力を持つ大臣としての器量を備えていることが分かる。これは趙雲のような優れた人物を武勇だけで評価するのは、彼の深い識見や政治的な能力を見落としてしまうという短見を戒めるものである」[231]
  • 沈国元中国語版:「趙雲が田宅を拒否し、魏を滅ぼそうとしたのは、単なる武将としての勇気ではなく、古代の賢臣のような深い政治的見識に基づいた行動である。このような志気を、単なる武将としての能力だけで判断すべきではない」[232]
  • 宋徴璧中国語版:「張遼と趙雲は敵陣を我が物顔で動き回り、その勇猛果敢な振る舞いで敵を圧倒し、恐れさせた。しかし自分の勇猛さを頼りにするようなやり方は、大将としての真の力量とは言えない」[233]
  • 鍾惺中国語版:「趙雲の始終を観るに、およそこれは大臣の器量であって、単なる名将に留まらない」[234]
  • 張萱 (明)中国語版:「趙雲・文鴦は、何万もの敵の中に単騎で飛び込み、向かうところ敵なしだった」[235]
  • 張溥中国語版:「(対呉戦争の諫言について)(趙雲は)大義を理解し政策を決定するという点で魯粛と同じだったが、劉備は彼の諫言を聞き入れなかった」[236]
  • 万応隆中国語版:「趙雲は漢の賊は討たざるを得ないと考えたため、彼に家を授けても顧みなかった。「漢の賊がまだ滅びていない」という一言は、『春秋』の言葉よりも厳格であり、大いなるかな、すなわち天下の溺れるをおのれが溺れるがごとき心なのである」[237]

清代の評価

  • 王夫之:「猇亭で敗れ、先主(劉備)が亡くなり、国の精鋭は夷陵で尽きた。趙雲のように公(諸葛亮)の志に共感する老将もいなくなった。(中略)もし先主が、関羽を信頼したように公を信頼し、趙雲の言葉を聞き入れて東征をやめ、曹丕が天下を簒奪したばかりで人心も定まっていないときに、孫権と手を結んで中原を問いただしていたならば、国力もまだ十分で、士気もまだ盛んだった。漢の運が衰えていたとしても、なぜ英雄の血が許昌洛陽に流されず猇亭にのみ流される必要があったのか?」[238]
  • 黄彭年:「趙雲は数十騎で敵に遭遇し、門を開け旗を伏せ、戦鼓を止め敵を油断させるという大胆な戦略で勇気を示した」[239]
  • 李景星:「関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲はいずれも蜀の名将である。故に合伝されている」[240]
  • 趙作羹:「(益州農地分配の諫言について)趙雲の提案を見るに、これは統治の基礎と言える」[241]
  • 林暢園:「孫夫人の横暴は趙雲と法正によって制御できた。このように賢者は国にとって非常に有益である」[242]
  • 陳允錫:「(東征に対する趙雲の諫言について)これは素晴らしい戦略だ。劉備はそれに従わず敗れた。天は漢に味方しなかった」[243]
  • 計大受:「(東征に対する趙雲の諫言について)この時点で彼は諸葛亮の大節に値する人物だ。そこには古代の大臣たちの遺風がある」[244]
  • 陳淡野:「人はみな器であり、各々にはそれぞれの器量を持っている。 天地のごとき器量は聖人や皇帝がそれに倣うのと同じである。 山川大海の器量は貴人の定めである。 古夷齊には他人を許容する器量あり、孟夫子には剛健の器量あり、范文正には世を救う徳の器量あり、郭子儀には福の器量あり、諸葛亮には智の器量あり、歐陽永には才の器量あり、呂蒙正には寛容の器量あり、趙子龍には勇の器量あり、李德裕には力の器量あり。これらはすべて偉大な器である」[245]
  • 王復礼:「①順平(趙雲)はまさに儒将であった。自己を律するは厳しく、人との接し方は慎重であった。道理を見る目は明晰で、私心を捨てる力は強かった。当陽(長坂)で後主を救い、奮って身を顧みず、漢水(漢中・定軍山)で功績を立て、その威勢は虎のようであった。ことわざにあるように、「胆欲大而心欲小。志欲圓而行欲方。(胆は大きく、心は小さくあれ。志は円く、行いは方正であれ)」。まさに順平のことである」[246]「②当陽の戦いと孫夫人の帰郷においては、もし趙雲がいなければ、後主は命を落としていたかもしれない。ゆえに功績・才品は言うまでもなく三国の諸人に勝っている」[247]
  • 呉雲中国語版「天性の勇猛さを持ち、将軍でありながら自ら矢石を浴び兵士を率いて最前線に立つ。これは趙順平(雲)、常開平(遇春)の遺風だ」[248]
  • 李榘中国語版:「蜀の猛将といえば、世の中では必ず関羽と張飛を最初に挙げるだろう。彼らの勇猛果敢な気概と、忠義を貫く節操は、古今を通じて傑出した人物と言える。しかし、彼らが欠けていたのは智謀であり、それが原因で敗れてしまった。私が思うに、趙雲は武将として、一万の敵にも恐れられる勇気を心に宿し、その胆力は君主に称賛され、関羽や張飛にも引けを取らない。さらに、賞の辞退や呉への出征を諫めるなど、謙虚で深く考え、時勢を見極める能力は、関羽や張飛には及ばない。まさに真の良将である。劉備、諸葛亮、関羽、張飛、そして趙雲は力を合わせて漢の復興を目指した。しかし、関羽と張飛が亡くなり、その後劉備も世を去り、趙雲が亡くなり、諸葛亮もまもなく世を去る。蜀には君臣ともに優れた人物がいなくなり、滅亡を免れることはできなかった」[249]
  • 朱軾中国語版:「趙雲・関羽・張飛・馬超・黄忠、強者を併称して五虎将。陳寿は、趙雲の剛強で勇猛なところを灌嬰と滕公にたとえたが、これは趙雲のすべてを言い尽くしたものではない。趙雲は知略が深く、度量が広く、公孫瓚の反乱の際、使者とのやり取りでその才を見せた。劉備との関係は、鄧禹光武帝に仕えたように、先見の明があった。当陽での護衛は、麦飯豆粥を煮るような手間を惜しまないほど徹底していたし、漢中の戦では、戦況を転換させるような巧みな戦略を立てた。夏侯蘭を推薦し、自分と親しくなることを避け、岑彭のように韓歆を有用な人物と見抜き、馬武のように旧部下を率いようとしなかった。趙範からの結婚の申し出や田園の贈与などを固く拒み、憂国の念を抱き公務に励む様子は、呉漢が妻が多くの田地を買ったことを怒ったという故事に似ている。要するに、趙雲の計略や戦略は、特に出兵を諫める言論に際立っていた。その見解は、諸葛亮の平生の用兵と大筋において似ており、もし趙雲が生きていれば、大将軍の地位は姜維ではなく趙雲に与えられただろう」[250]
  • 易佩紳中国語版:「趙雲は武臣であったが、儒臣としての性格も併せ持っていた」[251]
  • 李光地中国語版:「趙雲と張嶷は偉大な将軍であるだけではなく、明決で思慮深く、成熟した人物であり、古の重臣に選ばれるだろう」[252]
  • 厳如熤中国語版:「褒斜道の桟道、桟閣は趙雲と王平のような忠実で謹慎な良将を配置し、その指揮を任せたのは当然のことであった」[253]
  • 牛運震中国語版:「『趙雲別伝』には、劉備との係わり、田宅贈与の辞退、東征に関する助言などの経緯が記されているが、いずれも全体的な情勢把握という点で注目に値する」[254]
  • 朱可亭中国語版:「①趙雲は関羽、張飛と共に、馬超・黄忠を加え五虎将と呼ばれた。陳寿は彼らの強靭・勇猛な姿を見て、灌嬰や滕公に匹敵すると評した」[255]「②孫臏は竈の数を減らして敵を欺き、虞詡は竈の数を増やして敵を威嚇した。趙奢は陣を築いて守りを固め、趙雲は陣を開いて敵を惑わせた。このように虚実と強弱は戦況に応じて変化し、軍事は常に予測不能なものである」[256]
  • 魏裔介中国語版:「昭烈(劉備)は涿鹿の地で起ち上がり、一旅の兵を率いて、曹孟徳(曹操)、袁本初(袁紹)、劉景升(劉表)、呂奉先(呂布)の間で苦難を乗り越え、ついに天下を三分する基業を築いた。西南の文武の佐命は、諸葛亮、関羽、張飛を以て先とするが、しかしながら、私は順平(趙雲)を見るに大節が磊々として、ただの名将というだけでなく誠に古の大臣と呼ぶにふさわしい。長坂の戦いにおいて、順平がいなければ、劉禅(阿斗)母子は危うかったであろう。北山の戦において、順平がいなければ勝利を得られなかったであろう。漢中において、昭烈は順平を称えて、「子龍の一身はすべて胆である」と言った。私が思うに、胆とは忠義が集まったものである。忠義が性から発せなければ、どうしてこのような胆を持つことができようか。また、成都に田宅を構えようとしなかったのは、霍去病の言葉を引いて、「匈奴を滅ぼさぬうちに、どうして家を構えることができましょう。今の国賊は匈奴ばかりではない。天下が定まるまで安んじることはできない。天下が定まれば、それぞれ故郷に戻って耕すべきです」と言ったことは、まさにその通りである。また、先主(劉備)が東征しようとしたときに諫め、「国賊は曹操であって孫権ではない。関中を図り、河渭の上流から凶賊を討つべきである」と言った。その識見は特に素晴らしい。惜しいことに、先主は諫言を聞き入れず、独断で進んだために敗れ、王業が中絶してしまったことは、まことに嘆かわしい。順平の言葉を採用して、孫権を捨てて関中、秦隴(長安と涼州)を奪取していれば、漢室は興隆したであろう。先主は人を見る目はあったが、用兵の識見は時勢や権謀術数に暗かったため、自ら軍を率いるとしばしば敗れた。しかし順平のような優れた武将を、微賤の身から見出して終生信頼し合ったことは、先主の大きな功績である。史書に記された順平の功績は古今に輝き、陳寿は趙雲を灌嬰や滕公に匹敵する人物と評した」[257]
  • 同治桂陽直隷州記:『順平(趙雲)は勇猛な虎将、土地を平定し城塞を鎮めた。婚姻を拒み田宅を辞退、その毅然とした意志は一層勇気で奮い立つ』[258]
  • 乾隆帝:「趙雲が言ったように渭水の上流から逆賊を討てば、漢王朝は再興できたかもしれない」[259]

清代以降の評価

  • 盧弼:「絶世の美女の樊氏を子龍が受け入れなかったのは、関羽が秦宜禄の妻との結婚を懇願したのに対して賢明な行いだ」[260]
  • 李澄宇:「長坂の戦いで趙雲が後主を抱いて保護し、甘夫人もみな難を逃れた。孫夫人が呉に戻ると、趙雲と張飛は河を遮って後主を奪還した。この二つの出来事は今でも私たちの心に鮮明に残っている。彼の逝去後、関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠と同じく美諡を与えたのは良い行いだ」[261]
  • 梅公毅:「将軍になるためには、大胆にして細心であること。大胆であれば勇気があり、細心であれば賢明さを養うことができる。そのため、敵を打ち破って勝利を収めることができるだけでなく、不利な状況に陥っても致命的な敗北を喫することはない。三国時代の将軍の中でこれができるのは、魏の張遼と漢の趙雲だけだ」[262]

創作における趙雲

三国志演義

頤和園長廊「趙子龍大戦長坂坡」

羅貫中によって書かれたとされる長編白話小説『三国志演義』(以下『演義』)において、趙雲は初登場時の少年から70代の老将軍に至るまで長く活躍する[263]。大胆かつ細心で、知勇兼備の着実な武将として描かれ[264]、「常山の趙子龍」の名乗りで知られる[265][266]。『演義』において、趙雲が単騎で劉備の子・阿斗を救出する「長坂坡の戦い」は趙雲の武勇と忠義を象徴し[267]、関羽・張飛・馬超・黄忠ら蜀漢の諸将と並んで「五虎大将軍」(五虎上将・五虎将とも)の一人となっている。この称号は、『三国志』の撰者である陳寿が5人を一つの伝にまとめて記述したことが由来とされ[268]、『演義』のほか『三国志平話』(以下『平話』)などの語り物芸にも採用された架空の称号である[269]

明代万暦『三國志通俗演義』
麹義と戦う少年趙雲(左)

「義に厚くプライドの高い関羽」や「乱暴者の張飛」といった個性的な登場人物たちが多い中、「冷静沈着な趙雲」は劉備・諸葛亮の双方から重要な任務で重用される描写が多い[73]。上野隆三によると、登場時期が比較的早く、五虎将のうち一番最後まで生き残るという都合の良さも相まって、史実では本来無関係な場面において劉備の護衛あるいは関羽・張飛を補う存在として登場しており[270]、また、失敗を犯しがちな張飛に対し、趙雲は行動にほぼ欠点がないが、これは大衆に好まれた「暴れん坊・張飛」の個性を対比により際立てる働きを持っているという[271]

一方で、周思源中国語版は、趙雲が少年の時に文醜と互角に渡り合うという、印象的な登場シーンに始まり、他の五虎将は終わりを良しとしなかったが、趙雲は生涯の最期まで敵将を討ち取る武功を上げており、これは羅貫中が趙雲という人物の人生を丹念に作り上げ、趙雲を特に愛していたことを反映している、と指摘するように[73]、『演義』の武将の一騎打ちで、趙雲が全武将中最多の勝利数を収め、また長坂坡の戦いで曹操軍の将軍50人を討ち取るといった、彼の武勇を際立たせる描写には[272]、羅貫中による趙雲への肩入れの表れとの見解もある[273][注 43]

また陳香璉は、趙雲は『平話』で活躍が少なく(後述)、形象が弱められていたことによって、五虎将のバランスが崩れていたのを羅貫中・毛宗崗の二人が史料に基づいて趙雲を本来の姿に戻し、バランスが保たれる形になったと分析している[277]

趙雲像の形象

『全相平話三国志』中巻
「趙雲見玄徳」

『演義』の基となった『平話』や元雑劇において、趙雲は特筆すべき活躍を見せておらず[278][279]、『演義』における趙雲像にもそれほど影響を与えていない[280][210]。『演義』の趙雲像は、『演義』から発展していったものと考えられる[281]

『演義』では、『別伝』の逸話が多く採用・引用されている[282]井波律子が「士大夫の美学の結晶」と表現したように[283]、趙雲は才能と徳を兼ね備え、知略と勇気を併せ持ち、中華民族の多くの伝統的な美徳を体現する人物として描かれる[284]。『演義』における趙雲像は、比較的史料を踏まえて形成されたと見做すことができるが[285][286]、上野によれば、正史から見出される知的な印象に、勇猛さを示す描写が大幅に加筆・強化されたことで、「文武両道の儒将」としての趙雲のイメージが作り上げられたという[210]。また、毛宗崗本とも呼ばれる『演義』で最も普及する版本では、これまでの五虎大将の序列(関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲)に変更が加わり、趙雲が三番手となっている[287]。これは、先述した『演義』の操作により、趙雲は馬超や黄忠よりもめざましい活躍を見せるようになったため、史書および以前の諸版本では五番手だった趙雲を毛宗崗が昇格させたのだという[288]

『演義』の設定

正定県『趙雲廟』
「五虎殿」に祀られた五虎大将軍
(左から:黄・趙・関・張・馬)

『演義』の古い版本である嘉靖本では「身長八尺,濃眉大眼,闊面重顏,相貌堂堂,威風凛凛」(身長約185cm、濃い眉に大きな目、広い顔に広い額、端正で堂々とした容貌、威風があり凛々しい姿)とある[289][注 44]。毛宗崗本では「相貌堂堂」が消え、「闊面重顏」が「闊面重頤」(広い顔に重なったあご[注 45])に変更されている[296][注 46]

『演義』において、趙雲は初登場時(191年)には「少年」として描かれ[299][注 47]、孫夫人から劉禅を奪還した時(211年)には自身を「小将」と称する[301][注 48]。五虎将に封じられた時(219年)、58歳の関羽が趙雲のことを「我が弟」と呼び[303][注 49]、南蛮征伐(225年)では諸葛亮が趙雲のことを「中年」と呼ぶ[304]。その2年後の北伐前(227年)に突然「老将」として登場し[305]、翌年(228年)「70歳」とされる[306][注 50]

これらの描写をもとにすると、以下(左表)のようにさまざまな矛盾点が現れ、しばしば研究者の間で取り上げられている。沈伯俊は、これを「羅貫中の計算ミス」として、年齢を10歳若くすることで、他の部分の矛盾も無くなる合理的なものにした(右表)[312]。一方、当時40歳以上であった曹休が「少年将軍」と記され[313][注 51]、同じく40代の陸遜が若い美形の書生と表現されるように[315]、これらの描写は人物像を際立たせるための、意図的な「文学的表現」と解釈するものもある[316][注 52]

『演義』の70歳を元にした年齢 沈伯俊の著書(-10歳)
西暦 年齢 実際の描写 西暦 年齢 実際の描写
228年 70歳 第一次北伐 228年 60歳 第一次北伐
225年 67歳 諸葛亮が「中年」と呼ぶ 225年 57歳 諸葛亮が「中年」と呼ぶ
219年 61歳 58歳の関羽が「弟」と呼ぶ 219年 51歳 58歳の関羽が「弟」と呼ぶ
211年 53歳 孫夫人から劉禅を奪還 211年 43歳 孫夫人から劉禅を奪還
208年 50歳 長坂坡の戦い 208年 40歳 長坂坡の戦い
191年 33歳 「少年」として描かれる 191年 23歳 「少年」として描かれる

『演義』の主な事績

『長坂坡趙雲救主』
  • 『演義』では趙雲は当初、袁紹に仕えていたが[注 53][注 54]、民を顧みない人物だと判り、公孫瓚の元へ向かうと、袁紹配下の文醜に襲われているところに遭遇し、少年でありながら文醜と五、六十合渡り合い、文醜は退却。公孫瓚は趙雲を臣下に迎え、そこで劉備・関羽・張飛たちと出会う。一度劉備らと別れたのち、公孫瓚が敗北すると、趙雲は各地を放浪の末に劉備と再会、配下となる[318]
  • 荊州では劉表の後継ぎ問題に巻き込まれた際には、趙雲が劉備の護衛につき[319]赤壁の戦いでは諸葛亮を迎えに行く[320]、孫権の妹(孫夫人)との縁談のために劉備に付き従うなど[321]、『演義』では護衛任務につくことが多い。
  • 博望坡の戦いでは、正史よりも早く劉備に迎え入れられた諸葛亮の策により、夏侯惇らに勝利する[322][注 55]
  • 長坂坡の戦いは史実よりも大きく脚色されている。劉備の妻子の護衛任務を受けていた趙雲は、混乱の中で見失ってしまう。捜索中に敵将の夏侯恩(架空の人物)を討ち取ると、宝剣「青釭剣」を手に入れる[注 56]。捜索の間、『別伝』に記される「趙雲が曹操軍のいる方角へ逃走するのを見た」と劉備に告げた人物(無名)が、『演義』では糜芳となっている。
    その後、阿斗(劉禅)と糜夫人を発見するが、足手まといになることを恐れた糜夫人は、阿斗を託して井戸に身投げし自害する[注 57][注 41]。趙雲は阿斗を懐に抱え、曹操の大軍の中を単騎で駆け、50人の敵将を討ち取る。帰還した趙雲が糜夫人の死を告げ阿斗を差し出すと、劉備は阿斗を地に投げ捨て「おまえのために大事な将軍を失うところであった!」と言う。趙雲は慌てて阿斗を拾い上げるが、劉備の言葉に感激して涙する[332][注 58][注 59]
  • 桂陽攻略では、趙範は臣下の陳応(架空の人物)が撃退されると降伏。趙範と趙雲は同郷同年生まれと分かり、喜んだ二人は趙雲を兄として義兄弟の契りを結ぶ。趙範は亡くなった兄の嫁・樊氏を趙雲に娶るよう勧めるが、趙雲は道理に背く行為だと怒り、両者は再び争いになるが、結果、趙範は捕縛される。『別伝』では趙範が信用ならないことを理由に縁談を断ったとするが、『演義』は征服地で妻を娶ると劉備の名声が落ちることを理由に固辞し、劉備を感嘆させている[335]
  • 漢中を手に入れた劉備は漢中王になり、関羽・張飛・趙雲・馬超・黄忠の五人は五虎大将軍に封じられる[注 60]。五虎将筆頭になったことを伝えられた関羽は、黄忠と同格にされたことに怒り、その際、趙雲について「子龍は兄(劉備)に長く仕え、私の弟も同然」と言及する[337]
  • 関羽を孫権に殺され怒った劉備を、趙雲と諸葛亮は止めようとする[注 61]。これを聴きいれなかった劉備は夷陵で大敗、心労から病にかかり死期を悟ると、諸葛亮と趙雲を呼び寄せ後事を託す。趙雲は涙を流して地に拝し、生涯忠誠を誓う[338]
  • 史実では南蛮征伐に赴いたかどうかの記述はなく不明だが、『演義』ではこの戦いに参じている[339]
  • 第一次北伐も『演義』では大いに脚色されている。趙雲は高齢を理由に北伐の人選から漏れ、抗議の声をあげる。同行を求める鄧芝と共に出発した趙雲は、韓徳(架空の人物)の息子たちをつぎつぎに討ち取り、70代の老兵[注 62]でありながら獅子奮迅の活躍を見せるが、夏侯楙の軍勢と対峙した際、深追いして程武の計略にかかってしまう。そこへ張飛の息子張苞、関羽の息子関興が軍を率いて助けに現れ、窮地を脱する。その後は『別伝』同様、殿となって、損害なしで無事帰還する[340]
  • 諸葛亮が諸将と打ち合わせをしていると、突然一陣の風が吹き、庭の松の樹が折れる。不吉な予感がした諸葛亮の元に、趙雲の息子の趙統趙広が「父が昨晩病没した」と告げに来る。諸葛亮は「国家は棟木と梁を失い、わたしは片腕を失ってしまった」と涙ながらに言う。劉禅も声をあげて泣き、趙雲に大将軍・順平侯の爵位を贈ると[注 63]、成都の錦屛山に埋葬し[注 64]、趙雲の息子たちには墓守をするよう命じる[344]

『演義』の評価

タイ版『三国』(1944年
趙雲(左)と劉備の挿絵
Hem Vejakornフランス語版

中国では古くから、関羽は神として、張飛は豪快な武将として庶民に愛され、高い人気を誇っていた[345][346]。しかし時代が下るにつれ、趙雲のような冷静・誠実・謙虚な人物が好まれる傾向が強まった[347]。沈伯俊によれば、現代中国において封建時代のような関羽への畏敬や崇拝は失われており、傲慢・傍若無人な態度は、現代人の価値観と相容れずイメージが低下した傍ら、趙雲の勇敢な戦いぶりや美徳は現代人にも理解しやすく、評価が自然と高まったという[348]。一方、趙雲の美徳は無個性で「欠点」と見做されたり[349]、完璧すぎる芸術的イメージ故に「人の心を深く打つ力に欠ける」と批評される向きもある[350]。また、郭瑞林によると、趙範の兄嫁を妻にすることを拒んだ趙雲について「偽善的」だと批判し、「道学者のよう」だとする論者(無名)も存在するという[351]

林盈翔によると、このような評価はあくまで一説であり、学界における趙雲像研究においての共通認識は、最も読者の心をつかんだ人物であり[352][353][73]、『演義』の人気投票では絶大な人気の諸葛亮に次いで2位[354]、1位になることもある[355]。日本でも同様に人気の高いキャラクターとなっている[356][357]。女性人気が高いとされるが、方北辰はこの傾向について、「幼い赤ん坊を抱え、か弱い女性を保護した」という、弱者の命が軽んじられる時代での稀有な行為が理由という[358]韓国朴槿恵元大統領が2012年に出版した自伝で「初恋の相手」と告白すると[359]、当時中国で好意的に取り上げられた[360]北方謙三は小説『三国志 (北方謙三)』の執筆にあたって中国で取材した際、現地の女性に三国志の好きな人物を尋ねたところ、赤ん坊を助けたことを理由に、みな趙雲が好きだと答えたという[361]

  • 丘振声:「趙雲は勇猛果敢な英雄であると同時に、政治手腕に長けた政治家でもある」[362]
  • 金良年:「趙雲は勇猛果敢であること、常に勝利を収める将軍であること、慎重で厳格であること、私心がなく欲望が少ないこと、公務に忠実で法を遵守すること、そして最後までやり遂げることなどで知られ、類まれなる優秀な武将であった」[363]
  • 傅隆基:「趙雲は個性に欠けると言う人もいる。しかし、劉備が激怒し、諸葛亮でさえ何も言えなかった時に、趙雲はあえて劉備が私情で公を害していると鋭く指摘した。これは個性がないとは言えないのではないか?言うまでもなく、趙雲は『三国志演義』の中で非常に見事に描かれた典型であり、人民から最も愛されている英雄の一人である」[364]
  • 周思源中国語版:「孫夫人が劉禅を連れて呉に帰ろうとした場面で、趙雲が孫夫人の侍女たちを殺すことなく押しのけることしかしなかったのは、孫・劉両家の関係を損なわないよう冷静に配慮しており、その他にも田宅を分配することに反対したり、呉討伐の諫言など、劉備たちの長期的利益や民心を得ることも重視している。数多の武将が登場する中、このように根本的な大局から劉備に直言、諫言できる武将は他におらず、これは趙雲が人並み以上に識見があったことを示しており、趙雲のもっとも素晴らしい点はその高潔な品性であり、他の人物が及ばない点である」[73]
  • 姚品文張峰:「蜀漢の英雄たちの運命は、そのほとんどが悲劇的であるのに対し、趙雲だけは善始善終を遂げた。完璧な芸術的イメージを持つ趙雲は、悲劇的な人物が持つような人の心を深く打つ力に欠けている。完璧すぎる人物とは、概してそうである。これは、完璧な芸術的典型を創造しようとする者への戒めとなるかもしれない」[350]
  • 李殿元李紹先:「三国志人物の人気投票で、趙雲は関羽や張飛を上回り、諸葛亮に次いで第2位を獲得した。中国では諸葛亮に次いで、趙雲が最も愛され、忘れられない三国志の人物と言えるだろう」[354]

京劇

京劇とは、代(1790年頃)に北京で生まれ発展した演劇戯曲である。清代は毛宗崗が編纂した『三国志演義』が広く普及した時代(1666年頃)でもあり、『演義』を改編した『三国戯』(三国劇)が数多く作られた[365]

京劇三国演義『長坂坡』
武生の趙雲(俳優:周恩旭)
『龍鳳呈祥』趙雲(左)と劉備
  • 京劇の趙雲:(役柄など)
    武将である趙雲は主に「武生」として登場し、武生はさらに「短打武生」(軽装)「 長靠 ちょうこう武生」(重装)の2つに分かれ、趙雲は後者に該当する(→京劇#生(Shēng、ション)を参照)[366][367]。若武者として演じられる「武小生」(小生:青少年役に属する武将[368])と「武生」では端正で髭のない姿[369]、『子龍護忠』(中年期の武生)と、『失街亭・空城計・斬馬謖』では「武老生」( 靠把 こうは老生:老将役[368])なので髭をつけるが[370]1940年代の記録によると、髭のない姿で晩年も演じられるなど、俳優により演出に違いがあったとされる[注 65]。性格は胆大心細(大胆であるが慎重で几帳面)に演じられ[369]、『甘露寺』など一部の演目では、桃園の義兄弟の四番目の兄弟「四弟」と呼ばれる[372][注 66]
    主な登場演目は『磐河戦』『借趙雲』『長坂坡』『甘露寺』『截江奪斗』など。『長坂坡』は趙雲の代表的演目であると同時に、『演義』の演目の中でも人気が高い[373][374]。『演義』にはない京劇独自の演目『借趙雲』は、徐州の陶謙の救援のために劉備が公孫瓚から援軍として趙雲を借り、強敵の典韋に見事勝利し、当初は優男の趙雲がやってきたことに不満を抱えていた張飛も、すっかり心服する、という内容[375][376][注 67]
  • 衣装
    周瑜呂布と並び「白い将軍」として有名で[377][注 68]、白を基調とした衣装に青と赤を用いているのが特徴。白い靠(鎧)姿に銀槍を持ち、膝まである黒の厚底靴(または高方靴)を履く[379][380]。背中の旗は軍隊を表し、背中に4本挿す[381]。『甘露寺』(劉備と孫尚香の婚姻話。『龍鳳呈祥』とも)などでは、場面によっては靠を脱ぎ、白い 蠎袍 マンパオを着用し、模様の大龍は武将にあてがわれる[382]。京劇において、白い衣装は主に若くて見目のよい善玉の役柄に用いられ[383]、趙雲は武小生から武老生に至るまで生涯白を着る[384][注 69]
    『長坂坡』(俳優:郝帥)
    落とし穴に落ちた趙雲が人馬共に飛び出そうと、もがく場面[注 70]
  • 武生と長坂坡
    『長坂坡』は京劇初期の36本の「連台軸子戯」の一つで(後述)、有名かつ人気を博した演目だったという[387]。清朝末には宮廷内で109回演じられた『三国戯』のうち、『長坂坡』は13回に及び、庶民の間でも劇団『三慶班中国語版』が毎年年末の公演では『長坂坡』でその年を締めくくるほどの人気を見せた[388]
    親子二代で趙雲を演じた京劇巨匠の一人・武生の宗師・楊小楼中国語版は特に有名な俳優で、『長坂坡』での華麗な立ち回り姿から、「楊小楼の趙雲を見るたびに目が釘付けになり、まるで目の前に順平侯(趙雲)が現れ、魏の武将たちとの激戦を直接見ているかのようだった」と、当時の反響が残されているように[389]、「活趙雲」「活子龍」(生きている趙雲)と称賛された[390][391][注 71]。楊小楼から学んだ厲慧良中国語版の功績も大きく、数々の難度の高い技を編み出し、観客を魅了した[394]
    『長坂坡』は武劇(アクション中心の劇)に分類されるが、糜夫人とのやり取りでは歌で観客の心を揺さぶる心理表現を要求されるため、文武の高い技芸が求められる[395][396]。そのため、『長坂坡』は「武生の試金石」であり、「長坂坡を観ればその役者の技量が判る」とされる[373]。また『長坂坡』は関羽が曹操軍と対峙する演目『漢津口』[397]とセットで上演されることがあり[374]、知名度の高い武生の役者が演じる場合は、前半の『長坂坡』では趙雲役、後半の『漢津口』では関羽役というように[注 72]、一人二役で演じられる[397]
  • 当時の反響
    清代中頃、外国勢力の侵攻によって国家の危機に陥っていたにもかかわらず、劇場では人々が昆劇などを楽しんでいたことに強い不満を感じた、京劇の祖『三慶班』の程長庚中国語版は、『演義』を改編し、「忠君愛国」の思想を盛んに訴えた、36本の演目を連日上演する大作(連台軸子戯)を創り上げると都中で大評判となり、「人々がこぞって三国志を見る」という文化現象が生まれた[399]。趙雲は「仁義礼智信を完備した美将」として人々から歓迎され[400]、当時、特に京劇に熱心だった人物に西太后がいたが[401][402]、『黄鶴楼』(荊州を返さない劉備に激怒した周瑜が、黄鶴楼で宴を催し、劉備を招いて兵で脅そうとする計画を趙雲が阻止する)が上演された時には、西太后を喜ばせるために光緒帝自らが趙雲を演じたこともあったという[385]
  • 後世への影響
    京劇が民衆に与えた影響は大きく、1950年代大躍進政策時には「男は趙雲に、爺さまは黄忠に学べ」のスローガンが流行したのも京劇の影響だという[403][注 73]。京劇と同時代頃に誕生したとされる『八扇屏中国語版』(はちせんびょう:2人組による掛け合い漫才のような形式で、歴史を扱った話芸。→「相声」)の「莽撞人」には以下の描写がある。
「昔、後漢三国に向こう見ずな男(張飛)がいた。桃園の誓いを立てて以来、その兄貴分の姓は劉、名は備、字は玄徳、生まれは大樹のある楼桑。(中略)後続の四弟、姓は趙、名は雲、字は子龍、生まれは常山真定。戦では百戦百勝、のち常勝将軍に封じられた。(中略)(長坂坡で)曹操は山上から白い若武者を見下ろした。白い兜、白い鎧、白い旗、白い龍馬(白龍馬)に乗り、光り輝く銀の槍(亮銀槍)を振るう姿は、まさに勇将そのものだった」 — 『八扇屏』「莽撞人」より[404][405]
「通俗三国志英雄上壹人」
趙雲と阿斗(歌川国芳1838年
東京都立図書館所蔵)
これらは『演義』には見られない表現であり、京劇の趙雲像から影響を受けて生まれた言葉であるという[406]。葉威伸は、中国の民衆がイメージする「白袍将軍」「白馬銀槍」といった若武者・趙雲像[407][408]は、後に各地の民間伝承や創作作品にも影響を及ぼし、後述の『演義』関連小説、映像作品にみられる趙雲像にも反映され、趙雲の愛馬とされる白馬(白龍、または白龍駒)の伝承にも影響を与えたとしている[409](→「#愛馬」白龍)
渡邉義浩は『別伝』の記述にある「身長八尺,姿顔雄偉」から、『演義』や関連作品で美将として描かれる理由になったといい[410]、林盈翔は、明清時代の『演義』のさまざまな版本を比較し、挿絵の趙雲が常に白い馬に乗り[注 74]、他の武将らと違って髭のない若い青年として描かれていることや、文中では初登場時の「少年将軍」という表現、長坂坡の戦いの勇姿が相まり[注 75]、読者が趙雲を「白馬銀槍の若武者」として認識する素地を作っていたと指摘し、そののち京劇において、髭をつけず常に白い衣装を纏った美将・趙雲の登場により、若武者像の更なる強化と「白」の色彩的イメージを強く付与したという[414][注 76]
また、日本の大ヒットゲーム『三國志シリーズ』『真・三國無双シリーズ』では、さらに若武者のイメージが洗練され、中華文化圏に逆輸入されたことで、日・中相互に今日の趙雲像の形象に影響を与えたと指摘する[416][注 77](→三国志#白話小説『三国志演義』・大衆文化の受容も合わせて参照)。
  • 演目と内容
演目名 役柄 演目内容 出典
磐河戦 武小生 『演義』第7回。
趙雲が袁紹の下を去り、公孫瓚を救援する話。
[420]
借趙雲 『演義』第11回。『一将難求』とも。
援軍として趙雲を借りることに張飛が不満を漏らす。
[421]
[376]
長坂坡 武生 『演義』第41回。『単騎救主』とも。
単騎で阿斗を救う、趙雲の最も有名な演目。
[393]
甘露寺 『演義』第54-55回。『龍鳳呈祥』とも。
劉備の結婚に趙雲が護衛で従う話。
[422]
截江奪斗 『演義』第61回。『攔江奪斗』とも。
孫尚香から阿斗を奪還する趙雲の代表演目のひとつ。
[423]
[424]
子龍護忠 『演義』第71回。『陽平関』とも。
漢中で黄忠を救援する話。中年期なので黒髭をつける。
[425]
鳳鳴関 武老生 『演義』第92-94回。『斬五将』とも。
韓徳の息子達と戦う話。老年期なので白髭をつける。
[426]
『収趙雲』『黄鶴楼』『取桂陽』『白帝城』『天水関(収姜維)』『失空斬』[注 78]ほか。
『甘露寺(美人計)』『回荊州』を総称した演目『龍鳳呈祥』に『取桂陽』(趙範と樊氏の話)を取り組み、整理改定された『龍鳳呈祥』が2001年に日本で公演され、この公演でのみ趙雲と樊氏(今作での名は樊玉鳳)が結ばれる(→「樊氏#京劇」)[427]

元雑劇

明代から伝わる『安順地戯中国語版』で使われる、趙雲の仮面(貴州省安順)。
白面・朱唇・眉目秀麗の若武者の相を表す[428]

京劇が成立する清代より前の時代である時代に隆盛した戯曲の一種。『平話』と同じく、『演義』成立の過程において参考にされたといわれるが、『演義』における趙雲像の形象に関しては、『平話』同様、影響を受けたようには見られない[280][429]。演目全体を通して見ると出番は多いが、あくまで脇役に収まっている[399]

  • 設定
    慎重さと几帳面な性格が強調され、演者には特にその大胆さと几帳面さを示すことが求められたという[430]。初期に広まった物語では、趙雲は諸葛亮よりも慎重な性格をしており、「城攻めの際に、いつ出発し、いつ食事をし、いつ川を渡って城を攻めるか、綿密な計画通りに従うよう求められ、趙雲は兵を率いて出発する。直後、諸葛亮はその計画の時刻では川が満潮の影響で増水し、渡れないという重大なミスに気づいた。しかし趙雲は川の増水の事を知っていたので、事前に筏を用意し、計画通りに問題なく完了した」となっている[431]
    また、「若い頃から馬の売買に携わった」という設定があり[432]、上野隆三はこれを「荒くれ者のイメージ」と表現し[281]、葉威伸は、この設定が複数の演目に見られることから、当時民衆に広まっていた趙雲の出自を表している可能性があり、この設定は史実とは異なるが、趙雲が精鋭騎兵「白馬義従」に属していた可能性を考えると、乗馬に長けていただけでなく、馬を見抜く目も持っていたことを示唆しているという[433]
  • 演目と内容
    『平話』の物語を改編して創り上げられているが、脚色の大きいもの、『平話』にはない民間伝承を基にしたとみられる物語も存在する。いくつもの脚本が散逸し、演目名のみが残されているものも多く、その中には趙雲主題の脚本もあったと考えられる[434]
演目名 作者 演目内容 出典
劉玄徳独赴襄陽会 高文秀 『平話』中巻、『演義』の第34-35回相当。
蔡瑁らに暗殺されそうになる劉備を徐庶が補佐する話。
話術に長けた趙雲が、徐庶を説得して劉備に仕官するよう促す。
[435]
諸葛亮博望焼屯 不詳 『平話』中巻、『演義』の第37-39回相当。
諸葛亮を迎え入れ博望坡で夏侯惇と戦う話。臥龍崗にいる劉備に、
趙雲が甘夫人が阿斗を出産したことを告げに来る。
[436]
[437]
[25]
両軍師隔江闘智 『平話』中巻、周瑜が美人計で劉備を謀る。『甘露寺』相当。
趙雲の会話に「長坂坡で三日三晩、百万の軍勢を相手に阿斗を守り、
曹操からは「一身是胆」と称された」[注 79]という話が出てくるが、
長坂坡を題材にした脚本は現存していない。
[438]
[439]
劉玄徳酔走黄鶴楼 朱凱 『平話』中巻、赤壁戦後、周瑜との会合で劉備が黄鶴楼に向かう。
趙雲は会合への参加に反対し、自信過剰な劉封は劉備を焚きつけ、
趙雲と意見が対立する。深謀遠慮な老将(ベテランの将軍)として描
かれ、劉封からは「老趙」と呼ばれている[注 80]
[441]
走鳳雛龐掠四郡 不詳 『平話』下巻。荊州南部四郡争奪戦。
関羽・張飛・趙雲が黄忠らと戦う。『平話』では趙範が長沙太守に
なっているが、桂陽太守に修正されている。『演義』に描かれる
樊氏との一連の物語は脚本に見られない。
[442]
[443]
曹操夜走陳倉路 『平話』下巻。劉備が益州を平定し、曹操が陽平関に攻め入る話。
黄忠を救出したり、空城計で敵を退けるエピソードはなく、陽平関で
待ち伏せ任務の担当、という脇役に収まっている。
[444]
陽平関五馬破曹 『平話』下巻。
黄忠が夏侯淵を斬るなどの陽平関、定軍山の話を基にした話。
諸葛亮が趙雲に敵将の旗を掲げさせ陽平関を騙し取ったり、五馬
(馬超・馬良・馬忠・馬謖・馬岱)をひそめて曹操軍を包囲し、蜀が
大勝利する。
[445]
[446]
寿亭侯怒斬関平 『平話』には見られない話。民間伝承由来とみられる。
五虎将の子らが張虎と戦う話。趙雲の子・趙沖なる人物が活躍。
[399]
趙子龍大閙塔泥鎮 演目名のみが残り、脚本散逸のため内容不明。
趙雲が主題の演目だったとみられる。
[435]
[434]

他の芸能

台山浮石飄色「趙子龍救主」

四川の川劇では、魏延が何度も趙雲を「老将軍」と呼んだり、趙雲が「老将」を強調したセリフや歌を唄うなど、老兵としての演出が強い[447]。そのため、川劇の趙雲像が四川の人々に与えた影響は大きく、四川地方では趙雲に対して老将のイメージが根付いているとされ、また成都武侯祠の趙雲の塑像が老人の姿で制作された要因の一つとも考えられている[448]。演目のひとつである『三聖宮』(別名:審阿斗)では、蜀漢滅亡後に幽閉された劉禅のもとに趙雲の魂がやってきて、彼に導かれて劉備ら桃園の三兄弟が待つ「三聖宮」に連れられ、蜀漢を滅ぼしたことについて劉禅が三兄弟から尋問・説教される、という川劇独自の演目がある[449]

河北梆子の『青鋼(釭)剣』の演目では、趙雲の妻として李翠蓮という人物が登場し、長坂坡の戦いで劉備達とはぐれた趙雲が、迷い込んだ村で出会い結婚するといった内容になっているほか[要出典]湘劇中国語版では2016年に公演された「趙子龍計取桂陽」(趙範との戦いの演目)では、白と銀を基調にしながらも、京劇の衣装とは違う湘劇独自の姿で演じられる[450]

そのほか、中国の民俗パレードの一種、台山市『浮石飄色』と呼ばれる抬閣中国語版[注 81]では、主に伝統的な物語をテーマにし[451]、巡回公演する際に「常勝の将軍」(常勝将軍)趙雲を先頭に配置することで、「旗開得勝」(良いスタートを切って勝利を得る)という縁起を担ぎ、『楊家将演義』の架空人物「困難を乗り越え勝利を収める女将軍」穆桂英を最後尾に置くことでパレードの締めくくりにし、必ずこの2つを用いて縁起を担いでいるとされる[452]

小説と評書

京劇の『三国戯』が誕生して以降の作品では、京劇・民間伝承(後節参照)双方の影響を受けた「白馬にまたがり白袍姿に銀槍を持つ若武者」という描写が見られ、また1980年代前後の作品からは白馬の名前に「白龍」が確認できる[409]

  • 三国志後伝:明代の小説。蜀漢滅亡後、劉備、関羽、張飛、趙雲ら子孫の活躍を描いた作品。
  • 反三国志演義:1924年~1930年連載。
    周大荒が新聞『民徳報』にて連載した作品。趙雲と馬超の二人が主人公。「蜀漢が三国を統一する」という物語。この作品のオリジナルキャラクターとして、馬超の妹の女武将・馬雲騄が登場し、趙雲と結ばれ夫婦となる。
  • 評書三国演義
    正式名称は『三国演義』。略称は『袁三国』。評書(語って聞かせる話芸)表演芸術家・袁闊成中国語版1929年 - 2015年)の評書作品。1984年から中央人民広播電台で放送され、国内外で支持を集めた[453]。趙雲は張飛らから京劇のように「四弟」と呼ばれ、「白馬「白龍駒」にまたがり、銀の鎧かぶとをつけて亮銀槍を持つ少年将軍」となっている[454][455][注 82]
  • 長編平話三国
    張国良(1929年 - 2013年)による説話(平話)作品。1983年から全20巻を予定していたが、作者の体調不良により14巻で終了となった。民間伝承、三国志平話の設定のほか、袁闊成の作品と同様に京劇の影響を多く受け[注 83]、白馬「鶴頂白龍駒」と銀槍「鼠白爛銀槍」を持つ槍の名手[458]。公孫瓚や劉備との出会いは回想で語られ、別れた劉備を探すために馬商人に扮して各地を旅している第十七回から登場し、作中の描写によれば「背は低く、小柄な書生のようだ」と侮られたり[459]、「白袍に身を包み銀の槍を持ち、整った顔に氷のように透けた美しい白い肌」とある[460]。『反三国志演義』からは馬雲禄が登場し[461]張任張繡とは同じ武術(槍)の師の元で学んだ兄弟弟子の関係、といった独自設定も盛り込まれている[462]。この設定は中国のTVドラマや映画などでも度々使用されている[463]

民間伝承

遺跡にまつわるものなどは→「#古跡と施設」を参照。

人物

『三国志演義』貂蝉
  • 貂蝉:『演義』に登場する架空の女性。民間伝承『貂蝉改嫁』という物語で、「呂布の死後、貂蝉は郭嘉の助けで曹操から逃亡中に偶然偵察に来ていた趙雲に救われ、彼に惹かれることになる。郭嘉は二人の縁を結ぼうとするが、趙雲が劉備軍であるため難航。郭嘉の死後、張遼がその意を継ぎ、長坂坡の戦いの混乱に乗じて趙雲に縁談を持ちかける。貂蝉を気にかけていた趙雲はこれを受け入れ、張遼が曹操に献策し、曹操軍の攻撃が止んだことで趙雲は無事脱出。その後、張遼と郭嘉の妻が貂蝉を趙雲のもとへ送り届け、二人は結婚。貂蝉は郭嘉の妹「郭蕙」と偽り、正体を隠して幸せに暮らした」という顛末になっている[464]
  • 孫軟児:民間伝承に登場する趙雲の妻。戦場で一度も怪我をしたことがない趙雲を戯れで針を刺したところ、趙雲は血が止まらず死んでしまった。
  • 関銀屏:関羽の娘がモデルの人物。趙雲に師事して武術を習う。
  • 少年期の伝承
    少年時代の趙雲について、臨城では趙雲が天から降りてきた龍や星とするなどといった伝承[465]、正定では幼少の頃から知略に優れ、力が強かったことを示す話として、悪い和尚をこらしめる、狼を退治して仲間を助けるというような伝承がある[466][467]

愛馬

  • 白龍:(はくりゅう)
    もしくは白龍駒という名の白い駿馬を愛馬にしていたという。この馬は昼は千里を、夜は八百里を走ることができ、人の心も理解したので趙雲と意思疎通ができ、馬上でどんな技を使おうとも、すぐに理解して手足のように動き、趙雲はこの馬を特別に可愛がったという[468]。『平話』『演義』では白馬に乗る趙雲像はまだ確立されていなかったが[409]、清代の京劇における趙雲の「白」のイメージが民間伝承や創作作品に影響を与え、趙雲の愛馬=白馬となって中国各地に白馬の伝承が生まれ、1980年代前後に講談大家の袁闊成・張国良がそれぞれ作品内で「白龍(駒)」と名付け、これらが広まったと考えられている[409][注 84]
  • 子龍池:(洗馬池、子龍洗馬池)
    四川省成都にかつて存在した、趙雲が住んだと伝わる官邸裏にあった、どんな傷も癒したという池。「南宋時代、蒙古の襲撃を受けて成都を襲撃した蒙古軍を白袍姿に銀槍を抱え、白馬に乗った将軍が撃退した。成都の人々は彼を趙雲だと考え、その将軍が馬を洗っていた『子龍池』という池の横に楼閣と塔を建て、趙雲の塑像を祀った」という民間伝承が存在する[470]。1950年頃には池は埋め立てられ、跡地の学校には「漢順平侯洗馬池」の碑が存在する[471]。伝承によれば、現在の「和平街」という通りの旧称「子龍塘街」は子龍池に由来するという[468]

長槍

交趾陶」槍を持った趙雲像
  • 涯角槍:(がいかくそう)
    『平話』に登場する。「海角天涯に敵う者なし」という意味で名付けられており、張飛の槍に次ぐ名槍とされる[472]。同説話ではこの槍で張飛と互角に一騎討ちをしている[473]。『演義』では採用されていない。元雑劇では「牙角槍」または「牙角長槍」、「鴉脚長槍」と記され、「牙角」は陳寿が趙雲を評した「強摯壮猛、併作爪牙」が由来と考えられ、「鴉脚」は槍の形状を指しており[399]、「涯角」「牙角」「鴉脚」は全て発音が似ているため、涯角槍という呼称は当時の民間の口承で広まり、説話者や雑劇作家それぞれが表記や解釈を加えた可能性が高いと考えられる[474]
  • 亮銀槍:(りょうぎんそう)
    涯角槍以外に近代の民間伝承で一般的になった槍の名称。京劇の銀槍の影響を受けて創作されたと考えられ、民間伝承と芸術分野で相互に影響を与えあい、趙雲の標準武器として銀槍のイメージが定着した[475]。正定県・臨城県・その他民間伝承を扱った書籍にさまざまな物語が語られている[476][477]
正定版
2つの物語「趙子龍学芸」[478]「趙雲学芸」[479]が存在し、「趙雲が両親に別れを告げ、太行山で武術の師匠(老人)を数日掛けて見つけだすが、老人はいびきをかいて眠っており、趙雲は辛抱強く跪いて待ち続ける。目覚めた老人は誠意に感動して弟子入りを認め、趙雲は3年武芸を学ぶ。師匠は趙雲に銀槍(亮銀槍)を与え、人々を救うために旅立たせる」。二種類の武術を習得し、ひとつは「亮銀槍」の槍術、ひとつは「破堅拳」という拳法で、「漢中の戦いで曹軍を散々に打ちのめした」と書かれる。師匠が得物に大刀を選ばせなかった理由として「赤ら顔(関羽)がすでに習得しているためだ」と説明し、関羽と兄弟弟子であることが示唆される[480]
臨城版
趙雲が槍を手に入れる物語が複数あり、共通して「趙雲が長い蛇を見つけ、その蛇を掴んで振り回したところ、槍に変化した」といった内容で[481]、張飛の蛇矛の伝承(張飛が修行中に大蛇を見つけ、尾を99回振り回すと蛇矛になった[482])と類似している。張飛の蛇矛の伝承は古くからよく知られており、この伝承を元に趙雲に置き換えて作られた可能性が高いという[483]

刀剣

日本刀に施された
趙雲と阿斗の彫刻
(ウォルターズ美術館所蔵)
  • 青釭剣:(宝剣)
    『演義』に登場。元は曹操が所有する対の宝剣(倚天剣と青釭剣)の一本。夏侯恩が曹操から預かっていたのを趙雲が奪い取った[484]。長坂坡や孫夫人による連れ去りなど、阿斗の危機の際にのみ使用される[注 56]
    かつて当陽には趙雲の剣にまつわる「当陽草」と呼ばれた植物の伝承が存在し、清代(康熙)の『当陽県志』には「趙雲が長坂坡の戦いで曹洪の剣を手に入れ、それは鉄を切ること泥の如く、曹兵数百人を斬って血が草に飛び散り、今も草には血の点が残っている。里謡(民謡)に曰く、〈当陽草、点々班班として血を掃う如し。問う、明公は何の故ぞ?子龍の一戦、旌旗倒る〉」とあり[485]、当時地元で語り継がれ広く流布していた証拠として記される[486]
    この植物は明代の嘉靖本『三国志通俗演義』において、馬温公(司馬光)の作とする『長坂詞』の引用にも見られるが[487][注 85]、毛宗崗本『三国志演義』では削除されている。これは清代以降に里謡が次第に消滅したためとみられ、現在、どの植物を「当陽草」と呼んだのかは不明[489]。そのほか、趙雲が越王の雄剣を得る別の伝説も存在する[490]
  • 金牛山の剣
    南朝時代に陶弘景が著したという『古今刀剣録』には、章武元年(221年)に劉備が金牛山から採取した鉄で八振りの剣を鋳造したと記され、その剣は劉備自身が佩用したほか、子の劉禅・劉理劉永、諸葛亮、関羽、張飛、趙雲にそれぞれ与えられたという[491]

装飾品

  • 戒指:(指輪)
    趙雲が指輪を身につける文化を広めたとの伝承がある。益州・荊州・正定で違ったパターンがあり、益州版では「趙雲が長板坂で阿斗を救出して包囲を突破したとき、張郃から薬指に深い傷を受けた。傷痕はかなり目立ち、醜く感じたので、趙雲は職人に傷を隠すための金の輪(蓋指)を作らせた」という。荊州版は2種類あり、どちらも「趙雲の死後、彼の生前着飾った姿の像が作られ、指に金の輪をはめていた。人々はそれを真似て身に着け、その習慣が今日、指輪として民間に広まった」とされ、相違点は、塑像の由来が「後主・劉禅は趙雲に感謝し、彼の像を作った」とするものと[492]、「荊州の関帝廟にある趙雲の像」に基づいたとする[493]。正定版は、「長坂坡で徐庶に助けられた趙雲は、張郃・曹洪から受けた指の傷を指輪で隠した。その後益州に入った折、趙雲の金の指輪を見た現地の人々も指輪をつけるようになり、今日でも指輪をつける習慣が四川省の成都と綿陽の人々の間で伝わる」とある[494]

古跡と施設

中国

名称 場所 説明

趙雲廟
河北省
正定県
趙雲を祀った廟。正定県の民間伝承含め、詳細は該当記事を参照。

傾井村
同省
霊寿県
正定県のある石家荘市に隣接する霊寿県にある村。村名は、公孫瓚配下時代の趙雲が袁紹配下の将・周昂との戦いに敗れた際に立ち寄って飲んだ、傾いた井戸の伝承に由来する[495][496]
臨城趙雲墓 同省
邢台市
臨城の趙雲の墓。詳細は該当記事を参照。
後趙雲堡村 同省
邯鄲市
辛安鎮鎮中国語版にある趙雲の名が由来の村。創建年代不明。趙雲が軍を率いてこの村に駐屯したと伝えられている[497]
長坂坡公園 当陽市 「長坂坡古戦場」に整備され、趙雲を顕彰するために造られた公園。近くには「子龍路」「子龍村」など[498]、趙雲にちなんだ地名や村名がある。「子龍畈」と呼ばれる丘の近くには、糜夫人が阿斗を抱えて避難したという「太子橋」や、糜夫人が身投げした井戸「娘娘井」など、『演義』にまつわる遺跡が存在し、「長坂坡花飯」という炒飯が名物[499][注 86]

子龍灘
同省
咸寧市
赤壁市
赤壁近くの砂州の名。民間伝承「子龍射帆」によると、『演義』で東南の風を起こした諸葛亮を恐れた周瑜が兵を差し向けた際、追跡から逃れるために趙雲が呉船のを止める縄を射抜くと、落ちた帆が大きな砂州へと変わり追っ手の進路を遮ったことから、その場所は「子龍灘」と呼ばれるようになったという[500]
南陽趙雲墓 湖南省
南陽市
南陽にあった趙雲の墓。詳細は該当記事を参照。湖南省の「子龍脱袍」というを使った伝統的郷土料理名の由来のひとつは、趙雲にまつわる[501][注 88]
芙蓉峰

趙侯祠
同省
長沙市
寧郷市
趙雲がこの山に駐屯したとあり、趙侯祠(別名:漢順平候趙将軍廟。後述の関口趙侯祠とは別物)が建てられていた(→「趙雲廟#その他の趙雲廟」を参照)。
蒙泉(八角井) 趙雲が掘ったとされる井戸にまつわる泉。伝承では、桂陽攻略時に趙雲が兵を芙蓉峰に駐屯させたが、真夏で水が不足し、兵士たちの士気が低下。危急の際に開けるようにと諸葛亮から渡された錦囊には八卦図が入っており、指示通りそれを置いたが数日経っても水は出ず、長槍で八卦図を突き刺すとそこから勢いよく水が噴き出したので、そこに井戸を掘って「萬軍泉」と名付け、のちに「蒙泉」に改名したという[503][504]。この泉にまつわるブランド酒「趙子龍」がある[505]。2006年省級文物保護単位指定。
関口趙侯祠 桂陽県
橋市郷
趙雲が営盤嶺に兵を置いたという伝承があり、塑像が祀られている(→「趙雲廟#その他の趙雲廟」を参照)。この地域でのみ、「子龍片」と呼ばれる薄切りの乾燥タケノコの伝承がある[506][注 89]
桂陽攻略にまつわる伝承は多く存在し、「肉丸子中国語版[注 90]、肉丸子と似た伝承の「子龍郡壇子肉」(桂陽壇子肉[509])などがある[510][注 91]
大邑趙雲墓 四川省
成都市
大邑の趙雲の墓。詳細は該当記事を参照。
静恵山公園 静恵山公園中国語版山上に「子龍祠」があり、羌族を監視するために趙雲が築いたという「望羌台」などの伝承が複数存在する(→「大邑趙雲墓#大邑の伝承」を参照)。

成都武侯祠
諸葛亮、主君劉備とその臣下を祀る霊廟。「文臣武将廊」に蜀漢の文臣武将28体の塑像が祀られ、趙雲が筆頭で祀られている[206]
この塑像にまつわる民間伝承など、詳細は該当記事を参照。
和平街 旧称「子龍塘街」。趙雲の居宅があったと伝わる。(→「#民間伝承」子龍池)

石経寺
竜泉駅区山泉鎮にある中国仏教とチベット仏教が融合した、四川省西部の五大仏教密林のひとつ。後漢末期に建てられ、 当初は官僚の私邸であったが、蜀漢の時代に趙雲が封地として受け継ぎ、家廟にして「霊音寺」と名付けたと伝わっている[511][512]。寺の大雄宝殿左側には、道光四年に建てられた石碑があり、「霊音とは、漢の将軍・趙侯の香火である」と刻まれている[512]
(→「石経寺中国語版」)
万年鎮子龍村 同省
南充市
趙雲の字が由来の村。伝承によると、趙雲が領内の峠道で一夜を過ごしたことに由来する[513]
黎州

趙雲祠
同省
雅安市
大邑の南西に位置する、雅安市漢源県に存在した歴史上最古の趙雲祠(→「趙雲廟#その他の趙雲廟」を参照)。
姜太公釣魚台 陝西省
宝鶏市
五丈原西に存在する、太公望に因んだ地名。崖に赤い文字で「趙雲、鄧芝屯兵處」と刻まれており、この地に趙雲と鄧芝が第一次北伐で駐屯したとされている[514]
(→「姜太公釣魚台中国語版」)

台湾

名称 場所 説明
佳里子龍廟

永昌宮
台南市
佳里区
趙雲(趙聖輔天帝君)を主祀として祀った廟。詳細は該当記事を参照。

マレーシア

名称 場所 説明
北海船仔頭

天福宮
Bagan
Ajam
マレーシア檳城州北海にある子龍廟。詳細は該当記事を参照。

趙雲主題の作品

映画
  • 三国志(原題:三国志之見龍卸甲)中国・韓国、2008年。
     主演:劉徳華(アンディ・ラウ)、声:東地宏樹
  • 『真・三国志 蜀への道』 (原題:趙子龍)中国、2020年。
     主演:賀軍翔(マイク・ハー)、声:小松史法
  • 『三国志 趙雲 無双伝』 (原題:趙雲伝之龍鳴長坂坡)中国、2020年。
     主演:梅洋(メイ・ヤン)、声:小松史法。
  • 『趙雲伝之莫問少年狂』中国、2021年。
     主演:王正宣。※日本未公開。
     張繡とともに槍の名手の師匠のもとで学び、黄巾賊と戦う。
  • 『槍神趙子龍』中国、2022年。
     主演:張子文。※日本未公開。
     長坂坡の戦いを元にした作品。同門の兄・張繡と戦いを繰り広げる[463]
  • 『戦神趙雲』中国、※2028年公開予定[515]
     主演:張子文。
映画(WEB配信)
  • 『三国志 武神・趙雲伝』 (原題:武神趙子龍)中国、2023年[516]
     主演:杜宇航(デニス・トー)。
テレビドラマ
小説
文庫版『三国志武将列伝 趙雲伝』(歴史ポケットシリーズ)、全四巻。
 「放浪の子龍(1)」1998年。 ISBN 487719620X
 「天翔の騎士(2)」1998年。 ISBN 4877196455
 「江東の策謀(3)」1998年。 ISBN 4877196463
 「覇望の入蜀(4)」1998年。 ISBN 4877196471
小説(未完)
小説(短編)
朗読CD
  • 『三国志 Three Kingdoms 公式朗読CDシリーズ "夷陵に燃ゆ" 趙雲篇』
     「三国志TK朗読CD」製作委員会、株式会社エスピーオー、2012年。
     【~眠れぬ貴女に捧ぐ~特装版】CD+DVD
      (インタビュー映像、ドラマ「三国志Three Kingdoms」ダイジェスト映像)
     【通常版】CDのみ。主演:KENN
漫画(連載)
漫画(短編)
漫画(読切)
ゲーム

脚注

注釈

  1. ^ 清の歴史学者・王鳴盛の『十七史商榷[3]など。
  2. ^ 孫堅や劉備など、趙雲のように州郡と協力して兵を率いた人物の年齢はおよそ18歳前後~20歳以上の者に多くみられることから、趙春陽と方北辰は趙雲の生年を170年前後、つまり191年の挙兵時は20歳前後の説を支持している[1][2]。175年~180年頃に生まれたとする説[注 1]もあるが、生年を180年と仮定すると191年時点で11、2歳となり、この年齢で義従兵を率いたとは考えづらく、趙春陽はどんなに遅い生年でも175年までとし、それ以降に生まれた可能性を否定している[1]
  3. ^ 趙春陽、方北辰によれば、趙雲の字「子龍」は、「子」は男子の尊称、「龍」は『易経』の『乾』に記される「雲は龍に従い、風は虎に従う」[6]から取られたと考えられ、「相似た性質を持つ者同士は互いに求め合う。立派な君主のもとには優れた臣下が現れることのたとえ」といった意味があるという[7][8][9]。また日本では「子竜」表記もある[10]
  4. ^ 当時、義勇兵は「義従」と呼ばれ、「道義によって従う人」という意[16]
  5. ^ 方北辰は、冀州の人々が袁紹に味方する中、趙雲ら常山国が公孫瓚側に就いた理由について、「当時冀州では支配者が変わる大変動が起こっていた。袁紹が冀州牧の韓馥を追い詰め死に追いやり、冀州を占拠した。趙雲の故郷・常山国は、この横暴・傍若無人な袁紹に反抗するため義従兵を組織し、袁紹の敵対勢力である幽州の有力者・公孫瓚を支援するために派遣された」という[18]
  6. ^ 渡邉義浩は、公孫瓚の応対態度から、趙雲との間に真の主従関係は結ばれていなかったのだろう、と推察している[20]。趙春陽は、この『別伝』に記述される「公孫瓚とともに征討した」の一文と、公孫瓚配下となった時期から、191年の勃海郡で起こった、黒山賊と合流しようとした青州徐州の黄巾残党30万と公孫瓚の戦い[21]に趙雲も参加した可能性が高いとしている[22]
  7. ^ 「主騎」の解釈については、沈伯俊や渡邉義浩を中心に「護衛(または親衛隊)隊長」[24][25]や「ボディーガード」[26]とするものが見られる。渡邉によれば、「(『別伝』を除いた)正史には長坂坡で阿斗を保護したことと、あとは北伐で曹真に敗れ、死後に順平侯と諡されたことしか書かれていない」こと、「三国志を編纂した陳寿は、趙雲を夏侯嬰になぞらえて評価している」ことを根拠として、「正史の趙雲は劉備の家族を守る『護衛隊長』である」とする[27][28][29][30]。一方で、『新唐書』巻一百三十五「哥舒翰伝」に見られる「使王思礼主騎,李承光主步」(王思礼を「騎兵の主」に、李承光を「歩兵の主」に)や、『資治通鑑』第六十巻の「為備主騎兵」(劉備の騎兵の主になった)をもとに、「騎兵隊長」だとする解釈もある[22]
  8. ^ 幽州北部を拠点とする烏桓を中核とした精鋭騎兵隊である幽州突騎は、後漢の初代皇帝・光武帝の切り札的存在であり、公孫瓚もまた幽州突騎の流れをくむ、烏桓を含めた白馬義従を率いた[33]。方北辰は、趙雲は馬術に優れ、公孫瓚の白馬義従の一員として、趙雲ら常山の義従兵が編入されたと見做し[34]、劉備の主騎(騎兵の隊長)となったことは、黎明期の劉備にとって大きな意味を持っていたとする。当時、劉備は千人ほどの歩兵部隊しか率いていなかったが、趙雲が率いてきたのは単なる騎兵ではなく、『三国志』「先主伝」に記される「幽州烏丸雑胡騎」、すなわち幽州の烏桓など草原民族の騎兵であり、「天下の名騎」と称されるほどの非常に高い戦闘力を誇る精鋭部隊であったという[35]。この騎兵団の加入は劉備軍の総合力を飛躍的に向上させ、徐州の陶謙を救援できるほどの力を得て、陶謙は徐州を劉備に譲るに至るなど、劉備の事業を新たな段階へと進めることに貢献したとしている[36]
  9. ^ 趙春陽は、劉備が青洲で袁紹との戦いにおいて功績をあげ平原郡のになり、身分で差別せず平原の人々に善政を敷いて慕われたことと[37][38]、公孫瓚の立ち振る舞いなどを比べ、趙雲が公孫瓚に失望していたのだろう、と述べている[39]
  10. ^ 清代の学者・何焯は、「正史の趙雲伝には「劉備が平原相であった時、趙雲はすでに劉備に従って騎兵を率いていた」と記されている。一方、『別伝』には「袁紹のもとに身を寄せ、趙雲は鄴で劉備に目通りした」とあり、これは建安5年(200年)以降の出来事であるため、本伝の記述と矛盾する」と指摘し、『別伝』の記述を虚構とする[42]
  11. ^ 劉備が創設した官[55][56]。「牙門」は「将軍旗(牙旗)の立つ軍門」を意味する[57]}。「牙門将」という官名もあるが、蜀の「牙門将」とは「牙門将軍」を指すと考えられる[58][59]。魏延のほか、趙雲の次子・趙広も牙門将(軍)に就いている[60]
  12. ^ 将軍の指揮下で副官や小隊を率いる[66]。「かたわら」「副」の意味を持ち、将軍に昇進した場合に最初に就任することが多い[67]
  13. ^ 中国には同姓不婚(同じ姓を持つものは先祖が同じという考えで、不妊や子孫の質への影響を考え、同姓同士の婚姻が禁じられていた)という考えが古くに存在していたため。趙春陽は、これは趙雲の建前であり、趙範が美人計を用いて自分を陥れようとしているのではないかと疑ったのだとする[68]
  14. ^ 劉備が創設した官[71][72]。「軍営に留まり、軍務を総括する」役割[72]周思源中国語版によれば、「衛戍(駐屯地)の司令官兼、公安局長のようなもので、本拠地(公安)の安定・管理と宮中(孫夫人)のことも任せられた重要な役職」だという[73]
  15. ^ 劉備が創設した官[89][90]。『華陽国志』によると、翊軍将軍への昇進は劉備の漢中王即位後であり「関羽為前将軍,張飛為右将軍,馬超為左将軍,皆假節鉞。又以黄忠為後将軍,趙雲翊軍将軍」と四将と並んで昇進したと記録されている[91]。「兵を統率する」[90][92]以外の詳細な職掌は不明で、歴代の就任者は趙雲と霍弋。翊軍将軍になった時期が正史(214年)と『華陽国志』(219年)で違いがあり、宮川尚志は『華陽国志』の記述を採用している[93]
  16. ^ 方北辰は、曹軍が撤退した理由として「2か月前、夏侯淵が敵に油断し討ち取られたが、曹操は過去に何度も彼に「勇に頼らず時には臆病になるべきだ」と忠告していた。今この状況はまさに、その臆病になる時だったので、曹操は撤退した」と述べている[102]
  17. ^ 渡邉義浩は、漢が首都・洛陽を守るため、北方騎馬民族に対抗するための騎兵兵器として強弩を開発し、「天下の精兵」と称された当時最強の強弩部隊である冀州強弩が冀州に置かれていたこと、趙雲が冀州の出身かつ幽州の公孫瓚に仕えていたことから、趙雲は冀州強弩と幽州突騎双方の戦法に通じていたとし、それが定軍山の戦いにおける空城計の成功要因だったのではないかとしている[105]
  18. ^ 劉備が趙雲をたたえた「一身都是膽也」は、強い勇気があり、何事にも恐れないことのたとえとして、故事成語(四字熟語)「一身是胆」になっている[106]
  19. ^ これは、のちに兵法書『兵法三十六計』に記される『空城計』と呼ばれる心理戦とされ、歴史上初めて行い成功させたのは趙雲とされる[107][108]郭沖『蜀記』は、諸葛亮が寡兵で司馬懿の大軍に空城計を用いたと記すが[32]、裴松之に否定されている[109]。また『三国志演義』では諸葛亮が空城計を用いて司馬懿ら魏軍を退けるエピソードがあるが、趙雲のこのエピソードがモデルとなっている[110]。そのほかに、魏の文聘も使ったといわれる[32][111]
  20. ^ 方北辰はこれについて、対呉戦争時には前線ではなく江州督として後詰めに任じられたこと、劉備の家族の保護・劉備の留守時における大本営の鎮守・敵の軍糧の奪取といったように、趙雲は武功は立たないが重要な特殊任務で起用されることが多かったことを挙げ、「関羽や張飛のように趙雲に才能がないからではなく、劉備が彼にそのような機会を与えなかった」のが原因とし、さらに「上司の指示に忠実に従い、他の将軍と主役を争うようなことをしなかった」のも一因だったとしている[114][115]
  21. ^ 方北辰は、関羽の魏討伐について「なぜ劉備は重鎮を派遣して後方の大本営(江陵)を守らせなかったのか。趙雲は当時特に任務を抱えておらず、冷静かつ勇猛、周到な性格から適任者であったにもかかわらず、劉備はそうしなかった。糜芳のような不徳不才の人物を南郡太守に任命し、大本営を守るという重責を担わせたことが敗北につながった」と批判し、荊州を失った原因として、劉備の人材登用における縁故主義と不手際、盲目的な楽観に加え、首席補佐である諸葛亮が助言や注意を促さなかったことにも一定の責任があるとしている[118]
  22. ^ 宮川尚志は「この意見は、新たに興った蜀漢のまさに進むべき国策を明確に認識したもの」と評し、「魏の領土となった華北を久しく放置すれば、民心はいつとはなしに漢の故土であったことを忘れ、魏政権を正しいものとみなしてしまうであろう。民心なおひそかに漢を思う間にこそ、堂々と実力に訴え、名分に正し漢の正統の権利を主張すべきである」と述べている[125]
  23. ^ 禁軍の執掌(指揮、支配)と武官の人事選抜を司り、諸将を統率する[128][129]。建安12年(207年)に曹操が「護軍」を「中護軍」と改め、呉や蜀でも設けられた[130]。なお『華陽国志』では、建興元年(223年)以前に中護軍に就任している[131]
  24. ^ 四征将軍中国語版のひとつ[92]。方面軍司令官[132]。劉備の入蜀時に、趙雲は成都のある蜀郡の南の江陽郡、そして『華陽国志』によれば犍為郡を攻略したとされ、その功績によるものと考えられる。
  25. ^ 四鎮将軍のひとつ[92]。方面軍司令官[132]。就任時期不明。夷陵の戦いの功績によるものと考えられる。蜀と呉の同盟関係により、蜀漢においては征東将軍の官職は設置されず、鎮東将軍のみが置かれていた[133]。趙春陽は、劉備は曹操より鎮東将軍の地位を譲り受けたことがあるため[40]、その地位を劉禅が趙雲に継承させたことは、趙雲を高く評価していたことの証左だとしている[133]
  26. ^ 『三国志』諸葛亮伝および『華陽国志』によると、趙雲たちの軍は疑軍(少数の兵を多数に見せかけること)であった[137][139]と記述されている。 また、『漢晋春秋』には「祁山、箕谷では蜀軍の方が曹軍より多かったが撃破できなかった」とも記述がある[140]
  27. ^ 『三国志』「趙雲伝」「諸葛亮伝」では、趙雲らの兵力が劣勢であったと記述されている一方で、『漢晋春秋』では祁山、箕谷の戦いで趙雲らが敵よりも兵数で優位に立っていたと記されており、一見矛盾する記述が見られる。この点について趙春陽は、斜谷道は補給において輸送が困難な悪路で兵の消耗が激しいことから、趙雲らが斜谷道を通って渭河平原に出たとしても、平原での戦闘は補給が容易かつ良質な西北産の馬を擁する曹魏の騎兵が圧倒的有利である上、蜀漢は体の小さな西南産の馬かつ優秀な騎兵にも欠いていたため、「兵数は敵より多かった」としても「趙雲らの兵は弱かった」という状況になっていたとする[141]
  28. ^ 渡辺精一、趙春陽らは、趙雲は疑兵作戦を成功させたものの、北伐全体の失敗という大局から見て、重臣という立場から責任を問われ降格は免れなかったと論じる[144][145]。一方、周思源は趙雲と鄧芝の部隊が少人数で、曹魏の兵力が圧倒的に強大であったため、斜谷道から郿への出撃が困難となり、任務を果たせなかったとみて、降格の理由を任務の失敗にあると分析している[73]
  29. ^ 周思源は北伐での趙雲の行動について、「趙雲は(殿として)自ら命を危険に晒し、他者に生還の機会を与えた。大将としての趙雲は実に立派だった」と評し、「恩賞の辞退も、私欲を一切抱かず、公のために尽くしていたことがわかる。北伐では敗北したが、完璧な人物とは、決して間違いを犯さない人のことではなく、その過ちの性質と、それにどう対処したかという態度が重要なのである」と述べている[73]
  30. ^ 原文の「(箕谷)不戒之失」について、ちくま学芸文庫『正史三国志 蜀書』の「諸葛亮伝」では該当箇所を「不謹慎」と訳す[146]
  31. ^ 劉備が創設した官[148][149]。四鎮将軍の下に位置付けられるとされる[150]胡三省は、『晋書』職官志を根拠にすると鎮軍将軍は四征将軍・四鎮将軍の上位であるため、鎮東将軍から鎮軍将軍へとなるとむしろ昇格になることを指摘し、「思うに、蜀漢の制度では鎮東将軍は方面の鎮圧を専らにするものだから、鎮軍将軍は雑号将軍だった。それゆえ降格となるのだろう」と述べている[151]。しかし蜀の鎮軍将軍は四征将軍や四鎮将軍同様に上位職の鎮軍大将軍の位が置いてあり、雑号将軍であるとは考えづらい。盧弼は「『宋書』百官志では、鎮軍将軍は四鎮将軍と比較すると、四鎮将軍に次ぐ。『晋書』のいう鎮軍将軍は鎮軍大将軍のことであるから、四征将軍・四鎮将軍よりも上位なのだ」と述べている[152]
  32. ^ 趙作羹『季漢紀』には「夏4月、鎮軍将軍趙雲が亡くなった。当初、趙雲は降格されたが、賊を討伐する志を益々強くし、憂いと労苦が重なり、病に倒れた。皇帝(劉禅)はこれを聞き、朝廷を中止し悲しんだ」と記すが、その根拠は不明[154]
  33. ^ 『三国志』『三国志演義』の関連書籍などによっては、『後出師表』を真作とし、228年を没年として採用しているものもある[159]。一方、黄式三は「後出師表が偽物であることを知らない者は「趙雲伝」のことを考えないのか!仮に趙雲伝の「七年」の字が偽りであるとしても、伝は五年、六年、七年の出来事を続けて記しており、「七」を「六」に改めることはできない」と、後出師表を贋作とする[160]
  34. ^ 杭世駿中国語版は「趙雲の功績は関羽と張飛に次ぎ、馬超や黄忠よりも優れている。景耀三年に関羽・張飛・黄忠・馬超が追諡されたが、趙雲は含まれず、一年(半年)遅れて追諡されたのはなぜだろうか?」と述べている[163]
  35. ^ 趙雲は最後の12人目であり、蜀漢で二文字の諡を贈られたのは、諸葛亮(忠武)[164]・関羽(壮繆)[165]・趙雲(順平)[31]の3名のみである[166][167]
  36. ^ 尺は時代によって長さが違うため、書籍によっては約190cmを採用している[173][18]
  37. ^ 魏や呉と比較して、蜀は巻数・記述量ともにもっとも少ないが、蜀には史官が設けられていなかったという[161]。他の理由として、西晋王朝を正統とするためには、前身の魏王朝の正統性が求められたため、西晋・魏について不利益な内容などは書けないことが多く、特に蜀漢は魏の敵国だったので、内容が簡略になったという事情がある[178]
  38. ^ 清の考証学者である何焯は、『別伝』の内容は子孫による美辞に溢れ[195]、また趙雲の諫言は、諸葛瑾が劉備に宛てた書状や、孫権が称帝した際の諸葛亮の発言を模倣したものだと述べている[196]
  39. ^ 李光地は、「趙雲の美徳はみな『別伝』に見られるが、本伝では全く触れられていないのは、なぜなのだろうか?」と述べている[202]
  40. ^ 欒城は古くから趙雲の故郷であるとして、場内に祠を建立した。また、欒城趙雲廟は関羽信仰を広めた山西商人の「山西会館」と隣接しており、趙雲廟の事業や資金援助に関わっていたとみられる[205]
  41. ^ a b 嘉靖本や葉逢春本といった嘉靖年間に刊行された版本には、趙雲は主母(糜夫人)を叱責して死なせてしまったために不忠であり、伍子胥と同様に武臣廟に入ることができず、共に門番を務めたという記述がある[328][329]。両者が門将だったという記述は民間伝承によるものと思われる[330]。この記述については、思想が陳腐で融通のきかない文人によるものだとする推測がある[331]
  42. ^ 李光地によれば、趙雲が幼い後主(劉禅)を拾ったことが、夏侯嬰が幼い恵帝を拾ったことに対応している[216]
  43. ^ 小出文彦は、羅貫中が趙雲の出身地である常山真定に近い太原出身であることから、『演義』において趙雲を贔屓し、活躍が際立って描かれる一因になったとしている[274]。しかし、羅貫中の出身地は太原(現在の山西省太原市)、東原(現在の山東省東平県)、銭塘(現在の浙江省杭州市)など諸説紛々であり、正確な出身地は特定されていない[275]。そのほか、趙雲の二人の息子の趙統・趙広を墓守にして、正史で趙広が沓中で戦死したことが『演義』では描かれなかったことについて、「趙雲贔屓の作者、羅貫中にしては謎である」とも述べている[276]
  44. ^ 嘉靖本の「相貌堂堂、威風凛凛」は、関羽と趙雲にのみ見られる表現[290][291]
  45. ^ 「重頤」は「二重あご」と解釈されることが多いが[292]、趙春陽によると、「頤」の本来の意味は頬で、『孫子・九地』には「偃臥して涕が頤に交わる」とあり、この場合は涙が頬を流れることを指し[293]、また、『新唐書』で武則天が「方額で頤が広い」と形容されているように[294]、「頤」はやや解釈が難解な言葉という[295]
  46. ^ 毛宗崗本では、樊氏の再婚相手の3つの条件のひとつが嘉靖本の「人才出衆」(傑出した才能)から「相貌堂堂」(容貌秀でた人)に変更されている[297]。これについて趙春陽は、3つの条件のうちの2つが、ほぼ同じ内容(第一:人才出衆、第三:文武双全)だったため、毛宗崗が変更したという[298]
  47. ^ 史実の趙雲は生年不明のため年齢不詳で、少年として登場するのは『演義』の創作である[300]
  48. ^ ここで言う「小将」は謙遜の言葉で、「末将」のような意味合いが強く、主君の妻である孫夫人に対して「大将」や「老将」(ベテランの将軍)と自称するのは失礼にあたるためだと考えられる[302]
  49. ^ これは『演義』での設定の年齢であり、史実の関羽の正しい年齢は生年不詳のため不明である。
  50. ^ この描写から生年を逆算し、『演義』関連物では趙雲の生年を158年とするものがある[159][307]孫軟児など一部の民間伝承では「80歳、90歳まで生きた」とされる[308][309]。また中国の公園や施設に展示されている趙雲像の台座や展示板には「148年生まれ」とするものも存在する[310]。そのほか、光栄(現:コーエーテクモゲームス)のシミュレーションゲーム『三國志シリーズ』では、ゲームのシステム上、全武将に生没年が設定されており、趙雲はこのゲーム独自に「168年生まれ」と設定されている[311]
  51. ^ 林盈翔によると、40歳以上であったはずの曹休が「少年将軍」と称されるのは不適切である、と記述ミスを指摘し、趙雲の場合、左表の33歳を正とすると、やや無理はあるものの、「曹休の40歳余りに比べれば相対的にはまだ合理的であろう」と述べている[314]
  52. ^ 林盈翔は、これら年齢の矛盾について、「『演義』は時を超えた壮大な講史小説であり、その中の人物の年齢は元々曖昧になりやすいため、読者は年齢に不合理があっても深く追求しない。ゆえに、趙雲の人物像は、少年将軍として登場したことから、受け手に若武者のイメージを抱かせた」と指摘する[317]
  53. ^ 『別伝』に記される、趙雲が兄の喪に服する逸話は採用しておらず、他の登場人物とは違い、彼の家族や家業については一切描かれない。『演義』において趙雲の家族構成は完全に空白となっている[73]
  54. ^ 袁紹に仕えるという設定は『平話』にも存在しており、公孫瓚とは無関係のままである[300]。公孫瓚は、劉備を取り立てて面倒を見たことから『演義』では「善玉」扱いとなるため、趙雲が公孫瓚から劉備につく場合、公孫瓚を裏切ることになりかねない[300]。一方、袁紹はどちらかと言えば悪玉として登場するので、『演義』の理屈では裏切りが許容されるのだという[300]
  55. ^ 『別伝』に記される、趙雲がこの戦いで命を救った幼馴染の夏侯蘭は、『演義』では夏侯惇の副将として登場し、張飛から槍のひと突きで馬から突き落とされ、退場となる[323][46]。姚品文と張峰によれば、公私をわきまえる趙雲が私情を挟む人物になることを嫌い、羅貫中が夏侯蘭に関する記述を捨て去ったのだという[324]
  56. ^ a b 諸刃の「剣」は春秋戦国時代に多用された武器で、漢の時代になると片刃の「刀」の普及により剣の使用は少なくなった。それにより剣の神秘性が増して尊重されるようになった[325]。小林瑞恵によれば、青釭剣は趙雲の英雄性を高めるための武器として登場させたと考えられ、また劉禅を救う場面でのみ用いられるため、劉禅と趙雲の絆を表しているという[326]
  57. ^ 史実の糜夫人は、正史の記述によると下邳で曹操に捕らえられたと思われ、消息不明である。『演義』は阿斗を抱いていた甘夫人を麋夫人へと変更し、彼女が現場にいたことになっている。方北辰は、この場面の描写は虚構が多いだけでなく欠点もあり、史実では逃避行の全過程において、趙雲が自ら阿斗を抱き、同時に甘夫人を保護し、ずっと離れることはなかったが、『演義』の趙雲は阿斗らを見失い、女性を死なせ、護衛に失敗しているとして、史実の趙雲のイメージを損なっているという[327]
  58. ^ 劉備が阿斗を投げ捨てて罵るエピソードは『平話』由来である[333]
  59. ^ 中国では、この劉備の言動から、「劉備が阿斗を投げつける(劉備摔阿斗)…人気取り」という故事成語が生まれている[334]
  60. ^ 漢中(定軍山)の戦いにおいて、『別伝』では「虎威将軍」と軍中で号されたとあるが、『演義』ではこれが趙雲の官職名となっている[336]
  61. ^ 劉備を諫める台詞は『別伝』とほぼ同じ言葉が引用されるが、『演義』ではさらに「兄弟の仇は私的、漢の仇は公的、どちらが天下のために重いかお考え下さい」と台詞が追加されている。これは羅貫中が趙雲の意図をさらに明確に描写しているという[73]
  62. ^ 史実では年齢不詳で、70歳とは『演義』の創作である。
  63. ^ 史実では「順平候」は諡号。
  64. ^ 『演義』において錦屛山は「趙雲の墓」の場所以外にも物語中2度登場し、1つは劉璋の配下である張任らが錦屛山を通って紫虚上人に吉凶を尋ねる場面[341]、もう1つは劉禅が錦屛山が崩れる夢を見た直後に諸葛亮の死の知らせを聞くという場面[342]で、錦屛山は蜀の人物や政権などの死と滅亡に結びつけられているが、これは『演義』の創作か、或いは当時の民間伝承に基づいて作り出した可能性もあるという[343]
  65. ^ 黄裳によると、『截江奪斗』では俳優により髭をつける者(武老生)とつけない者(武生)がいたといい、そのため黄裳は、趙雲を「武生」ではなく「生」と呼んでいる[371]。さらには『斬馬謖』(馬謖を斬る:第一次北伐の演目のひとつ)においても、趙雲が老将であるにもかかわらず、ここでも髭をつけない俳優がいたといい、髭のない青年として描かれることが多かったという[371]
  66. ^ 葉威伸によれば、『演義』における関羽の台詞「子龍は我が弟」が元々の由来で、そこに「関羽・張飛と同じく活躍した趙雲を桃園の義兄弟の一人にしてあげたい」という人々の願いが反映され、「桃園の四人兄弟の一人」という設定が広まった可能性があるという[372]
  67. ^ 中国には「一呂二趙三典韋、四関五馬六張飛……」という、三国時代の武将の強さの順を表す数え歌があり、一番が呂布、二番が趙雲、三番が典韋、四番が関羽、五番が馬超、六番が張飛…となっており、『借趙雲』で趙雲が典韋に勝つという展開が反映されているという[375]
  68. ^ この三者(周瑜・呂布・趙雲)は見た目こそ似ているものの、それぞれ自惚れ・賤しい・驕らずひるまず、といったように、性格・身分・演技はまったく違ったものになっているという[378]
  69. ^ 『奪成都(収馬超)』では、同じ武生の馬超(趙雲と同じく白が基調の靠)との区別をつけるために、この演目でのみ赤い衣装を着ることもある[385]
  70. ^ テーブルを落とし穴と見立て、高く跳びあがり、両足を開いて横一文字に開いたまま着地、手を使わず立ち上がり、また横一文字…を繰り返す、高難度の技のひとつ。『長坂坡』では、このように、演目内容と高い技巧が深く関連しているという[386]
  71. ^ 楊小楼は他の役者が趙雲を演じる際、緊迫感のある曲調で登場したのを、「趙雲の冷静沈着・謙虚・おとなしい性格に合わない」との判断から落ち着いた曲調へ変更、登場後は立ち位置を舞台中央から舞台横へ変更し、戦闘では八卦掌通臂拳を取り入れ、観客を魅了した[392]。これにより、『長坂坡』は楊小楼の代表作となった[393]
  72. ^ 関羽は紅生の役柄で、浄(剛直・粗暴な役)と武生の両方を演じることが出来る[398]
  73. ^ 黄忠もまた、京劇の演目『定軍山』で人気を博し、劇中歌は拍手喝采になったという。スローガンの女性版「女は穆桂英に、婆さまは佘太君中国語版に学べ」の人物は、どちらも京劇で演じられる架空人物である[403]
  74. ^ 単色の印刷上、実際の馬の毛色はテキスト上にも記されていないため不明であるが、趙雲は常に白馬に乗っており、敵方は黒馬で表現され、区別しやすいようになっている[411]
  75. ^ 『演義』第41回の長坂坡の戦いで、贊詩に「血染の征袍甲紅透き、当陽の激戦誰が敵う!」[412]とあるように、「服や鎧が血に染まって透ける」の表現から、白の衣装を連想しやすく、イメージの強化に繋がったと分析し、また、葉威伸の見解と同様に、「白馬将軍」公孫瓚の元に居たことも、白馬・白のイメージ強化に繋がっているという[413]
  76. ^ これにより、他の五虎将との個性を際立たせることにも成功しているという[415]
  77. ^ これら中国の趙雲像に近いものは、日本では1982年から1984年にかけて放送されたTVドラマ『人形劇 三国志』にて髭のない若武者として造形されたのが初出とされる[417]。翌1985年には光栄のシミュレーションゲーム『三國志』が販売され、「白馬銀槍と白袍の若武者」という、中国の従来の趙雲像を踏襲しつつも現代の美的価値観に合わせた、洗練されたデザインになっている[416][418][419]
  78. ^ 『失街亭・空城計・斬馬謖』を並称して『失空斬』とも。
  79. ^ 趙雲を称した「一是身胆(全身が肝っ玉)」は本来、劉備の言葉だが、元雑劇では曹操の台詞になっている。
  80. ^ 「老〇」は、信頼関係のある自分より年上の者に対する親しみを込めた尊称で、若者にも使用される[440]
  81. ^ 中国の伝統的な祭りの際に行われる民俗パレードの一種。古代の中原地域で神様を迎え入れる儀式が流行したことが始まりと考えられている。広東省台山市浮石村では「飄色」と呼ばれる。唐宋時代、演劇や話芸が流行するとともに大人や子供が演劇の登場人物に扮して街を練り歩く風習が生まれ、このうち表演者(8歳から10歳ほどの子供)が細い棒で支えられ、台の上で空中に浮いているように見えるものを飄色と呼ぶようになった。毎年旧暦3月3日の北帝(道教の神様の一柱)の誕生日に行われる。2008年、国の重要無形文化財に登録[451]
  82. ^ 『袁三国』完結後、1988年には趙雲を主題とした『長坂雄風』が全27回で放送され、この作品では樊氏が趙雲と結ばれる展開になっている[456]。袁闊成のその他の作品に、これら趙雲に関する作品を再構築して小説化した『趙子龍』があり、元雑劇の「幼い頃から馬を売り、西方の戎の地を転々とした」という設定を採用しており、趙雲が鉅鹿郡で馬を売っているところから物語がはじまる。公孫瓚への仕官~死後、劉禅に大将軍に追封されるまでの一生を描いている[457]。この作品では、白馬の名前として「玉蘭白龍駒」が登場する。
  83. ^ 趙雲の過去が回想で語られる際に、京劇の演目『借趙雲』(劉備が公孫瓚から趙雲を借りる話)を引き合いに出している。
  84. ^ 趙雲の最初の主君である公孫瓚が白馬義従を率いていたこと、後に趙雲が劉備の主騎になったことから、白馬に乗るイメージに繋がったとも考えられる[469]
  85. ^ しかし司馬光の著書には当陽草の詞は収録されていないことから、元・明時代にすでに民間で流布していたとみられる「当陽草」の里謡を、羅貫中が改編し、司馬光に仮託した可能性が高いという[488]
  86. ^ 伝承によると、唐・宋時代に長坂坡の語り部が趙雲が阿斗を救った話を語り、その横で炒飯の屋台主たちが趙雲の槍や剣さばきをヘラに置き換え、七度の作業工程を趙雲の動きに例えて調理したことに由来する。
  87. ^ 董卓が真定にやってきた際に太守がもてなしたところ、董卓は料理を気に入らず不機嫌になる。そのとき、店の隅に座っていた青年(趙雲)がシュッと長袍を脱いで立ち上がって董卓に話しかけた。この一連の動きを見て新しい料理がひらめいた料理人が、鰻の皮をシュッと剥いて香菜と炒めたところ、董卓は大変気に入った。料理人が若者の字から「子龍脱袍」と名付けたという[502]
  88. ^ 湖南料理の一種。別名「紫龍脱袍」「溜炒鱔絲」。名前の由来は諸説あり、「鰻が小さい龍(子龍)に見えることと、皮を剥くことを「袍を脱ぐ」ことに例えた」あるいは「鰻の皮をきれいに剥ぎ取った様子を「紫龍」に例えて名付けた」という説、「湘楚地方の料理人が趙雲への敬意を表し、趙雲が戦袍を解いて阿斗を懐に抱いたことからこの料理を考案し、鰻を趙雲に見立て名付けた」という説があるが、これは近年インターネットで広まった説で、正定の民間伝承[注 87]が広まったことから、新しく作られたものと考えられている[502]
  89. ^ 伝承によると、出征において冬から春の食料が乏しい時期にタケノコを掘って食べる習慣が身についた趙雲が、保存が効くよう天日干しにし、人々はそれに倣った。趙雲がこの地を去ったあと、乾燥させたタケノコを「子龍タケノコ」、「子龍片」と呼ぶようになったという[507]
  90. ^ 「再会」を意味する桂陽名物の肉団子料理。桂陽旧正月三大料理のひとつ。伝承によると、趙雲が桂陽を占領した後、駆け付けた劉備たちと趙雲が再会を喜んで祝宴を開いた際、桂陽の人々から黄金色の丸い揚肉団子が献上された。これを食べた趙雲らは絶賛し、それ以来、桂陽の人々のお祭りを祝う料理になったという[508]
  91. ^ 桂陽名物の肉料理。桂陽の人々からこの料理を献上され、気に入った趙雲が劉備にも献上し、劉備が「子龍郡壇子肉」と名付けたという[508]

出典

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  219. ^   (中国語) 大唐平百濟國碑銘, ウィキソースより閲覧。 趙雲一身之膽,勇冠三軍;關羽萬人之敵,聲雄百代。
  220. ^ 『永嘉朱先生三国六朝五代紀年総辨』《昭烈皇帝》中国哲学書電子化計画。(論趙雲伐呉之諫)可謂深切著明。知天下大体矣。
  221. ^ 『江湖長翁文集』十四中国哲学書電子化計画。趙子龍退魏兵玄徳謂,一身是胆署,皆可為法矣,彼皆大不得已,所謂出死入生転敗為功者。
  222. ^ 『鄭元佑集』如趙雲之安民于蜀,亦豈宜以有限之屋共無窮之求。
  223. ^ 『蕭氏續後漢書』巻九中国哲学書電子化計画。雲雖虎臣,其所建明,通達國體,如還田宅,以繫民心,留軍資以須冬賜,赦呉而專事魏,有諸葛亮念所不到者,若其不納趙範之兄嫂,以遠同姓之嫌,律己之嚴如此,方時諸將,其最優乎?
  224. ^ 『続後漢書』雲忠繾綣御侮。始終不渝。為漢爪士。功烈志胆。曹樊之俦。雲尤識慮経遠。壮而不疎。毎進忠益。輒中幾会。
  225. ^ 『遜志齋集卷之十二 蜀漢本末序』夫昭烈至仁厚,孔明之忠順,固可以為君臣師表;而蔣琬、費祎、董允之治國,關、張、趙、馬之用兵,與夫諸葛氏之有瞻、尚,關氏之有彝,張氏、趙氏之有遵及廣,推其所由來,昭烈、孔明之事,蓋有出乎區區功業之外、成敗之表者。
  226. ^ 『狂狷裁中』二中国哲学書電子化計画。子龍心貫金石,義薄雲天,不減関張。
  227. ^ 『史評』然則雲之本末,自有大臣局量也,豈名將雲乎哉?
  228. ^ 『明一統志』智勇兼全。子龍可謂有古大臣之風。
  229. ^ 『詳註史略補遺大成』(昭烈)用趙雲而取漢中,遣関羽而攻樊城。
  230. ^ 『古今治統』子龍不特渾身是膽。殆渾身是智。為三分之完人歟。
  231. ^ 『諸葛忠武侯全書』光明洞達,可為濫賞之戒。観雲本末,自是大臣局量,不但名将而已。
  232. ^ 『二十一史論賛』而趙雲之辞田宅請滅魏,皆有古大臣識量,寧得僅以以名将律之。
  233. ^ 『左氏法測要』十一中国哲学書電子化計画。張遼、趙雲出入敵塁,使敵披靡,以英風猛気自足懾敵,敵不敢害也,然非大将之道。
  234. ^ 『史懷十七卷』觀雲本末,自是大臣局量,不獨名將而已。
  235. ^ 『西園聞見錄』中国哲学書電子化計画。趙雲,文鴦,出入萬衆,單槍匹馬,所嚮無前。
  236. ^ 『歷代史論』《安祿即唐亂方簫孫堅黨飄肅態彈丸餘矣》中国哲学書電子化計画。『歴代史論』(論趙雲伐呉之言)其明大義,断大策,同於魯粛,然度先主不能聴也。
  237. ^ 『三峰史論』趙雲以漢賊不可不討,故授以室而不顧,漢賊未滅一語,嚴于春秋,大哉即己溺天下之心也。
  238. ^   (中国語) 『読通鑑論』, ウィキソースより閲覧。 迨猇亭敗矣,先主殂矣,国之精鋭尽于夷陵,老将如趙雲与公志合者亡矣[...] 向令先主以篤信羽者信公,聴趙雲之言,輟東征之駕,乗曹丕初簒、人心未固之時,連呉好以問中原,力尚全,気尚鋭,雖漢運已衰,何至使英雄之血不灑于許、雒,而徒流于猇亭乎?
  239. ^ 『選将論』趙雲以数十騎遇敵,開軍門偃旗息鼓,勇在胆也。
  240. ^ 『四史評議』関羽,張飛,馬超,黄忠,趙雲,皆為蜀之名将,故合伝。
  241. ^ 『季漢記』(評分田之諫)観雲此議,得為治之本矣。
  242. ^ 『三国志旁証』引  以孫夫人之橫,但任趙雲、法正二人便足以制之,賢者之有益於人國如此。
  243. ^ 『史緯』(論趙雲諫東征)此策甚高,備不従以取敗,天不祚漢也。
  244. ^ 『史林測義』(論趙雲諫東征)時則不愧諸葛忠武之大節。而有古大臣之風烈已。
  245. ^ 『相理衡真』人亦一器也,莫不各有其量。如天地之量,聖賢帝王之所效焉。山嶽江海之量,公侯卿相之所則焉。古夷齊有容人之大量,孟夫子有浩然之氣量,范文正公有濟世之德量,郭子儀有福量,諸葛武侯有智量,歐陽永叔有才量,呂蒙正有度量,趙子龍有膽量,李德裕有力量,此皆遠大之器。
  246. ^ 『季漢五志』順平真儒将哉。其律己也厳。接人也慎。其見理也明。其去私也力。若夫当陽救主。奮不顧身。漢水立功。威還似虎。語云。胆欲大而心欲小。志欲円而行欲方。其順平之謂乎。
  247. ^ 『季漢五志』当陽之戦、孫夫人之帰,微子龍則後主将不免矣,故無論勳烈才品迥出三國諸人之上。
  248. ^ 『両罍軒尺牍』天性勇毅,身為大帥仍複親冒矢石,為士卒先,此趙順平,常開平之遺風。
  249. ^ 『活齋集』巻五(看史剰語,趙雲爲將)蜀之虎臣,世必以關張爲稱首,其雄猛氣槩,忠義節行,果可謂古今傑然者也。然其所短者智畧,皆以此見敗。吾觀子龍之爲將,萬夫之勇,固已負於其心,一身之膽,宜見稱於其君,足以上下於關張。而況其辭第分賞及諫伐呉等事,謙退深遠,識機明分,又非關張之所及,真良將也。先主武侯與關張子龍,勠力以圖興復,關張亡而先主継崩,子龍逝而武侯且卒,蜀之君臣上下無人焉。雖欲不亡得乎。
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参考文献と関連書籍

文献・原作

  • 陳寿撰、裴松之注『三国志』
  • 常璩『華陽国志』
  • 『三国演義(毛宗崗本版)』

日本語書籍

  • 宮川尚志『諸葛孔明 「三国志」とその時代』光風社選書、1988年。 ISBN 487519014X 
     (電子版:宮川尚志『諸葛孔明 「三国志」とその時代』講談社学術文庫、2011年。 )
  • 陳寿撰、裴松之注 著、井波律子 訳『正史三国志5蜀書』筑摩書房ちくま学芸文庫〉、1993年。 ISBN 4480080457 
  • 井波律子『三国志演義』岩波書店岩波新書〉、1994年。 ISBN 9784004303480 
  • 沈伯俊、譚良嘯『三国志演義大辞典(日本語版)』潮出版社、1996年。 ISBN 9784267012389 
  • 小林瑞恵(後藤裕也、高橋康浩、中川諭)「関羽・趙雲 崇拝・愛される武将」『武将で読む三国志演義読本』勉誠出版、2014年、147-261頁。 ISBN 9784585290780 
  • 渡邉義浩 著「趙雲 主君の子を守り抜く」、鶴間和幸 編『侠の歴史・東洋編(上)』清水書院、2020年、240-249頁。 ISBN 9784389501228 
  • 武田靖彦 著、渡邉義浩監修、株式会社コーエーテクモゲームス企画協力 編『三国志ビジュアル百科』講談社、2018年。 ISBN 9784065135808 
  • 石川夏子 著、渡邉義浩監修 編『三国志 英傑完全ランキング』宝島社、2020年。 ISBN 9784299010926 

中国語書籍

  • 蘇平修、王京瑞『中国民間文学集成・正定県故事巻(第一巻)』石家荘市正定県三套集成編委員会、1988年。 
  • 王登雲 編『三国伝説故事365(下)』中国国際廣播出版社、1991年。 ISBN 7507803805 
  • 郝志強、王信忠 著、侯風春 編『関於趙雲故里』大衆文藝出版社、2009年。 ISBN 9787802403857 
  • 趙春陽『完美武将:趙雲』江蘇鳳凰文芸出版社、2019年。 ISBN 9787559436634 
  • 陳寿、楊耀坤、掲克倫、裴松之「巻三六 蜀書六 関張馬黄趙傳第六」『今注本二十四史「三國志」』中国社会科学出版社、2020年。 ISBN 9787807526384 
  • 葉威伸『武神傳説 歴史記憶与民間信仰中的趙雲』文津出版社有限公司、2023年。 ISBN 9789863391326 

論文

TV番組

(書籍:紙・電子版)方北辰「蜀国名将編 戦将型名将併列第二名——趙雲」『三国名将 一個歴史学家的排行榜』北京大学出版社、2014年。 ISBN 9787301248133 『百家講壇』の原稿を改稿。番組内容と一部相違あり。

関連項目



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