作品背景・モデル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/28 13:59 UTC 版)
「不器用な天使 (小説)」の記事における「作品背景・モデル」の解説
『不器用な天使』が書かれた時代は関東大震災から6年後で、その震災前後のモダンな都会の事物や風俗を背景にした中流・上流階級的な青年が主人公となっている。カフェの女給が〈ウエイトレス〉と書かれ、卑猥な〈バア〉と区別されて描かれているが、まだこの頃のカフェはいかがわしい風俗営業の場所ではなくモダンで上品な店として存在し、そこで働く女給も、知的階級の客をもてなすモダンガール的な仕事であった。また震災被害に遭い生活に困窮していた都市中間層の女性たちが働いていた場所でもあった。 『不器用な天使』のモデルとなった店や人物は、堀の知人や『驢馬』同人の証言から、上野のカフェ「三橋亭」で働いていた少女で、彼女はその後「宝亭」という料理店に転職したものとみられる。 堀辰雄と親交のあった永井龍男によれば、神田小川町にあった「宝亭」(多賀羅亭)という高級店で働いていた「素人素人した、清潔な感じ」の若い女性に堀辰雄が好意を持っていたとし、「娘の休日の日に、散歩をする約束が出来たということで、前夜質屋へ一しょに行ってくれと堀が云い出した。私は質屋を知らず、なにか犯罪めいた怖さを感じたので、例ののれんの所まで行き、堀が用をたすのを待ってこともあった」と述懐している。 伊藤整は、作品舞台のカフェ「シャ・ノアール」(黒猫の意)に関して、上野広小路にあったとし、作中の女給はその後に「宝亭」という料理屋で働いていたと語っている。 私はこの作品の内容は忘れたが、この作品中に登場する女性を後に知った。それは昭和八九年頃だから、堀君を本所へ訪ねた頃のこととなる。神田小川町の角に近い辺に宝亭という支那、西洋料理店があった。大きな古い店で、夏目漱石がよく行った店で、トチメンボーを食わせろ、という『猫』の中の場面もここだったかも知れない。その店へ、私はよく行った。昭和八九年頃、私は金星堂という出版社(昔新感覚派の『文芸時代』を出した店)にいて、そこの主人の福岡益雄さんが行きつけの店だったので、私が色々な場合について行ったのである。そこに、名は忘れた、痩せた背の高い、目の細い、美人とは言えないが静かな表情の女が勤めていて、行く度に福岡さんが、「堀君に逢いますか」などと、少しからかうように言った。その人が上野の「黒猫」にいたのだと、福岡さんから聞いた。感じのいい人で、堀君が親しみを覚えそうな人だと思った。衷情が弱く、病気か不幸かを連想させる所があった。二十二三位に見えた。この人と堀君との間には、世間的に考えられることは、何もなかったと思う。しかし、その頃堀君は著名であり、その料理店の少女は淋しそうだった。 — 伊藤整「堀辰雄の思い出」 佐多稲子は、堀辰雄にフランス語を習うことを勧められ、アテネ・フランセに通う定期券や月謝、教科書やノートまで買ってもらう親切を受けたことがあり、自身が女給として働いていた駒込神明町(現・文京区本駒込)の動坂のカフェ「紅緑」(こうろく)には、堀ら『驢馬』同人らがよく来ていたことを述懐している(のちに佐多は、室生犀星の媒酌で窪川鶴次郎と結婚)。 堀と『驢馬』同人であった窪川鶴次郎はカフェ「紅緑」で知り合った佐多稲子と結婚したが、『不器用な天使』のカフェ「シャ・ノアール」(黒猫)は、同人らが「パイプの会」と称し雑誌のことで集まっていた上野の「三橋亭」のことだとし、そこに居た女給を仲間内で「ブリユー・バード」と呼んでいたことなどを以下のように語っている。 その頃三橋亭に僕たちがブリユー・バードと呼んでいた、せいのすらりとした、いわゆる美しい顔ではないがそう呼ばれるような清潔な娘々した女の子がいた。西沢がその子を好きになり、私がやはりカフェーにいた佐多稲子とそのまえの年の春いっしょになったという前例もあって、私や宮木の加勢でいよいよ西沢が彼女と、西沢のほうから言えば逢引をすることになり、一挙に話をまとめようとして、彼らは上野公園で逢い、田端の西沢がちょっといたことのある下宿へ彼女を連れて行った。(中略)ずっと後になって堀辰雄がブリユー・バードとドライヴなどしているということを聞いた。誰も彼女とのことを堀にたしかめたものはないが、『不器用な天使』を読むと、その主人公の「娘」といい当時のことをまざまざと想像させるものがある。 — 窪川鶴次郎「『驢馬』時代の堀とのこと」 堀辰雄の妻の堀多恵子は、『不器用な天使』で主人公がカフェの娘とシネマ・パレスで映画『ヴァリエテ』(エミール・ヤニングス主演)を観に行く場面に関し、佐多稲子から「あれは私なのよ」と聞かされたことがあり、佐多がドイツ映画を堀と観たことを「堀さんの私に対する堀さんらしい文学的配慮を感じる」と随筆に書いていたと語っている。
※この「作品背景・モデル」の解説は、「不器用な天使 (小説)」の解説の一部です。
「作品背景・モデル」を含む「不器用な天使 (小説)」の記事については、「不器用な天使 (小説)」の概要を参照ください。
作品背景・モデル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 00:21 UTC 版)
堀は『聖家族』を書き上げた後、1930年(昭和5年)10月に多量喀血(結核のため)をし、翌年1931年(昭和6年)4月から富士見サナトリウムに入院し、そこを6月に退院後は、知人である軽井沢の片山広子(筆名:松村みね子)の別荘や宿屋に滞在するなど療養生活を送っていた。しかし、『美しい村』の執筆を始める1933年(昭和8年)頃は、堀が片想いしていたといわれている、松村の娘・片山総子(筆名:宗瑛)との別れがあり、そういった精神的危機からの脱皮が創作の動機となっている 。 そういった痛手から、数か月後の1933年(昭和8年)6月に軽井沢を訪れ「つるや旅館」の「つつじの間」に滞在した堀は、7月に「黄いろい麦藁帽子をかぶつた、背の高い、痩せぎすな、1人の少女」に出会うが、この「夏」の章に登場する少女のモデルが、のちに堀の婚約者となり、『風立ちぬ』のヒロインとなる矢野綾子である 。 松村みね子の一人娘である片山総子(筆名:宗瑛)は、『ルウベンスの偽画』に登場する「刺青をした蝶のやうに美しいお嬢さん」であり、また『聖家族』の細木絹子のモデルであったが、片山総子は、そのことで自分と堀が恋人関係であるかのような噂が立ち、自分の縁談話が次々と壊れることを迷惑に思い、次第に堀との距離をとったと一般的にはされている。しかし、総子が他の男と結婚したのが、堀の新しい恋人が登場する『美しい村』が刊行された1934年(昭和9年)4月の後の5月であり、堀が新恋人・矢野綾子と婚約する9月の後の10月に、総子が男との婚姻届を出しているなどのことから、総子もまた、『聖家族』のヒロイン・絹子のように堀を無邪気に愛していたのではないかという見方もあるなど、堀の失恋には諸説あり真相は明らかではない。
※この「作品背景・モデル」の解説は、「美しい村」の解説の一部です。
「作品背景・モデル」を含む「美しい村」の記事については、「美しい村」の概要を参照ください。
作品背景・モデル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 11:24 UTC 版)
『雪国』の主な舞台は、上越国境の清水トンネルを抜けた湯沢温泉であるが、この作品も『伊豆の踊子』同様に、川端の旅の出会いから生まれたもので、雪中の火事も実際に起ったことだと川端は語っている。川端は作品内で故意に地名を隠しているが、1934年(昭和9年)6月13日より1937年(昭和12年)まで新潟県湯沢町の高半旅館(現:雪国の宿 高半)に逗留していたことを随筆『「雪国」の旅』で述べている。 その時出会ったのが駒子のモデルとなる芸者・松栄(本名は丸山キクで、のちに小高キク)である。小高キクは、1916年(大正5年)に新潟県三条市の貧しい農家の7人姉弟の長女として生まれ、1926年(大正15年)、数え年11歳で三条を離れて、長岡の芸者置屋に奉公に出された女性である。彼女は芸者引退後、故郷に戻り結婚し、夫と和服仕立業を営み、1999年(平成11年)1月31日、三条市の病院で胆管癌のため死去した。なお川端は、主人公の島村については、〈島村は私ではありません。男としての存在ですらないやうで、ただ駒子をうつす鏡のやうなもの、でせうか〉と述べている。 1934年(昭和9年)の晩秋の頃、高半旅館に宿泊していた川端を見かけた宿の次男・高橋有恒(当時17歳)によると、川端はよく帳場の囲炉裏端に座り、父(宿の主人)・高橋半左衛門や母・ヨキと話しこみ、芸者たちのことや、その制度、温泉、豪雪、風物、習慣、植物などのことを訊ねていたという。有恒の兄・正夫は、後に旅館を継いで高橋半左衛門を襲名するが、正夫は当時、京都帝国大学から転学し東京帝国大学文学部の学生であったため、川端と親しんでいたという。 川端が滞在した高半旅館は建替えられているが、雪国を執筆したという「かすみの間」は保存されている。また、湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」にモデルの芸者が住んでいた部屋を再現した「駒子の部屋」があり、湯沢温泉には、小説の冒頭文が刻まれた文学碑が建てられている。なお、村松友視の『「雪国」あそび』には、モデルの松栄について言及されている。 『雪国』というタイトルが決定したのは、最初の単行本刊行時で、有名な冒頭文の書き出しに「雪国」という言葉が現れるのもこの時点である。初出誌版の「夕景色の鏡」での冒頭文は当初、〈国境のトンネルを抜けると、窓の外の夜の底が白くなつた〉となっており、その前段にも文章があったが単行本刊行時に削除改稿された。また、続編の「雪中火事」には、鈴木牧之著『北越雪譜』からの引用や参考にした文章もある。 また、作中の時系列(3度目に島村が温泉町を訪れた年)が、作者の錯誤により統一されていない部分があることが、何人かの研究者に指摘されているが、その不統一も追憶の順不同の手法によって、多くのあいまいさが許されているしくみになっているという見方と、あえて川端が実際の期間(約1年間)よりも、長い年月が経ったように作品世界を提示しているという見方もある。
※この「作品背景・モデル」の解説は、「雪国 (小説)」の解説の一部です。
「作品背景・モデル」を含む「雪国 (小説)」の記事については、「雪国 (小説)」の概要を参照ください。
作品背景・モデル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 17:48 UTC 版)
「思い出のマーニー」の記事における「作品背景・モデル」の解説
この小説の舞台は、イングランドのノーフォーク州にある海辺の村リトル・オーバートンであるが、この村は実在せず、同じくノーフォーク州にある海辺の村バーナム・オーヴァリーがモデルとなっている。作者のジョーン・G・ロビンソンは生涯を通じてノーフォーク州との結びつきが強かったが、特に1950年からはバーナム・オーヴァリーとの結びつきが強くなり、ジョーンと家族は毎年夏をその地で過ごした。この小説の着想もジョーンがこの海辺の村で体験したことが元になっている。 ある日の夕方、ジョーンが湿地の小道を通っていると、青い窓とドアを持つレンガ造りの屋敷が湿地の畔に見えた。しかし少し目を離してから再び彼女が振り返ると、その屋敷は景色に溶け込み、まるで消えてしまったかのように思えた。そして数分後に夕日が再び屋敷を照らし出すと、金色の髪を梳かしてもらう少女の姿が、その窓の中に見えたという。この不思議な体験から着想を得たジョーンは、夏の間に何冊かのノートにアイディアをまとめ、その後約18か月をかけて小説を完成させた。 ジョーンの長女であるDeborah Sheppardは、主人公アンナの描写(ふつうの顔、輪の外側にいること)にはジョーンの子供時代の記憶が色濃く反映されていると語っている。彼女によると、ジョーンの母(Deborahの祖母)は非常に厳しい人で、ジョーンは愛に飢えた子供時代を過ごしたという。また中央大学の名誉教授である池田正孝が1990年代末ごろにBunham Overyの民宿で聞いた話によると、ジョーンは毎夏2人の娘を伴ってBunham Overyを訪れていたが、下の娘はアンナのような境遇の養女だったという。
※この「作品背景・モデル」の解説は、「思い出のマーニー」の解説の一部です。
「作品背景・モデル」を含む「思い出のマーニー」の記事については、「思い出のマーニー」の概要を参照ください。
作品背景・モデル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 00:36 UTC 版)
「夫婦善哉 (小説)」の記事における「作品背景・モデル」の解説
作品のタイトルとなっている「夫婦善哉」という言葉は、法善寺横丁にあるぜんざいの店「めをとぜんざい(夫婦善哉)」の名前から取られたものである。法善寺を「大阪の顔」だと言い、大阪を知らない人から、最も大阪的なところを案内してくれといわれたら、法善寺へ連れて行くと言う織田は、「めをとぜんざい」について次のように語っている。 俗に法善寺横丁とよばれる路地は、まさに食道である。三人も並んで歩けないほどの細い路地の両側は、殆んど軒並みに飲食店だ。「めをとぜんざい」はそれらの飲食店のなかで、最も有名である。道頓堀からの路地と、千日前――難波新地の路地の角に当る角店である。店の入口にガラス張りの陳列窓があり、そこに古びた阿多福人形が坐つてゐる。恐らく徳川時代からそこに座つてゐるのであらう。不気味に燻んでちよこんと窮屈さうに坐つてゐる。そして、休む暇もなく愛嬌を振りまいてゐる。その横に「めをとぜんざい」と書いた大きな提灯がぶら下つてゐる。はいつて、ぜんざいを注文すると、薄つぺらな茶碗に盛つて、二杯ずつ運んで来る。二杯で一組になつてゐる。それを夫婦(めおと)と名づけたところに、大阪の下町的な味がある。そしてまた、入口に大きな阿多福人形を据ゑたところに、大阪のユーモアがある。ややこしい顔をした阿多福人形は単に「めをとぜんざい」の看板であるばかりでなく、法善寺のぬしであり、そしてまた大阪のユーモアの象徴でもあらう。 — 織田作之助「大阪発見」 また、『夫婦善哉』の主人公の男女・蝶子と柳吉のモデルは、織田作之助の次姉・千代とその夫・山市乕次(虎次)である。小説では蝶子がガス自殺未遂をするが、実際は過失で、たまたま遊びにきた中学生の弟・織田に千代は救われたのだという。 1934年(昭和9年)9月21日の室戸台風に原因する道路拡張により、大阪の店「サロン千代」(「サロン蝶柳」のモデル)が引っかかったため、千代と乕次夫婦は同年に大阪から別府へ移住した。別府の地での夫婦は、剃刀、化粧品、電気器具を扱う「山市商店」(『続夫婦善哉』における「大阪屋」)、割烹「文楽」、旅館「文楽荘」、甘辛の店「夫婦善哉」などの店を次々と経営した。なお、乕次は1957年(昭和32年)に死去したため、1958年(昭和33年)に開業した「夫婦善哉」は千代が一人で経営した。 なお、蝶子の弟・信一は、織田自身がモデルであるという見方もあり、正編ではあまり出番のない信一が、続編では徴兵検査に合格し応召することになったものの、肋膜を悪くして帰郷となり、弟を可哀想に思った蝶子が別府へ呼び寄せるという話になっている。なお、実際の織田は徴兵検査を不合格となっている。
※この「作品背景・モデル」の解説は、「夫婦善哉 (小説)」の解説の一部です。
「作品背景・モデル」を含む「夫婦善哉 (小説)」の記事については、「夫婦善哉 (小説)」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から作品背景・モデルを検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書から作品背景・モデルを検索
- 作品背景・モデルのページへのリンク