忠臣蔵 作品一覧

忠臣蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/22 18:55 UTC 版)

作品一覧

物語群

ここでは忠臣蔵を構成する様々な物語群を示す。まず主に昔からの講談などを中心にした古典的な物語を便宜上敵討ちに関する話:本伝、討ち入りに参加した赤穂浪人に関する話:銘々伝、それ以外:外伝と分けて示す。次に赤穂浪士の敵討ちを肯定的には描かない新しい視点の物語群を示す。

本伝

  • 吉良の浅野いじめ
  • 刃傷松の廊下(脇坂淡路守の怒り)
  • 田村邸の別れ(浅野の切腹、片岡源五右衛門の悲しみ)
  • 赤穂城の大評定
  • 赤穂城明け渡し
  • 祇園一力茶屋(村上喜剣の疑い)
  • 山科閑居
  • 南部坂雪の別れ
  • 討ち入り
  • 泉岳寺への行進
    • 潮田が吉良の首を槍の先にぶら下げて行進。途中で吉田と富森が離脱し出頭。寺坂も姿を消す[13]
  • 四十七士の最期
    • 大石の介錯に失敗し、小田小右衛門は複数回斬りで大石は壮絶な最期を遂げる[14]。堀部の介錯人・荒川十太夫は三百石取りの物頭であると偽り、堀部はそれを信じたまま亡くなる[15]

義士銘々伝

  • 早籠:早籠の萱野三平は老婆を蹴散らし死なす、詫び証文を書く
  • 韋駄天・不破数右衛門:お家の一大事に鎧を担いで駆けつける
  • 矢頭右衛門七:死ぬといって連判状に名を連ね、母は足手まといにならぬよう自害する
  • 神崎東下り:神崎与五郎は道中からまれるが我慢して詫び証文を書く
  • 立花左近、又は垣見五郎兵衛(大石東下り):大石は別人になりすますがその当人と相対する羽目に
  • 決闘高田馬場:中山安兵衛は助太刀に走る
  • 中山安兵衛の道場破り
  • 岡野金右衛門とお鈴:絵図面を入手するために大工の娘を騙す
  • 俵星玄蕃と夜泣きそば屋:槍の名人はそば屋にばけた杉野十兵次の槍の腕を鍛える
  • 大高源五と宝井其角:源吾は俳人となり其角と友人に、前日は橋の上で句を交わす
  • 赤垣源蔵、徳利の別れ:暇乞いをしに兄の家に行くが、兄は留守。兄の羽織の前で別れの杯をする。ただし河竹黙阿弥作の『赤垣源蔵』では、羽織ではなく小袖となっている。
  • 勝田新左衛門は敵討ちを早くしろと叔父に怒られる
  • おかる勘平:早野勘平は妻を遊女に売り金を作るが自害、死んで連判状に名を連ねる
  • 琴の爪(磯貝十郎左衛門とおみの):本当の恋にするため娘は自害する
  • 倉橋伝助は元は旗本の次男だったが女で身を持ち崩し勘当、上総で床屋の親方に拾われ、その徒弟となる。後改心して浅野家に仕えることになり、内匠頭の計らいで再び家族との再会を果たす。

外伝

  • 天野屋利兵衛は男でござる」
  • そば志ぐれ:二階に集合した浪士の変身にそば屋はびっくり
  • 橋本平左衛門は遊女と心中する
  • 小山田庄左衛門は女と心中する
  • 高田郡兵衛は養子になり脱盟する
  • 堀部安兵衛の妻
  • 土屋主税の高提灯
  • 加古川本蔵の自死
  • 忠僕直助
  • 傍観者堀田隼人
  • 薄桜記
  • 四谷怪談(民谷伊衛門)

新しい視点の物語

  • 或日の大石内蔵助(芥川龍之介) - 討ち入りを終えたのち、細川家で裁きを待つ大石たちの、ある一日の様子を描く。
  • ああ吉良家の忠臣(星新一) - 『殿さまの日』などに収録。吉良家の家臣が討たれた主君の無念を晴らそうと奔走する様子を描く。初出は「小説宝石」1973年4月号。
  • 不忠臣蔵(井上ひさし) - 討ち入りに参加しなかった浪士たちを描いた連作小説。
  • 忠臣蔵(1990年、TBS):本当はしたくはないが周囲の期待に応えるため仕方なく討ち入りをする。TBS創立40周年記念作。ビートたけしが大石を演じる[16]
  • 四十七人の刺客池宮彰一郎) - 討ち入りを大石ら赤穂浪士と吉良家・上杉家との謀略戦・抗争劇として描く。1994年東宝の製作で映画化。
  • 吉良上野介 討たれた男の真実 麻倉一矢 - 吉良を尊皇思想の象徴として描く。一方で幕府は浅野家とその遺臣に肩入れする。
  • 亡霊忠臣蔵(高井忍) - 赤穂義士を英雄として祀った細川家に対して因果応報の悲劇が襲う。仰天した家中は手の平返しをする。
  • 四十八人目の忠臣諸田玲子) - 赤穂四十七士の一人、磯貝の恋人・きよ(のちの月光院)を主人公とする。2010年から2011年5月31日まで『毎日新聞』に連載。2016年NHK土曜時代劇にて『忠臣蔵の恋〜四十八人目の忠臣〜』と題してテレビドラマ[17]
  • 義にあらず 吉良上野介の妻(鈴木由紀子) - 上杉家から嫁いだ吉良義央の妻・富子を主人公とする。

脚色や創作による伝承

赤穂事件には「忠臣蔵」への演劇化による脚色も手伝って逸話や伝承の類が多く残っている。以下、有名な逸話ではあるが、伝承の域を出ていないものを挙げる。

山鹿送り

山鹿素行

山鹿素行は独自の軍学山鹿流を興し、様々な大名に兵学を教えていたが、著書の一つ「聖教要録」が幕府の忌諱に触れ、播州赤穂にお預かりになった。

22歳の内蔵助は山鹿素行を赤穂まで護送する任務にあたったが、山鹿素行の門下の者がこれに反発して襲撃してくる。 しかし内蔵助は門下の者たちに、「ここで素行を奪い返すは幕府に弓を引くも同然」と道理を説いて説得し、無事山鹿素行を赤穂まで連れてくる。

講談ではこの後、内蔵助は山鹿素行から軍学を学ぶことになるとしている[18]

史実

万治3年(1660年)に大石は1歳、寛文5年(1665年)でも、わずか6歳である。山鹿素行は大石良雄についてまったく記していない。 さらに、山鹿流には「仇討ちは、天下の大道にて目のある場(衆人環視)で討ち果たすが手柄と云うべし。敵が家中に居るを、人知れず踏み込むは悪しき下策なり。是れ夜盗と大差なし」[19][要非一次資料]とある。 また、山鹿流を藩学とする津軽氏と松浦氏は、『山鹿語類』に「中道にして廃す、道のとぐべき処なし。故に勤行を以て士の勇とする也」[20][要非一次資料]とあるを以って、勅使饗応を私恨により中途放棄した浅野長矩と、それに続く元禄赤穂事件を批判している(両家は近現代には天皇家の姻戚となる[21])。

松之大廊下の刃傷に関する逸話

浅野長矩の動機

  1. 長矩夫人の阿久里に義央が横恋慕した[22]
  2. 義央が皇位継承問題に絡んだため、長矩が怒った[23]。義央の悪名を聞いた長矩が、天誅を下そうと思った[24]
  3. 長矩の美少年な児小姓を吉良が望んだが、長矩が断った(『誠忠武鑑』)
  4. 浅野家秘蔵の茶器を吉良が望んだが、長矩が断った(『聴雨窓雑纂』)
  5. ある茶会で披露された書画について吉良は「一休宗純の真筆」と鑑定したが、長矩が「贋作だ」と述べた(赤穂精義参考内侍所)

柳沢吉保の関与

絹本著色柳沢吉保像(部分、一蓮寺蔵)

忠臣蔵のドラマでは、当時将軍の側用人として権勢をふるった柳沢吉保が、いわば事件の黒幕として振る舞っていたように描くものがあり、例えば大佛次郎の『赤穂浪士』では柳沢は吉良に「聞き分けのない浅野はいじめてしまえ」という趣旨のことを言う。

史実でも『多門伝八郎筆記』には柳沢の指示により浅野の即日切腹と吉良の無罪放免が決まった旨が書いてあり、事件への柳沢の関与をにおわせるが[25]、後述するようにこの文献の記述には創作が多い。

脇坂淡路守が吉良を殴打

殿中刃傷があった直後、播磨龍野藩主脇坂安照が隣藩の藩主である浅野長矩の無念を思いやって抱きかかえられて運ばれる吉良義央とわざとぶつかり、吉良の血で大紋の家紋を汚すと、それを理由にして「無礼者」と吉良を殴りつける。諸大夫の五位が四品の高家に暴行に及んだ咎で脇坂は老中に罰せられ、赤穂城は与えられる可能性のあった脇坂家でなく永井家のものとなる[26]

この話は1912年の浪曲の筆記本に見える[27]が、史実としての確認はできず、伝承・巷談の域を出ない。

史実において脇坂安照は、赤穂城受け取りの時の正使であった[28]

切腹を迫られる吉良

柳沢吉保が吉良上野介に切腹を申しつけたという風聞が『浅吉一乱記』に記されている[29]

一方、初期の実録本『赤穂鍾秀記』には吉良上野介が妻の富子から切腹するように言われたとか、上杉家の家老からもし吉良が切腹すれば追い腹を斬ると言われたとあるし[29]、『江赤見聞記』の七巻も上杉綱憲の近習から吉良が存命だと上杉家に災いがあるかもしれないから切腹するよう勧められたという風聞を記している[29]

浅野内匠頭の切腹に関する逸話

『多門伝八郎筆記』における逸話

浅野内匠頭の切腹に立ち会った多門伝八郎は、その時のことを記した『多門伝八郎筆記』を残しており、そこに書かれた逸話が忠臣蔵のドラマなどで描かれることも多い。 以下、『多門伝八郎筆記』に記載された逸話を紹介するが、この筆記は他の資料との比較により、創作が多分に含まれている[25]ことが判明しているので、以下の逸話の信憑性は不明である。

  • 多門が浅野を慰める)多門が浅野に殿中で刃傷におよんだ理由を聞いてみたところ、浅野は「私の遺恨」ゆえに刃傷におよんだものの、吉良に負わせた傷が浅手だったのが残念だと答えた[25]。そこで多門が武士の情けで「相手は高齢だから養生はおぼつかないだろう」と慰めたところ、浅野は喜んだ表情を見せた[25]
  • 多門が幕府の裁定に抗議柳沢吉保の指示により浅野の即日切腹と吉良の無罪放免が決まった[25]。これに憤慨した多門が裁定は「片落ち」である旨を抗議したところ、多門は柳沢の怒りを買い、目付部屋に軟禁された[25]
  • 多門が庭先での切腹に抗議)浅野の切腹場所を庭先の白洲にて行うよう庄田下総守が指示したものの、これに不満を持った多門は「庭先での切腹など一城の主にはあるまじき事」だという趣旨の抗議をし、立腹した庄田と掴み合いになりかけた[25]
  • 多門が片岡源五右衛門の今生の別れを許可)浅野の切腹の直前、赤穂藩士の片岡源五右衛門が今生の別れをするために会いに来た。多門は「明日は退役と覚悟いたし」[25]て片岡を浅野に会わせた[25]。しかしこの逸話の信憑性は疑わしく、切腹を行った田村家の記録にはそのようなことは記載されていないうえ[25]、『杢助手控』にはその期間は誰も立ち入りさせないよう厳命があったと記載されている[25]。さらに赤穂側の資料にもこの件は記載されていない[25]
    • 切腹の翌日にあたる3月15日に片岡源五右衛門が多門を訪ねて上記の件の礼を言い[25]、同年11月23日にも城内の「中の口」で多門に会って「もはや二君に交えず、この春から町人になる」という趣旨のことを言った[25]。しかし一塊の浪人にすぎない片岡が中の口に入るつてはない[25]
  • 浅野内匠頭の辞世の句)浅野は切腹に際して辞世の句を詠み、その内容は「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残りをいかにとか(や)せん」というものであった[25]。この逸話も田村邸の記録や赤穂藩の記録になく[25]、信憑性は疑わしい[25]
  • 浅野本家の抗議)3月15日に広島藩浅野本家の松平安芸守は切腹の場所が不当であると松平陸奥守と田村右京大夫に厳重に抗議した[25]。この逸話は『冷光君御伝記』にすら記録がなく[25]、信憑性は疑わしい[25]

ドラマなどでは、上述した片岡源五右衛門のエピソードに関して、浅野内匠頭と口をきかないことを条件として片岡を浅野に会わせるものも多い。

母の葬式と出くわした萱野

講談に次のような話がある[30]

赤穂藩士の萱野三平は、同じく赤穂藩士である早水藤左衛門とともに、浅野内匠頭の刃傷の急報を告げるべく、早駕籠で赤穂城へと向かっていた。

しかしその途中萱野の実家の近くを通りかかったとき、葬式の列に出くわす。聞けば萱野の母が亡くなっていたのだ。

だが今はお家の一大事を赤穂へと伝えに行く途中。葬式への出席を断念し、赤穂へと急ぐ。

すでに『赤穂義士伝一夕話』にこの話が出ている。

赤穂開城の逸話

藩札交換の逸話

伴蒿蹊の『閑田次筆』に次のような話がのっている[31][信頼性要検証]

赤穂の政治は次席家老の大野九郎兵衛が上席ですべて取り仕切っていたので、民は税の取り立てに耐えられなかった。

そのうち内匠頭の刃傷が起こり赤穂城が開城すると、民は大いに喜んで餅をついて賑わった。

そこへ大石が出てきて事を取り仕切り、赤穂藩が借りていた金銀を皆に返済したので、皆は大いに驚き、「この城中にこのような計らいをする人がいるのか」と顔を改めた。

大石の忠僕

伴蒿蹊『近世畸人伝』「大石氏僕」の挿し絵[32]

伴蒿蹊の『近世畸人伝』の巻之二に次のような話が載っている[32]

赤穂開城の後、大石が赤穂を離れ京に上ろうとするとき、老僕の八介が訪ねてきた。

八介は大石に付き従って京に行きたいが、この年ではそれもかなわない、何か形見の品がいただけないだろうか、と言った。

大石はあらかたの荷物を既に京に送っていたので形見にするものもなく、仕方なしに金子を八介に渡すことにした。

だが大石のこの行動に対し八介は、金子のどこが形見なんだと腹を立てる。

そこで大石は紙をひろげて墨で絵を描いて、これを形見とした。その絵は若き日の大石が八介と吉原に遊びに行ったときの二人の様子を描いたものだった。

「これに勝る形見はない」と八介は喜び、泣いて暇乞いをして去っていった。

『近世畸人伝』には「寺井玄渓」[33]、「小野寺秀和妻」[34]という話も載っており、前者は藩医の寺井玄渓が盟約に加わるのを大石に断られる話、後者は小野寺十内とその妻の心温まる書状の話でいずれも史実に基づく。

赤穂藩の改易で領民が大喜びして餅をついた

文化3年(1806年)に刊行された伴蒿蹊の『閑田次筆』に、浅野が起こした事件によって赤穂藩が改易となり、それを聞いた領民が大喜びして餅をついたという話が載っている。『閑田次筆』に書かれている領民が喜んだという記述については以下の通りである。

  • 「或人曰く、赤穂の政務、大野氏上席にして、よろづはからひしほどに、民その聚斂にたへず、しかる間、事おこりて城を除せらるるに及びしかば、民大いに喜び、餅などつきて賑はひし大石氏出て来て事をはかり、近時、不時に借りとられし金銀など、皆それぞれに返弁せられしかば、大いに驚きて、この城中にかやうのはからひする人もありしやと、面(おもて)をあらためしとかや云々…」
  • 「ある人が言っています。赤穂の政治を大野九郎兵衛が上席で全てを仕切ったので、赤穂の庶民は税のとりたてに耐えなかったといいます。そうこうしている間に刃傷事件がおきて、城を没収されるにことになったので、赤穂の庶民は大いに喜んで餅などをついて大賑いをしました。そこへ大石内蔵助が出てきて政務を行うようになり、困った時に赤穂藩が借りていた金銀を皆に返済したので赤穂の人は、大変驚いて赤穂藩にこのような立派なことをする人もいたのか、と考えを改めたということです」

ただ、この『閑田次筆』は、浅野が殿中刃傷を起こした元禄14年(1701年)からおよそ100年後の文化3年(1806年)に刊行されたものである。

菅茶山は真筆が国の重要文化財に指定された『筆のすさび』において、「亡国幣政」で「浅野家が潰れて、土地の者は悪政がやんだと言って喜んだ」と書いている[35][要ページ番号]

また、浅野が切腹した後の当時の赤穂城とその城下町の様子を伝えるものとしては、赤穂城の受け取りの正使を務めた脇坂安照の家臣で、赤穂城で受け取りと在番の実質的指揮をとった龍野藩家老の脇坂民部の日記『赤穂城在番日記』が現存している。 この『赤穂城在番日記』には、当時の赤穂城の受け取りから脇坂民部らの在番が終わるまでの仔細が書かれている。日記には城の受け取りが終わり、脇坂民部らが在番となってから、赤穂の子供が赤穂城の堀で釣りを行っていることなどは書かれているが、赤穂の領民が改易となって喜んでいる様子などは書かれておらず、そうした様子が当時の赤穂で見られなかったことがわかっている[36][要ページ番号]

大石の遊興

『仮名手本忠臣蔵』七段目で大星由良助(史実の大石内蔵助)が遊んでいる祇園の一力茶屋のモデルになったとされる万亭。「万」の字を上と下に分割して「一力」にしたという。現在では『仮名手本忠臣蔵』に合わせて「一力亭」という名前である[37]

人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』をはじめとして元禄赤穂事件を描いたドラマでは山科で暮らしていた頃の大石が花街で派手に遊ぶ様子が描かれることが多い。

この遊興により、大石に仇なすものはもちろん、大石が吉良を仇討ちすると信じていた者も愛想を尽かし始める。例えば講談では大石が吉良の仇討ちをしてくれるものとかたく信じる薩摩武士の宇都宮重兵衛が、大石のあまりの姿に呆れ果てている[38]

多くのドラマでは大石は敵の目を欺くためにあえて遊び呆けたのだとされ、たとえば『仮名手本忠臣蔵』でも、遊興により斧九太夫(史実の大野九郎兵衛)の目を欺いている。

一方、仇討ちの重圧から逃れるために遊んでいたとするドラマもあり、例えば芥川龍之介の『或日の大石内蔵助』では大石は単に仇討ちを忘れて楽しんでいただけでありながら、周囲がそれを誤解して敵を欺く計略なのだと賞賛する場面が描かれている。

大石の妾

大石の遊興に絡んで、大石が妾を作るエピソードが入ることもある。

例えば『仮名手本忠臣蔵』では、大星(史実の大石)は一文字屋の「お軽」を身請けしようとする(ただしこれは、仇討ちに関する密書を盗み見たお軽を亡き者にするための口実)。

講談でも大石の遊興をおさめるために、小山源五左衛門と進藤源四郎が二文字屋次郎左衛門の娘「お軽」を妾として差し出す[38]

また大石は狐との間に子があり、討ち入り後の養育を荷田春満に託した。この狐の子を祀るのが東丸神社であるとなっている。

池宮彰一郎の『四十七人の刺客』および『最後の忠臣蔵』においては、大石は一文字屋の可留に手をつけ、可留との間に娘の可音をつくっている。

母と妻子との別れ

大石は放蕩のすえ、遊女を妻にすると言い出し、本妻と離縁して実家に帰す。大石の子供と実母もこれに付き従った。

しかし討ち入り後、寺坂吉右衛門が現れて、妻子らに大石の真意を伝える(講談「忠臣二度目の清書」、「山科妻子の別れ」など)。

史実では大石の母はこの時すでに死亡しているし、妻との離縁状にもこのような経緯は載っていない[39]

史実

大石の遊蕩は山科会議の頃か妻子を実家に帰した頃から始まったとされるが、それを直接証拠づける史料は何もない[40]

遊興に関する史料で最も信頼できるのは『江赤見聞記』だが、ここには「遊山見物等の事に付き(中略)金銀等もおしまず遣い捨て候」[41]とあるのみで、この「遊山見物」が誇張されて派手な遊興というイメージができあがったのかもしれない[40]

また祇園や伏見に出かけたという記録もあるものの[41]、息子の主税も一緒であった[41]

伝説によると大石は伏見の笹屋で夕霧と親しくなり、「浮さま」と呼ばれたとされ、その証拠として大石がつくったとされる「里げしき」という唄が残っているが、これは伝説的なものにすぎない[40]。(なお、大石は「里げしき」の最後は「うきつとめ」で終わるが[42]、内蔵助が「うきさま」と呼ばれたとされるのはこの「うきつとめ」からきたものであろう[42])。

遊興にふけった動機に関してドラマなどでは大石は敵の目を欺くためにあえて遊興にふけったとするものがあるが、『江赤見聞記』は大石の遊興に関してはっきりと「宜しからざる行跡」と書いており[43]、敵の目を欺くために遊んだとする説には与していない[43]

『江赤見聞記』には、吉良側の間者が大石の姿を見てもはや仇討ちの「意趣」なしと判断して引き上げたという風説が書き記されているのみである[40]。また大石の親類の小山と進藤がいくら諫めても聞かないので、不快に思い離反したとも記している[40]

しかし『赤穂鍾秀記』ではすでに大石の遊蕩が吉良方の警戒を解き、仇討ちを成功に導いたとあるし[44]、初期の実録本である『浅吉一乱記』では千坂兵部の間者の目をごまかすために大石が替え玉に悪所通いさせた旨が記されている[44]など、大石の遊興を策謀とする説は早くからあった。人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』でも大星(史実の大石)が敵をだますために、あえて遊興にふける。

なお『仮名手本忠臣蔵』における大星(史実の大石)遊興の場面は、同じく赤穂事件に題材を得た歌舞伎の『大矢数四十七本』における初代澤村宗十郎の演技を真似たものである[45]

以上のように大石の遊興に関しては伝説的な部分が多いが、史実でも大石は妻を実家に帰してから身の回りの世話を頼んだ京都の二条京極坊二文字屋の娘可留かるという妾に手を出し、孕ませている[46]。可留は元禄15年当時は18歳だと伝えられるが[46]、生まれてきた子供は性別すら分かっていない[46]。大石は赤穂藩の藩医の寺井玄渓に可留の子供を養子に出すよう頼んでいる[47]

また大石は、赤穂時代にもやはり妾を孕ませていた[41]

村上喜剣

泉岳寺の「刃道喜剣信士」という戒名が彫られた供養塔。俗名が書いてないので誰のものか不明だが寺坂吉右衛門か萱野三平のものだといわれている[48]

薩摩の剣客村上喜剣は、京都の一力茶屋で放蕩を尽くす大石良雄をみつけると、「亡君の恨みも晴らさず、この腰抜け、恥じ知らず、犬侍」と罵倒の限りを尽くし、最後に大石の顔につばを吐きかけて去っていった。しかしその後、大石が吉良義央を討ったことを知ると、村上は無礼な態度を取ったことを恥じて大石が眠る泉岳寺で切腹した。

泉岳寺には明和4年(1767年)に作られた「刃道喜剣信士」という戒名が彫られた墓(寺坂吉右衛門か萱野三平のものだといわれている[48])があり、村上喜剣はこの戒名などから作られた人物だと思われる[49]

村上喜剣の話は江戸後期の儒者[50]林靏梁の『烈士喜剣伝』によって喧伝されたため[49][48]、事実のごとく伝わった[48]。これが原因で、前述の「刃道喜剣信士」という戒名が彫られた墓はこの村上喜剣のものであると広く信じられた[48]

1899年には幸田露伴が村上喜剣を主人公にした小説『奇男児』を書いている[51]。 この小説では喜剣は文弱な方向に流れる元禄の世を憂い進んで浪人する。そして復讐もせずに腐れ死んでいる赤穂浪士に憤慨し、彼らに「神国の風俗、義に勇む人心」の回復を期待する[51]

垣見五郎兵衛

大石内蔵助は(第二次)東下りの際に「垣見五郎兵衛」(もしくは立花左近)という変名を名乗り、江戸へと向かっていた。しかしその途中で、本物の垣見五郎兵衛と鉢合わせする。

絶体絶命の窮地に陥った大石であったが、垣見五郎兵衛は目の前にいるのが吉良を討とうと人目を忍んでいる大石内蔵助であることを察し、大石に助力するため、垣見五郎兵衛としての通行手形を渡す。

史実

大石内蔵助は江戸に入った際、実際に「垣見五郎兵衛」という変名を名乗っており、息子の主税には「垣見左内」という変名を名乗らせている[52]

しかし上述したエピソードは史実ではない。戦後の忠臣蔵映画を調査した谷川建司によると、この逸話はマキノ省三監督が1912年の映画『実物応用活動写真忠臣蔵』を撮るときに歌舞伎の勧進帳を基にして役者の嵐橘楽のために作り上げたものであり[53]、この時は「立花左近」の名称であった[53]。史実に合わせて「垣見五郎兵衛」の名前を用いたのは松竹の1932年版の『忠臣蔵』がはじめである[53]

一方宮澤誠一は大正13年発行の『講談落語今昔譚』(関根黙庵著、雄山閣)を引き、この話は講釈師の伊東燕尾(えんび)の「持ちネタ」で、のちに芝居にも脚色されたのだとしている[54]。燕尾は明治33年(1900年)に亡くなっている[55]ので、燕尾の講釈の方がマキノ省三の映画よりも早いことになる。

燕尾の講釈では、近衛家雑掌・垣見左内の変名を名乗る内蔵助が川崎の宿で本物の垣見左内に出くわす。仕方なく内蔵助は本名を書いた詫書を左内に渡すが、そこに内蔵助の名を見た左内は事情を察し、詫書を内蔵助に返してこの件を不問に付す。

侮辱される浪士たち

忠臣蔵に関する逸話の中には、仇討ちの件を秘密にするため、赤穂浪士たちが周囲の侮辱にじっと耐え続けねばならなくなる話が数多い。そして討ち入り後には、侮辱した者たちは自身の行動を後悔する。

こうした逸話をいくつか紹介する。

大高源吾の詫び証文

四十七士の一人大高源吾が江戸下向しようとしている道中、国蔵[56]という、やくざ者の馬子がからんできた。

大高はここで騒ぎになるわけにはいかないと思って、じっと我慢する。

調子に乗った国蔵は「詫び証文を書け」と因縁をつけてきたので、大高はおとなしくその証文を書いた。

後日、赤穂浪士の討ち入りがあり、そのなかに大高がいたことを知った国蔵は己を恥じて出家のうえ、大高を弔ったという。

このエピソードは大高源吾ではなく神崎与五郎のものとして語られることもある[57]。その場合因縁をつけてくるのは「丑五郎」という男である[57]

大高の詫び証文と称するものを明治35年1月沼津牛臥の旅館(明治まで三島の本陣をやっていた世古家)で大森金五郎が発見し[58][信頼性要検証]、現在は箱根旧街道休憩所に展示されている[56]。そこの説明によれば元々は三島宿で大高源吾に起こった出来事として伝わっていたものが時代を経ていつのまにか箱根山中の甘酒茶屋で神崎与五郎に起こった出来事に変わったという[56]

大高源吾の義兄

大高源吾にはもう一つ似たような逸話がある。

大高源吾は四十七士の一人中村勘助とともに江戸に下向していた。

途中で源吾の義兄弟の水沼久太夫のもとに挨拶にいき、他家に仕官が決まった旨の嘘をつく。

これを聞いた水沼は大高たちにコノシロを馳走する。コノシロは「腹切り魚」とも呼ばれ、仕官の門出を祝うにはふさわしくない魚だ。

大高に仇討ちを期待する水沼は、仇討ちにふさわしい腹切り魚を出して、大高を試したのだ。

しかし例えば義兄弟と言えども仇討ちのことは言えず、大高がとぼけると、水沼は怒りだし、義兄弟の契りを解消すると言い出す。

後に水沼は討ち入りの件を知り、先の行動を後悔する[57]

勝田新左衛門の逸話

四十七士の一人勝田新左衛門は、赤穂城が開城された後、八百屋に身をやつしていた。

その様子を見た新左衛門の舅は、武士が八百屋をするなどけしからんと、新左衛門の妻とともに嘆いた。

しかしその後、新左衛門が同志とともに討ち入りしたことを知り、新左衛門のことを見直す[57]

『正史実伝いろは文庫』の六十四回ではこれを若村寒助(史実の中村勘助)の話として伝える[59]

武林唯七と大石内蔵助の吾妻下り

四十七士の一人である武林唯七が江戸へ下向する途中、金太という男に絡まれる。

腹が立った唯七が金太を蹴り倒すと、そのまま金太が動かなくなる。どうやら殺してしまったらしい。

そこへ駆けつけた役人は、唯七を騙して金を巻き上げようと企み、金太の妻と称する仲間の女をつれてきて、金太殺しの罪を許して欲しければこの女に百両払えという。

後からやってきた大石内蔵助は唯七から事情を聞き、役人に向かって「百両の金は払うから金太の死体を胴切りにしてもよいか。死んでいるのだから胴切りにしても問題ないだろう」といって刀を抜いた。

それを聞くと、死んでいたはずの金太が起きて急いで逃げる。実は金太も役人と共謀しており、死んだふりをしていたのだ。

こうして無事難を逃れた二人は江戸へと向かっていった。

以上の話は桃中軒雲右衛門の浪曲『雪の曙義士銘々伝』に「吾妻下り」の題で登場するものである[60]

親族の自害

四十七士の一人である間十次郎の妻は、討ち入り後、赤穂浪士たちの墓の前で十次郎の後を追って自害したという伝説がある[61]

しかし史実ではそもそも間十次郎に妻はいない[61]

為永春水の『正史実伝いろは文庫』には討ち入りの際、四十七士の一人である武林唯七の妻が吉良を討つため捨て身で吉良を押さえたとあるが、史実では唯七にも妻はいない[61]

四十七士の一人である原惣右衛門が同志に入る際、惣右衛門の心残りにならないよう母が自害する話が伝わっている[62]

同じような話が四十七士の近松勘六、杉野十平次、武林唯七[63]、および間十次郎と新六の兄弟にもある[62]

史実では惣右衛門の母は討ち入り4か月前の8月に病死しているのに室鳩巣が『赤穂義人録』の中で誤伝したのがそもそもの始まりらしい[62]

間十次郎の母は史実では二十八年前に亡くなっている[62]

鳩の平右衛門

『鳩の平右衛門』という歌舞伎の演目がある。四十七士の一人寺岡平右衛門(史実の寺坂吉右衛門)は、同志たちとともに江戸へ下るため実家を出る。しかし鳩の親子が仲睦まじくしているのを見て情にほだされ、実家に帰る。

だが寺岡の父はこれに激怒し、寺岡の未練を断ち切るために切腹する。

この話は河竹黙阿弥作の歌舞伎『稽古筆七いろは』に出てくるが、これは寛政3年に大阪角の芝居で上演された奈河七五三助作の『いろは仮名四十七訓』の八つ目「鳩の平右衛門」を粉本とする[64][65]。黙阿弥はこの際切腹するのを老母から父に変更している[65]

『正史実伝いろは文庫』の第八十二回には類話が載っており、原郷右衛門(史実の原惣右衛門)がやはり鳩の親子を見て家に戻ると、母が郷右衛門を諫めるために自害する[59]

恋の絵図面取り

絵図面を見る岡野金右衛門(尾形月耕画)

四十七士の一人である岡野金右衛門は吉良邸の絵図面を手に入れるため、吉良上野介の屋敷の普請を請け負っていた大工の棟梁の娘である「お艶」と恋人になる。

しかし岡野はやがて本当にお艶に恋するようになり、彼女を騙して絵図面を手に入れたことに自責の念を感じ、忠義と恋慕の間で苦しむ。討ち入り後、泉岳寺へ向かう赤穂浪士を見守る人々の中に涙を流しながら岡野を見送る大工の父娘がいた。

史実

この話は何の根拠もなく史実ではない[66]

史実では堀部安兵衛、大石瀬左衛門が1つ、潮田又之丞が1つ絵図面を手に入れているが、いずれも古いのが難点であった[66][67]

浪士たちはさらに毛利小平太を吉良邸に送り込み、中を調査させている[68]

風説では吉良邸は討ち入りに備えて改造していたというが、小平太が調べた限りでは普通の作りだった[68]

創作物において

この話は『赤穂精義参考内侍所』にすでに載っており[69]、ここでは艶は吉良の用人鳥居利右衛門の娘で、その伯父が吉良邸の普請をしたので岡野は計略のために艶と親しくなり伯父に金子を渡して吉良邸の絵図面を得る。討ち入りのあと、艶は岡野の素性を知って病気になり、岡野が切腹するとそのまま死んだ。

『赤穂義士伝一夕話』[70]や『正史実伝いろは文庫』[71]にもこの話は登場する。

『忠臣連理廼鉢植』

天明8年(1788年)3月大坂北堀江市ノ側芝居で公開された[72]『義臣伝読切講釈』(通称『忠臣連理廼鉢植』、『植木屋』)では千崎弥五郎(史実の神崎与五郎)が絵図面を取る話を伝えている。

本作では千崎弥五郎が植木屋に扮して高師直(史実の吉良)の屋敷に潜入して、女中のお高という娘と親しくなる。お高は千崎の正体を見抜き絵図面を取る手助けをしようとするも、女中の身分では絵図面を取ることはできない。そこでお高は変装して高師直の妾になり絵図面を手に入れる。そして絵図面を千崎に渡したあと自害する。

なお、その前年の天明7年に義士を描いた人形浄瑠璃『廓景色雪の茶会』の第5に、おさみ(小紫)が操を犠牲に敵の屋敷から絵図面を得る場面があり、『義臣伝読切講釈』の原拠になっている[73]

天野屋利兵衛

仮名手本忠臣蔵十段目。三代目歌川豊国画。天川屋義平(八代目片岡仁左衛門)、矢間十太郎(五代目市川雷蔵)

町人・天野屋利兵衛は赤穂浪士に肩入れし、浪士達が討ち入りに使うための武器を調達して長持ちに保管していた。

このことが奉行の耳に入ると、奉行は利兵衛を拷問し、武器の入った長持ちの鍵を渡すように言った。

しかし利兵衛は拷問に耐え抜き、利兵衛の態度に感心した奉行は、武器の準備の件を不問に付す。

史実

天野屋利兵衛は、大坂の惣年寄を勤めた実在の人物「天野屋兵衛」のことだとする説もある[74]。 しかしこの人物は赤穂藩とは無関係であるため、上記の話は史実としては疑問が残る[75]。松島栄一は、天野屋利兵衛が芝居で扱われたのはあるいは芝居と特別な関係にあるスポンサーだったのではないかと想像している[76]

また京都一条大宮鏡石町の呉服屋で、赤穂浪士を援護した綿屋善右衛門をモデルにしているとも言われる[74]

創作物において

討ち入りのあった年である元禄15年12月に出た『赤穗鐘秀記』には町名主の「天野屋次郎右衛門」について書かれている。 次郎右衛門は赤穂浪士のために槍二十本を鍛冶に鍛えさせたことが、町奉行の耳に入り詰問されたが、白状せず牢に入れられる。そして赤穂浪士の討ち入りの話を聞くと、初めて事実を自白したという[77]

その後『忠誠後鑑録或説』や『參考大石記』でもこの話は書かれ、前者では名前が既に「天野屋理兵衛」になっている[77]

『仮名手本忠臣蔵』の十段目

寛延元年(1748年)8月には人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』の十段目としてこの物語は描かれている。当時は実在の人物を芝居にするのに規制があったため、作中では「天河屋義平」という名前で登場する。

本作では捕り手たちが天河屋の息子を人質に取り、息子の喉元に刀を置いて天河屋を脅迫する。

しかし天河屋は 「天河屋の義平は男でござるぞ。子にほだされ存ぜぬ事を、存じたとは得申さゆ」といい、これを突っぱねる。

この話の落ちは、実は捕り手は大星由良助(史実の大石内蔵助)率いる四十七士がなりすましたもので、天河屋を試すためにこのようなことをしたのだという。大星は天河屋の忠義に礼をし、討ち入りの際の合い言葉を天河屋にちなんで「天」、「河」にする。

大高忠雄と宝井其角

大高源五と宝井其角。尾形月耕

大高源五は、子葉の俳号を持ち、俳人としても名高い赤穂浪士である。俳人の宝井其角とも親交があった。

討ち入りの前夜、大高は煤払竹売に変装して吉良屋敷を探索していたが、両国橋で宝井其角と出会った。其角はさっそく「年の瀬や水の流れも人の身も」と発句し、大高はこれに「あした待たるゝその宝船」と返し、仇討ちをほのめかす。

宝井其角と大高源五が両国橋で会う話は安政3年に森田座で初演された瀬川如皐の『新舞台いろは書始』で登場しており、これが後年『松浦の太鼓』になり、さらにそれが中村鴈治郎の『土屋主税』になった[78]

史実

中央義士会は「大高源五と宝井其角とのエピソードは後世に作られた話である」としている[79]。さらに史実の松浦侯こと松浦鎮信は、確かに本所吉良邸の隣人ではあったものの、彼はむしろ吉良贔屓だったことが知られている[80][要非一次資料]


なお、大高は史実でも俳人で茶人山田宗偏の弟子であり[81][82]、討ち入りの日に吉良が茶会が開かれる情報を掴んだのは、大高と大石三平(同じく宗偏の弟子)であった [81]。ただし、大高が茶会の情報をつかんだ件は『江赤見聞記』に記されているものの[83]、宮澤誠一は、俳人として人気の高かった大高に活躍の場を与えるための初期の実録書以来の俗説として退けている[84]

赤埴源蔵、徳利の別れ

梅幸百種。 赤垣源蔵(五代目尾上菊五郎)。塩山与左衛門(五代目坂東彦三郎)

赤埴源蔵は討ち入り直前にこれまで散々迷惑をかけた兄に今生の別れを告げようと兄の家を訪れた。しかし兄は留守であった。義姉もどうせ金の無心にでも来たのだろうと仮病をつかって出てこない。

やむなく源蔵は兄の羽織を下女に出してもらって、これを吊るして兄に見立てて酒をつぎ、「それがし、今日まで兄上にご迷惑おかけしてきましたが、このたび遠国へ旅立つこととなりました。もう簡単にはお会いできますまい。ぜひ兄上と姉上にもう一度お会いしたかったが、残念ながら叶いませんでした。これにてお別れ申し上げる」と兄の羽織に対して涙を流しながら酒を酌み交わし、帰って行く。

その後帰宅した兄は下女から源蔵の様子を聞いて、もしや源蔵はと思いを巡らせる。そして12月15日、吉良義央の首をあげて泉岳寺へ進む赤穂浪士の中に弟源蔵の姿があった。

史実

この話はもともと天保年間の講釈師初代一立斎文車が語ったものだという[85]

史実では赤埴には兄はおらず弟と妹がいるだけである[86]。 史実において赤埴は元禄15年12月12日に妹の夫である田村縫右衛門のもとを訪ねている[86]。その日赤埴が普段より着飾っていたことに関して縫右衛門の父から苦言を呈されたが、赤埴は苦言に感謝の意を述べ、一両日中に遠方に参るためあいさつに来た旨を述べた。そして縫右衛門と杯を交わして別れている[86]

俵星玄蕃

杉野十平次の蕎麦屋。格子の向こうには俵を突き上げる玄蕃とおぼしき人物が描かれている。尾形月耕

四十七士のひとり杉野十平次は「夜泣き蕎麦屋の十助」として吉良邸の動向を探っていた。やがて俵星玄蕃という常連客と親しくなった。

かねてより浅野贔屓であった玄蕃は、12月14日、赤穂浪士たちが吉良邸へ向けて出陣したことを知ると、ぜひ助太刀しようと吉良邸へ向かった。両国橋で赤穂浪士たちと遭遇したが、大石には同道を断られた。しかしその中に蕎麦屋の十助がいる。そして二人は今生の別れを交わした。その後玄蕃はせめて赤穂浪士たちが本懐を遂げるまでこの両国橋で守りにつこうと仁王立ちになった。

史実

講談において俵星玄蕃の道場があったと伝えられる両国における玄蕃道場跡の看板

文化2年(1805年)の『江戸名釈看板』の中の「雪の曙 誉の槍」に俵星玄蕃の名前が出ており[87]、当時からこの話は有名になっていたものと思われる。 「俵星」の名は槍で米俵も突き上げるという話と「仮名手本忠臣蔵」の主人公大星由良助(大石良雄がモデル)の「星」を組み合わせたものであろう[87]

またこの話は講釈師大玄斎蕃格により語られており[88][信頼性要検証]、大玄斎蕃格が創作したものとも言われる[要出典]

題材にした作品

南部坂雪の別れ

『誠忠大星一代話廿六』、三代目歌川豊国画。嘉永元年(1848年)の泉岳寺の開帳にあわせてつくられた35枚組の1つ[89]で今日でいう「南部坂雪の別れ」を描く。本国に帰る暇乞いに来たという大星(史実の大石)は葉泉院(史実の瑤泉院)と去りし日の話をする。 葉泉院は翌日寺岡(史実の寺坂吉右衛門)の報告で討ち入りを知る。

討ち入り直前、大石内蔵助は赤坂・南部坂に住む浅野内匠頭正室・瑤泉院のところへ最期のあいさつへ向かう。しかし吉良の間者と思しき女中が聞き耳を立てていたので、大石は仇討ちの意思はないと瑤泉院に嘘をつく。討ち入りを期待する瑤泉院はこの言葉に激昂するが、大石は本心をひた隠しにして去っていくしかなかった。

創作物における歴史

元禄16年に書かれた『赤穂鍾秀記』にはすでに大石と瑤泉院の別れの場面が描かれている[90]

『赤穂鍾秀記』によれば、瑤泉院のもとに内蔵助がやってきて「近々遠国へ行くために御暇乞いの挨拶に来た」と言い、昔のことを話して帰っていった。去り際に内蔵助は瑤泉院お付きの侍に歌書が入っていると称する一封を渡していった。12月15日、まだ討ち入りについて知らないうちに封書をあけると、中には瑤泉院から預かった金子七千両の使い道を書いた書類が入っていた[91]

天保7年 - 明治5年(1836年 - 1872年)に書かれた為永春水の『正史実伝いろは文庫』の第七回にもすでにこの話が載っている[59]

また明治4年(1871年)10月16日守田座初演の左団次一座による河竹黙阿弥作『四十七石忠箭計(しじゅうしちこくちゅうやどけい)』でもこの場面は描かれている[92]

『南部坂雪の別れ』はその後桃中軒雲右衛門の口演により浪花節の人気演目をになり[93]、明治45年(1912年)には口演の筆記本も出ている[94]

さらに同じく明治45年(1912年)には立川文庫の本にもこの話は収録され[95]、 1910 - 1917年の尾上松之助による忠臣蔵の映画にもこの場面は登場する。

また昭和13年(1938年)11月には、今日でも上演される真山青果元禄忠臣蔵の一編として『南部坂雪の別れ』が歌舞伎座で上演されている。

戦後の忠臣蔵映画を調査した谷川建司によると、映画やドラマにおける「南部坂雪の別れ」の瑤泉院の描写は時代により変化しているという[96]。今日のドラマでは、瑤泉院は大石が本心を偽っていることに気づかずに大石を罵るいわば「浅はかな女」[96]という「ネガティブな」[96]描かれ方をされるが、これは映画忠臣蔵黄金期末期[96]にあたる1962年に公開された『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』以降[96]、忠臣蔵の主力がテレビドラマに移ってからの描かれ方で、それ以前の映画では、口には出さずとも大石の真意に気付く映画もあり[96][97]、本心に気付かなかった詫びに討ち入り後の内蔵助に会いに雪の中を駆けつけるもの[96][98]もある。

脚色

ドラマなどではこの場面に以下のような脚色がつくことが多い。

  • 今日のドラマでは大石は瑤泉院に「他家に仕官が決まった(から最後の別れにきた)」と嘘をつくものが多い。しかし古くは町人になる(『正史実伝いろは文庫』、『四十七石忠箭計』)、大阪で小間物屋を始める(桃中軒雲右衛門の浪花節)という嘘であった。
  • 瑤泉院に仕える「戸田の局」が登場することもあり、大石は瑤泉院にはもちろん彼女にも真意を秘密にする。
    • 『正史実伝いろは文庫』では女中は「松島」という名前だが、『四十七石忠箭計』や桃中軒雲右衛門の浪花節ではすでに「戸田の局」という名前になっている。また彼女が小野寺十内の妹だという設定も後者に出ている[94][95]
  • 大石は最後に亡き殿に御焼香したいと願い出るが、激昂した瑤泉院はそれすら許さない。
    • すでに『元禄忠臣蔵』にこのエピソードが見える[99]
  • 大石は激昂した瑤泉院から文鎮(『正史実伝いろは文庫』)や亡き殿の位牌(『四十七石忠箭計』)で叩かれる。
  • 大石は去り際に何らかの書類をおいて帰る。それを女中に扮して潜り込んだ吉良の間者が奪い去ろうとするも家人に見つかり、曲者として捕らえられる。騒ぎに駆けつけた瑤泉院はこの時初めて書類を見て大石の真意を知り、先の行動を後悔する。
    • 今日のドラマでは書類の中身は同志の連判状とするものが多い。
  • 今日のドラマでは間者の名前は「お梅」、「紅梅」など。『四十七石忠箭計』ではすでに「お梅」の名になっている。
  • 『四十七石忠箭計』には清水大学(史実の清水一学)が登場する。間者のお梅は清水に大星(史実の大石)には仇討ちする気がない旨を報告し、清水は大星に直接会ってその腑抜けぶりを確認する。

史実

  • 三次藩の藩邸は南部坂にはない。当時、笠間藩(その前は盛岡藩。南部坂の由来)以来あった南部坂の大名屋敷は更地になっている[100]
  • 瑤泉院のいた三次藩浅野家の藩邸は赤坂・本氷川坂(現在の南部坂の頂上付近で左折して二つ目の坂を登った本氷川坂の東側。東から「南部坂」「氷川坂」「本氷川坂」)[101]

討ち入りの際の逸話

討ち入り蕎麦

元禄15年12月14日の深夜に四十七士が両国の蕎麦屋の二階に全員集結し、蕎麦を肴に最後の宴を開いてから討ち入りにでかけたという話[102]

創作物において

饂飩屋久兵衛の店。『正史実伝いろは文庫』二十一回の挿し絵[59]

『泉岳寺書上』には討ち入りの日に楠屋十兵衛というものに手打ち蕎麦五十人前を作らせ、義士たちが皆で泉岳寺を詣でたあとに楠屋に集結したと書かれている[103]。しかしこの文献は浅野内匠頭の亡霊が登場する[103]など怪しげな内容のものであり、偽書とされる[104][105]

また『泉岳寺書上』には「手打ち蕎麦」を食べたとあるが、「手打ち蕎麦」という言葉は宝暦以後のもので、元禄の頃は「蕎麦切り」といっていたはずである[104]。したがってドラマなどで見られる浪士たちが吉良を「手打ち」にする蕎麦を食べてげんを担いだとする話は史実ではない。

元禄16年3月に書かれた[106]『易水連袂録』の「ウドン屋久兵衛口上書の事」には「ウドン屋久兵衛」の店に皆で集まりうどん、そば切り、酒肴を食べたとある[106]。 また創作物ではあるが、『正史実伝いろは文庫』の第二十一回には、赤穂浪士二十四、五人が饂飩屋久兵衛の店に集まり蕎麦きりを食べたとある[59]

史実

史実においても討ち入り前日の12月13日の夕方には同志たちで酒肴を用意して今生の暇乞いの盃を交わした[107]。 討ち入り当日の14日は吉田忠左衛門原惣右衛門吉田澤右衛門ら6、7人が両国橋向川岸町の亀田屋という茶屋でそば切りなどを注文してゆっくり休息したと『寺坂信行筆記』にある[107][108]

当日の天気

忠臣蔵もののドラマでは雪が降りしきるなか討ち入りに行くものが多いが、史実では数日前に降った雪が積もっていたものの[109]、討ち入り当日は晴れていた[109]。また空には月が輝いていた[109]

月は満月に近いが、討ち入りの時刻には月は大分西の空の低い場所にあったため、月齢から考えるほど明るくはなかった[110]

山鹿流陣太鼓

山鹿流陣太鼓。赤穂市大石神社

討ち入りの際、大石内蔵助が「一打ち三流れ」(ひとうちみながれ[111])の山鹿流陣太鼓(越後流の働事太鼓)を打ち鳴らす、というもの。

討ち入りの際太鼓を打ち鳴らしたという俗説は、浪士切腹後二か月で世に出た『易水連快録』にすでに載っており[112]、他にも『浅野仇討記』[112]や『泉岳寺書上』[103]にもこの話は載っている。

仮名手本忠臣蔵」は暦応元年(1338年)の設定なので、当然、室町時代に山鹿流は出現しておらず「陣太鼓」の記述はない[113]

史実・資料における記録

四十七士側の史料である『人々心覚』、『寺坂信行筆記』、『富森筆記』には、笛や鉦を持参した話は載っているが、太鼓を用意したとは書かれていない[112]

現実問題として、太鼓を叩いては奇襲が意味をなさなくなるので、浪士たちは太鼓を叩いていないであろう[112]

しかし吉良義周の口上書には赤穂浪士が「火事装束」で「太鼓」などを叩いて切り込んできたとあるし[112]、上杉家の資料や『桑名藩所伝覚書』、『浅野浪人敵打聞書』などにも太鼓について触れられている。

当時太鼓といえば火事を連想するものであったので[112]、火事装束のような姿で侵入した浪士たちに気が動転する吉良側が扉を打ち壊す際の音を火事太鼓と聞き間違えたのではないかと宮澤誠一は推測している[112]

史実としては山鹿素行山鹿流は朱子学を基礎に哲学を主とし政治学や陰陽思想を加えたもので[114]、実際の兵法は二次的なものにすぎないという意見もある。

また、押太鼓というのは広い戦場での合図のために用いるため、川中島絵巻や屏風(山鹿流では「車懸りは敵方の備え立て三段四段なるに用ふれば功大なり」と記す)に描かれているような「長胴太鼓」で非常に大きい。とても一人の人間が左手だけでぶら下げて持てるものではない。また、実践では大将は指図はするが、自分で太鼓を叩いたりはしない(「旗本や諸手の可作法の事」)[115]。赤穂義士側の史料では討ち入りでは「太鼓はなく鉦が鳴らされた」と書かれている[116]

石岡久夫という弓道家は菅谷政利が山鹿流を学んだとしているが[117]、菅谷に関する資料は殆ど無く、赤穂市史編纂室は石岡の主張を疑問視し、菅谷を「もっとも行動や考えのわかりにくい一人である」としている[118]。菅谷は、素行が赤穂藩を致仕した年と同年の生まれであり、流罪を許された年には、政利はすでに勘当されており赤穂に不在である。

同様に同市編纂室は「一次資料である山鹿素行日記・年譜に全く記載がない」事を理由に大石良雄や大石良重が山鹿素行から山鹿流を学んだとする説をも記してない[119]。さらに、堀部武庸が残した『堀部武庸日記』には、多くの義士たちが儒学者・細井広沢や大太刀の堀内正春ら著名な学者や剣豪に師事した記録が詳細に書かれているが、山鹿素行に関しての記述は見られない。

しかし、浅野長直は赤穂に流刑時代の素行お預かりを担当しており、承応2年(1653年)に築城中であった赤穂城の縄張りについて山鹿素行が助言したともいわれ、これにより二の丸門周辺の手直しがなされたという説があり、発掘調査ではその痕跡の可能性がある遺構が発見されている[120]

素行の嫡男・山鹿政実に学んだ津軽政兕赤穂事件の直後に、真っ先に家臣らと吉良邸に駆けつけ、義央の遺体を発見し負傷者の救助に協力した。また赤穂浪士らは黒石津軽家弘前藩津軽家からの討手の追い討ちを警戒し、泉岳寺まで最短距離ではない逃走ルートを、かなりの早足で撤退したと伝わる。この様子は同じく山鹿流が伝わる平戸藩にも記されている[121]。 ゆっくり移動し、途中で振る舞われたばかり食べていたとするのは史実ではない。

素行の子らは、津軽藩の山鹿嫡流と女系二家による計三氏、平戸藩の山鹿傍系と庶流男系の両氏で続いた。現在のところ、広島藩森家赤穂藩で山鹿流の記録は発見されていない。のちに津軽からは山鹿素水が出て長州藩らによる維新回天を生む。

平戸山鹿氏と松浦家は、『山鹿語類』に「復仇の事、必ず時の奉行所に至りて、殺さるるゆゑんを演説して、而して其の命をうく。是れ古来の法也」とある[122]を論拠として、「大石の輩[123]は公儀の免許も得ず徒党を組み、火事と偽りて闇討ちにて押入るのであるから、素行の思想からすれば許すべからざる暴挙なり」と元禄赤穂事件を批判している。山鹿光世もこれに倣う[124]

一方、幕府兵学の大家・窪田清音が、安政2年(1855年)幕府が開設した講武所の頭取兼兵学師範役に就任したことで、山鹿流は幕府兵学の主軸となった[125][126]。 山鹿流を軸に甲州流軍学越後流長沼流を兼修した窪田清音の兵学門人は三千人、清音はじめ佐藤一斎に師事した若山勿堂[127]の門下から、勝海舟板垣退助土方久元佐々木高行谷干城ら幕末、明治に活躍した逸材が輩出されている。[125][126]

装束

討ち入り装束に身を包む箭田五郎左ェ門(史実の矢田五郎右衛門)。歌川国芳

討ち入りの際、四十七士は全員、服装を黒地に白の山形模様のついた火事場装束のような羽織に統一した、というもの。

史実では11月初めの覚書ですでに「黒い小袖」に「モヽ引、脚半、わらし」に決まっており[128]、あとは思い思いの服装でよかった[128]。全員が一様であったのは定紋つきの黒小袖と両袖をおおった合印の白晒くらいである[128]。衣類の要所要所には鎖を入れて防備を固めた[128]。 全体として火消装束に近いスタイルであったが、人生最期の晴れ舞台であったこともあり、火事装束よりはもっと派手だった[128]

火事羽織からの連想からか元禄16年に書かれた『赤穂鍾秀記』ではすでに「黒い小袖」が「黒い羽織」に代わっている[128]。黒地に白の入山形は宝永7年(1710年)6月の『鬼鹿無佐志鐙』に原型があり[128]、『仮名手本忠臣蔵』で広く知られるようになった[128]。浪士の名前を書いた左右の白襟は片島武矩の『義士伝』に端を発し、幕末の浮世絵師の一勇斎国芳画『誠忠義士伝』で形作られ、明治にかけて一般化した[128]

上杉家の忠臣

討ち入りを聞いた上杉綱憲が実父・吉良上野介を助けるため出陣しようとするものの、幕府に睨まれるのを避けるために家老にとめられたというもの[129]。この家老は千坂兵部もしくは色部又四郎だとされる。また、千坂高房は山鹿流の達人であるという設定がなされ、大石内蔵助と頭脳戦を展開する創作もみられる[130]

赤穂事件があった当初からこのような風説は存在し、元禄16年3月に書かれた『赤城士話』には、上杉綱憲が討ち入り後の赤穂浪士を討つべく泉岳寺に派兵しようとしたが家老たちに止められたという風説を記しており、同書によればこれを聞いた国家老の長尾権四郎が激怒したという[131]

史実

史実において綱憲は討ち入り当日病気であったが[129]、藩士を派遣しようとした[129]。しかし高家の畠山下総守がやってきて、「江府の騒動」になるのは畏れ多いので討手を出さないようにという老中の言葉を伝えた[129]ため、幕命に背く事ができず藩士を送らなかったのだという(『上杉家年譜』)[129]

また佐々木杜太郎は、討ち入りの人数が多数であるように見せかけた赤穂浪士の戦術が功を奏して、その場に侍が30~40人しかいなかった上杉家は兵を出せなかったのではないかと述べている[132]

いずれにせよ史実としては上杉家が派兵しなかった理由は家老の諌止ではないにもかかわらず、なぜ諌止説が語り継がれてきたかというと、そもそもなぜ上杉家が派兵しなかったのだろうという疑問に答える必要があったためであろう[131]

なお、史実においても赤穂浪士たちは引き上げの際、上杉の追手が来たと思い戦闘の準備をしている(『義士実録』)[133]

また史実において事件当時千坂兵部はすでに死んでおり[134][135]、家老は色部又四郎であった[129]。また色部は父が11月に亡くなったことにより討ち入りがあった夜は出仕していなかったともいう[134][信頼性要検証]

浅野内匠頭が切腹に用いた刀で吉良を討つ

浅野内匠頭が切腹に用いた刀で吉良を討ったとする逸話はすでに『仮名手本忠臣蔵』に登場している。

内匠頭の遺品

泉岳寺の住職・酬山が義士の遺品を無断売却したが[136]、売却後の長矩の遺刀については動向がまったく不明。一方、間が切腹に使用した「国助 短尺・脇差」および間家伝来「同 二尺二寸・小刀」は銘柄まで判明している。 現存する浅野長矩の遺品はたつの市にあり、浅野氏の散逸責任を理由に赤穂市への返還も一般公開もされていない[137]

討ち入り後の逸話

大石の和歌

大石内蔵助が泉岳寺において「あら楽し思ひは霽るる身は捨つる浮き世の月に翳る雲なし」という和歌を詠んだというもの。

泉岳寺における赤穂浪士の言動を記した『白明話録』には、木村岡右衛門の和歌、大高源吾の俳句、武林唯七の漢詩が書きとめられているにもかかわらず、大石の上記の和歌は載っていないため、この和歌は後世の偽作なのだと思われる[133]

「武士の 矢並つくろふ 小手のうへに あられたはしる 那須のしの原」という和歌が接待役の堀内が受けとった大石直筆の辞世として現存するとするものもあるが[138][信頼性要検証]、これは正しくは金槐和歌集源実朝の和歌である[139]

琴の爪

赤穂浪士達が切腹する当日、四十七士の一人礒貝十郎左衛門が討ち入り直前に付き合い始めた許嫁の「おみの」が人目を忍んでやってくる。 「礒貝は仇討ちの作戦に利用するために、自分と付き合っただけなのではないか」そんな疑念を抱いていたおみのは、最後に真実を知りたかったのだ。

礒貝は本心ではおみのに恋心を抱いていたのだが、おみのを前にして「そんな女は知らぬ」と嘘をついて取り合わない。

だがその場に居合わせた大石内蔵助は、礒貝がおみのの琴の爪を肌身はなさず持っていたことを告げる。

おみのは礒貝の本心を悟って喜び、礒貝の後を追って自害する決意を固める。

そして礒貝と大石は切腹の場へと赴く。

この話は真山青果の新歌舞伎『元禄忠臣蔵』の一編『大石最後の一日』に登場する逸話[140]で昭和9年(1934年)2月に歌舞伎座で初演された。

本作はその後二度にわたり映画化されている(1942年の『元禄忠臣蔵後編』と1957年の『「元祿忠臣蔵・大石最後の一日」より 琴の爪』[1])。

史実

礒貝が切腹の時に琴の爪を持っていたとする逸話自身は史実であり、『堀内覚書』に「死を賜ふの後紫縮緬の袱紗に包みたる鼻紙袋中に琴の爪一つありたり」とある[141]。 史実によれば磯貝は能と鼓が堪能であったが、浅野内匠頭が嫌いであったからこれをやめたという[141]。しかし弾琴は続け、それゆえ切腹時に琴の爪を持っていたのである[141]

創作物においても嘉永7年(1854年[142]に書かれた山崎美成の『赤穂義士伝一夕話』の四巻に磯貝が切腹時に琴の爪を持っていた琴がでてくる[143]。 しかしここでは「おみの」は登場せず、礒貝が風流であることを示す逸話として討ち入りに琴の爪を持っていたことが語られるのみである。

なお『元禄忠臣蔵』では大石内蔵助は皆の切腹を見届けた後、最後に切腹しているが、史実では最初に切腹している[144]

徂徠豆腐

荻生徂徠

徂徠豆腐落語講談の共通演目である。

儒学者の荻生徂徠は若いときには貧しく、食費に困り豆腐屋でおからをめぐんでもらって生活していた。

赤穂事件が起こると、幕府では浪士たちの処分を巡り議論が紛糾していた。そこへすでに名をあげていた徂徠が登場し、「すでに死を覚悟している浪士達を助けるのは彼らの忠義に反する。彼らに切腹させるべきだ」と理を解き、浪士たちの切腹が決まる。

一方、徂徠が若き日にお世話になった豆腐屋は火事で家を焼かれ困り果てていたが、徂徠は昔のお礼にと豆腐屋に金子を渡す。

豆腐屋は嬉しさのあまり「先生が私のために自腹を切ってくれた」と言う。

『祇園可音物語』

大石内蔵助の下僕であった半右衛門は呉服屋の茶屋宗古という男と懇意になる。 半右衛門は宗古から、自分の嫡男の嫁を見つけるよう依頼され、半右衛門は一人の娘を紹介する。

祝言の前日には、三百人もの腰の者がついて来たので、娘は裕福な身の上であることが想像されるが、半右衛門は娘の素性をいっさい明かさない。

祝言をすませると、夜中に半右衛門が突然切腹する。不振に思った周囲の者が娘に問いただすと、娘は自分が大石内蔵助の姫なのだと明かした。

半右衛門は内蔵助の姫を預かっていたため、討ち入りにも参加せずにこれまでむなしく生きてきたが、無事祝言もすませたので、主人の後を追って殉死したのだ。

史実

この話は大田南畝が『半日閑話』の中で 宝永6年(1709年)4月上旬の聞書きという体裁で『祇園可音物語』(ぎおんかねものがたり)の名のもとに書き留めたものである[145]

しかしこれは史実ではなく、大石には二人の娘がいたものの長女クウは14歳で夭折しているし[145]、次女ルリは進藤源四郎のもとへ養子に行った後浅野長十郎へ嫁いでいる[145]

また大石が赤穂時代に妾と作った子供も元禄15年に夭折しているし[41]、山科で妾と作った子供は『半日閑話』が書かれた時点でまだ7歳である。

脱盟者は実は第二陣であった

大野九郎兵衛

芝居などで悪名高い大野九郎兵衛は実は逃げたわけではなく、大石が吉良を討ち漏らした場合に備え、米沢藩へ逃げ込むであろう吉良を待ちうけて山形県板谷峠に潜伏していたという逸話がある[146][147]明和6年(1769年)にたてられた板谷峠近くの馬場の平に残る大野九郎兵衛の供養碑にその旨を記載されている[147]。峠に隠れ棲むも「吉良方に斬殺された」[148]、あるいは「討ち入り後に自害した」など複数の由来伝承がある。

また群馬県安中市には、その周辺にある吉良家の飛び領地に上野介が逃れてくると予想して、大野が手習い師匠をしながら潜伏していたという伝説がある[149]山梨県甲府市東光寺町の能成寺には、大野九郎兵衛が甲府藩主である柳沢吉保を頼って甲斐に移り住んだという伝説がある[149]

不義士の逸話

奥野将監にも別働隊を率いていたとか、浅野内匠頭の姫を密かに育てたという逸話がある[150]

『江赤見聞記』には「討ち入りは失敗するだろうから自分が第二陣になる」という趣旨のことを述べて奥野将監が脱盟したとあるが[151]、「これは信じられない」[151]。同書には進藤源四郎も第二陣になると述べた旨が書かれている[146]

創作物ではあるが、人形浄瑠璃の『忠臣後日噺』では進藤源四郎が第二陣であったとされているし[146]為永春水の『正史実伝いろは文庫』には、奥野将監小山源五右衛門進藤源四郎、佐々小左衛門、毛利小平太が第二陣であった旨が記載されている[152]

大野九郎兵衛の娘

誠忠大星一代話九。下は大星(史実の大石内蔵助)、上は小野九太夫(史実の大野九郎兵衛)。左上の説明よれば、「臆病の首魁」である小野は城引き取りの際、藩の用金を多く受け取り銀札引き換えで町人から余金を受け取ったが、「不忠の天罰」で乞食になり果てた。

伴蒿蹊の『閑田次筆』に次のような逸話が収められている[153]

大野九郎兵衛は赤穂を出奔するとき、娘を置いて逃げた。 置いていかれた娘は、父・九郎兵衛が出奔したのは、敵を欺くための計略だろうと信じていた。 しかし赤穂浪士たちの討ち入りについて記した瓦版を読んでも父の名はなく、打ちひしがれて寝込んだ。

この娘の夫・梶浦は事態を知り、「九郎兵衛の娘と連れ添っているのは武士の道にもとるので、お前とは縁を切る。行くところもないだろうから裏の隠居所で暮らせ」と言う。 娘に罪があるわけではないので、夫の梶浦は妾を持つこともなく、やもめとして一生を終えた。

『赤穂義士伝一夕話』にも同じ話が載っている[154]

史実においても大野九郎兵衛は出奔の際娘や荷物を置いていった[155]。荷物は没収されたが困窮した九郎兵衛の申し出により後で返還された[155]。その後の九郎兵衛の消息は不明だが[155]、名を変えて世を忍んでいたという伝承がある[155]

吉良の怨霊と義士の悪夢

討ち入りから1年弱経った元禄16年(1703年)の元禄大地震とそれの6日後に起きた大火で吉良邸があった周辺の武家地や町人地は壊滅状態になり、人々は吉良の怨霊が現世にとどまり祟りをなしたと噂した。

史実でも、その復興のときに吉良邸跡の中島伊勢(小林央通の曾孫・葛飾北斎の養父[156])の拝領地に吉良義央の鎮魂と供養のために吉良神社[157]が建てられている。

一方、将軍綱吉の夢に地獄が出現し、「我らを誰と思う。浅野内匠頭とそれに従う四十六人なるぞ。大樹も疾く此方へ参れ」と赤穂義士主従が綱吉の裁断に怒りを述べ呪い殺そうとした[158]

実際には、宝永6年(1709年)、綱吉の通夜で転寝した寵臣の松平輝貞が見たと周囲に話した夢を、綱吉が見たものと変えた創作(曹洞宗で自殺が大罪とされている点[159]を踏まえて脚色した物語)である[160]。赤穂義士も大正元年に完成した赤穂大石神社に祀られている。

義士銘々伝

大石内蔵助は養子

講談では大石内蔵助はもともと備前岡山の城主池田宮内大輔の家老池田玄蕃の次男で久馬という名前であったが、養子になって大石内蔵助良雄という名前になったのだという[161]。しかしこれはもちろん史実ではない。

なお、史実において大石は妻のりくに当てた手紙に「池田久右衛門」という偽名で署名している[162]

人形浄瑠璃においても寛政10年に上演された『忠臣一力祇園曙』で足軽寺岡平吉が養子に入って大星由良之助(史実の大石内蔵助)が養子になるというエピソードがある[163]。 それより早く寛政4年に上演された歌舞伎の『忠臣双葉蔵』でもやはり養子のエピソードがあったらしい[163]

お薬献上

13歳の池田久馬(後の大石内蔵助)は病気になった藩主池田宮内大輔に薬を飲ませる役を仰せつかった。 しかし宮内大輔は薬嫌いであったため一筋縄ではいかない。

そこで久馬はあえて宮内大輔を怒らせ、「手打ちにする」と追ってくる宮内大輔から逃げ回る。 そのうち宮内大輔が疲れてお湯を持ってくるようにいうと、久馬は薬を溶かしたお湯を渡す。 疲れていた宮内大輔はこれを飲み干す。

このことが評判になり、久馬は大石家の養子に迎えられ、大石内蔵助良雄と名を改めた[164]

向島の花見

28歳の内蔵助は下僕の勝助とともに向島に花見に行った。 そこで勝助が三人の侍に泥をはねたことから口論となり、侍たちは勝助を斬ると刀を抜く。 しかし内蔵助が刀を持った三人を素手で倒し、事なきを得る。

たまたまこれを見ていた石塚源五兵衛は内蔵助を気に入り、これが縁となって内蔵助は源五兵衛の娘のりくと結婚することになった[165]

松山城受け取り

備中松山の水谷家では藩主が死に世継ぎもなかったため、水谷家は藩主の舎弟の主水に召し上げられ、松山城は没収されることになった。 その際、松山城の受け取り役を34歳の大石内蔵助が申しつけられた。

松山城の藩士たちは城を枕に籠城討死の覚悟であったが、大石は松山城にたった一人で乗り込んでいき、城代の鶴見内蔵助と会う。 そして大石は「藩主への忠義から籠城しているのかもしれないが、城を枕に戦えば藩主の舎弟の主水公に迷惑がかかるのでかえって不忠ではないか」と理を説いた。

これに感服した鶴見は松山城を無血開城する。この功で大石は幕府から加増され、大石の名は全国にとどろいたというのが講談のストーリー[166]

史実

備中松山で大石の評判はよろしくなく、城受け渡しの様子で「人々あれが赤穂の家老ぞと云ひて指さし、女共まで嘲笑す」[167][要非一次資料]と悪口が記されている。

粗忽の権化

武林唯七は気の短い粗忽者であった。

講談では唯七は主君・浅野内匠頭の乳兄弟ということになっており、その縁であるとき唯七は内匠頭から月代を剃るように頼まれた。

しかし唯七は頭を湿らせることなく剃刀で剃り、内匠頭は痛い思いをした。

さらに剃っているうちに剃刀の柄が外れてきてしまったので、柄の部分を内匠頭の頭に叩きつけて直した。

かなり無礼な行為であったが、内匠頭は唯七の粗忽ぶりを知っていたので笑って許した[168]

またあるとき唯七は芸州浅野本家に使いに行く事になった。 ところが途中で堀部安兵衛に剣術の稽古に誘われ、稽古に熱中しているうちに使いのことを忘れる。

やっと使いのことを思い出してまず馬に乗ろうとするが、間違って前後反対に乗り「馬に首がない」と驚く。

その後使いにいくが間違って浅野本家ではなく黒田家に入ったことに気づく。 仕方がなく「腹が減ったから黒田家に一食一飯をご無心にきた」と言ってごまかし、食事だけもらって黒田家を出る。

そしてとうとう浅野本家に到着するが、ここで初めて使者の口上を聞き忘れたことに気づく[169]

帰り道に杜若を内匠頭に持っていくよう頼まれるが、鉄砲州の屋敷近くが火事になっているのを見て慌てて、馬を走らせようと杜若で馬を叩く。そのために帰り着いたとき、杜若には茎しかなかった。

前半の剃刀の話は『赤穂精義参考内侍所』に大高源吾の父・大高源右衛門の話として載っている。最後の杜若の話も同書にある。

使いの話は落語の「粗忽の使者」の類話である。

安兵衛の生い立ち

堀部安兵衛の父・中山安太郎は色男で、親が決めた許嫁の「おみつ」がいるのに、芸妓の「小菊」と仲良くなり子供の安之助を作る。この安之助が後の堀部安兵衛である。

安之助ができたことに安太郎の父の中山安左衛門は激怒し、安太郎を勘当して家から追い出す。 その後小菊は若くして亡くなり、安太郎も病気になる。

あるとき、宿場にいた老武士が薬を持っていることにきづいた安之助は父・安太郎のために薬を盗むが、安之助は老武士につかまる。この老武士は実は祖父の安左衛門であった。ここに祖父と孫は運命的な再開を果たすことになる。

一方、安太郎の許嫁であった「おみつ」は、安太郎が勘当されていなくなってからというもの、安左衛門の世話をしながらずっと安太郎のことを待っていた。 このことを安左衛門の下僕から聞いた安太郎は申し訳なさに人知れず自害する。

安之助はおみつに引き取られ、以後中山家の一員として暮らしていくことになる。それ以後剣術に励み、めきめきと腕を上達させる。

安之助は16歳で元服し、名を安兵衛武庸に改める[170]

最初の仇討ち

中山安兵衛(のちの堀部安兵衛)は義理の母おみつと祖父の安左衛門に育てられていたが、安兵衛が元服するとすぐに安左衛門が亡くなり、安兵衛が家督を継ぐことになる。

この頃、安兵衛の義母のおみつは黒田郷八という男から言い寄られていたが、ある日酒に酔った郷八がおみつから冷たくされると、もみ合いのすえにおみつを殺す。

そこへ帰ってきた安兵衛が郷八を一刀両断にする。これが安兵衛最初の仇討ちであった[171]

高田馬場の決闘

映画『血煙高田の馬場』における中山安兵衛(阪東妻三郎演)。両肩に白いたすきが見える

義母が亡くなったので、中山安兵衛(後の堀部安兵衛)は伯父の菅野六郎左衛門を頼って江戸に出てきた。

するとある日安兵衛が喧嘩の仲裁をしたことから安兵衛はすぐに江戸の有名人となり、「喧嘩安兵衛」という仇名がついた。 また安兵衛はいつも飲んでいることから「呑兵衛安兵衛」、赤鞘の大小を指していることから「赤鞘安兵衛」、葬式について呑みに行くことから「葬式安兵衛」などとも呼ばれた。

ある日のこと、安兵衛の伯父の菅野六郎左衛門が、試合で村上庄左衛門、三郎右衛門の兄弟を打ち負かしたところ、村上兄弟から恨みを買い、決闘を申し込まれる。 村上兄弟は助っ人22人を連れて決闘の場に現れ、対する菅野六郎左衛門はたった一人で決闘の場に現れた。

このことを知った安兵衛は伯父の六郎左衛門に助太刀すべく決闘の場所である高田馬場へと走っていったが、 着いた時にはすでに伯父は事切れていた。

そこで安兵衛はその場にいた敵全員を斬り倒す。 この高田馬場の決闘で安兵衛は江戸で名を挙げることになった。

また決闘に助太刀する前にたすきが切れたため、そばにいた女からしごきを借りてたすきにした。 この女は堀部弥兵衛の娘で、これが縁となり安兵衛はこの娘と結婚。堀部家に養子になり、堀部安兵衛と名乗ることとなった[172]

高田馬場の決闘それ自体は史実であるが、ここでの記述はあくまで講談で語られている話で、史実とは限らない。

神崎与五郎の生い立ち

神崎与三衛門の息子・与太郎は愚か者で、与三衛門は実子の与太郎がいるのに養子を探すほどだった。

ある日、与太郎が釣りをしていると、自分は全然釣れないのに、近くで釣りをしていた太郎作という少年はずいぶん釣れていたのに腹を立て、二度とここで魚釣りをしないよう太郎作に言う。

太郎作は魚釣りで盲目の祖母を養ったので、与太郎に食い下がると、与太郎は抜刀して太郎作に斬りかかる。 しかし与太郎は足を滑らせて自らの刀で自分を刺し、そのまま死ぬ。

太郎作は名主のもとに自首する。しかし与太郎が自業自得で死んだことを知った与太郎の父・与三衛門は、太郎作を養子として養うことにする。こうして太郎作は神崎与五郎を名乗って神埼家を継ぐことになった[173]

『赤穂精義参考内侍所』にこの話が載っている。ただし神崎与五郎当人の話ではなく、与五郎の息子の話ということになっている。 『赤穂義士伝一夕話』にも神崎与五郎の息子の話として載っている。

前原伊助の生い立ち

原田次郎吉(のちの前原伊助)は7年ほど剣術を習っていたが、あるとき下坂十太夫という男が次郎吉の習っていた剣術の流派を馬鹿にしたため口論になる。怒った次郎吉は十太夫に試合を申し込み、叩きのめす。試合に負けたことで下坂十太夫は殿様の不興を買い、下坂家は断絶。これによりいづらくなった次郎吉は地元の姫路から江戸に出る。

ここで次郎吉は疱瘡にかかり、一命は取り留めたものの、左目はつぶれ、髪の毛は薄くなり、顔にはあばたが残った。

仕方がないので大名の中間奉公をしようと、名を伊助と改めて赤穂藩浅野家に仕える。

ある日伊助は、月岡十郎左衛門という侍のお伴を命じられるが、月岡は馬に乗るのが下手で、いつまで経っても前に進まない。 そこで伊助は茶屋で少し休憩を取っていたが、その間に月岡の馬は泥をはね、泥が近くにいた別の侍にかかる。 これが原因で口論になり、月岡はその侍に切り殺される。

そこへ駆けつけた伊助は侍を倒して月岡の仇を討つ。これが評判になり伊助は士分に取り立てられ、名字も母方の前原を名乗るようになった[174]

乞食の姉弟

あるとき前原伊助は、乞食の姉弟・小雪と庄太郎がいじめられているところに出くわす。伊助は姉弟を助け、姉弟の面倒をみてやることにする。

しかし姉弟の話を聞いて、伊助は驚いた。聞けば姉弟はその昔伊助が倒した下坂十太夫の子供で、父・十太夫の仇である「原田次郎吉」(伊助の前名)を探しているのだという。

伊助は自分がその原田次郎吉当人だということは隠して姉弟を育てる。

赤穂が断絶すると、伊助は吉良邸へと討ち入りに行くことになる。そのとき伊助は姉弟に手紙を残し、自分が原田次郎吉だという事を明かした。

そして伊助が切腹する日、伊助は姉弟を呼びだし、親の仇である自分の首をはねるように言う。恩人の伊助の首は切れないという姉弟だったが、伊助はそれをしかりつけ、切腹後、首を切らせる[175]

『正史実伝いろは文庫』の六十回には類話が載っており、ここでは牛尾田主水(史実の潮田又之丞の父)の話ということになっている[59]

放蕩指南

横川勘平は浅野内匠頭刃傷のあと、伯母の家に世話になっていた。勘平は討ち入りに参加したかったのだが、伯母が勘平を養子にしたいと言い出す。

勘平が大石内蔵助に相談したところ、内蔵助はわざと放蕩して伯母から愛想を尽かされれば養子に行かなくてよいのではないかという。

そこで勘平は呑めない酒を無理やり呑んだり遊郭に行ったふりをしたりするが、伯父が「若い男が酒を飲んだり遊郭に行ったりするのは付き合いもあるからいいことだ」と理解を示すので、一向に愛想を尽かされない。

そうこうするうちに討ち入りの日がやってくる。そこで勘平が外出しようとすると、伯母が怪しんで外出させてくれない。

そこで勘平は下女に酒を買いに行かせ、その下女に言う事があるのだといって無理やり家から出て、先に外に出た下女を突き飛ばして吉良邸へと急ぐ。

すでに同志は集まっており一番後から来た勘平だったが、そのまま梯子に上り吉良邸に一番乗りして名を残す[176]

『赤穂義士伝一夕話』でも横川勘平は伯母の家に住んでいるが、12日の段階で家から出ている。

間十次郎の妻子

間十次郎は妻子とともに江戸に住んでいたが、浅野内匠頭の刃傷が起こると赤穂に行き、その際妻のていと子供の十太郎を植木屋の六三郎に預けた。六三郎は昔、浅野内匠頭の秘蔵の盆栽を手折って手討ちになりそうになったとき、間十次郎がとりなしたことがあるので、妻子の世話を快く引き受けた。

しかし六三郎の妻おとらは、「十次郎の妻子」と称する母子は実は六三郎の妾とその子供なのではないかと疑っており、六三郎が仕事で長期に家を空けなければならなくなると、おとらは十次郎の妻子に米や味噌を送るのをやめたため、十次郎の妻子は困窮する。

討ち入りの当日、間十次郎は物乞いをしている息子十次郎をみかけ、はじめてその困窮ぶりを知る。十次郎は仇討ちのことを隠しながらも、妻子をなぐさめるため、来年には仕官するからそれまで辛抱してほしいと言って去る。

討ち入りを期待する十次郎の妻子は、十次郎を鼓舞するため自害する。胸騒ぎがして帰っていた十次郎は妻子の自害を知り、討ち入りのことを話すべきだったと後悔する。

そして十次郎は吉良邸に向かい、吉良の首を取るという功名をあげた[177]

村松喜兵衛、堪忍の木刀

村松喜兵衛は吉良邸に潜伏しようと、按摩になりすまして吉良邸周辺をうろついていたが、吉良邸からは按摩を頼む声がかからない。

ある時、近所の煙草屋・与助から按摩を頼まれる。しかし喜兵衛の按摩があまりに下手なので、与助から「(按摩の)流派は何か」と聞かれるが、喜兵衛は「一刀流です」と剣術の流派を答える。

喜兵衛の按摩が全然効かないと与助から不平が出るので、喜兵衛は腹を立てて柔術の必殺技「肋三枚正風の殺」を与助に極める。

これには与助も参るが、これも何かの縁だと喜兵衛と雑談を始め、喜兵衛に身の上を聞くと、喜兵衛は「仔細あって浪人しており、按摩になったからかくも卑しき煙草屋の肩を揉み…」とか「世が世なら下手くそなどと無礼を言われれば手討ちにするのに…」などと言い出す。

しかし与助は面白がってそれからも喜兵衛を按摩に呼ぶ。

討ち入り当日、喜兵衛は与助のもとに暇乞いにいき、「人切れば私も死なねばなりません。そこでご無事と木脇差さす」という狂歌を刻んだ木刀を渡す。聞けばこの狂歌の意味は「木刀なら人を斬ることもない。人を斬りそうな時も堪忍が大事だ」というものだそうである。

討ち入り後、与助の煙草屋には喜兵衛の木刀を見にくる客が大勢現れ、大いに繁盛した[178]

一夜に討つ君父の仇

菅谷半之丞の父・半右衛門は、若くて美しい後妻「お岩」をもらったが、お岩はたちのよくない性格で、美少年だった半之丞の悪口を半右衛門に讒訴する。これを信じた半右衛門は半之丞を勘当し家から追い出す。

半之丞は手習い師匠をして生計を立て、無事結婚して一子をもうけたが、ある日のこと、半之丞は父・半右衛門が死んだという話を聞く。聞けば半右衛門はお岩とその情夫・大須賀次郎右衛門に毒殺されたのだという。

その後、浅野内匠頭の刃傷が起こり、半之丞も同志の一人に加わる。

ある日半之丞は吉良邸からお岩が出てくるのを見かける。お岩の情夫・大須賀次郎右衛門が上杉家に仕官がかない、付人として吉良邸にきていたのだ。

討ち入りの夜、半之丞は父の仇である大須賀次郎右衛門を突き殺し、お岩も討ち取る[179]

中央義士会は「政利が美少年だったので継母から懸想されたというのは史実ではない」とし、実際は醜男で容貌魁偉といわれている[180]

老人の屈死

大石内蔵助が遊郭で放蕩するのを見かねた老人・岡野金右衛門は、内蔵助を切り殺そうと、息子の九十郎とともに内蔵助の住む山科へと乗り込む。

大石内蔵助が放蕩する様子を裏庭に隠れて窺う金右衛門親子だったが、内蔵助にまったく隙がなく斬り込めない。

そんな内蔵助のもとに内蔵助の息子・主税が現れ、仇討ちもせずに遊んでいる内蔵助に見かねたから切腹すると言い出す。

さすがに内蔵助は主税を止め、本心では仇討ちしようと思っているが、敵の間者の目を欺くためにあえて放蕩しているのだと伝える。

これを裏庭で聞いていた金右衛門は、あまりの驚きにその場で死亡(屈死)する。

そして金右衛門の息子の九十郎が金右衛門の名を継ぎ、父の遺志を継いで討ち入りに参加することになった[181]

不破数右衛門の芝居見物

『東驛いろは日記』における不破数右衛門(四代目中村芝翫)

不破数右衛門は井上真改という名刀を買ったので、使ってみたくてたまらない。そこで夜な夜な辻斬りをしたり、墓を暴いて死体を胴切りしたりしていた。これが見つかって暇を出され浪人することになる。

そのうち浅野内匠頭の刃傷事件が起こる。数右衛門は吉良を討ちに行かねばと思うが、聞けば赤穂城は無血開城したというし、内匠頭の後室・瑤泉院は境町の中村座で芝居見物に明け暮れているという噂である。まずは瑤泉院に諫言せねばと思い、数右衛門は中村座に瑤泉院を探しに行く。

そのとき中村座でやっていたのは、『東山栄華舞台』という演目。これは小栗判官が横山大善を斬る所を描いた芝居だったが、内容はどう見ても先日起こったばかりの浅野内匠頭の刃傷事件を扱っていた。実在の事件を扱うと公儀がうるさいので、浅野内匠頭を小栗判官に見立てて刃傷事件を描いているのだ。

舞台では役者の中村伝九郎扮する荒獅子男之助が、小栗の一門の者は無気力な不忠ものばかりだと面々を罵っている。

これを聞いた数右衛門はカッとなって舞台に上がり、中村伝九郎を殴りつける。舞台はめちゃくちゃになったが、これがかえって評判になり、連日大入りとなる。

この件を聞いた大石内蔵助は、数右衛門の忠義は本物だと思い、浪人中の数右衛門を許して同志の一人に加えた[182]

女武芸者

赤穂の片原村の郷士、日下部嘉兵衛の娘「おたま」は薙刀の使い手で「自分より強い人としか結婚しない」と言っており、父・嘉兵衛が結婚には千両の持参金を付けると言っていたので、多くの男性が彼女に挑戦しては破れていた。

これを聞いた大石瀬左衛門は、傲慢無礼な話だと憤り、彼女に挑戦し、勝ってしまう。瀬左衛門にはおたまと結婚する気はなかったが、おたまの方が瀬左衛門にいれあげてしまい、結婚を申し込む。

しかし瀬左衛門は彼女と結婚すると、千両の持参金目当てで結婚したように取られてしまって面目ない、身一つで来るなら結婚すると言い出す。

これを聞いたおたまの父・嘉兵衛は名刀・正宗一振りだけを持たせておたまを嫁に出す。瀬左衛門も武士の魂の刀であればとこれを受け取り、二人は結婚することになった[183]

『正史実伝いろは文庫』の第四十七回~四十九回に類話が載っているが、そこでは瀬左衛門はお綾という女性に挑戦するが勝てず、六年もの修行をつんでやっと彼女に勝って結婚している[59]

寺坂吉右衛門の生い立ち

吉田忠左衛門はあるとき捨て子を見つける。寺の前の坂で拾ったので、寺坂という姓を付け、行く末吉き事を願い、吉右衛門という名前をつけて里子に出し、長じると忠左衛門の所に武家奉公させた。

しかし寺坂は忠左衛門の下女「おたね」と密通して子をなすという武家の法度を犯す。武家奉公の身では夫婦にしてやることも許されず、忠左衛門は仕方なしに寺坂を解雇する。おたねも何も持たされず襦袢一枚で忠左衛門の家を追い出されたが、襦袢を調べてみると中に五十両が縫い付けてあった。忠左衛門が二人を心配して縫い付けてくれたのだ。二人は八百屋をして生計を立てることにする。

それから十三年後、寺坂は忠左衛門と再会。聞けば忠左衛門は播州浅野家に仕官が決まったが、鎧を買うための五十両がなくて困っているという。

ある日忠左衛門のもとに寺坂がやってきて、豆煎りの入った袋を置いて帰る。忠左衛門が豆を食べようと袋を開けると、中には五十両が入っていた。寺坂夫婦は昔の恩返しにと、娘の「お軽」を女衒に売ることで五十両を得て、それをそっと忠左衛門に渡したのだ。

しかし急に五十両が手に入ったことが災いして忠左衛門は泥棒と勘違いされてつかまる。しかも忠左衛門は五十両は自分が盗んだものだと自白する。忠左衛門はこの五十両は寺坂が盗みをはたらいて得たものだと勘違いし、寺坂をかばうために自白したのだ。

そこで寺坂はさっそく奉行所にかけつけ、五十両は娘を売って得た金であることを詳言する。そこで奉行所が女衒を調べると、女衒が寺坂に払うべきお金の一部を着服していたこと、盗難の犯人は女衒の仲間であることなどが分かった。

これで無事忠左衛門は釈放され、寺坂の娘のお軽も孝行が神妙だという事で親元の寺坂の所へ返され、奉行所の口添えで寺坂も浅野家に奉公できることになった[184]

関根黙庵の『講談落語今昔譚』[185]によれば、この話は松崎堯臣の『窓のすさみ』に登場する「向坂次郎右衛門」の話[186]を寺坂吉右衛門の話に焼きなおしたものだという。

義士外伝

忠僕直助

大野九郎兵衛は古物商の橘屋儀右衛門と計り、藤原定家の色紙の贋作を浅野内匠頭に売りつけようとした。しかし家臣の岡島八十右衛門に鑑定の才能があったので、八十右衛門は色紙が贋作だと見抜き、事なきを得る。八十右衛門はこれが原因で大野九郎兵衛から恨みを買う。

大野九郎兵衛は八十右衛門に仕返しをしようと、八十右衛門に刀を見せるように言う。貧乏で名刀など買えない八十右衛門は冴えない鈍刀を刺していたので、大野九郎兵衛に馬鹿にされる。

八十右衛門の下僕の直助はこの話を聞いて発憤。直助は刀鍛冶の所に行って修行を積み、「津田助直」という名前で有名になるほどになった。

直助こと津田助直は自身が打った名刀を八十右衛門に渡す。そして大野九郎兵衛に拝謁し、九郎兵衛の刀が真剣勝負の役に立たないものだと皆の前でけなしてその証拠に刀を簡単に折る。大野九郎兵衛は名高い津田助直に代わりの刀を懇願するが、もちろん助直は断る。

腹を立てた大野九郎兵衛は助直に斬りかかろうとするが、周りに止められる。しかもどさくさにまぎれて皆に殴られる。 皆、普段から大野九郎兵衛に不満がたまっていたのだ。その後津田助直は名巧として名を残し、八十右衛門は助直の打った名刀を持って討ち入りに参加した[187]

和久半太夫

和久半太夫(わくはんだいふ[188]、はんだゆう)は上杉家に仕えたとされる剣客(本当は実在しない[189])。

和久半次郎(のちの和久半太夫)は12歳のときから作州津山の森大内記もりだいないきに仕えていた。あるとき、大内記が小姓たちを集めて肝試しをしようと、打ち首にした悪人五人のさらし首に印をつけてくるものは誰かいないかと言った。

半次郎はこれに志願。褒美の脇差を先に貰って、さらし首の元へと赴き、さらし首に印として1つ1つ煎餅をくわえさせていく。しかしさらし首の数は5つと聞いていたのになぜか6つあり、しかも最後の1つの首は煎餅を食べて「もうひとつ煎餅をよこせ」と言い出した。半次郎は妖怪の類だと思い、首を斬りつける。

実は6つ目のさらし首は半次郎のことを妬んだ長澤繁松という男が、半次郎を脅かそうとさらし首のふりをしているだけだった。半次郎に斬りつけられた繁松は、三日後に死んだが、この件は繁松の不心得だという事で半次郎にはお咎めがなく、むしろ度胸を示した半次郎の名があがった。

その一年後、半次郎の父・半十郎が何者かに斬り殺されてしまう。半次郎は頼る者も無かったので母とともに江戸に出てきて、剣術指南の看板を出して生計を立てたが、何分半次郎がまだ子供だったため、習いにくるものは少なかった。

江戸に出てからというもの、半次郎の母「おみさ」に徳右衛門という浪人が懸想していたのだが、ある時おみさが徳右衛門になぜ浪人したのかと聞いてみたところ、徳右衛門は「昔、半十郎(つまり半次郎の父)という男を斬り殺したために国に入れなくなり浪人したのだ」と答えた。国から遠く離れた江戸でまさか半十郎の親族に会うとは思わず、つい話したのだ。聞けば徳右衛門は半次郎に斬られた長澤繁松の父に頼まれ、半十郎を斬り殺したのだという。

おみさからこの話を聞いた半次郎は、徳右衛門を一刀両断して仇討ちを遂げる。これにより半次郎の名は高まり、半次郎の道場は入門者であふれかえった。

半次郎はこの頃名前を半太夫に名を改める。

その後半次郎改め半太夫は、四谷寺町付近に現れた妖怪を一刀両断する。妖怪の正体は小牛ほどもある大きな狐だった。

こうして名を高めた半太夫は上杉家に召抱えられ、吉良家の付き人になった。

そして赤穂浪士討ち入りの夜、半太夫は奮戦した後、武林唯七に討ちとられた[190]

梶川与惣兵衛

梶川与惣兵衛は浅野内匠頭の刃傷に立ち会い、吉良に斬りかかる浅野内匠頭を抱きとめ、それがために内匠頭は吉良を仕留めそこなった。 これは神妙ということで公儀は与惣兵衛に加増した。

一方、やはり刃傷に立ち会った坊主の関久和(せききゅうわ)は内匠頭の小刀を奪い取ったとしてやはり公儀から加増を仰せつけられたが、久和はこれを断った。あとで考えてみれば内匠頭の無念を慮って吉良を討たせるべきだったと久和は後悔していたのだ。

こうした久和を見た周囲は久和のことをほめたたえたが、一方の与惣兵衛の名は地に落ちた。浅野内匠頭の不幸が原因で加増されたのに、これを断らなかったからである。

皆は与惣兵衛が家にくると、仇討ちで有名な『曽我物語』の富士の巻狩りの場面を描いた掛け軸をかけ、与惣兵衛を説教した。富士の巻狩りの掛け軸攻めに懲りた与惣兵衛は、早々に隠居した。

隠居後与惣兵衛は、隣家の下僕に化けた四十七士の一人大石瀬左衛門に討たれて最期を遂げる[191]

小田小右衛門

元禄16年2月4日、細川家に預けられていた大石内蔵助も切腹をするが、介錯したのは小田小右衛門おだ こえもんという10石2人扶持の足軽であった。大石といえば1500石の家老でしかも主君の仇を取った立派なお方。一方自分は取るに足らない足軽。切腹の際に大石から身分を問われ、つい細川家で500石取りの物頭だと嘘をつく。大石は納得するが、介錯などしたことのない小田は失敗し、二度斬りで大石は壮絶な最期を遂げる。

まったく同じ内容で講談『荒川十太夫』という話がある。切腹するのが堀部安兵衛、介錯人が荒川十太夫と人物の名が異なるだけで変わらない。一龍斎や神田は『荒川十太夫』を、それ以外の流派や上方では『小田小右衛門』を読むことが多い。

史実では、細川家で大石らお預かり義士の世話をしたのは堀内伝右衛門。自身の代で士分に取り立てられた成り上がりで、無神経な言動が多かった。酒の肴や下戸向けの菓子を「忘れた」と言って出そうとしなかったり、切腹の上意がある当日には義士を放置して帰宅したりする(さすがに同僚が馬で連れ戻した)[192]

細川綱利の「義士は堀内のような一代で武士になった出来星でなく、身分のある上士に介錯させるべし」との意向で、大石良雄は細川譜代家臣・安場久幸の介錯で切腹している。なお、堀内は抜擢してくれた綱利の死後、家老たちによって処罰され帰農したが、義士お預かりを書き留めた『堀内伝右衛門覚書』が史料として今に残る。

その他

中村仲蔵

初代中村仲蔵の斧定九郎。勝川春章画。

『中村仲蔵』は落語と講談の共通演目。

初代中村仲蔵は人気の歌舞伎役者であったが、ある時座元と揉め、それが原因で主要な役は仲蔵に回ってこなくなり、『仮名手本忠臣蔵』の五段目の端役「斧定九郎」が割り当てられる。

しかし仲蔵は浪人ものの斧定九郎を演じるため、本物の浪人を観察して写実的な演出で定九郎を演じる。

これが大評判となってそれ以降斧定九郎は人気の役どころになり、仲蔵も人気役者として名を残した。

淀五郎

淀五郎』は落語と講談の共通演目。

若手の役者・澤村淀五郎が『仮名手本忠臣蔵』の塩冶判官の役に抜擢された。抜擢したのは大星由良助の役を勤める座頭の市川團蔵である。

しかし團蔵は四段目「判官切腹の場」における淀五郎の演技が気に入らず、淀五郎が切腹の演技をしても花道で止まり舞台に出てこない。そんなことが何日も続いたため評判が悪くなる。

淀五郎は舞台で團蔵を刺し殺し自分も死のうと決心し、最後の挨拶に先輩の役者・初代中村仲蔵を訪ねるも、仲蔵に真意を悟られ、翻意させられた上に徹夜で芝居の稽古をつけてもらう。

その甲斐あって淀五郎の演技は見違えるようにうまくなり、淀五郎が切腹の際、初めて團蔵の由良助が舞台に登場した。

そして淀五郎は「うむ、待ちかねた」と言う。


  1. ^ 廣野行雄『なぜ大石が大星なのか』14頁(『駿河台大学論業叢』第51号、2015年)
  2. ^ 『常憲院殿御実記』巻四十七
  3. ^ 地域社会貢献活動 ふるさと歴史シリーズ「博多につよくなろう」福本日南西日本シティ銀行、平成12年1月
  4. ^ 元禄快挙録 岩波書店
  5. ^ ドナルド・キーン『日本文学史近世編二』中公文庫。p218
  6. ^ 宮澤(2001) p236
  7. ^ a b 佐藤(2003)
  8. ^ 山本(2012a) 第七章四節「自己犠牲の精神」
  9. ^ 山本(2012a) 第七章四節「赤穂浪士は義士か」より重引。
  10. ^ a b c d e 稲田(2014) p13
  11. ^ 谷川( 2013) p282
  12. ^ 谷川( 2013) p389-390
  13. ^ 初代 春日井梅鶯「義士伝 涙の本懐・泉岳寺」「輝く墓前」より「泉岳寺 輝く墓前」
  14. ^ 六代目 宝井馬琴『四十七士の最期』より「小田小右衛門」
  15. ^ 八代目 一龍斎貞山『四十七士の最期』より「誉の三百石」
  16. ^ 忠臣蔵 |ドラマ・時代劇 番組詳細情報”. 2012年1月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年6月1日閲覧。
  17. ^ 土曜時代劇第2弾は忠臣蔵!”. 時代劇シリーズ. NHKドラマ (2016年3月28日). 2016年8月23日閲覧。
  18. ^ 定本講談名作全集(1971) 「山鹿送り」p312-325
  19. ^ (『山鹿語類』、巻二十九
  20. ^ 『山鹿語類巻第二十一』より「士道」
  21. ^ 常陸宮妃華子中山慶子
  22. ^ 『仮名手本忠臣蔵』
  23. ^ 『元禄快挙別禄』
  24. ^ 『赤城盟伝』
  25. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 野口(1994)p35-45
  26. ^ 実際の脇坂への処分は、赤穂城にて在番していた脇坂重臣の左次兵衛が乱心して、同僚の貞右衛門を切り殺すという事件が起こったためである(『赤穂城在番日記』)。
  27. ^ 近代デジタルライブラリ元禄快挙四十七士
  28. ^ コトバンクデジタル版 日本人名大辞典+Plus脇坂安照
  29. ^ a b c 野口(1994) p75
  30. ^ 講談名作文庫(1976)
  31. ^ 忠臣蔵新聞「ダイジェスト忠臣蔵(第12巻)」
  32. ^ a b 国際日本文化研究センターデータベース『近世畸人伝(正・続)』「大石氏僕」
  33. ^ 国際日本文化研究センターデータベース『近世畸人伝(正・続)』「寺井玄渓」
  34. ^ 国際日本文化研究センターデータベース『近世畸人伝(正・続)』「小野寺秀和妻」
  35. ^ 『筆のすさび、仁斎日礼ほか』 日野龍夫校注、<新日本古典文学大系99>岩波書店、2000年
  36. ^ 白峰旬「元禄14年の脇坂家による播磨国赤穂城在番について--播磨国龍野藩家老脇坂民部の赤穂城在番日記の分析より」
  37. ^ 八坂神社祇園商店街振興組合一力亭
  38. ^ a b 講談名作文庫(1976)
  39. ^ 田口(1998)、第四章2山科妻子の別れ
  40. ^ a b c d e 宮澤(1999) p118-119
  41. ^ a b c d e 山本(2012a) 第四章一節「祇園遊びの真意」
  42. ^ a b 佐々木(1983) p191
  43. ^ a b 野口(1994)p124
  44. ^ a b 宮澤(1999) p120-121
  45. ^ a b 今尾(1987)、p199
  46. ^ a b c 山本(2013) p131
  47. ^ 山本(2012a) 第五章二節「大石の残す子への思い」
  48. ^ a b c d e 佐々木(1983) p433
  49. ^ a b 宮澤(2001) p29
  50. ^ コトバンクデジタル版 日本人名大辞典+Plus『林鶴梁』
  51. ^ a b 宮澤(1999) p58-60
  52. ^ 山本(2012a) 第五章二節
  53. ^ a b c 谷川(2013)p280、283、379
  54. ^ 宮澤(2001) p47。関根(1924)149コマ目
  55. ^ コトバンク 新撰 芸能人物事典 『伊東燕尾』
  56. ^ a b c 箱根町観光情報ポータルサイト「箱根旧街道休憩所」”. 2024年2月21日閲覧。説明の看板の拡大図:東海道53次 箱根越えー10(甘酒茶屋)”. 2024年2月21日閲覧。
  57. ^ a b c d 講談名作文庫(1976)
  58. ^ 尾崎(1974) p249-252
  59. ^ a b c d e f g h 忠臣蔵文庫(1912)
  60. ^ 赤穂市忠臣蔵 第四巻 p876-883
  61. ^ a b c 田口(1998)第二章2節「いないはずの女たち」
  62. ^ a b c d 田口(1998)第二章3節「それぞれの母」
  63. ^ 『正史実伝いろは文庫』第十四回。忠臣蔵文庫(1912)
  64. ^ 佐々木(1983)。p756
  65. ^ a b 赤穂市忠臣蔵 第四巻p640
  66. ^ a b 田口(1998)第二章2節「絵図面をめぐる恋の話」
  67. ^ 山本(2013) p147
  68. ^ a b 山本(2012a) 第五章二節「赤穂浪人の潜伏先」
  69. ^ 内侍所 112コマ目から
  70. ^ 赤穂義士伝一夕話 七之巻二十九頁
  71. ^ 忠臣蔵文庫(1912) p15 -
  72. ^ コトバンク『忠臣蔵物』
  73. ^ 赤穂市忠臣蔵 第4巻p337
  74. ^ a b 佐々木(1983) p336
  75. ^ コトバンクデジタル版 日本人名大辞典+Plus『天野屋利兵衛』
  76. ^ 松島(1964) p174
  77. ^ a b 江崎(1940) p14 -
  78. ^ 佐々木(1983)
  79. ^ 中央義士会『忠臣蔵四十七義士全名鑑』より「大高源五忠雄」P177-178
  80. ^ 吉良氏秘伝の『吉良懐中抄』が松浦家に伝わり、その写しが平戸市に現存する(「松浦家関係文書」松浦史料博物館)
  81. ^ a b 山本(2012a) 第五章四節
  82. ^ 宮澤(1999) p157
  83. ^ 山本(2012a) 第五章四節「吉良邸茶会の情報」
  84. ^ 宮澤(1999) p157
  85. ^ 『江戸歌舞伎の残照』吉田弥生著 文芸社 p165
  86. ^ a b c 佐々木(1983) p175
  87. ^ a b 佐々木(1983) p405
  88. ^ 両国の俵星玄蕃道場跡の看板
  89. ^ 立命館大学『忠臣蔵と見立て』誠忠大星一代話
  90. ^ 宮澤(1999)
  91. ^ 『赤穂義人纂書. 第2 巻之9−18』 国書刊行会 p432
  92. ^ データ百科シリーズ『元禄忠臣蔵データファイル』、元禄忠臣蔵の会編、人物往来社 p238。近代デジタルライブラリ『文芸叢書. 忠臣蔵文庫 』 四十七石忠箭計 四幕目(404コマから)の葉泉院第舎の場
  93. ^ コトバンク世界大百科事典「南部坂雪の別れ」
  94. ^ a b 南部坂雪の別れ 図書 桃中軒雲右衛門 講演 (東京明倫社(ほか), 1912年)近代デジタルライブラリの該当箇所
  95. ^ a b 大石内蔵助東下り : 武士道精華 雪花山人著 (立川文明堂, 1912年)。近代デジタルライブラリの該当箇所
  96. ^ a b c d e f g 谷川(2013)「瑤泉院に見られる字自立する女性のイメージ」 p369 - p376
  97. ^ 谷川(2013)ではその例として忠臣蔵 櫻花の巻・菊花の巻1959年)と赤穂浪士1961年)を挙げている
  98. ^ 1958年大映版の忠臣蔵谷川(2013)より。
  99. ^ 真山(1982) p59
  100. ^ 『宝永四年江戸全図』(国会図書館蔵)でも空白で何も描かれていない。
  101. ^ 『元禄十年分間江戸図』に「アサノ式ブ(浅野長照)」とある
  102. ^ すみだあれこれ/討ち入り蕎麦
  103. ^ a b c 近代デジタルライブラリ『義士伝』泉岳寺書上。p450に楠屋の件が載っており、p466に浅野内匠頭の亡霊が登場する。p455には太鼓を打ち鳴らしたとある。
  104. ^ a b 三田村(1930) p256 -
  105. ^ 今尾(1987) p49
  106. ^ a b 赤穂義士史料下(1931) p4, p513
  107. ^ a b 山本(2012b)第四章3節「計画通りの討ち入り」
  108. ^ 赤穂義士史料上(1931)p268(本書では寺坂信行筆記のうち寺坂私記と共通する部分は省かれているため、寺坂私記の方に当該文書が載っている)
  109. ^ a b c 元禄(1999)p118
  110. ^ こよみのページ「暦のこぼれ話」赤穂義士祭
  111. ^ 講談名作文庫(1976)。「神崎与五郎かながきの詫び証文」
  112. ^ a b c d e f g 宮澤(1999) p163-166
  113. ^ 「浄瑠璃大全. 第1 仮名手本忠臣蔵」(和田三郎 編/1882年)
  114. ^ 『歴史群像デジタルアーカイブス<元禄赤穂事件と江戸時代>討ち入りは愚策? 山鹿流兵法と忠臣蔵』大山格
  115. ^ 山鹿素行『武教全書』巻二・営法
  116. ^ 落合勝信『家秘抄』『義人纂書』第二
  117. ^ 『山鹿素行兵法学の史的研究』(P173)
  118. ^ 赤穂市史編纂室主幹・三好一行「赤穂四十七士列伝」(P112)
  119. ^ 同市編纂室「赤穂四十七士列伝」大石内蔵助良雄
  120. ^ 「Web版(兵庫県赤穂市の文化財 -the Charge for Preservation of Caltural Asset ,Ako-)」赤穂城跡二之丸門枡形発掘調査現地説明会資料”. 赤穂市教育委員会. 2020年1月23日閲覧。
  121. ^ 松浦清「心得ぬ事なり。人を出して即往きたるに、果たして大石の輩」「弘前候ばかり之を知れり」(松浦清山『甲子夜話』)。
  122. ^ 『山鹿語録』第一(「臣道」より報仇論)
  123. ^ 松浦清『甲子夜話』では吉良関係者に尊称、赤穂義士を蔑称の記述あり
  124. ^ 堀勇雄『山鹿素行』
  125. ^ a b 『山鹿素行兵法学の史的研究』(P171-174、P260-272)
  126. ^ a b 『「兵法者の生活」第六章.幕末兵法武道家の生涯 三.窪田清音の業績』(P221-229)
  127. ^ 「剣法規則後伝口伝」および「論語私記」には赤穂事件(忠臣蔵)や赤穂義士に関係する記述はない。
  128. ^ a b c d e f g h i 宮澤(1999) p166-168
  129. ^ a b c d e f 山本(2012a)第六章四節「上杉家の対応」
  130. ^ 大佛次郎の小説並びにその映像化「赤穂浪士」、歌舞伎「松浦の太鼓」など
  131. ^ a b 宮澤(1999) p185-186
  132. ^ 佐々木杜太郎『吉良上野介の正体』。宮澤(1999) p184から重引
  133. ^ a b 宮澤(1999) p177
  134. ^ a b 『忠臣蔵四十七義士全名鑑 完全版』 中央義士会 p324-325
  135. ^ 佐々木(1983) p342
  136. ^ 「堀内伝右衛門覚書」に「神かけて泉岳寺が左様な事はないだろうと思ったが、事実であった」旨の記述あり 。
  137. ^ 兵庫県たつの市「赤穂浅野家資料」。再度の散逸防止のため非公開(教育事業部歴史文化財課)
  138. ^ 「芸術新潮」(特集「世紀の遺書」・2000年1月号)
  139. ^ 縣居通信10月”. 賀茂真淵記念館. 2024年2月21日閲覧。
  140. ^ 真山(1982)
  141. ^ a b c 佐々木(1983) p177-178
  142. ^ CiNii『 赤穂義士傳一夕話』
  143. ^ 近代デジタルライブラリ『赤穂義士伝一夕話』四巻53ページ
  144. ^ 山本(2013) p189
  145. ^ a b c 田口(1998)第三章3『祇園可音物語』
  146. ^ a b c 今尾(1987)、p108-119
  147. ^ a b 『歴史群像デジタルアーカイブス<元禄赤穂事件-忠臣蔵外伝>なぜ大多数の赤穂藩浪士は仇討ちに参加しなかったのか』桐野作人
  148. ^ 日暮高則『板谷峠の死闘』など
  149. ^ a b 谷口(2006) p179-180
  150. ^ 元禄(1999)p113
  151. ^ a b 山本(2012a)第四章三「脱盟者の思い」
  152. ^ 近代デジタルライブラリ『正史実伝いろは文庫』 p103, 177, 401を参照。
  153. ^ 今尾(1987)、p97
  154. ^ 近代デジタルライブラリー『赤穂義士伝一夕話』巻之六 三十八ページ
  155. ^ a b c d 野口(2015) 第四章「浅野赤穂家の危機」の「九郎兵衛逃亡」の節
  156. ^ 「北斎」(3 - 5ページ、総合研究大学院大学教授・大久保純一、岩波書店)
  157. ^ 旧・吉良神社は明治政府の神社合祀の方針により旧・松坂稲荷と統合され、義央の墓を持つ現在の姿になっている。
  158. ^ 「三田村鳶魚編随筆百種」第六(1977年)
  159. ^ 現代でも曹洞宗では「自死志願者の24時間相談」など自殺防止に特化した寺院がある。
  160. ^ 『宝夢録』「東叡山通夜物語」
  161. ^ 定本講談名作全集(1971) p308
  162. ^ 山本(2013) p127
  163. ^ a b 赤穂市忠臣蔵 第四巻 p345-349
  164. ^ 定本講談名作全集(1971) 「お薬献上」p308-312
  165. ^ 定本講談名作全集(1971) 「向島の花見」p325-331
  166. ^ 定本講談名作全集(1971) p331-337
  167. ^ 『翁草』巻百六十七など
  168. ^ 講談名作文庫「名代の粗忽者」
  169. ^ 定本講談名作全集(1971) 「粗忽の権化」、「首のない馬」p379-386
  170. ^ 定本講談名作全集(1971) 「安兵衛の生立、良薬の由来」、「図らず知る孫の孝行」、「妻の貞節、懺悔の自殺」
  171. ^ 定本講談名作全集(1971) 「義母の仇討ち」p408-411
  172. ^ 定本講談名作全集(1971) 「高田馬場へ一ッ飛び」、「十八人切り、記念の五合枡」、「仇討の物語」・、「安兵衛の身元」、「入聟の相談」、「酔うても本心狂わず」p411-434
  173. ^ 定本講談名作全集(1971) 「意外の惨事」、「名主へ相談」、「情けも籠る奉行の裁断」p435-446
  174. ^ 定本講談名作全集(1971) 「雪ぐ師の恥」、「使者の供」、「槍術の妙」p464-471
  175. ^ 定本講談名作全集(1971) 「乞食の姉弟」p472-478
  176. ^ 定本講談名作全集(1971) 「放蕩指南」「伯母の執拗」、「万事休す」p479-490
  177. ^ 定本講談名作全集(1971) 「嫉妬のほむら」「孝子の袖乞い」、「親子の再会、「妻子の一心、一番槍の功名」p491-505
  178. ^ 定本講談名作全集(1971) 「伊勢屋の家宝」 p521-531
  179. ^ 講談全集(1929) 「父の訃音」、「重なる不幸」、「一夜に討つ君父の仇」 p581-599
  180. ^ 中央義士会『忠臣蔵四十七義士全名鑑 子孫が綴る、赤穂義士「正史」銘々伝』より「菅谷半之丞政利」(小池書院、2007年)
  181. ^ 定本講談名作全集(1971) 「同志の憤激」、「老人の屈死」 p532-538
  182. ^ 定本講談名作全集(1971) 「変名の再生」、「主家に擬する芝居」、「同志の落涙」 p568-576
  183. ^ 定本講談名作全集(1971) 「女武芸者」、「嫁入りの条件」、「正宗の刀が加増の種」 p611-621
  184. ^ 定本講談名作全集(1971) 「情けの勘当」、「報恩の身売り」、「情けが仇、事理明白」 p627-646
  185. ^ 関根(1924) p72
  186. ^ Google Books『窓のすさみ』 p200
  187. ^ 定本講談名作全集(1971) 「忠僕直助」 p678-708
  188. ^ 講談全集(1929) p1094
  189. ^ 今井敏夫 『<元禄赤穂事件と江戸時代>スッキリ解決! 忠臣蔵のなぜと謎』「吉良側に剣客はいなかったのか?」
  190. ^ 講談全集(1929) 「腕試し、父の仇討」、「怪物退治、上杉家召抱」p1094-1113
  191. ^ 講談全集(1929) p1114-1142
  192. ^ 『堀内伝右衛門覚書』で、堀内本人が当日帰宅について悪びれず記述している。
  193. ^ a b c d e 立命館大学デジタル展示『忠臣蔵と見立て』仮名手本忠臣蔵成立史
  194. ^ a b c d e f g h i j k l m n 松島(1964) p132-142
  195. ^ 松島(1964) p133
  196. ^ a b 赤穂市忠臣蔵 第四巻p302-303
  197. ^ a b c 松島(1964) p147-148
  198. ^ a b 赤穂市忠臣蔵 第四巻p305-306
  199. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 松島(1964) p180-189
  200. ^ a b c 赤穂市忠臣蔵 第四巻p318
  201. ^ a b c 松島(1964) p199-200
  202. ^ 赤穂市忠臣蔵 第四巻p640
  203. ^ 赤穂市忠臣蔵 第四巻p654
  204. ^ 松島(1964) p200
  205. ^ a b c d 松島(1964) p201
  206. ^ 松島(1964) p161
  207. ^ 赤穂市忠臣蔵 第四巻p661
  208. ^ a b 元禄(1999) p238
  209. ^ a b c d 宮澤(2001) p33-35
  210. ^ 吉田(2004) p136-137, p160
  211. ^ 赤穂市忠臣蔵第四巻 p678
  212. ^ 赤穂市忠臣蔵第四巻 p663
  213. ^ a b c 元禄(1999) p240
  214. ^ a b 宮澤(2001) p129-130
  215. ^ 『青果全集 第1巻』(講談社、復刊1975年)
  216. ^ 歌舞伎公演データベース『仮名手本忠臣蔵』
  217. ^ 歌舞伎公演データベース『元禄忠臣蔵』
  218. ^ a b 宮澤(1999) p234
  219. ^ 歌舞伎公演データベース『瑤泉院』
  220. ^ 歌舞伎公演データベース『続・瑶泉院』
  221. ^ 歌舞伎公演データベース『四谷怪談忠臣蔵』
  222. ^ 歌舞伎美人『通し狂言四谷怪談忠臣蔵』
  223. ^ a b c 宮澤(2001) p11-12。
  224. ^ 宮澤(2001) p11-12。関根黙庵『講談落語今昔譚』(雄山閣)を重引。関根(1924) 46コマ目
  225. ^ a b 宮澤(2001) p46-47
  226. ^ a b 宮澤(2001) p73-74
  227. ^ a b 宮澤(2001) p110-113
  228. ^ 『人生を豊かにしたい人のための講談』(2020年10月、マイナビ出版)ほか
  229. ^ 『神田松之丞 講談入門』p272、河出書房新社、2018年7月30日
  230. ^ a b c d e f 松島(1964) p203-208
  231. ^ 水野稔『山東京伝の黄表紙』有光書房、1976年。
  232. ^ a b c d e f g h i j k 宮澤(2001) p20-21
  233. ^ 谷口(2006) p187
  234. ^ 宮澤(2001) p22
  235. ^ 「水戸徳川家文書」財団法人水府明徳会・彰考館文庫
  236. ^ a b c 谷口(2006) p186-188
  237. ^ a b c d e f g h 松島(1964) p210-215
  238. ^ 青空文庫『学問のすすめ』
  239. ^ 宮澤(1999) p6-7
  240. ^ 『赤穂誠忠録』「序」に「吉良家の忠臣義人も併記」とある。
  241. ^ 萬松山泉岳寺公式web「泉岳寺の歴史」
  242. ^ 片山伯仙編「仙珪和尚日記抄」(花岳寺、1967年)
  243. ^ a b c 宮澤(2001) p15
  244. ^ a b 宮澤(2001) p82
  245. ^ 松島(1964) p217
  246. ^ 広瀬玲子 『国粋主義者の国際認識と国家構想─福本日南を中心として─』 芙蓉書房出版、2004年 ISBN 4829503394
  247. ^ a b c d e 宮澤(2001) p82-84
  248. ^ 御園京平『映画・忠臣蔵』。谷川(2013) p294から重引。
  249. ^ 宮澤(2001) p109
  250. ^ 宮澤(2001) p113-116
  251. ^ a b 宮澤(2001) p15
  252. ^ 柳敏栄『韓国演劇運動史』(檀国大学出版部、津川泉訳、風響社、2020年)
  253. ^ a b 宮澤(2001) p144-146
  254. ^ 宮澤(2001) p147-153
  255. ^ 松島(1964) p222
  256. ^ 「忠臣蔵」三社競作など映画界は花盛り『中外商業新報』昭和2年1月10日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p18 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  257. ^ a b 宮澤(2001) p167-168
  258. ^ 松島(1964) p223
  259. ^ 宮澤(2001) p175-176
  260. ^ a b 宮澤(2001) p15-16
  261. ^ 宮澤(2001) p181-186
  262. ^ 宮澤誠一『近代日本と「忠臣蔵」幻想』より「真山の忠臣蔵・その一、その二」
  263. ^ 宮澤(2001) p187-190
  264. ^ a b 宮澤(2001) p200-202
  265. ^ a b 宮澤(2001) p216-217
  266. ^ 『尋常小學修身書 複式編制學校兒童用. 第3・4學年 甲』(文部省, 1933.5)など
  267. ^ 宮澤(2001) p220-221
  268. ^ 宮澤(1999) p228
  269. ^ 谷川(2013) p290
  270. ^ a b 谷川(2013) p292
  271. ^ 谷川(2013) p22
  272. ^ 谷川(2013) p309
  273. ^ 佐藤(2003) p153-154
  274. ^ 今井正『自作を語る』(1990年、映画の本 工房ありす)p303
  275. ^ a b c d 谷川(2013) p306-311
  276. ^ a b c 宮澤(1999) p230-231
  277. ^ 「赤穂飛脚(走る忠臣蔵)」などを収録した短編集のタイトルであり、「妖説忠臣蔵」表題の小説自体は無い。
  278. ^ フジテレビ時代劇スペシャル『くノ一忠臣蔵』(1983年/昭和58年)ほか多数。
  279. ^ 『赤穂浪士 上・下』、大佛次郎、新潮文庫、新潮社、2007年11月 上 ISBN 4101083045 / 下 ISBN 4101083053
  280. ^ 番組エピソード 大河ドラマ『赤穂浪士』 - NHKアーカイブス
  281. ^ 番組エピソード 赤穂浪士を題材にした、主なNHKドラマ-NHKアーカイブス
  282. ^ 番組エピソード“忠臣蔵”でおなじみ!【赤穂浪士特集】-NHKアーカイブス
  283. ^ 谷川(2013) p331
  284. ^ 谷川(2013) p315
  285. ^ 『考えるヒント2』文春文庫、1975年(昭和50年) pp.10 - 33
  286. ^ A Collector's Guide to Books on Japan in English: An Annotated List of Over 2500 Titles with Subject Index Jozef Rogala, Routledge, 2012
  287. ^ a b c 宮澤(1999) p240-244
  288. ^ 元禄(1999) p216-217
  289. ^ 『キネマ旬報』(No.1072、1991年)
  290. ^ 浅野長矩が「乱心」だとすれば命は助かり、流罪もしくは蟄居で済み長広の家督継承が可能。
  291. ^ ’47 Ronin’ Tanks at Japanese Box Office; Is U.S. Doom Next?”. 2022年5月3日閲覧。
  292. ^ 「玉川太福 サカナ手本忠臣蔵」(江戸東京博物館、2021年3月13日)





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「忠臣蔵」の関連用語

忠臣蔵のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



忠臣蔵のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの忠臣蔵 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS