明治〜戦前とは? わかりやすく解説

明治〜戦前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 07:37 UTC 版)

米相場」の記事における「明治〜戦前」の解説

明治維新となって大阪堂島石建米商初め各地米会所取引を以て賭博類するものと為し明治2年一律にこれを禁止した1871年明治4年)に、更めて大阪堂島米会所設立許し、ここに、限月米(げんげつまい)取引を行わした。この方法は、帳合米商内や石建米商内から、戦前の米の清算取引一歩近づいた。その近づいた点は、標準米取引となったこと。即ち、格付検査依って代用米の受渡す途を開くと同時に正米受引の仕法、即ち、期日までに反対売買依って決済されないものは、正米を以て受け渡すようになり、従来赤間関において行われていた仕法ならったということになる。 1876年明治9年)、大阪では、前年来の金融逼迫豊作により前年1石7、8であった米価が4円まで下がり、また、地租改正により地租金納となるなど、納税者である農民米価安に困窮していた。同年政府預かり制度、翌1877年明治10年)、地租代納制度設けることによって、農民の貢祖金納制の推進助けようとしたが手続きが面倒であったことからあまり利用されなかった。これらの背景から、政府米価回復をはかるため、投機取引所を必要とした。さらに、財政難の中、取引税の増収見込められることから、1876年明治9年8月太政官布告米会所条例」を布告した条例によって米穀先物取引所を営むには会社規定制定し政府許可を受けることが必要となった。この条例によって設立した米会所は、東京蛎殻町東京兜町大阪堂島京都近江大津)、赤間関など全国14箇所であった1880年明治13年米価平準を保つということで、米会所条例改正が行われた。主な改正点は、 仲買人身元金変更従来東京・大阪は200円、他は一等200円、二等100円改めて、一律1000円とする。 売買証拠金10分の1から10分の2とする。 現場売買禁止する などであった。この結果仲買人激減取引低迷となる米会所出た。そして、規制緩和運動各地米商会所から出たから、政府もその声を聞き容れ1882年明治15年12月税金証拠金仲買人身元保証金についての要求受け入れたが、1883年明治16年軍備拡大のための増税策のひとつとして出来た仲買人税(約定金額1000分の5)の創設あいまって取引高その後不振続いた。しかし、1885年明治18年)に入り仲買人税が廃止され、さらに1888年明治21年)末には米商会所税定期売買約定金額の、1000分の2から株式同率分の6と改正され米穀先物取引回復兆し見えてきた。 1887年明治20年5月政府取引所条例ブルース条例)を発布した。この条例構想は、 営利目的とする株式会社組織による取引所非営利会員組織とすること 取引所売買契約履行担保する責任負わず違約は被違約者が違約者に要求すること 仲買人自己売買禁止し委託行為のみとすること 実物取引による取引方法導入すること 諸商品取り扱いを可能とすること を目指し今まで取引慣習を完全に否定しようとするものであった。これらは投機に対して政府誤った認識よるもの実状即していないと、旧米商会所旧株取引所関係者のみならず学者からも反対論噴出した1893年明治26年6月農商務大臣井上馨調停によって、従来取引所に対して1894年明治27年6月まで旧制度での営業認められその間政府欧米実状調査し、新取引所制度立案に当たることとなった1893年明治26年3月米商会所条例株式取引所条例取引所条例統合して新たに取引所法が制定され取引所税と共に公布された。この2法によって取引所資本金営業保証金株式手数料及び積立金定期売買に関する税額規定定められた。主な要点は、 売買商品ごとに1地区1箇所とし、15人の発起人半数会員又は仲買人であること)で設立出来ること 会社組織でも会員組織でも良いこと 会員及び仲買人をもって売買がなされ、会員自己の計算のみの取引を、仲買人自己もしくは他人計算委託取引)で以って取引できること 役員会員もしくは株主の中から選ばれ政府認可を受けること 取引実物取引直取引延べ取引定期取引(3箇月以内)の3種とすること 取引所に於ける定期取引類似取引の禁止及び罰則規定 取引所に於いて決めされた先物相場公定相場とすること 取引所監査以外の役員使用人売買取引禁止 委託手数料売買約定代金1000分の8以内取引所組織売買物件方法状況に応じて取引所定めること 株式会社組織である場合資本金を3万円以上とし、資本金3分の1政府納入すること、営業保証金積立金については取引所担保制度適用すること 免許の更新10年とする 倉庫業兼業認め倉荷証券指図式)の発行認める。 取引所法の施行によって新しく取引所システム整えられたが、明治26年中に新しく設立され取引所37及んだ米商会所条例によって設立されたもの 大阪堂島東京赤間関ほかの米穀取引所ほか10箇所 株式取引所条例によって設立されいたもの 東京大阪京都の各取引所 3箇所 明治20年勅令によって設立されいたもの 高岡肥料外五品、神戸米外五品、佐賀米外二品 3箇所 株式会社組織にて新しく設立されたもの 岡山米穀広島米穀米子米穀尾道米穀熊本米穀大阪油ほかの米穀取引所 ほか11箇所 会員組織にて設立されたもの 近江米油取引所 1箇所 取引所設立明治27年以降多数昇り政府新設申請に対して無条件許可与えていたから1898年明治31年)までにその数は184及んだ新しく設立され取引所中には市場としての活動希薄な取引所設立後市場維持出来ず、すぐに解散に至るもの、その他、大きな取引所写真相場使って空取引賭博取引をする所も出てきた。そこで、政府は緊急を要するとして、勅令でもって取引所規制始め仲買人身元保証金増額新設にあたって会員組織限定するなどの処置をとった。この対応によって、1899年明治32年)から1901年明治34年)にかけて52取引所解散し取引所の数は1912年大正元年)には44箇所までに減少した。 「米相場米相場とは米の先物取引のことで、江戸時代から盛んに行われていた。明治26年1893)、東京米商会所東京米穀取引所再編され先物取引活発化した。「期米市場19日)前塲は尙高し梅雨天候申分なきも市米の益々好况を呈せると各地安からず殊に正米の好賣行を見て正米師の買退くもの多く今朝…より2錢あり後北國多…食に伸び兼た…本」と記され紙片新聞経済切抜きか)の一部書き写されている。 — 清水晴風著『東京名物百人一首明治40年8月米相場」より抜粋 2012年現在総合取引所構想日本存在するが、戦前は、赤間関米穀株式取引所など株式商品を扱う総合取引所存在した1914年大正3年取引所法の整備進められ取引所法の一部改定された。おもな改正点取引所役員仲買人兼職禁止 取引所役職員取引所取引禁止 呑み行為取締り規定整備 仲買人支店主張所における受託行為禁止 取引所対す営業税仲買人対す取引税の分離及び税率低減 一般人仲買業への進出禁止不適格条件である刑罰罪種拡張 取引所役職員所属する取引所および同種の取引所仲買人との間にて営業関る利害関係持つことの禁止 などの改正があり、さらに取引所法施細則 取引所税制定新たにあった。 1922年大正11年)、取引所法の一部改正があり、仲買人取引員という呼称となり、定期取引清算取引改定し、取引所各種付帯事業を営むことが認められた。 1918年大正7年以降米価暴騰に対して政府米穀国家管理体制必要性痛感し、さらに、1920年大正9年第一次世界大戦後恐慌の中、米価もあおりを受け下落、さらに大豊作も重なって高値時の半値以下という大暴落となり、政府米穀国家管理への考えをさらに強めていくこととなったその後米価変動米騒動起因となったように、社会不安引き起こすことを危惧した政府1921年大正10年)、「米穀法」を制定した。この法によって政府は米の需給調整をし、米価調節市場任せず間接的とはいえ米価調整出来るようにした。 1925年大正14年)には、米穀法の改正により米穀国家統制数量調整から市価調整進んだ。この法に基づき政府米穀買い入れ売り出しをするに当たって米穀第4条において「時価準拠シテ之ヲ定ム」とのみしか記してなかったので買い入れ売り出し時期理由の是非が問題となった政府一存によって運用開始時期が決まるという不明確さは米穀業界取引所関係者にとっても米価への影響大きいだけに市場への脅威として受け止められ政府買い上げ米は必ず市場還流するという供給増の材料となって市場影響及ぼした政府米の備積はいつしか市場放出され米価下落を招くという考えは、米穀法によって政府が米を買い上げれば上げるほど相場が下がるという現象招来し政府政界動向への思惑市場は常に不安な要素抱え込む至った。これらの不安定な状況から米穀法の効果疑問視され、1929年昭和6年)再び改正されることになった。率勢米価制の導入である。改正によって政府米穀買い入れ売り渡し米価政府告示した高価格又は最低価格超えた場合のみとなり、最低価格、最高価格米穀生産費及び家計米価、とこれに物価指数対米指数割合算出した価格(率勢米価)を基本として定められた。最低価格米穀生産費と率勢米価下値二割相当する価格範囲内、最高価格家計米価と率勢米価の上二割相当する価格範囲内定められた。しかし、この改定発動する機会はほとんどなく、農村救済策としての米価引き上げには効果がなかった。さらに、台湾朝鮮南樺太からの米穀移出入、及び米穀輸出入、には政府許可を必要とした。 1933年昭和8年)にはさらに強化加える「米穀統制法」が定められて、米価政府による間接統制移行した。この法によって最高、最低価格公定し、政府は常に最高価格での買い入れ申し込みがあれば資産の続く限り買い入れ、最低価格売り渡し申し込みがあれば所有米のある限り無制限に応じなければならない義務出来たまた、米の出廻期に買い上げ端境には売却するなど、季節変動対応した。これによって米価は最高、最低価格の間で安定するという趣旨からである。法施行、1年目大豊作となり、農村救済意図した最低公定価格2320銭は割高感与え、最低公定価格にての買い上げ申し込み殺到し政府貯蔵米は大幅に膨らみ年間内地米販売量半分相当する1640万石達した。さらに、品質力の増した台湾米の大量移入によって供給過剰なり、米価はこれによって最低価格固定され米穀取引大きな影響与えた1936年昭和11年)、政府米穀自治管理法等によって、過剰米対策考えたが、この法は1934年昭和9年)の大凶作により翌10年から需給事情逆転したため、発動されことはなかった。 この間満州事変1937年昭和12年)の日中戦争拡大など、不安定な世情の中、1939年昭和14年)の旱魃による凶作加わり、米は需給面で完全に不足となり、流通価格に関して政府強力な統制加えられることとなったこのような情勢の中、米穀取引所取引高大きく減少することとなり、市場存在意義失われていった1939年昭和14年4月米穀配給統制法が制定されるや、米穀取引所全て廃止され市場委ねていた米の流れ国家統制下に置き、最高、最低価格厳守させた。引き続き価格統制令施行しすべての価格公定とし、米穀については1石43円を公定価格とした。 米穀配給統制法案は、1939年昭和14年3月議会通過して成立し同法に依って同年7月25日日本米株式会社設立された。朝鮮においても、内地倣って朝鮮米穀市場株式会社が、1939年昭和14年11月設立され従前米穀取引所解散した1939年昭和14年10月1日からは、米穀に関しては、取引所法を適用しなくなり、(同法第55条昭和14年勅令第677号)正米市場規則廃止され日本米株式会社経営する米穀市場現物取引未着取引延取引)が、米穀取引所及び正米市場に代わって、それらの旧所在地逐次開設され、その数28ヶ所に及ぶ。 1939年昭和14年8月25日総動員法第4条発令により全国米穀取引所一斉に解け合いにより、事実上の期米市場閉鎖となったまた、1939年昭和14年10月1日米穀配給統制第55条施行に因り全国米穀取引所解散明治以後米穀取引所形態変えながらも継続されてきたが、1939年昭和14年)の米穀配給統制法によって堂島米穀取引所はじめとする19カ所全ての米穀取引所廃止されて、米相場事実上禁止追い込まれた。また21カ所の正米市場閉鎖され国策会社ある日米穀株式会社統合された。

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