明治〜戦前
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明治維新となって、大阪堂島の石建米商を初め、各地の米会所の取引を以て賭博に類するものと為し、明治2年一律にこれを禁止した。1871年(明治4年)に、更めて大阪に堂島米会所の設立を許し、ここに、限月米(げんげつまい)取引を行わした。この方法は、帳合米商内や石建米商内から、戦前の米の清算取引に一歩近づいた。その近づいた点は、標準米取引となったこと。即ち、格付検査を依って代用米の受渡す途を開くと同時に、正米受引の仕法、即ち、期日までに反対売買を依って決済されないものは、正米を以て受け渡すようになり、従来赤間関において行われていた仕法にならったということになる。 1876年(明治9年)、大阪では、前年来の金融逼迫と豊作により前年1石7、8円であった米価が4円まで下がり、また、地租改正により地租が金納となるなど、納税者である農民は米価安に困窮していた。同年、政府は預かり米制度、翌1877年(明治10年)、地租代納米制度を設けることによって、農民の貢祖金納制の推進を助けようとしたが手続きが面倒であったことからあまり利用されなかった。これらの背景から、政府は米価の回復をはかるため、投機取引所を必要とした。さらに、財政難の中、取引税の増収が見込められることから、1876年(明治9年)8月、太政官布告「米会所条例」を布告した。条例によって米穀先物取引所を営むには会社規定を制定し、政府の許可を受けることが必要となった。この条例によって設立した米会所は、東京蛎殻町、東京兜町、大阪堂島、京都、近江(大津)、赤間関など全国で14箇所であった。1880年(明治13年)米価の平準を保つということで、米会所条例の改正が行われた。主な改正点は、 仲買人身元金の変更―従来、東京・大阪は200円、他は一等200円、二等100円を改めて、一律1000円とする。 売買証拠金を10分の1から10分の2とする。 現場売買を禁止する などであった。この結果、仲買人の激減、取引低迷となる米会所が出た。そして、規制緩和の運動は各地の米商会所から出たから、政府もその声を聞き容れ1882年(明治15年)12月、税金、証拠金、仲買人の身元保証金についての要求を受け入れたが、1883年(明治16年)軍備拡大のための増税策のひとつとして出来た、仲買人税(約定金額の1000分の5)の創設とあいまって取引高はその後も不振が続いた。しかし、1885年(明治18年)に入り、仲買人税が廃止され、さらに1888年(明治21年)末には米商会所税が定期売買約定金額の、1000分の2から株式と同率の万分の6と改正され、米穀先物取引回復の兆しが見えてきた。 1887年(明治20年)5月、政府は取引所条例(ブルース条例)を発布した。この条例の構想は、 営利を目的とする株式会社組織による取引所を非営利会員組織とすること 取引所は売買契約の履行を担保する責任は負わず、違約は被違約者が違約者に要求すること 仲買人は自己売買を禁止し、委託行為のみとすること 実物取引による取引方法を導入すること 諸商品の取り扱いを可能とすること を目指し、今までの取引慣習を完全に否定しようとするものであった。これらは投機に対しての政府の誤った認識によるもので実状に即していないと、旧米商会所、旧株式取引所関係者のみならず学者からも反対論が噴出した。1893年(明治26年)6月、農商務大臣井上馨の調停によって、従来の取引所に対しては1894年(明治27年)6月まで旧制度での営業が認められ、その間、政府は欧米の実状を調査し、新取引所制度の立案に当たることとなった。 1893年(明治26年)3月、米商会所条例、株式取引所条例、取引所条例を統合して、新たに取引所法が制定され、取引所税法と共に公布された。この2法によって取引所の資本金、営業保証金、株式手数料及び積立金、定期売買に関する税額の規定が定められた。主な要点は、 売買商品ごとに1地区1箇所とし、15人の発起人(半数は会員又は仲買人であること)で設立出来ること 会社組織でも会員組織でも良いこと 会員及び仲買人をもって売買がなされ、会員は自己の計算のみの取引を、仲買人は自己もしくは他人の計算(委託取引)で以って取引できること 役員は会員もしくは株主の中から選ばれ政府の認可を受けること 取引は実物取引(直取引、延べ取引)定期取引(3箇月以内)の3種とすること 取引所外に於ける定期取引、類似取引の禁止及び罰則規定 取引所に於いて値決めされた先物相場を公定相場とすること 取引所の監査以外の役員、使用人の売買取引の禁止 委託手数料は売買約定代金の1000分の8以内で取引所の組織、売買物件・方法・状況に応じて取引所が定めること 株式会社組織である場合は資本金を3万円以上とし、資本金の3分の1は政府に納入すること、営業保証金、積立金については取引所担保制度を適用すること 免許の更新は10年とする 倉庫業の兼業を認め、倉荷証券(指図式)の発行を認める。 取引所法の施行によって新しく取引所のシステムが整えられたが、明治26年中に新しく設立された取引所は37に及んだ。 米商会所条例によって設立されたもの 大阪堂島、東京、赤間関ほかの米穀取引所ほか10箇所 株式取引所条例によって設立されていたもの 東京、大阪、京都の各取引所 3箇所 明治20年の勅令によって設立されていたもの 高岡肥料外五品、神戸米外五品、佐賀米外二品 3箇所 株式会社組織にて新しく設立されたもの 岡山米穀、広島米穀、米子米穀、尾道米穀、熊本米穀、大阪油ほかの米穀取引所 ほか11箇所 会員組織にて設立されたもの 近江米油取引所 1箇所 取引所設立は明治27年以降も多数に昇り、政府が新設申請に対して無条件に許可を与えていたから1898年(明治31年)までにその数は184に及んだ。新しく設立された取引所の中には市場としての活動が希薄な取引所や設立後、市場の維持が出来ず、すぐに解散に至るもの、その他、大きな取引所の写真相場を使って空取引、賭博的取引をする所も出てきた。そこで、政府は緊急を要するとして、勅令でもって取引所規制を始め、仲買人身元保証金の増額、新設にあたっては会員組織に限定するなどの処置をとった。この対応によって、1899年(明治32年)から1901年(明治34年)にかけて52の取引所が解散し、取引所の数は1912年(大正元年)には44箇所までに減少した。 「米相場」米相場とは米の先物取引のことで、江戸時代から盛んに行われていた。明治26年(1893)、東京米商会所が東京米穀取引所に再編され、先物取引が活発化した。「期米市場(19日)前塲は尙高し梅雨の天候申分なきも市米の益々好况を呈せると各地も安からず殊に正米の好賣行を見て正米師の買退くもの多く今朝…より2錢あり後北國多…食に伸び兼た…本」と記された紙片(新聞の経済欄の切抜きか)の一部が書き写されている。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「米相場」より抜粋 2012年現在、総合取引所化構想が日本に存在するが、戦前は、赤間関米穀株式取引所など株式、商品を扱う総合取引所が存在した。 1914年(大正3年)取引所法の整備が進められ、取引所法の一部が改定された。おもな改正点は 取引所役員と仲買人の兼職禁止 取引所役職員の取引所取引の禁止 呑み行為取締り規定の整備 仲買人の支店、主張所における受託行為の禁止 取引所に対する営業税と仲買人に対する取引税の分離及び税率の低減 一般人の仲買業への進出の禁止、不適格条件である刑罰の罪種拡張 取引所の役職員と所属する取引所および同種の他取引所の仲買人との間にて営業に関る利害関係持つことの禁止 などの改正があり、さらに取引所法施行細則 取引所税の制定も新たにあった。 1922年(大正11年)、取引所法の一部改正があり、仲買人は取引員という呼称となり、定期取引を清算取引に改定し、取引所が各種の付帯事業を営むことが認められた。 1918年(大正7年)以降の米価の暴騰に対して政府は米穀の国家管理体制の必要性を痛感し、さらに、1920年(大正9年)第一次世界大戦後の恐慌の中、米価もあおりを受け下落、さらに大豊作も重なって、高値時の半値以下という大暴落となり、政府は米穀の国家管理への考えをさらに強めていくこととなった。その後、米価の変動が米騒動の起因となったように、社会不安を引き起こすことを危惧した政府は1921年(大正10年)、「米穀法」を制定した。この法によって政府は米の需給の調整をし、米価の調節を市場に任せず、間接的とはいえ米価調整が出来るようにした。 1925年(大正14年)には、米穀法の改正により米穀の国家統制は数量調整から市価調整と進んだ。この法に基づき、政府が米穀を買い入れ、売り出しをするに当たって米穀法第4条において「時価ニ準拠シテ之ヲ定ム」とのみしか記してなかったので買い入れ・売り出しの時期、理由の是非が問題となった。政府の一存によって運用開始時期が決まるという不明確さは米穀業界、取引所関係者にとっても米価への影響が大きいだけに市場への脅威として受け止められ、政府の買い上げ米は必ず市場に還流するという供給増の材料となって市場に影響を及ぼした。政府米の備積はいつしか市場に放出され、米価下落を招くという考えは、米穀法によって政府が米を買い上げれば上げるほど相場が下がるという現象を招来し、政府、政界の動向への思惑か市場は常に不安な要素を抱え込むに至った。これらの不安定な状況から米穀法の効果が疑問視され、1929年(昭和6年)再び改正されることになった。率勢米価制の導入である。改正によって政府の米穀買い入れ、売り渡しは米価が政府の告示した最高価格又は最低価格を超えた場合のみとなり、最低価格、最高価格は米穀生産費及び家計米価、とこれに物価指数対米価指数の割合で算出した価格(率勢米価)を基本として定められた。最低価格は米穀生産費と率勢米価の下値二割の相当する価格の範囲内、最高価格は家計米価と率勢米価の上値二割に相当する価格の範囲内で定められた。しかし、この改定は発動する機会はほとんどなく、農村救済策としての米価引き上げには効果がなかった。さらに、台湾、朝鮮、南樺太からの米穀の移出入、及び米穀の輸出入、には政府の許可を必要とした。 1933年(昭和8年)にはさらに強化を加える「米穀統制法」が定められて、米価の政府による間接統制に移行した。この法によって最高、最低価格を公定し、政府は常に最高価格での買い入れの申し込みがあれば資産の続く限り、買い入れ、最低価格で売り渡しの申し込みがあれば所有米のある限り、無制限に応じなければならない義務が出来た。また、米の出廻期には買い上げ、端境には売却するなど、季節変動に対応した。これによって米価は最高、最低価格の間で安定するという趣旨からである。法施行、1年目は大豊作となり、農村救済を意図した最低公定価格23円20銭は割高感を与え、最低公定価格にての買い上げ申し込みが殺到し、政府貯蔵米は大幅に膨らみ、年間内地米販売量の半分に相当する1640万石に達した。さらに、品質力の増した台湾米の大量移入によって供給過剰なり、米価はこれによって最低価格で固定され、米穀取引に大きな影響を与えた。1936年(昭和11年)、政府は米穀自治管理法等によって、過剰米対策を考えたが、この法は1934年(昭和9年)の大凶作により翌10年から需給事情が逆転したため、発動されることはなかった。 この間、満州事変、1937年(昭和12年)の日中戦争の拡大など、不安定な世情の中、1939年(昭和14年)の旱魃による凶作が加わり、米は需給面で完全に不足となり、流通、価格に関して政府の強力な統制が加えられることとなった。このような情勢の中、米穀取引所の取引高は大きく減少することとなり、市場の存在意義は失われていった。1939年(昭和14年)4月、米穀配給統制法が制定されるや、米穀取引所の全ては廃止され、市場に委ねていた米の流れを国家の統制下に置き、最高、最低価格を厳守させた。引き続き価格統制令を施行してすべての価格を公定とし、米穀については1石43円を公定価格とした。 米穀配給統制法案は、1939年(昭和14年)3月議会を通過して成立し、同法に依って、同年7月25日日本米穀株式会社が設立された。朝鮮においても、内地に倣って朝鮮米穀市場株式会社が、1939年(昭和14年)11月に設立され、従前の米穀取引所は解散した。1939年(昭和14年)10月1日からは、米穀に関しては、取引所法を適用しなくなり、(同法第55条、昭和14年勅令第677号)正米市場規則も廃止され、日本米穀株式会社の経営する米穀市場(現物取引、未着物取引、延取引)が、米穀取引所及び正米市場に代わって、それらの旧所在地に逐次開設され、その数28ヶ所に及ぶ。 1939年(昭和14年)8月25日、総動員法第4条の発令により全国の米穀取引所は一斉に総解け合いにより、事実上の期米市場の閉鎖となった。また、1939年(昭和14年)10月1日米穀配給統制法第55条施行に因り全国の米穀取引所解散。 明治以後も米穀取引所に形態を変えながらも継続されてきたが、1939年(昭和14年)の米穀配給統制法によって堂島米穀取引所をはじめとする19カ所全ての米穀取引所が廃止されて、米相場は事実上の禁止に追い込まれた。また21カ所の正米市場も閉鎖され、国策会社である日本米穀株式会社に統合された。
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