旧館時代(1976年-1985年)
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「弥富市立図書館」の記事における「旧館時代(1976年-1985年)」の解説
明治時代の海西郡(後の海部郡)彌富村は文鳥と金魚の養殖を特産とする村であり、1903年(明治36年)には海西郡で初めて町制を施行して彌富町となった。太平洋戦争後にも弥富金魚の養殖で栄え、また名古屋市のベッドタウンとして宅地開発が行われた。1955年(昭和30年)には彌富町から弥富町に改称している。1971年(昭和46年)5月には旧弥富町役場跡地に弥富町立中央公民館が開館しており、中央公民館には図書室があった。 電源立地促進対策交付事業として図書館の整備が計画され、1975年(昭和50年)6月には弥富町役場を核とする施設を着工した。1976年(昭和51年)5月1日、弥富町役場の2階の一角に弥富町立図書館が設置された。開館した1976年度の蔵書数は11,025冊。延床面積は360m2であり、その内訳は開架書架が154m2、一般閲覧コーナーが40m2、児童コーナーが40m2、ブラウジングコーナーが24m2などだった。開館日は水曜・土曜・日曜日の週3日間(に加えて祝日)であり、休館日は月曜・火曜・木曜・金曜・第3日曜日・年末年始だった。開館時間は9時から16時30分だった。弥富町在住・在勤者に対して、2冊まで2週間の館外貸出を行った。 1978年(昭和53年)時点では公民館長を兼任する図書館長、司書資格を有する係長、女子職員2人の計4人が運営にあたっていた。1978年時点で貸出冊数に対する比率を見ると、高校生以上が40%、小中学生が60%と、子どもの利用が多かった。1978年8月31日時点の蔵書数は18,391冊だったが、年間に4,000冊から6,000冊を購入したことで、1980年度には蔵書数が30,330冊となり、1983年度には蔵書数が45,334冊となった。1976年度の貸出冊数は35,055冊だったが、1983年度には2倍の70,366冊となった。 弥富町の北部は商工業を中心とする人口の多い地域であり、南部は農業を中心とする人口のまばらな地域である。弥富町の町域は南北に長iく、図書館は町域の北部にあるため、利用者は北部在住者がほとんどだった。南部の住民に対して公平なサービスを提供するという観点から、開館翌年の1977年(昭和52年)2月には移動図書館サービスを開始した。1977年の開始当初は、ポプラ台団地・白鳥台団地・楽荘団地・弥生保育所・大藤団地・鍋田支所・藤木海運寮・二葉保育所の8ステーションを、1か月に1回の頻度で巡回した。移動図書館は一般成人(主に主婦)を重視する方針をとっており、1978年の利用者比率は高校生以上が63%、小中学生が37%と、図書館本館とは逆の結果になっている。
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旧館時代
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1950年代のみなみ館は木造2階建ての建物であり、500席の1スクリーンを有していた。木造館時代のみなみ館では松竹・日活・新東宝の各社の邦画を上映していた。 1963年(昭和38年)12月には鉄筋コンクリート造3階建てのビルに建て替え、邦画の封切館として営業を再開した。映画黄金期の1960年(昭和35年)時点では京都市に70館の映画館があり、うち南区には、八千代座映画劇場(東九条札の辻町)、朝日館(東九条南岩本町)、富士映画劇場(西九条小寺町7)、南洋館(西九条開ヶ町3)、みなみ館(西九条永城町34)と、みなみ館を含めて5館の映画館があった。昭和40年代から昭和50年代には映画が斜陽産業化し、みなみ館では成人映画も上映した。1980年(昭和55年)時点で京都市の映画館は27館にまで減っており、南区の映画館はみなみ館のみとなっていた。 1988年(昭和63年)には金属リサイクル業を営む巖本金属株式会社がみなみ館を買収し、京都みなみ会館に改称した。これにともなって再び一般映画を上映するようになった。1993年(平成5年)には京都駅北側のルネサンスホールが閉館し、ルネサンスホールを上映拠点としていた映画上映会社RCSが京都みなみ会館のプロデュースを手がけるようになった。RCSはロードショー上映やリバイバル上映以外に、「ポップコーンナイト」という覆面上映会などを行い、その独特な番組編成や企画が話題となった。特に、ジャン=リュック・ゴダール、アッバス・キアロスタミ、黒沢清、相米慎二など国内外の著名監督に焦点を当てたオールナイトの特集上映に定評があった。単一スクリーンの映画館でありながら、年間300本を超える作品を上映した年もあった。映画監督の三島有紀子は、京都市右京区の東映京都撮影所で助監督を務めていた頃にみなみ会館に通っていたという。かつて建物の1階にはパチンコ店があり、パチンコ店の店員の声が映画館まで響いてきたこともあったという。 2010年(平成22年)3月14日にRCSとの業務提携が終了すると、4月1日からはみなみ会館が独自に番組編成を行う映画館として上映を再開した。番組編成はRCS時代を踏襲したものとなったが、配給会社と直接交渉する必要が生じたことで上映作品を集めるのに苦労し、観客数は大幅に減少した。RCS時代に人気のあったオールナイト上映が行えなくなり、後に支配人となる吉田由利香はこの時期を「暗黒の3年間」と表現している。2013年(平成25年)には京都造形芸術大学映像芸術コース出身の吉田由利香が24歳の若さで支配人に就任。2014年(平成26年)にインド映画特集の1本として『きっと、うまくいく』を上映した際には、階段の下まで観客の行列が伸びるほどの人気を得た。2016年(平成28年)1月にデヴィッド・ボウイが死去すると、みなみ会館はボウイの初主演作品『地球に落ちてきた男』の上映権を取得し、他館に先駆けて同年8月13日から上映した。 1963年(昭和38年)竣工の建物は老朽化していたが、多額の費用がかかる耐震工事を断念した。2018年内の営業再開を目指して移転候補地を調査中として、2018年(平成30年)3月31日に一時閉館した。3月中旬からは「さよなら特別興行」を行い、ミュージシャンの曽我部恵一や向井秀徳が出演する「Match-up Theater」、スタッフが手作業で椅子を揺り動かしたりする4DX風上映「カナザワ映画祭 2018『ギミック・シアター』in 京都みなみ会館」、「京都みなみ会館 さよなら爆音上映 3DAYS produced by boid」などが行われた。最後の6日間は一般的な特集上映を行い、『シェルブールの雨傘』、『ロシュフォールの恋人たち』、『青い春』など38本を上映した。
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旧館時代
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「揖斐川町立いびがわ図書館」の記事における「旧館時代」の解説
1980年(昭和55年)4月10日、上南方15番地1に揖斐川町立図書館の新館が開館した。鉄筋コンクリート造の2階建であり、延床面積は589m2だった。1980年度(昭和55年度)末の蔵書数は25,995冊であり、1980年度(昭和55年度)の貸出冊数は40,020冊だった。 1995年(平成7年)までの貸出方式はブラウン方式を採用していたが、1995年(平成7年)7月には図書館システムにコンピュータを導入し、またタッチパネル式の利用者用検索端末が設けられた。岐阜県の町村立図書館としては早い開館だったため、ビデオやCDの視聴覚コーナーがなく、設置の要望が強かった。このため、1995年(平成7年)11月には増築工事に着手し、1996年(平成8年)2月1日には図書館を休館として、隣接する揖斐川町中央公民館1階第2会議室に臨時図書館が設けられた。8月1日には増改築を経てリニューアルオープンし、延床面積が820m2となった。工事費用は1億4000万円。 2002年度(平成14年度)末の蔵書数は76,644冊、2002年度(平成14年度)の貸出冊数は64,659冊だった。講演会・コンサート・人形劇・おはなしの夕べなどを開催し、文学講座・短歌会・読書サークル・おはなしの会などの自主活動グループがあった。揖斐川図書館は子どもの読書推進活動に力を入れており、絨毯が敷かれた1階の絵本コーナーには約7,000冊の絵本があった。2階の郷土資料室には約5000冊の資料があった。 2005年(平成17年)1月31日には(旧)揖斐川町・谷汲村・久瀬村・春日村・坂内村・藤橋村の1町5村が合併して(新)揖斐川町が発足し、揖斐川町立図書館は揖斐川町立揖斐川図書館に改称した。2008年(平成20年)3月上旬には、町内の建設会社社長から寄付された300万円を元に、福祉・教育・交通安全を主題とする高田直希文庫が設置された。
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旧館時代(1917年 - 1970年)
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「刈谷市図書館」の記事における「旧館時代(1917年 - 1970年)」の解説
大正時代には全国で図書館設置の動きがみられ、その多くは大正天皇即位の礼(御大典)の記念事業として計画されているが、刈谷図書館は御大典を記念して建設された図書館ではない。1916年(大正5年)時点の愛知県には公立24館、私立18館の計42館の図書館があった。 1914年(大正3年)には、刈谷町議会議員の宍戸俊治と医師の藤井清七が、刈谷藩侍医の村上忠順の蔵書約25,000冊を購入し、書庫・閲覧室とともに碧海郡刈谷町に寄付した。この蔵書は碧海郡高岡町(現・豊田市)の村上忠浄の文庫に所蔵されていたものだった。宍戸や藤井の動きと並行して、同年には亀城尋常高等小学校の高須鉈吉も、刈谷町教育会の事業として図書館を建設すべしと主張している。 1915年(大正4年)11月23日には愛知県から図書館の設置が認可された。1916年(大正5年)6月頃から1917年(大正6年)3月末までの1年9か月間は、後に書誌学者となる森銑三が図書の整理を行っている。1917年7月3日には刈谷町立刈谷図書館の開館式が行われ、松井茂愛知県知事、碧海郡長、警察署長などの来賓を得た。1915年度の愛知県において、蔵書数1万冊を超える図書館は刈谷図書館を含めて4館のみであり、刈谷図書館は県内有数の規模を持つ図書館だった。建物は刈谷公会堂に隣接しており、建設費は1,378円だった。閲覧室は12坪、事務室は6坪、2階建書庫は20坪である。初代館長には高須鉈吉が就任している。開館時点の蔵書数は25,805冊であり、館長1人と司書2人が職務にあたっていた。 1917年の開館時からは長らく日曜日のみ開館していたが、太平洋戦争後の1946年(昭和21年)8月から1950年までは祝日を除く毎日開館となった。1950年(昭和25年)4月には刈谷町が市制施行して刈谷市となったため、刈谷町立刈谷図書館から刈谷市立刈谷図書館に改称した。1955年(昭和30年)5月には閲覧室を増設し、1956年4月には初めて専任の館長を迎えている。1952年(昭和27年)には愛知県立中央図書館貸出文庫によって巡回文庫が開始されたが、1956年(昭和31年)には休止している。このため、1959年(昭和34年)には本館の蔵書による巡回文庫を開始した。 1961年(昭和36年)9月26日には公共図書館・学校図書館・公民館図書室・事業所附属図書室などの活動の進展を図るために刈谷図書館協会が設立されている。1965年(昭和40年)には創立50周年記念式典を挙行した。1967年(昭和42年)には刈谷市名誉市民の大野一造の寄付により、児童室に大野文庫(児童文庫)が開設された。
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