寓意画の解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/05 16:15 UTC 版)
全体の構図としては、玉座に腰掛けた人物が剣と天秤を手にしている様子が描かれ、マルセイユ版タロットもウェイト版タロットも、構図としての大きな変更点はほぼ無い。 マルセイユ版タロットにおける「正義」とは姿かたちを持たず、カードに描かれる剣と天秤を持った女性は「正義」という概念の幻影的イメージの投影として捉えられ、ギリシア神話等をはじめ女神と少なからず関連性はあるものの完全に同一視されることは少ない。「正義」に描かれる象徴が一貫して訴えているのは相反する力同士の調和のとれた結合である。右手に掲げた黄金の剣はその持ち方から「武力」として振り回すのではなく「支配」の証として、王が杖などを掲げるのと同様に扱われていることを示す。また左手の天秤は、均衡を保っているにもかかわらず左右の受け皿の大きさを変えて描かれている。これは「公平」とは常に「左右対称」を示すものではないという基本概念に則ったもので、数学的な均衡よりも調和や機能的な美しさといった感性による均衡を示すことで「正義」という形の見えないものを表す要因となっている。また剣と天秤をもった女性の目は、そのどちらにも向けられること無く正面を見据えている。社会の価値観や個人の感情によって常に普遍とはいかない「正義」という概念を視覚的情報や感情に流されることの無いよう、右にも左にも(象徴学的に)向けられていないのである。尚、マルセイユ版での「正義」は8番に位置しているが、この「8」というアラビア数字は2つの○を一筆で書いた形であり、天秤の2つの皿を垂直に並べた形を容易に連想させる。 ウェイト版タロットに描かれている女性は、ギリシア神話の正義を象徴する女神・アストライアーないしその母・テミスがモチーフとされる。天秤はアストライアーの神話に由来する公正な裁きを意味し、剣は大天使・ミカエルが手にする断罪の証に由来すると言われる。
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寓意画の解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/15 00:21 UTC 版)
全体の構図としては、女性がライオンの口を押さえ(ロマンス語諸語で、「力」は女性名詞である)、女性の頭上には1番の「魔術師」と同じく「∞」のマーク(マルセイユ版では「∞」を象った帽子)が描かれている等、マルセイユ版もウェイト版も大きな違いは無い。 マルセイユ版の数列では1~9までの精神世界の領域が10番の「運命の輪」によって一度区切られ、11~20の現実世界の領域に入ったことを表している。故に1と11にそれぞれ始まりにして未知の可能性を暗示する∞が一つずつ、21番の「世界」にはその2つの世界の統合を表すように2つの∞が描かれている。 カードに描かれる人物は「人間の女性」である。特にマルセイユ版に描かれる女性は、玉座に鎮座する女神や神的イメージでないことが、女性の服装が中世ヨーロッパの一般的な庶民の衣服であることに示されている。しかし、この女性がただ者でないことは頭部の帽子(∞)に表されている。同様の帽子をかぶる「魔術師(奇術師)」が、両手にコインやステッキを持っているのに対し、この女性は素手である。つまり「魔術師」が備えていた奇跡的な“力”は、「力」ではステッキ等の道具を用いるのではなくこの女性の「手」に備えられていることを表し、「魔術師」のそれに比べ、より人間的、直接的であることを示している。 また、カードに描かれるライオンは「本能」(特に人間の動物的本能)と結びつけて解釈される。「愚者」のカードにも犬が登場したが、この「力」ではより凶暴なライオンとして登場し無視できない存在として描かれている。このことは象徴学的に、精神における人間的な本性が自身の動物的な本性と直面することが出来るようになったことを示し、同時に心理学的に、無意識として手なずけられない状態にある力を自我意識が直接取り扱うことは出来ず、二つの側面を関係づけるのは女性による仲介が必要であることを表している。 ちなみに女性がライオンの“口”に手を向けていることに関しては、様々な説があり統一が成されていない。口を開けようとしている、閉じようとしている、或いはその両方であり見る者の状況に応じてどちらとも採れるように描かれている、単純にライオンの肝(或いは“何か”)を取り出しエリクサーの材料にしようとしている等、多岐にわたる。
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寓意画の解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 22:16 UTC 版)
悪魔の名が示す通り、誘惑の象徴として解釈が行われる。マルセイユ版では、頭部に黄金の角と冠、背中にコウモリのような羽をもち、手には鋭い爪を備え、左手に柄の無い剣を持つ悪魔の姿が描かれている。 「悪魔」が最も強調している象徴は「訳がわからない」である。頭部の角は牡鹿の形であるが、手には猛禽類を思わせる爪を備えている上、背中の羽は哺乳類であるコウモリの形である。また、股間の膨らみは男性を象徴するが、女性の胸部を意図した図形を胸に模している。これは「悪魔」が(エデンの園など)人間に接触する際のカモフラージュとして、女性の純粋さや無邪気さを装い、悪魔の持つ「残忍さ」や「姑息な心」を覆い隠そうとしているためと考えられている。このように“ちぐはぐ”な象徴を一体の像に集約することは「混乱」や「葛藤」といった心理的錯乱状態を示し、「悪魔」を滅亡や破壊へと誘う恐ろしい存在として扱っていると解釈される。 これを最も象徴しているのが、「悪魔」の持つ剣である。剣自体は大アルカナの他のカードにもしばしば登場し、小アルカナのスートにも採用されている象徴であるが、「悪魔」では「刃の部分を持った状態」で描かれている。つまり「悪魔」は剣の使い方はおろか持ち方すら知らないのである。「悪魔」に描かれる剣は、誰にも制御されない極めて危険な暴力の象徴である。このことから、「悪魔」の頭部の冠を北欧神話のオーディンの冠として結びつける説がある。オーディンは北欧神話における最高神であるが、プライドが高く、癇癪(かんしゃく)を起こしやすい激情家としての側面を持つことから、「悪魔」の冠をオーディンのそういった面を象徴していると解釈されている。 一方で、「悪魔」を「救世主」と見ることもできる。悪魔は創世記においてイヴをそそのかし知恵の実を食させたが、見方を変えれば(逆位置)、悪魔の意思がどうであれ、人間にとっては科学を発展させ地球上に種を広げる良い結果をもたらしたといえる。これは「意図の有る無しに関わらず、当人の望む望まぬに関わらず、結果的に起こる奇跡」、即ちトリックスターを意味する。 また「悪魔」の下段には、頭部に角を思わせる飾り物を装着し、豚のような耳と尻尾を生やした2人の人物が、「悪魔」の立つ台座に繋がれた状態で描かれている。この2人は「悪魔」のしもべと解釈される。これは、絵の構図が「教皇」と対になっていることから由来しているとされる。人間の内面的部分が「悪魔」に仕えることによって起き得る様々な影響や、またその役割自体もよく解っていない状態を表し、何の葛藤も感じず、何の成長も無い餓鬼のような小さな存在であることが、「教皇」同様に中心の人物との対比によって示されている。加えて、2人の人物が薄ら笑いを浮かべている様子は「自分の行動を完全にコントロールできる」と思い込んでいる人などによく見かける表情である。つまり、この2人も「悪魔」が「教皇」と違い、「独裁的」で「自己中心的」な律法を司ることを示す要因ともなっている。故に、「教皇」のカードでは悪魔が教皇となり、下の2人が後ろ向きで描かれている。しかし「悪魔」としもべを繋ぐ縄はゆるく、自覚さえあればしもべは「悪魔」の支配を脱することができることも意味している。 ウェイト版に描かれる悪魔は、磨羯宮(山羊座)を象徴するヤギの角、ワシやタカの要素である鉤爪状の足、蝙蝠のような翼が生えた姿で描かれており、バフォメットや、農耕を司る神パーンがモチーフとされる。この悪魔の下にいる、四角状の黒い台座に繋がれた鎖に捕われた1組の男女にも角と尻尾があり、悪魔と同化していることが伺える。左の女性の尻尾は古代からワインなどで用いられている葡萄の房が描かれており、右の男性の尻尾には、悪魔の左手に持っている松明から着火して燃えている様子が描かれている。これらはいずれも欲望や快楽から夜を騒がせてきた犯罪者、独裁者を示すものとされる。悪魔の頭上には五芒星が上下逆に描かれていて、これが示すものは堕ちた人間、堕落の象徴とされている。台座の色と背景の黒は、本来人が関わるべきでない闇の世界が一面に広がった、悪徳の元凶がここにあるという構図としている。
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寓意画の解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 05:03 UTC 版)
「皇帝」などに描かれる権威的人物像と違い、このカードでは二輪の戦車に乗った若き王の姿が描かれる。一般的にこの若き王は、明確な目的を行動に移す第一歩を踏み出した場面として解釈が行われている。また数字の「7」は『運命』や『宿命』、『変容』などと大きく関わる数字であると考えられている。例えば、創世記に記される創造行為は7つ(6つの段階と1つの休憩)であり、錬金術では7つの金属と7つの惑星の影響による7つの変容の段階があり、サイコロの向き合う面の和は全て「7」であり、今日にみられるスロットマシンの大当たりの出目は、普通7 7 7となっている。 マルセイユ版に描かれる「戦車」では、黄金の冠と甲冑に身を包んだ若者が黄金の杖を手にし、赤と青の馬を生やした車輪付きの台座に乗った構図で描かれている。また、台座には4本の柱が取り付けられ頭上の天蓋を支えている。一説では、戦地から戻ってきた勝利者の凱旋パレードの光景だともいわれる。 柱に注目すると、外側の2本は赤、内側の2本は青に塗られ、2頭の馬と同色である(一部では色が異なり、白と青なども見られる)。この2頭の馬は、自然界全ての動物的エネルギーの肯定的側面と否定的側面のそれぞれと結び付けられ、身体的な側(赤または白)と精神的な側(青)を象徴していると考えられている。このため4本の柱は、人間の内面における様々な側面が一つの「戦車」に取り付けられることにより、ある一定の共通目標に向かって機能し始めたことを表している。 だが、台座に取り付けられた車輪は横向きであり、このままでは物理的に動くことができない。つまり、この若き王は車輪についても、真下に生える草木が踏み折られることも気にしておらず、自分の見つめる目標以外の何ものにも意識を向けていない未熟な若者を示している。さらに、この「戦車」に手綱が付いていないこと、車輪の向き、馬と台座が一体になっていること等から、“地上を走るための乗り物ではない”といった解釈が行われる。解釈の方向として、カードを見る者の精神世界を旅する為の象徴的イメージとする解釈、太陽神アポロンの駆る戦車や旧約聖書に登場する火の戦車などをモチーフとした解釈などが挙がる。 二頭の馬は真正面から描かれているため、後ろ足部分が確認できず、まるで頭は二つあるが胴体は一つになっているかのようにも見える。マルセイユ版の種類は数多く、中にはそれぞれ異なる馬らしくない色彩に染められているもの、頭が完全に人間の顔になっているものなども見られる。 ウェイト版では、マルセイユ版など古典的なものと比較すると異色の構図になっている。絵柄には、前述のマルセイユ版が表すものとは逆で、幌付きの馬車に乗り、いざ出陣の時とばかりに前途を見据えた青年の姿が描かれている。頑丈な石造りの戦車に乗る青年は、意気揚々と真っすぐに未来を見つめているかのようである。背景の黄色い色彩や幌に散りばめられた星の模様、さらに額の王冠の大きな一つ星などが光り輝く様子が鮮やかであり、車輪もきらきらと輝くような太陽の光の色に染められている。これらに囲まれた青年は、ただひたすらに前進していけばよいだけの状況を示している。 背景の城は青年が出発した生家であり、その目的地は戦車の天蓋が意味する天界である。衣服の中央に見られる正方形の胸当ては、旧約聖書に見られるアロンの裁きの胸当てをモデルにしたとされ、勝利、凱旋を表すとともに、宗教上の儀式、行列を意味するものでもある。両肩の肩当てに象られた月は、全体から見て不安要素や持続性の無さを表しており、不安を抱えて出発した城に戻ってしまう暗示があるとされている。この不安定な要素は、戦車の前方にある独楽の絵柄にも見られる。この独楽の上部にあるのは、古代エジプトに見られる翼のついた太陽のシンボル「有翼円盤」である。この2つの絵柄は、人間の衝動性が純化され高次の力へと昇華されたものであることを示している。 戦車を引く馬が白と黒のスフィンクスに変更されている。スフィンクスの白と黒は、「2 女教皇」の柱と同じく、慈愛の面と峻厳の面であることを物語っている。低次元の本能が黒、高次の理念が白のスフィンクスであり、それを御する人間との3点に焦点を当てれば、「5 教皇」で触れた肉体と霊と魂の三位一体の思想とも結びつく。なお、ウェイトが戦車を引く馬の代わりにスフィンクスを採用した試みは、エリファス・レヴィのデザインが最初のもので、モデルになったのは、二頭の獅子に引かせた車に乗る月の女神キュベレーの彫像であると思われる[要出典]。
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