寓意と象徴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 05:16 UTC 版)
最初期の初期フランドル派の絵画作品は、こめられたキリスト教的寓意や象徴、聖書からの引用技法がその特徴であると言われることが多い。このような技法を最初に取り入れたのはヤン・ファン・エイクであり、この革新的技法を受け継いで発展させたのがファン・デル・ウェイデン、メムリンク、クリストゥスらだった。これらの画家たちは、当時の信仰や宗教的理想を高いレベルで絵画に取り入れるために、複雑な寓意や象徴を作品に多数描きいれた。このような概念のもとに制作された作品は静穏な印象を与え、自制と禁欲への敬意が表現されている。俗世間の事象よりも信仰心などの精神世界が強調されているのである。当時の北ヨーロッパでは聖母マリア信仰が最盛期を迎えており、絵画作品に描かれた寓意や象徴物もマリアの事績に関連するものが極めて多い。 美術史家クレイグ・ハービソンは、初期フランドル派の絵画作品にみられる写実主義と象徴主義の混交が、おそらく「初期フランドル芸術のもっとも重要な特質」だとしている。第一世代の初期フランドル派の画家たちは、宗教的象徴を作品にいかに自然に描き入れるかに注力していた。ヤン・ファン・エイクは多種多様な寓意や象徴を導入した画家で、精神世界と物質世界の共存を絵画に描き出そうとしたとも言われている。ただし、その寓意や象徴を表す事物は背景の細部に小さく控えめに表現されていることが多い。第一世代の画家たちの作品にさりげなく配された寓意や象徴物は画面に溶け込み、「天界からの言葉を告げようと細心の注意を払って描かれている」。なかでもヤン・ファン・エイクの宗教画には「現世の事物に姿を変えた天界の住人が常に描かれている」と言われている。ハービソンは、ヤン・ファン・エイクが絵画作品と寓意の調和を日々追及していた画家であり「現実世界の事象ではなく宗教的世界の真実を描こうとした」としている。その作品にみられる俗界と天界の混交は、ヤン・ファン・エイクが信仰するキリスト教義をもとにした「世俗と聖性の融合、実在と象徴の結合」を絵画世界に表現しようとしたことを意味している。ヤン・ファン・エイクは『受胎告知』や『ドレスデンの祭壇画』などの作品で、聖母マリアを不自然なまでに大きな姿形で描いた。これは天界と俗界の乖離を表したものである。教会、居間、裁判所など俗世の場所に姿を見せた天界の住人たるマリアが隔絶した存在であることを意味している。 ヤン・ファン・エイクが描いた俗世の教会は、天界の寓意と象徴で美々しく飾り立てられている。マリアが坐する天界の玉座は、例えば『ルッカの聖母』では明らかに俗世の座椅子に姿を変えて描かれている。また『宰相ロランの聖母』のように、描かれてる情景が俗世なのか天界なのか判別し難い作品もある。ヤン・ファン・エイクが作品に込めた寓意と象徴は膨大かつ複雑を極めたものであり、分かりやすい寓意を意味していると思われるモチーフが、全く別の意味合いをも内包していることも珍しくないとされる。このようなモチーフが絵画作品全体に繊細に織り込まれているために、その意味合いを理解するには何度も慎重に作品を精査する必要がある。美術史家ジョン・ウォードは、ヤン・ファン・エイクが用いた寓意と象徴の多くが「原罪からの救済と死からの救済、そして再生」を表現したものだとしている。 ヤン・ファン・エイクの絵画作品は、同時代のみならず後世の画家たちにもきわめて大きな影響を与えたが、それらの画家が作品に採用した寓意や象徴はヤン・ファン・エイクに比べると平凡なものが多い。ロベルト・カンピンは天界と俗界を明確に描き分けた画家で、ヤン・ファン・エイクとは異なり寓意や象徴を隠匿して描くことはなかった。カンピンが表現した寓意や象徴は俗世の事物に仮託されてはおらず、キリスト教的な意味合いが一目で分かるものだった。ロヒール・ファン・デル・ウェイデンが描いた寓意や象徴はカンピンに比べると精緻なものだったが、ヤン・ファン・エイクには及ばない。ハービソンは、ファン・デル・ウェイデンが慎重かつ精妙に表現した寓意や象徴について「(天界と現世の)神秘的な融合も迫真性もその作品には見られない。(ファン・デル・エイデンが描いた寓意や象徴は)理論的に検証、説明、再構成が可能なものだ」と指摘している。ファン・デル・ウェイデンの描いた建築物、例えば壁龕は理解できないような空間、色彩で表現されており、「そこに描かれた唐突かつ不自然に描かれている事物や人物が、キリスト教的意味合いをもつものだということが分かる」 『カンブレーの聖母』(1340年頃)、作者未詳カンブレー大聖堂(カンブレー)ビザンチン様式で描かれた聖母子像。オリジナルは画家の守護聖人である聖ルカが描いたと信じられており、数多く模写された複製画の一枚。 『悲しみの人』(1485年 - 1495年頃)、ヘールトヘン・トット・シント・ヤンス聖カタリナ女子修道院博物館(ユトレヒト)『イザヤ書』53章に記された人類の原罪を背負って処刑されたキリストは「悲しみの人 (en:Man of Sorrows)」と呼ばれ、宗教画の伝統的主題として数多く描かれている。なかでも本作はその複雑な構成が「肉体的な苦痛を見せながらも昂然としている」と高く評価されている 絵画作品などの優れた美術品は当時の信仰における暮らしの一助になっていた。祈祷や瞑想は救済につながるとされ、富める者は教会の建設や増改築に対する寄進、宗教美術品の制作依頼、あるいは死後の救済を意図する宗教的な品々に金銭を費やした。この時期に描かれた宗教画では、聖母マリアと幼児キリストを描いた「聖母子像」が非常に多かった。人気のある作品は幾度となく複製されて諸国へと輸出されている。これら聖母子像の源流となっているのは、12世紀から13世紀に描かれたビザンチン美術の聖母子像で、なかでも『カンブレーの聖母』がもっとも有名な作品と言える。これら数世紀以前からの伝統的な聖母子像をすべて吸収し、華麗かつ複雑な様式に昇華して新たな伝統を創りあげたのが初期フランドル派の画家たちだった。 聖母マリア信仰は13世紀ごろから盛んとなり、とくに「無原罪の御宿り」と「聖母の被昇天」の教義が信仰の中心となっていた。聖人にちなむ聖遺物が俗世と天界を結びつけるものとして崇敬の対象となっていたが、マリアに関する聖遺物は残されていない。このことが逆説的にマリアに神と人の橋渡しという特異な地位を与えることとなった。1400年代初頭までにマリアはキリスト教義の中でも重要な存在となり、神と人の仲裁者という役割を持つ存在だと広く信じられていた。死後に行きつく辺獄で過ごさねばならない期間は、生前に信仰心を発揮した期間に比例するとも思われていた。聖母マリア信仰が最盛期を迎えたのは15世紀初めで、マリアを表現した作品が熱狂的に支持された時代だった。一方で15世紀半ば以降のキリストを描いた絵画では、『イザヤ書』53章に記された、人類の原罪を背負って処刑された「悲しみの人 (en:Man of Sorrows)」として描かれることが多くなっていった。 制作依頼主が聖人と共に描かれたドナー・ポートレイトと呼ばれる作品分野 (en:donor portrait) が存在する。依頼主の肖像は三連祭壇画の一翼に描かれることが多かったが、時代が下ると手頃なディプティクに描かれることが主流となっていった。北ヨーロッパで伝統的に描き続けられていた、半身の聖母マリア像を諸外国まで広めたのはファン・デル・ウェイデンである。ビザンチン様式を昇華したこのマリア像はイタリアでも受け入れられた。ファン・デル・ウェイデンが革新したマリア像は北ヨーロッパ中で普遍的なものとなり、マリアを主題としたディプティクの発展に大きな役割を果たしている。
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