立花隆 立花隆の概要

立花隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/05 02:57 UTC 版)

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立花 隆
(たちばな たかし)
誕生 橘 隆志
(1940-05-28) 1940年5月28日(79歳)
日本の旗 日本 長崎県長崎市
職業 ジャーナリストノンフィクション作家評論家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 東京大学文学部卒業
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来歴

生い立ち

1940年、長崎県長崎市に生まれる。父は長崎の女学校教師で後に編集者を務め、母は羽仁もと子の信奉者で、クリスチャンの家庭。戦前の右翼思想家・橘孝三郎は、父のいとこに当たる。1942年(昭和17年)、父が文部省職員として北京師範学校副校長となったため、一家で中華民国へ渡る。

1946年引き揚げで日本へ戻り、一時母方の茨城郡那珂西に住み、のちに父の郷里茨城県水戸市に移る。茨城師範学校(茨城大学)付属小学校、中学校を経て、1956年(昭和31年)に水戸一高千葉県に移ったため東京都立上野高等学校への転入を経る。小学校時代から読書に熱中し、自らの読書遍歴を記した文章を残している[2]。また、中学時代は陸上競技にも熱中。俳優の梅宮辰夫・モータージャーナリストの徳大寺有恒は中学時代の先輩であり、三人とも陸上競技選手だった。

1959年(昭和34年)、東京大学文科二類へ入学。在学中は小説を書き、イギリスで開かれた原水爆禁止世界会議に参加。卒業論文フランス哲学者メーヌ・ド・ビラン

雑誌記者として

1964年(昭和39年)、東京大学フランス文学科卒業後、文藝春秋に入社[1]岩波書店NHKの試験も受けたが不合格だったという[3]。入社後は希望通り「週刊文春」に配属される。上司に堤尭がいた。先輩記者の導きで、文学青年時代から一転ノンフィクションを濫読して多大な影響を受けるが、もっともやりたくないプロ野球の取材をさせられたことから2年後に文藝春秋を退職。

1967年(昭和42年)、東京大学文学部哲学科に学士入学。翌68年に東大紛争が勃発し休校となる。

ルポライターとして

「ガルガンチュア」の看板(右下)(花園交番通り公道上より撮影)

東京大学休校中に、文春時代の仲間の誘いで文筆活動に入りルポライターとして活動を開始する。創刊時の雑誌『諸君!』に「生物学革命」、「宇宙船地球号」、「石油」などをテーマとしてノンフィクションや評論を書く。1968年、「立花隆」のペンネームで文藝春秋増刊号「素手でのし上がった男たち」を発表。『諸君!』の初代編集長田中健五(後の文藝春秋編集長)との交友が後の「角栄研究」に繋がる。1969年、「文藝春秋」や「週刊文春」に「60年安保英雄の栄光と悲惨」、「東大ゲバルト壁語録」、「この果てしなき断絶」、「実像・山本義隆秋田明大」などを発表[4]1970年、東大紛争中の学費支払いを巡り大学事務と衝突。東大哲学科を中退。

ルポライターとしての収入だけでは生計を立てられないため、数名の友人と資金を出し合い、新宿ゴールデン街バー「ガルガンチュア立花」をオープンさせた[5]。このバーでは経営だけでなく、バーテンダーとしてカウンターにも立ったが、報道・出版業界の知り合いが客として訪れるようになり「それなりに儲かった」[5]という。編集者の川鍋孝文や映像作家のブリス・ペドロレッティらも、客として通っていた[5]。のちにペドロレッティが新宿ゴールデン街をテーマにしたOV『フェスク・ヴドラ』を撮った際には、バーの店主として出演している[6]。バーを経営していたのは1971年前後だが、店自体は現在も残っている[5]

1972年講談社の川鍋孝文(のちの週刊現代編集長)の紹介でイスラエル政府の招待をうけ2週間イスラエルに滞在。招待期間終了後は自費で中東各地、地中海・エーゲ海を中心としたヨーロッパ諸国を放浪する。放浪期間中に偶然テルアビブ事件が発生。東大紛争以後中断していたジャーナリスト活動を現地で再開した。

田中角栄研究

1974年(昭和49年)、『文藝春秋』に「田中角栄研究〜その金脈と人脈」を発表。田中金脈問題として大きな反響を呼び、田中角栄首相退陣のきっかけを作ったとされる。文藝春秋は角栄批判から手を引くが(その為単行本は講談社で出された)、その後も発表場所を変え、折に触れてを田中の問題を取り上げ、ロッキード事件で田中が逮捕された後は東京地裁での同事件の公判を欠かさず傍聴し、一審判決まで『朝日ジャーナル』誌に傍聴記を連載した。また同誌上で「ロッキード裁判批判を斬る」を連載し、俵孝太郎渡部昇一ら田中角栄擁護論者を「イカサマ論法にして無知」と非難した。なお渡部は後年には、立花のことを評価するコラムを雑誌に発表している[要出典]

また「田中角栄研究〜その金脈と人脈」では、ロッキード事件の「丸紅ルート」、「全日空ルート(これを立花はロッキード事件から独立した「全日空疑獄」であると論じている)」についても詳細な取材、記述を行っている。朝日ジャーナルでの担当者は筑紫哲也。以後、筑紫の番組に出演するなど公私ともに親交を持つ。なお、1984年には、「田中角栄と私の9年間」で第45回文藝春秋読者賞を受賞した。

田中角栄研究以降

1976年(昭和51年)には『文藝春秋』に『日本共産党の研究』を連載。これに対して日本共産党側が組織的な反立花キャンペーンを展開して反論し、大論争に発展する。また、「総合商社」、「農協」、「中核革マル」、脳死問題など巨大な権力、組織の究明を行う。また、『諸君!』時代に書いていたサイエンス関係のテーマにも手を広げ、1981年には『中央公論』に「宇宙からの帰還」を発表。平凡社アニマ』に連載された「サル学の現在」、ノーベル賞受賞者利根川進との対談『精神と物質』、『科学朝日』に連載された「サイエンス・ナウ」「電脳進化論」「脳を究める」、などのテーマを手がける。また、NHKやTBSなどにおいてドキュメンタリー番組制作にも携わり、連動した臨死体験などの著作もある。これらにより、1983年菊池寛賞1998年司馬遼太郎賞をそれぞれ受賞。

1995年、アニメ映画「耳をすませば」で主人公の父親役を演じた。同年、東京大学先端科学技術研究センター客員教授に就任。1996年 - 1998年、東京大学教養学部で「立花ゼミ」を主催。ゼミは2005年に再開され、現在も続いている。この時期にも、『画家香月泰男』関連など様々な形でNHKなど放送メディアに出演した。2002年12月25日に大きな大腸ポリープS字結腸に発見され切除するが、癌化を疑い自らを被写体として健康状態の患者からポリープが発見され切除、がんかどうかの病理検査、診断、告知までのドキュメンタリー番組の制作をNHKに提案。NHK側も同意して撮影開始。このとき、約束をしながら果たしていない約束が7つほどあることが判明。簡単には死ねないと感じる。いちばんの大仕事は1998年から連載していた『わたしの東大論』を本にする仕事であった。1999年頃には長年連れそった前妻が末期がんに侵され、彼女の依願で病院に同行を繰り返したりするが、1年間の闘病の末2000年に死去。この頃よりがんへの関心を深める。

2005年東京大学大学院総合文化研究科特任教授に就任。2007年東京大学大学院情報学環特任教授、立教大学大学院特任教授に就任。同年12月に膀胱癌の手術を受け、『文藝春秋』(2008年4月号)に手記「僕はがんを手術した」を発表。2009年11月27日鳩山由紀夫内閣事業仕分けで大型研究プロジェクトに交付される特別教育研究経費が予算要求の縮減と判定されたのを受けて、全国各地の国立研究所長らと共に東京大学で記者会見を開き、「民主党は日本をつぶす気か」と仕分け結果を非難した。

「資源小国の日本は科学技術による付加価値で生きていくしかない」と指摘した上で、「目の前で起きている出来事を見て怒りに震えている」と話した。作業風景の印象について「訳のわからない人たちが訳のわからないことを論じている」と評し、仕分け人を「バーバリアン(野蛮人)」と形容した[7]。ドキュメンタリー番組『旧友再会」(NHK)に梅宮辰夫と出演し、かつての住まい茨城県水戸市を訪問。2014年『読書脳 ぼくの深読み300冊の記録』で第68回毎日出版文化賞書評賞受賞。2016年『武満徹・音楽創造への旅』で吉田秀和賞受賞。

人物

  • 幼少期より一貫して人のの問題に関心を持ってきた。あるいは人間存在の本質に興味を抱き続けてきた。そのため、他人の目には一見すると結びつかないような多方面のことをテーマに考え、書いてきた。立花自身は次のように述懐している。「人生というのは、いつでも予期せぬことに満ち満ちている。計画など立てたところで、計画通りの人生など生きられるはずがないのである。もし自分の計画通りの人生を生きた人がいるとしたら、それはたぶん、つまらない人生を生きた人なのだ…(略)」[8]
  • 脳研究に尋常ならぬ興味を抱き脳関係の著書も多いが、その理由のひとつとしてより良い頭の使い方というものが存在して、それを習得することで自分の知的生産能力が向上するのではという実用的、功利的な興味があった[1]
  • 臨死体験脳死異常性格者、超能力などを科学的な視点から論じることで、一部の者からオカルト主義者との評価が生まれた。
  • 猫好きで、東京都文京区小石川に「猫ビル」(巨大な猫の顔が壁に描かれている)の別名で呼ばれる地上三階地下一階建の事務所兼書庫を保有。数万冊にも上る蔵書を抱える。地下にはワインセラーを設置しており、無類のワイン好きである。猫ビルについては、妹尾河童が「ぼくはこんな本を読んできた」で図解で紹介している。また、猫ビルはNHK「探検バクモン」でも紹介された。
  • 兄は朝日新聞社監査役を務めた橘弘道(たちばな ひろみち、1938年 - )。
  • KEKへの取材を続けている[9]

  1. ^ a b c 立花隆『脳を究める』(2001年3月1日 朝日文庫
  2. ^ 『ぼくはこんな本を読んできた』[要ページ番号]
  3. ^ (人生の贈りもの)わたしの半生 朝日新聞2016年4月6日夕刊
  4. ^ 「立花隆のすべて (下)」文春文庫[要ページ番号]
  5. ^ a b c d 立花隆「フランス・ユマニスムの精神」『文藝春秋』94巻9号、文藝春秋2016年6月1日、77頁。
  6. ^ 立花隆「フランス・ユマニスムの精神」『文藝春秋』94巻9号、文藝春秋2016年6月1日、78頁。
  7. ^ リアルスポーツ(2009年11月28日)
  8. ^ 『生、死、神秘体験』
  9. ^ 「小林益川理論の証明」
  10. ^ 「赤塚不二夫の「これでいいのだ!!」人生相談」(集英社、1995年)
  11. ^ 『立花隆先生、かなりヘンですよ - 「教養のない東大生」からの挑戦状』谷田和一郎著(洋泉社 2001年11月)
  12. ^ 『通販な生活 一生を1ギガで終えないための買い物学』(講談社 2008年4月)
  13. ^ 堀江氏が立花隆さんを提訴 デイリースポーツ 2007年8月24日
  14. ^ 立花のコラムについて堀江被告、立花氏に勝訴=コラムの名誉棄損認定-東京地裁 時事通信 2008/10/03-19:36
  15. ^ 首相は「紙オムツ常用」状態!? 立花隆の超過激コラム ライブドアニュース 2007年02月26日
  16. ^ http://iss.jaxa.jp/kids/astro/noguchi.html
  17. ^ 「宇宙を語るI 宇宙飛行士との対話」(中公文庫)
  18. ^ 耳をすませば”. 金曜ロードシネマクラブ. 日本テレビ. 2017年1月12日閲覧。


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