宗教改革 ローマ・カトリック教会側の反応

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宗教改革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/20 01:16 UTC 版)

ローマ・カトリック教会側の反応

対抗改革(対抗宗教改革)運動

カトリック内部でも改革の必要性は認識されていたが[8]、プロテスタント運動が引き金となり、カトリック教会ではトリエント公会議1545年 - 1563年)を開催した。また、他を非難するよりまず自ら戒め、規律正しい宗教生活しようとイグナチオ・デ・ロヨラフランシスコ・ザビエルらが中心となり、1534年イエズス会が設立された。イエズス会はその後、キリスト教の大分裂を防ぐべく欧州各国に勢力を伸ばし、非ヨーロッパ諸国への布教活動を行った。(→対抗改革

正教会との関係

ルター派と総主教イェレミアス2世のやり取り

ルター派は当初、プロテスタント正教会の合同を模索し、テュービンゲンのルター派神学者、マルティン・クルシウス(Martin Crusius)とヤーコプ・アンドレー(Jacob Andreae)が署名した書簡を、正教会コンスタンディヌーポリ総主教イェレミアス2世に送った[9]

1573年10月15日、書簡を携えたルター派側の使節ステファン・ゲルラッハ(Stephen Gerlach)と総主教イェレミアス2世との最初の会見が行われ、会見の場は和やかな雰囲気に包まれた。ゲルラッハはその後すぐ、総主教の質素な服装と机、その人柄に感嘆した旨をチュービンゲンに書き送り、総主教からの返答が期待出来るとの報告を行った。クルシウスはこれに対して2通目の書簡を書き、1575年1月4日にはイェレミアスが友好的かつ慎重な返信を書いている[9]

この間、ルター派側ではフィリップ・メランヒトンにより、アウクスブルク信仰告白のギリシア語への翻訳作業が進められていた。クルシウスとアンドレーは、このギリシア語に翻訳されたアウクスブルク信仰告白を総主教イェレミアス2世のもとに送り、条項ごとの賛否の見解を示すよう依頼した。ちょうど総主教庁聖シノドの開会期間中の1575年5月24日、ゲルラッハはイェレミアス2世にギリシア語訳された信仰告白を渡した[9]

イェレミアス2世およびその教会における協力者達(主教、神学者、修道士達)は送られて来た「信仰告白」につき慎重に検討を重ねた。そして1576年5月15日、「アウグスブルクの信仰告白についての見解」がまとめ上げられた。この「見解」はチュービンゲンにおいて大いに歓迎されたが、イェレミアス2世は「見解」中において、信仰の源泉たる聖書聖伝[注釈 1]をめぐる、正教会とルター派の見解の一致点と相違点を、正教の教えを詳述しつつ指摘していた[9]

1577年6月18日にチュービンゲンからは、ルター派側による新しい教理を正当化する内容を含んだ書簡がイェレミアス2世に対して送られた。巡回に出掛けていたイェレミアス2世の手許に届いたのは1578年3月4日。イェレミアス2世は協力者達とともに、友好的ではあるがはっきりと、聖伝を守るよう父親のように教え諭す返信を書き送った[9]

1580年6月24日、ルター派からの返信が届いた。これに対し、イェレミアス2世は聖伝のみならず、聖神(聖霊)の発出(フィリオクェ問題)や自由意思に関する問題においても、ルター派と正教の間で一致点が見出せないと判断して論駁。これで、ルター派と正教会の間に行われたこの書簡のやり取りは終わった[9]

両教会のやり取りに対するカトリック教会の対応

ルター派正教会が上述のように書簡のやり取りを行っていることは、ローマ教皇庁も把握していた。教皇庁は正教会とルター派が合同することを恐れ、注視していた[9]

正教会に対するカトリック教会の影響力を拡大することを狙い、教皇グレゴリウス13世はコンスタンディヌーポリ総主教庁に使節団を送り、グレゴリオ暦を導入するよう呼びかけたが、イェレミアス2世はこれを拒否[9]。以降、現代に至るまで正教会はグレゴリオ暦を(ごく一部を除き[注釈 2])使用していない。修正ユリウス暦が20世紀に入って少なく無い一部の正教会に導入されたが、これも厳密にはグレゴリオ暦ではない[10]

エルサレム公会

16世紀末から17世紀にかけて、正教会は宗教改革、および対抗宗教改革の両方から深い影響を蒙った。プロテスタントの影響を受けたと評される総主教としてキリロス・ルカリス、カトリック教会の影響を受けたと評される主教としてペトロー・モヒーラが挙げられる[11]

正教信仰に対する西方教会からの影響に対し、1672年エルサレム総主教ドシセオス2世の主導でエルサレム公会が開かれ、宗教改革でプロテスタントから示された教理につき討議が行われた。その結果、「聖書のみ」「予定説」「象徴説・共在説」「聖書正典の範囲」といった、プロテスタントの主張の殆どが否定された。この公会において正教会は、プロテスタントとの教理の違いのみならず、カトリック教会とも違いがあることを示した[12]

主要年表

15世紀以前

16世紀

17世紀




注釈

  1. ^ 16世紀から19世紀にかけて、西方教会の影響を正教会が受けたことを反映した文章には「聖伝と聖書」となっているものもあるが、現代の正教会においては「聖伝聖書」の二本立てではなく、「聖伝の中に聖書がある」とまとめられている。出典:『正教会の手引き』日本ハリストス正教会 全国宣教委員会 2004年11月(62頁)
  2. ^ エストニア使徒正教会やフィンランド正教会はグレゴリオ暦を使用している数少ない正教会である。

出典

  1. ^ ピーター・バーク著 亀長洋子訳「ルネサンス」(ヨーロッパ史入門)p62 岩波書店 2005年11月25日第1刷
  2. ^ 森田安一『物語 スイスの歴史』中公新書 p111 2000年7月25日発行
  3. ^ 森田安一『物語 スイスの歴史』中公新書 p114 2000年7月25日発行
  4. ^ 森川甫『フランス・プロテスタント』日本キリスト改革派教会
  5. ^ 百瀬、熊野、村井、p130 - p132。
  6. ^ 百瀬、熊野、村井、p138。
  7. ^ 百瀬、熊野、村井、p146。ジグムント3世の廃位の理由は、ウプサラ宗教決議の違反であったが、両国のヴァーサ家はスウェーデン王位を巡り1660年まで争うこととなった。
  8. ^ 増田祐志編『カトリック神学への招き』上智大学出版、2009年4月10日。71-72頁。
  9. ^ a b c d e f g h Jeremias II (Ecumenical Patriarchate)
  10. ^ Revised Julian Calendar - OrthodoxWiki
  11. ^ 高橋保行『ギリシャ正教』 p116 講談社学術文庫 1980年 ISBN 9784061585003 (4061585002)
  12. ^ "The Blackwell Dictionary of Eastern Christianity" p267, Wiley-Blackwell; New edition (2001/12/5) ISBN 9780631232032


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