鳥羽港
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鳥羽港 (とばこう) は、三重県鳥羽市にある港湾。三重県が管理しており、地方港湾に指定されている。鳥羽市を港町たらしめてきた港であり、伊勢志摩の海の玄関口をなす重要な観光地でもある。
- ^ 鳥羽主水とも称する。
- ^ この頃には泊浦は鳥羽と呼ばれるようになっていた。
- ^ 元は橘主水の鳥羽砦があった場所である
- ^ 現在の鳥羽城跡は内陸にある。これは高度経済成長期に大規模に埋め立てが行われたことによるもので、現在の近鉄志摩線より東側はすべて海であった。
- ^ 本来の業務は伊勢神宮内宮・外宮及びその鳥居前町である宇治と山田(ともに現在の三重県伊勢市)の管轄であり、最大の職務は神宮式年遷宮であった。
- ^ この事実か ら、幕府は中世以来伊勢神宮の外港的地位にあった大湊よりも鳥羽港を重視していたことが分かる。当該項目にもある通り、大湊は次第に鳥羽港に覇権を奪われ衰退していくことになる。
- ^ 江戸時代の海運の中核をなす東・西廻海運を開拓した河村瑞賢の建議により設立された。
- ^ 神鋼電機株式会社から2009年4月1日付で社名変更
- ^ 当時の正式地名は志摩郡鳥羽町
- ^ この構想の中核施設が三重県志摩市にある志摩スペイン村(パルケ・エスパーニャ)である。
- ^ 同日に指定を受けた地域に宮崎・日南海岸と福島・会津があり、前者は特にシーガイアで知られる。
- ^ 鳥羽商工会議所や鳥羽市、鳥羽水族館といった官民共同で設立された組織。鳥羽市で主たる活動を行う9つの団体からなる。
- ^ 日本民俗建築学会 編(2010):482 - 483ページ
- ^ 鳥羽市史編さん室 1991, pp. 385–386.
- ^ a b 鳥羽市史編さん室 1991, p. 386.
- ^ a b 鳥羽市史編さん室 1991, p. 387.
- ^ 愛知淑徳大学谷沢明研究室"【鳥羽】観光地としての地域づくり"(2011年4月4日確認。)
- ^ a b 吉田正幸『志摩海賊記』、伊勢新聞社
- ^ 人文社(1968):77ページ
- ^ a b c d “(三重)大幅に遅れる鳥羽港の整備:どうなる どうする”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2006年8月16日). オリジナルの2009年2月6日時点におけるアーカイブ。 2009年5月閲覧。
- ^ 三重県県土整備部景観まちづくり室"三重県県土整備部景観まちづくり室/鳥羽プロムナード「カモメの散歩道」"(2011年4月4日確認。)
- ^ “三重県、公文書12件改ざん 公開請求後、組織ぐるみ”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2012年7月9日). オリジナルの2012年7月15日時点におけるアーカイブ。 2012年7月9日閲覧。
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- ^ a b 「農水産物直売所 概要を明らかに 鳥羽市」読売新聞2013年5月18日付朝刊、北勢版27ページ
- ^ a b 小池陽介"「鳥羽マリンタウン21」計画 観光地復権へ名所作り"日本経済新聞1998年5月1日付朝刊、地方経済面中部7ページ
- ^ 鳥羽港 大型客船 - 三重県 港湾・海岸課
- ^ 林一茂"鳥羽港佐田浜再開発 「賑わうみなとづくり」 中間案、議会に市提示"毎日新聞2011年9月1日付朝刊、三重版20ページ
- ^ 「窓」日本経済新聞2014年10月15日付朝刊、名古屋版社会面21ページ
- ^ 「鳥羽マリンタウン21計画 鳥羽市が推進協設立 94年度着工 事業費165億円」日本経済新聞1992年10月17日付朝刊、地方経済面中部7ページ
- ^ a b c "中日新聞:鳥羽市長に木田氏再選 いい政治で人口減対策を:三重(CHUNICHI Web)"(2009年5月閲覧。)リンク切れ
- ^ “H21年度「地方の元気再生事業」調書・評価一覧〈地域別:三重県〉”. 首相官邸 地域活性化統合本部会合 > 地方の元気再生事業. 2015年7月7日閲覧。
- ^ 伊勢志摩きらり千選実行グループ"鳥羽日和山と方位石"(2011年4月4日確認。)
- ^ 乱歩の作品模型で再現 鳥羽・乱歩館 火災1年半 29日再開 読売新聞 2024年1月17日閲覧。
- ^ 鳥羽市観光課"鳥羽みなとまつり"(2011年4月4日閲覧。)
- ^ 伊勢志摩国立公園指定50周年記念事業実行委員会 (1997):46ページ
- ^ a b c d e f g h i j 鳥羽市『鳥羽市観光基本計画―資料編別冊―鳥羽の観光史略年表』(2010年6月5日閲覧。)
- ^ 鳥羽市史編さん室、1991、444 - 445ページ
鳥羽みなとまつり
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例年7月の第4金曜日に佐田浜周辺で開催される海上花火大会。金刀比羅宮鳥羽分社の祭典でもあり、海上御渡(海上パレード)なども行われる。当日夜の近鉄鳥羽線は首都圏の通勤ラッシュ並みに混雑する。 現在では夏祭りで1日の開催だが、第1回は「パールカーニバル 鳥羽みなとまつり」の名で1950年(昭和25年)4月23日から5月7日にかけて開催された。「鳥羽の将来は観光で生きていく以外にない」として観光振興に力を注いでいた鳥羽町長の佐藤忠により企画された。祭りの最中には日本放送協会(NHK)の協力を得て、当時放送されていたラジオ番組『街頭録音』の収録が行われたほか、オーケストラが招待された。催しとしては、日和山で「甘党の山」・「辛党の山」と称する茶屋を開き、常安寺で昭和天皇の採集された標本の展示が開かれたが、目玉行事は海女らがサザエ取りを競う「海女コンクール」であった。このコンクールは、「海女券」を買って優勝しそうな海女に賭けるものだった。このように、第1回みなとまつりは現在とは趣が大きく異なる祭りであった。 また、第1回には観光キャラバン隊が大阪市で祭りの約1か月前に広報活動を行っている。心斎橋筋でチラシとマッチを配布したほか、大阪の新聞社の「新聞記事にしたい」という要望に応え、堂島川で答志島から来た海女による実演が行われた。
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