デ・スティル
【英】:DE STIJL
1917年、テオ・ファン・ドゥースブルフが、モンドリアンの協力を得て、レイデンで創刊し、1928年まで編集にあたったオランダの美術雑誌名。デ・スティルは「様式」の意味。最終号は1932年、ドゥースブルフ夫人が亡夫を記念して発行した「ドゥースブルフ追悼号」(通巻90号)。この雑誌は初めはモンドリアンの新造形主義の原理をもっぱら扱っていたが、ドゥースブルフが執筆陣にダダイストやクプカを迎え内容が包括的になったことからモンドリアンは寄稿をやめ、1926年以降は造形されたものの効果や具体性を重視するエレメンタリズムが中心となった。このような経緯があるにせよ、両大戦の間で最も大きな影響を与えた雑誌である。また、デ・スティルの名称は、この雑誌に関係した芸術家、建築家のグループをも指し、彼らが始めた建築様式上の運動にも用いる。それは、キュビスムの影響を受け直角と滑らかな平面の組合せよりなる抽象形態と、色彩は原色と白、黒、灰のみを使用した純粋な抽象的造形を意図したものであった。
デ・ステイル
(デスティル から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/21 19:17 UTC 版)
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デ・ステイル (De Stijl) は、1917年にテオ・ファン・ドースブルフ(英: Theo van Doesburg, 1883年 - 1931年)がオランダのライデンで創刊した雑誌、及びそれに基づくグループの名称。「デ・ステイル」とはオランダ語で様式(英語:The Style)を意味する。
その理念は、グループの重要なメンバーでもあるピエト・モンドリアンが主張した新造形主義(ネオ・プラスティシズム、英: Neoplasticism、蘭: Nieuwe beelding)であった。しかし、リーダーであるドースブルフの考えは、絵画よりもむしろ建築を重視し、1924年には、垂直と水平だけでなく、対角線を導入した要素主義(エレメンタリズム)を主張した。そのため、両者の対立は決定的となり、モンドリアンは、1925年にグループを脱退する。
その後、雑誌は1928年まで刊行され、グループ自体はドースブルフの死(1931年)まで続いたが、短くて大きな潮流になることはなかった。その洗練されたスタイルはディック・ブルーナの「ミッフィー」(1955年)やイヴ・サン=ローランの「モンドリアン・ルック」(1955年)[1]などに影響を与えた[2]。
このグループは、建築や抽象絵画の重視、バウハウスへの大きな影響、ダダと 構成主義の橋渡し、など、国境や美術の分野を越えた活動をおこなったと評価できる。
このグループの他のメンバーとしては、
- ヘリット・リートフェルト(Gerrit Rietveld; 1888年-1964年)
- J.J.P.アウト(J. J. P. Out; 1890年-1963年)
- ジョルジュ・ファントンゲルロー(Georges Vantongerloo; 1886年-1965年)
- フィルモス・フサール(Vilmos Huszár; 1884年-1960年)
- バート・ファン・デル・レック(Bart van der Leck; 1876年-1958年)
- コーネリス・ファン・エーステレン(Cornelis van Eesteren; 1897年-1981年)
- ヤン・ヴィルス(Jan Wils; 1891年-1972年)
- ロバート・ファント・ホッフ(Robert van't Hoff; 1887年-1979年)
などがいる。
脚注
外部リンク
- デ・ステイル:現代美術用語辞典 - artscape
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