両大戦の間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/07 16:40 UTC 版)
アメリカ合衆国は1921年に最初の雷撃機マーティンMB-1の改良型を10機購入した。米海軍の飛行中隊と海兵航空団は海軍兵器基地ヨークタウンに拠点を置いていた。ビリーミッチェル准将は、プロジェクトB(対艦爆撃デモ)の一環として、本物の弾頭を付けた雷撃の試験を提案した。しかし、海軍は航空爆弾の破壊効果にしか興味がなかった。それでも、模擬弾頭の魚雷を用いた試験が、17ノットで航行する戦艦4隻の戦隊に対して実施された。雷撃はよい成績を残した。 日本海軍は1931年に雷撃機で高度330フィート(100m)から速度100ノット(190km/h)で投下できる九一式魚雷を開発した。1936年に魚雷に木製尾翼「框板」を付加すると、空気力学的に空中姿勢が安定した。框板は、水中突入時の衝撃で脱落するようになっていた。1937年には、先端に脱落する木製ダンパーを追加して、高度660フィート(200m)から速度120ノット(220km/h)で投下できた。1938年には、目標からの距離3,300フィート(1,000m)で九一式魚雷を投下するという戦術教義が定まった。同様に、日本海軍は夜間攻撃と昼間の集中攻撃の教義を開発し、地上と空母艦載の雷撃機間での航空魚雷攻撃の調整をした。 日本海軍では雷撃機の編隊を二手に分けて敵戦艦の両舷前方から同時に攻撃することによって、魚雷を回避行動で避けられないようにするとともに、雷撃機隊への直接の対空砲火を緩和するようにした。それでも、日本の戦術専門家は、平時の演習中の観察によって、戦艦に対して雷撃は1/3の割合でしか命中しないと予測した。 1925年の初めには、アメリカ合衆国も純粋な航空魚雷の設計を開始した。このプロジェクトは中止され、数回復活し、最終的に魚雷「Mk13」として1935年に運用を開始した。Mk13は、他の国の航空魚雷よりもかなり太くて短かった。他の国の航空魚雷よりも遅かったが、航続距離は長かった。航空機からの投下は、当時の日本と比べて低く遅かった(高度50フィート(15m)、110ノット(200km/h))。
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