精神分析学 精神分析への批判と議論

精神分析学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 10:13 UTC 版)

精神分析への批判と議論

有効性への批判

古い時代の精神分析では、精神科疾患に対する診断が各国、各地、各個人医によってバラバラであった時代が長く続いた。したがって同一の患者が、日本で、ドイツで、アメリカで、アフリカで、まったく別の診断を下されるという事になり、国内でも東大式診断、京大式診断をはじめとする分裂した診断が普通に行われていた(正しくは現在もそうである)。

当然のことながら治療結果に関する測定方法論も寄せ集めやでたらめであり、それらの時代の治療への肯定も否定も、ほとんど全て科学的立証として無意味なものであった。精神分析を肯定する論文も、否定する論文も、ほとんどはこれらばらばらの診断基準、恣意の治療結果測定基準から来るもので、それゆえに様々な心理療法が、異なる学派の心理療法の専門家は他の学派の心理療法の専門家を自由に批判した。しかし今日のエビデンスベイスドの理念に従えば、それら古い時代の肯定・否定的文章のどちらからも、臨床的効力に関して言及できることは何一つない。

例えば指導的なアメリカ人精神科医であるE. Fuller Torreyは、その著書「Witchdoctors and Psychiatrists」(1986)の中で、精神分析の理論は伝統的な土着の「呪術医」やErhard Seminars Training(EST)のようなオルタナティブな近代「カルト」と同程度にしか科学的根拠がない、と述べているが、1980年代のアメリカの精神科医学は今日からみて幾らか呪術的であり、今日の精神科医学も後世から見ればずいぶん呪術的と言われるであろう。ただしいまだに脳の内部での物理的現象がどのように心理的に具現化するかは解明されておらず、今日の精神科医学も雑誌Scienceに載ったローゼンハン実験Rosenhan experiment)など仮病の精神病と実際の精神病の区別をつけることができない状態にあることが明らかになっている (Rosenhan, D.L. (1973). On being sane in insane places. Science, 179, 70, pp. 250-8)。

しかしながら、エビデンスベイスド時代の精神分析の有効性については、さまざまな疾患に対しての臨床効果の研究がなされており、パーソナリティ障害などに対して、RCTやメタ分析、系統的レビューによって、効果が確かめられている(例えば、F,Leichsenring&S,Rabung 2008やJ,Shedler 2010)。

理論や用語への批判

科学的研究に関するサーベイが示すところによれば、フロイトのいう口唇期(oral phase)、肛門期(anal phase)、エディプス期(Oedipal phase)・男根期(phallic phase)、性器期(genital phase)がパーソナリティの傾向として観測されるものの、これらが子供の発達段階として現れる事も観察できないし、子供時代の経験が成人してからの傾向に影響する事も観察できない (Fisher & Greenberg, 1977, p399)。

精神分析学に対する初期の、だが重要な批判として、精神分析学が定量化や実験にほとんど基づいておらず、理論の大半が病院でのケーススタディに基づいている、というものがある。 それに対し、行動療法認知療法といった他の心理療法は実験的妥当性をもっと考慮している (Morley et al. 1999)。

なかには、フロイトの治療業績のいくつかは、---Anna Oの有名な奇跡すら---、捏造であると告発する者もいる (Borch-Jacobsen 1996)。

精神分析学の概念を定量的かつ学術的に分析している心理学者や精神科医の中には、この種の批判をするものが増えている。

しかし、こうした発達段階に対する批判が、近代精神分析学に対する決定的な批判だと思ってはならない。 近代精神分析学の理論と実践にとっての決定的な批判になり得るのは、無意識や感情転移に対するものである。「無意識」の概念に対する疑念として、人間の行動なら観察できるが、人間の心理は推測しかできない、というものがある。よく精神分析に親密な立場の者は、実験心理学社会心理学の学部生や大学院生にとって無意識はホットなトピックである(ようやくホットなトピックになってきた。追いついてきた)と表現し、どうやらそれは、implicit attitude measures、fMRI、PET scansなどのindirect testの事を「無意識」の研究だと勘違いしているようだが、それはつまり本人たちが無意識を理解していないということの表現として、実験心理学者や社会心理学者の卵に理解されている。

酷く歪曲する精神分析家は厳格な行動主義者の、古典的条件付けの元となる系統発生的随伴性をも無意識と読み替えて行動主義者の顰蹙を買っていたり、近年の莫大な神経科学の成果を、精神分析学の理論にそった形で歪曲することで、精神分析学を時代遅れのものにするまいと努力したが、徒労に終わった。

ポパーの科学哲学からの批判

科学哲学者のカール・ポパーは、反証可能性を持つかどうかを「真の科学」であるかどうかを見分ける基準として提唱しており、それ故彼は精神分析学は科学ではなくて疑似科学に過ぎないと断じた。ポパーのいう科学理論とは、それが誤っていることが検証できる理論、即ちそれを反証することができる理論のことである。その意味では例えば特定の恋人の関係の理論(例:浮気が無かったこと)が明確に反証(例:第三者との性交という事実)できるのであればポパー的には科学である。

ポパーら科学哲学および自然科学者が問題にしているのは、データを数値化できるかどうかではなく、精神分析の理論が批判可能性に開かれており経験に照らして自らが誤っている可能性を認める余地を有しているか否か、である。心的現象が物理的現象と異なった心的法則によって決定されているという精神分析の主張は、ともすると物理的領域からの心的領域の独立に訴えて経験的反駁を最初から不可能にする傾向を帯びやすい。フロイトが見出したと主張するような心的法則は、どのような観察が得られたときに、やはり誤っていたのだ、と結論付けられるのだろうか。そしてそのように判断する原理的基準はどのようなものか。これらに精神分析が答えを与えられない限り、ポパーの科学哲学からは、精神分析は科学とは認められない。

むろん、医学的に重要なのは精神病が明確に治療されたとの確定は存在するのか、であるだろう。これは精神分析が精神疾病に対する治療効果を有する、という精神分析の根幹的主張が反駁に開かれているかを決する重大な基準である。もし、それが曖昧であれば、常識的には疾病が治癒したとは見なしえない場合でも「精神分析的観点からは立派に治癒した結果である」という主張が通りかねない。これは精神分析の科学性を当然に危うくする、とされる。

もっとも、いかに反証可能性が科学にとって重要な特徴であるとしても、科学と疑似科学の差異は段階的なものであるため、近代の科学哲学者の多くは科学と非科学を絶対的に線引きする事は不可能だと考えており、例えばデュエムクワインは「ある仮説を反証する決定的な実験などはそもそも存在しない」と主張している(デュエム-クワイン・テーゼ)。ただし、ポパーはこのテーゼに対する再反論も行なっているし、明確な線引きが不可能である(どちらとも決しがたい境界事例がある)ということは、明らかに疑似科学でしかない理論があるということを否定するものではまったくない。このような観点から科学哲学者の多くは精神分析に懐疑的である。

脳科学からの批判

近年は脳科学が劇的に進歩したため、精神医学もによる説明を求められるようになったが、精神医学が経験則や現象学的な考えから成り立っている上、脳科学自体が発展途上にあるという事情もあり、未だ説明が十分でない。精神分析の用語には脳科学的な妥当性を持つものは少なく、無理に認知心理学などの用語に置き換える場合もあるが、それも不可能であるケースが多い。

1950年代から精神分析では脳精神医学との見地を統合した精神分析的理解を提示している。そこでは特にリビドー論=本能欲求論が否定されており、脳においては電気信号を発信するのみでエネルギーは移動しないとしている。また意識=思考も同意語ではなく、フロイトの取り上げた1900年代の様々な生物学的論文の内容はかなり現在では否定的に見られている。そのため脳科学などの実験心理学的立場からすると、フロイトの理論―心的構造論やリビドー理論はほぼ仮説であり、検証不可能なものとして理解されている。

フロイト自身は様々な生物学的見地から基づく論文や脳神経医学に基づく論文を引用して、自身の精神分析学理論の妥当性を主張していたために、当時としては科学的に見られる部分もあったが、現代の者から見ればその多くの点が間違っていたり、全く脳精神医学からの科学的研究の基礎が無いままに展開されていた理論も多数であったと考えられている。その代表例としてはユングの無意識理論であり、あれはほとんど人文学の研究に近いと言われており、脳科学からの検証は不可能である。ただしもちろん近年に近づくにつれて精神分析学は脳精神医学の様々な科学的見地と歩調を合わせながら理論を考えるようになっている。

精神分析による人類学・民俗学研究への批判

精神分析を医学以外の分野に応用した際に精神分析の誤りが露呈してしまう事がある。

例えばフロイト自身が『トーテムとタブー』という宗教の起源を論じた本を書いたが、リヴァース[要曖昧さ回避]ボアズクローバーマリノフスキーシュミット、そしてレヴィ=ストロースといった人類学者達はこれを馬鹿げてると公言してはばからなかったし、権威ある宗教学者エリアーデによると、この本は研究書というよりも「手におえないゴシップ小説」で、書かれている事も「気違いじみた仮説」にすぎないと断じた(『オカルティズム・魔術・文化流行』、ミルチア・エリアーデ)。また、フロイト自身もこの本で主張したことが憶測にすぎないことを自覚していた[3]

また精神分析学者のエーリヒ・フロムブルーノ・ベッテルハイム等は『赤ずきん』をはじめとしたメルヘンを読んで精神分析的解釈をし、民間伝承や民俗学に関して様々な考察をしたが、これらは間違ったものが多かった。

なぜなら今日知られている『赤ずきん』の話の内容の多くはシャルル・ペローが創作したものであって歴史が浅いので、それを読んでも民俗学的知識が得られるはずがなかったのである。例えば『赤ずきん』に出てくるずきんの赤さをフロムは「月経の血」、ベッテルハイムは「荒々しい性的衝動」と解釈したが、ずきんを赤くしたのはペローのアイデアであった。

また相互に矛盾した解釈も多く、『白雪姫』の中で白雪姫が逃した狩人はベッテルハイムによれば「エディプス期の少女にとっての理想的な父親像」であったが、ビルクボイザーによれば「女性の心中にある男性的性質」であったし、七人の小人はベッテルハイムによれば「白雪姫という太陽の回りをまわる七つの惑星」であるが、ビルクボイザーによれば小人達は「深みに隠れた財宝(=王子)を探す創造的行為」の象徴であった。

メルヘン学者のロバート・ダーントンは彼らを批判し、「精神分析学者のフロム氏は存在しない象徴を超人的な敏感さで嗅ぎとって、架空の精神世界へ我々を導こうとした」と述べた(参考:鈴木晶『グリム童話』。ダーントンの言葉はこの本から引用。)。

さらに、フロイトの継承者を自称し、ポストモダニズムの思想家としても知られるジャック・ラカンは、数学の概念であるトポロジー神経症と関連づけ、また、虚数無理数を混同するなどした。このため、それらを全くのデタラメであるとして、物理学者アラン・ソーカルから批判された(ソーカル事件を参照)。

記憶論争

1980年頃にアメリカでは、催眠などを用いた回復記憶セラピーにより、偽りの性的虐待の記憶(虚偽記憶/false memory)を植え付けられ、家族関係が崩壊し、それに加えて甚大な精神的苦痛を受けたとして、多くのセラピストカウンセラーが訴えられ敗訴した。

これは精神分析への批判というよりも、フロイト初期の理論を援用した心理療法への批判である。しかし当時においては実際に多くの人が記憶回復によって「性的な虐待をされた!」と親を非難したり、またそれによって家族が崩壊するような事が続発したため、精神分析自体に対する批判へとつながった。ただし法廷の中と外では、この記憶戦争(Memory War)に対する評価は大きく異なっている(参照:過誤記憶)。

人文学的一般教養としての精神分析

臨床療法としての精神分析は、現在では医学の世界では広い支持を得ているとは言えない。

一方で、思想としての精神分析理論は主に、精神医学の現状をキャッチアップできていない文化系の批評からは、未だに引用されている。

そのことに注目した現代哲学者のミシェル・フーコーなどは精神分析を純粋な学問とはいえない一種のリベラル・アート(liberal art=教養)のようなものと捉えるべきだと主張している。[要出典]


  1. ^ a b ハンス・アイゼンク 著, 宮内勝 ほか訳 『精神分析に別れを告げよう―フロイト帝国の衰退と没落』 批評社、1998年5月 ISBN 4826502281
  2. ^ ナルシシズムの導入にむけて(1914)
  3. ^ 島薗進『宗教学の名著30』120頁(ちくま新書、2008年)
  4. ^ 朝日新聞2010年9月19日、書評欄






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