封建制 中国史における封建制

封建制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/08 03:53 UTC 版)

中国史における封建制

封建制は、もともとは中国古代の王朝の統治制度であった。王朝で始皇帝の前で郡県制の導入が議論されてからは、封建制と郡県制の是非をめぐる議論がしばしば行われた。

殷・周

朝では、殷王が有力都市連盟の盟主もしくはそれ以上の立場にあったとみられるが、それらの都市支配者に領域支配を認める形の制度になっていたのかは不明である。

の時代には、封建制が成立し、各地にを基盤とした氏族共同体が広汎に現れ、周はこれらと実際に血縁関係をむすんだり、封建的な盟約によって擬制的に血縁関係をつくりだし、支配下に置いたと考えられている。

長子相続を根幹する体制を宗族制度といい、封建制度にも関連性がある。宗族制度は紀元前2千年紀前半に一般的となったとされている。

春秋戦国時代

宗族組織が解体されより集権的な官僚制に置き換わるとともに中国的な封建制度は徐々に消滅していった。宗族制度は春秋末期から戦国初期にかけて解体され、末端では邑を中心とする諸侯支配が確立した。

また春秋時代には会盟政治と呼ばれる政治形態が出現した。これは覇者と呼ばれる盟主的国家が他国に対して緩い上位権を築く仕組みであるが、周王朝が衰え各国単独では北方・東方異民族の侵攻への対応が難しくなったため、新たな支配-被支配が必要となり誕生したと考えられている。会盟の誓約は祭儀的な権威に付託して会盟参加者に命令する関係を築いた。

戦国時代には宗族組織はほとんど消滅もしくは変質して封建領主は宗族や功臣を除いて居なくなり、在地や諸侯は血縁ではなく官吏と律令により支配されるようになり、郡県制に置き換えられた。

秦の始皇帝による郡県制の導入

始皇帝は天下を平定すると、李斯の提言により郡県制を採用した[4]史記「秦始皇本紀」では、王綰らが封建制度の採用を提案したのに対し、李斯は周の封建制度が失敗に終わって天下争乱のきっかけになったことを指摘して郡県制度を施行するよう主張したことが記されている。始皇帝はそれに対して次のように言い、李斯の主張の通りに郡県制を採用した[4][5]

天下ともに苦しみ戦闘はまず、もって侯王あり。宗廟に頼り、天下を初めて定む。また再び国を立つるに、是の兵を樹つ、しこうして其の寧息を求むるは、あに難からずや。

(現代語訳: 天下はみな苦しみ戦闘が止まない。各地に封じられた侯王あってのことだ。宗廟によって、天下を初めて平定した。また再び各地に人を封じて国を立てれば、各々が封国で兵を集めるだろう。その上で天下の安寧を求めるのが、難しくないということがあろうか。)

始皇帝、『史記』「秦始皇本紀」

封建・郡県の議論

秦の始皇帝による郡県制の導入以降、儒教の影響を受けながら、封建制と郡県制の利害得失を巡って対立する思想体系が構成され、多くの文献で封建・郡県の是非が議論されるようになった[4]。封建制と郡県制を巡る議論のなかで、有名なものは次のとおり。

人名 著書 是非 概要
曹冏 『六代論』(『文選』収録) 封建は是、郡県は非 夏殷周3代の封建制度は天下を私せず天下と諸侯とが共存共栄であった一方、秦の郡県制は、天子を孤立させその滅亡を早めたと主張
陸機 『五等諸侯論』(『文選』収録) 封建は是、郡県は非 封建制度は天下を公にする所以である一方、郡県制度は官僚政治であり、官僚の一身の栄達のために行政がなされ、国家百年の長計が顧みられない と主張
柳宗元 「封建論」 封建は否、郡県は是 周の封建制度は諸侯が相争って天下争乱の原因となり、秦・漢・唐では郡県制度が天下の平和をきたしたと主張
李百薬 「封建論」 封建は否、郡県は是 貞観2(629)年、唐の太宗のときに起きた封建制度採用の議論に反対するための上書
顔師古 「論封建表」 郡県・封建併用論
蘇軾 「論古」中の一節 封建は否、郡県は是 柳宗元の所論を賞賛。夏殷周3代の封建制度はやむをえず起こったと主張

出典: [4]

これらの議論について文献通考を編纂した馬端臨は、「その発明する(明らかにする)ところのもの公と私とに過ぎざるのみ」と整理した[6][7]。双方の議論とも、中国で伝統的な「公」を善で「私」を悪とする概念を用いており、封建制反対論では諸侯が天下を分有して「私」することが悪、郡県制反対論では天子一人が天下を「私」することが悪とされた。こうした文献は中国と日本で広く読まれた[6]

明清時代の議論

の時代では、東林党や遺老の学が有名であり、そこでは官僚が責任者として自発的に地方統治を行うための制度として封建制が議論された。[要出典]

末期からのはじめにかけては、異民族王朝の中国支配に直面し、それに抵抗する学者たちが「封建」論をとなえた[8]。そのなかでも有名なのは顧炎武の議論である。

顧炎武は、明末の政治腐敗と各地で起きる農民反乱、引き続いての満州民族の侵入と明の滅亡という亡国の悲運を経験しており、その原因を尋ねることを目的に歴史を研究した[8]。土地土着の有力者が身を挺して郷土と民を守る一方、郡県の地方官の多くが流族や満州族侵攻のときになにも抵抗していないことを目撃していた顧炎武は、その原因を郡県制の欠陥と考えた[8]。一方で、封建が郡県に変じたのはそれなりの歴史の必然であったとし、「封建の意を郡県に寓す」とする郡県制のなかに封建制を組み込ませる地方分権型の政治体制を主張した。具体的には、郡県制度の末端にあたる県の長官に大きな権限を与えるとともに世襲制とし、その下で働く地方官僚も県の長官がみずから任命できるようにすることなどを提案している。

清における封建論は、1728年呂晩村の獄で弾圧され、しばらく跡を絶った。清末になりアヘン戦争太平天国の乱などで王朝の弱体化が明らかになると、馮桂芬らがふたたび封建論を唱えるようになった[8]




  1. ^ デジタル大辞泉「封建時代」[1]
  2. ^ 大辞林 第三版「封建時代」[2]
  3. ^ 精選版 日本国語大辞典「封建社会」[3]
  4. ^ a b c d 浅井 1939, pp. 3-4.
  5. ^ wikiquote:ja:始皇帝
  6. ^ a b 石井 1986, p. 263.
  7. ^ 『古今図書集成銓衡典』第676冊、50葉
  8. ^ a b c d 増淵 1969.
  9. ^ 小沢 1972.
  10. ^ 石井 1986, p. 266.
  11. ^ 石井 1986, p. 279-280.
  12. ^ 石井 1986, p. 283-289.
  13. ^ 石井 & 1986」, p. 290-304.
  14. ^ 石井 1986, p. 305-313.
  15. ^ 原著ドイツ語版1900年
  16. ^ 網野善彦 石井進 上横手雅敬 大隅和雄 勝俣鎮夫 『日本中世史像の再検討』 山川出版社 1988年 p.72.なお、18世紀フランスの『法の精神』においても専制国家として日本が紹介されている。
  17. ^ 『日本史の論点』2018年、p53、中央公論


「封建制」の続きの解説一覧



封建制と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「封建制」の関連用語

封建制のお隣キーワード

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   
検索ランキング



封建制のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの封建制 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2020 Weblio RSS