様々なバージョン
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アメリカ合衆国とイギリスでそれぞれ出された7インチと12インチのシングルは、それぞれ内容が異なっている。カバー写真がアルバム『オートアメリカン』とは異なるアメリカ盤7インチ・シングルは、アルバム収録バージョンの音源を用いているが、アメリカ盤12インチ・シングルは、歌詞が追加された40秒長いバージョンが用いられている。イギリスや、他の諸国向けのバージョンでは、プロデューサーのマイク・チャップマンがまったく異なるリミックスを施した。スペシャル・ディスコ・ミックス (Special Disco Mix) と称されるバージョンは、イントロが異なっている上、インストゥルメンタルの間奏部分も長く、新たに録音されたパーカッションのオーバーダブや、歌詞の追加などにより、10分も長くなっている。4分59秒の長さがあるイギリス盤7インチ・シングルは、スペシャル・ディスコ・ミックスを編集して追加された歌詞を除いたものであり、これとはまた別に、少しだけ違いがあり、追加された歌詞を含む5分33秒のバージョンが、ブロンディに採っての最初のベスト・アルバムとなった1981年のコンピレーション・アルバム『軌跡!ザ・ベスト・オブ・ブロンディ (The Best of Blondie)』に収録されている。同じく『オートアメリカン』に収録された「リヴ・イット・アップ (Live It Up) も、より長い時間にリミックスされて、アメリカ合衆国以外向けの12インチ・シングルのB面に収められた。この8分ほどのバージョンは、1994年のイギリスCD盤『オートアメリカン』に収録され、さらに2004年に15枚組セットで出されたブロンディの『Singles Box』にも再度収録された。 ブロンディは2014年に、コンピレーション・アルバム『Greatest Hits Deluxe Redux』のために、この曲の再録音を行なった。このコンピレーションは、『Blondie 4(0) Ever』と題された2枚組セットの一部であり、セットのもう1枚はバンドの10枚目のスタジオ・アルバムにあたる『Ghosts of Download』で、バンド結成40周年の記念盤であった。 「ラプチュアー」のイギリス盤の7インチ・シングルと12インチ・シングルに使用されたデボラ・ハリーの写真は、後に1995年のコンピレーション『Beautiful: The Remix Album』のカバーにも使用された。
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様々なバージョン
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様式においてはまぎれもなくチベット的であるこの叙事詩の誕生は、チベットに仏教が2度目に伝来した (カダム派(英語版)、カギュ派、サキャ派の各宗派成立で知られる)時期にさかのぼるとみられるれが、物語の中にはインド密教初期の要素も含まれている。この叙事詩の口承は特に古代ボン教に縁の深い2つの離れた地域 (チベット最西部に位置するラダック及びザンスカール地域、チベット東部のカム及びアムド地域)で盛んに行われており、物語の根源にボン教が強く関わっているものと考えられている。 口承により、各時代ごとに常に数多くの異稿が存在しつづけ、標準正典を書き記すことはできない。しかし、『ラン氏族史』(ラン・ポティセル、rLangs-kyi Po-ti bSe-ru)中で言及されている内容から見て、口承叙事詩は遅くとも15世紀までには現在の形と近いものになっていたことはたしかである。長年にわたり伝承されてきた割りに、文字による記録というのは、1716年に清の康熙帝が作成させたモンゴル語の木版印刷が最古となっている。チベット語による文書については18世紀以前のものは確認されていない。しかしこれらの記述がそれより以前の、今日までに散逸してしまった文書を基に書かれたものである可能性は大いに考えられる。19世紀末から20世紀初めにかけて、博識なチベット人哲学者ジャムヤン・ジュ・ミパム・ギャツォ(英語版)に感化を受けたリンツァン (現在の徳格県の北東部に位置していた小王国)出身の学僧たちの手により木版印刷による版が編集された。ケサル王の物語はモンゴルでもよく知られており、また遥か西方のカスピ海沿岸地域に伝わり、チベット仏教を自らの宗教として信仰するカルムイク人たちによりヨーロッパ地域にまで伝えられた。ブータン王国の第2代国王ジグミ・ワンチュクは、ケサルの歌い手 (語り部)の一人を王宮専属として常駐させた。ケサル王伝の朗誦は国王が最も好む教化徳目であったと言われている。 歌い手たちはそれぞれ自分の地域に伝わる稿しか知らないが、それでも全てを暗唱するには週単位の時間を要する。
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「シャドウ・オブ・ユア・スマイル」の記事における「様々なバージョン」の解説
この曲の広く知られたバージョンとしては、バーブラ・ストライサンド(1965年のアルバム『My Name Is Barbra, Two...』に収録)やシャーリー・バッシー(1966年のアルバム『I've Got a Song for You』に収録)などによるものがある。そのほか、アンディ・ウィリアムス、パーシー・フェイス、リタ・レイズ(英語版)、アル・マルティーノ、ペリー・コモ、ナンシー・シナトラ、アストラッド・ジルベルト、ペギー・リー、サラ・ヴォーン、フランク・シナトラ、エンゲルベルト・フンパーディンク、グレン・フライらが歌っている。 コニー・フランシスはこの曲を、英語、スペイン語(「La sombra de tu sonrisa」)、イタリア語(「Castelli di sabbia」)でそれぞれ録音した。トリニ・ロペスは、リプリーズ・レコードから出したアルバム『Trini』にこの曲を収録している。リル・リンドフォース (Lill Lindfors) はこの曲をスウェーデン語で「Din skugga stannar kvar」として録音している。マーヴィン・ゲイは、この曲を数種類の異なるバージョンで録音に残している。アルバム『Romantically Yours』、『Vulnerable』に異なるバージョンが収録されているほか、ライブ盤『Marvin Gaye: Live at the Copa』にもこの曲が収録されている。ハーブ・アルパート&ザ・ティファナ・ブラスは、1966年のアルバム『What Now My Love』にインストゥルメンタル・バージョンを収録した。イタリアの有名歌手ミーナは、1968年にテレビでこの曲を歌い、後に『Le canzonissime』というCDにもこの曲を収録した。ドイツの歌手ウド・リンデンベルク (Udo Lindenberg)は、ロック寄りのカバー・バージョンを1986年のシングル「Germans」に収録した。2006年には、英国退役軍人会中央楽団 (The Central Band of the Royal British Legion) が同名アルバムの冒頭曲としてこの曲を取り上げた。 さらに、ナンシー・エイムス (Nancy Ames) は、スペイン語バージョンを1966年の『Latin Pulse』に収録している。ホセ・カレーラスは、アルバム『What a Wonderful World』にこの曲を収録しており、ペペ・ハラミジョ (Pepe Jaramillo) は、ラテン・ダンス・バージョンを1971年のEMIのアルバム『Tequila Cocktail』に収録している。セルジオ・フランチ (Sergio Franchi) は1967年RCAビクターのアルバム『From Sergio - With Love』でこの曲を取り上げている。 ボビー・ダーリン (Bobby Darin)のアルバム『Bobby Darin Sings The Shadow of Your Smile』は、A面に1966年のグラミー賞最優秀楽曲賞にノミネートされたすべての曲を収録している。 ジャズのサクソフォーン奏者エディ・ハリス(Eddie Harris) は、この曲を1965年に録音し、アルバム『The in Sound』に収めている。1967年には、ジャズのサックス奏者渡辺貞夫が菊地雅章や中牟礼貞則、富樫雅彦らと録音したアルバム『イパネマの娘』にてカバーしている。 ジャズのオルガン奏者ブラザー・ジャック・マクダフは、1967年のアルバム『Tobacco Road』で、この曲をインストゥルメンタルでカバーした。 1983年、R&BグループDトレイン (D. Train) は、12インチ・シングル盤「The Shadow of Your Smile / Keep Giving Me Love」をダンス音楽のヒットにした。 同じく1983年、インストゥルメンタル・グループ、ピーセズ・オブ・ア・ドリームは、アルバム『イマジン・ジス』でこの曲をカバーした。 トニー・ベネットは、アルバム『Duets: An American Classic』のために、コロンビアのロック歌手フアネスとのデュエットを、スパングリッシュ・バージョンで録音した。これはフアネスにとっては英語で歌う最初の録音であり、ベネットにとってはスペイン語で歌う最初の録音であった。 竹内まりやの2003年のアルバム『Longtime Favorites』に収録された。 リトアニア国立オペラ・バレエ劇場 (lt:Lietuvos nacionalinis operos ir baleto teatras、en:Lithuanian National Opera and Ballet Theatre) のソリスト(バリトン)であるヴィタウタス・ユアザパイティス (Vytautas Juozapaitis) は、2004年リリースのデビュー・アルバム『Negaliu Nemylėti (Can't Help Falling In Love)』に、この曲のリトアニア語バージョン「Kai Tu Toli」を録音した。 アイルランド出身の歌手カーリー・スミスソン(Carly Smithson) は、『アメリカン・アイドル』のシーズン7で上位24名のひとりとしてセミファイナルに進出した際、この曲を歌った。この歌唱は、2008年2月21日から、ダウンロード版がリリースされた。 歌手アメル・ラリュー (Amel Larrieux) は、2007年のジャズ・スタンダード・アルバム『Lovely Standards』にこの曲を収録した。 歌手で作曲家のドナルド・ブラスウェル2世(Donald Braswell II) は、2007年のアルバム『New Chapter』にこの曲を収録した。 サクソフォーン奏者のデイヴ・コーズは、スタンダード曲を取り上げたアルバム『At the Movies』にこの曲を2つの異なるバージョンで収録している。ひとつ目は、ジョニー・マティスのボーカルと、クリス・ボッティのトランペットが入っていて、インストゥルメンタル曲として演奏されている2つ目では、再びボッティが登場するほか、ギター奏者ノーマン・ブラウンがフィーチャーされている。 ブラジルのギター奏者バーデン・パウエルは、1971年のコロンビア・レコードのアルバム『Solitude on Guitar』でこの曲を取り上げている。 近畿日本鉄道では、特急の鵜方駅到着時にこの曲をチャイムとして流していた。 西城秀樹・1986年のアルバム『Strangers in the Night』で、スタンダード・ナンバーの1曲としてこれをカバーしている。
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「ジョン・バーリーコーン」の記事における「様々なバージョン」の解説
この唄には数え切れないほどのバージョンが存在する。1568年のバナタイン写本 (Bannatyne Manuscript) にもこの唄のひとつのバージョンが収められ、17世紀以降のイングランドのブロードサイド (片面刷りの紙に印刷された俗謡:en) のバージョンはありふれている。スコットランドの詩人ロバート・バーンズ が1782年に彼自身のバージョンを出版したり、近代のバージョンも数多い。バーンズのバージョンは物語をやや神秘めかしており、原形からは離れているものの、以後のバラッドのほとんどのバージョンの手本となった。 バーンズのバージョンは次のように始まる ウィキソースにen:John Barleycorn_(Burns)の原文があります。 There was three kings into the east, Three kings both great and high,And they hae sworn a solemn oath John Barleycorn should die. 東へ赴く三人の王ありき偉大にして高潔なる三人の王して三人厳かに誓いを立てたりジョン・バーリーコーン死すべしと 或る古いイングランドのバージョンは次のように進行する There was three men come out o' the west their fortunes for to try,And these three men made a solemn vow, John Barleycorn must die,They plowed, they sowed, they harrowed him in, throwed clods upon his head,And these three men made a solemn vow, John Barleycorn was dead. 運試しに西から来た三人の男がおりましたこの三人、厳かに誓って言うよう、ジョン・バーリーコーンは死なねばならぬ三人は耕し、種をまき、彼を鋤き込み、彼の頭上に土をかけたそして三人、厳かに宣言した、ジョン・バーリーコーンは死んだと より古いバージョンがバーンズのバージョンと似ているのは、大麦を擬人化していること、そして時には様々な職人によって大麦が虐待されたり殺されたりするという点のみである。バーンズのバージョンはしかしながらそれらのモチーフを省略している。バーンズのバージョンで神秘的な王とされたのは、17世紀初頭のバージョンでは実のところ、酒によって倒され、その雪辱を果たそうとジョン・バーリーコーンに復讐を挑む普通の男たちだった。 Sir John Barley-Corn fought in a Bowl, who won the Victory,Which made them all to chafe and swear, that Barley-Corn must dye. 別の古いバージョンにはジョン・バーリーコーンが粉屋に復讐する場面がある Mault gave the Miller such a blow,That from [h]is horse he fell full low,He taught him his master Mault for to know you neuer saw the like sir.
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様々なバージョン
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「あなたのそばに (1938年の曲)」の記事における「様々なバージョン」の解説
この曲の最初によく売れたバージョンは、1940年4月28日に録音されたグレン・ミラー楽団(英語版)と歌手レイ・エバールのものでブルーバード・レコードからリリースされた。このバージョンは、『ビルボード』誌のベスト・セラー・チャートが初めて発表された1940年7月20日付で初登場した。チャートには8週間とどまり、最高位は5位であった。 人気が高かった他のバージョンとしては、コロムビア・レコードから出たケイ・カイザー(英語版)楽団と歌手ハリー・バビット(英語版)のもの (Columbia 35488)、ダイナ・ショアがポール・ホワイトマン(英語版)楽団と吹き込んだもの (Bluebird)、エディ・ハワード(英語版)がルー・エイドリアン (Lou Adrian) 楽団と吹き込んだものなどがあった (Columbia)。 1953年、ボブ・マニング(英語版)がこの曲を歌ってポップ・チャートの16位まで上昇させた。 1956年、エラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロングのデュエット・アルバム『Ella & Louis』がこの曲を取り上げ、フィッツジェラルドがソロで歌い、アームストロングがボーカルとトランペットでそれぞれソロをとった。伴奏は、ピアノがオスカー・ピーターソン、ベースがレイ・ブラウン、ギターがハーブ・エリスのオスカー・ピーターソン・トリオと、ドラムスのバディ・リッチが務めた。このアルバムは、『ビルボード』誌のジャズ・チャートで首位となり、ポップ・チャートでもトップ10入りを果たした。 ドイツのミュージシャンであるマルク・セカラ(ドイツ語版)は、ベルリン・ジャズ楽団(ドイツ語版)とともに、アルバム『You're Everything』(2008年)でこの曲を取り上げた。ビッグバンド用の編曲はスティーヴ・グレイ(英語版)がおこなった。
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「グラン・ブルー (映画)」の記事における「様々なバージョン」の解説
初上映は1988年5月10日、第41回カンヌ国際映画祭の栄えあるオープニング作品としてだったが、メディアはこぞって酷評。翌5月11日からフランス国内で公開されるが、当初の数字は惨憺たるものだった。 『Le Grand Bleu』 フランス公開版(132分) - 仏国内で最初に公開された版。カンヌで上映されたものと同じ。本作は元々国際マーケット向けに製作されたもので、セリフはすべて英語。仏公開版は俳優本人たちが仏語に吹替えている。 『THE BIG BLUE』国際版(120分) - 海外向け編集版で仏公開版より12分カット。日本では『グレート・ブルー』の邦題で劇場公開された。 『THE BIG BLUE』アメリカ公開版(118分) - ベースは国際版だが音楽はエリック・セラではなく、ビル・コンティのスコアに差し替えられている。またラストシーンに追加された1カットのために、作品の結末が大きく変わってしまっている。 『Le Grand Bleu/VERSION LONGUE』長尺版(168分) - ベッソン監督が最初に完成させた言わば“無編集版”(フランス初公開版は、このバージョンから監督自ら36分間カットしたもの)。日本では『グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版』の邦題で劇場公開された(上映時は仏語吹替え版)。 『10ans Le Grand Bleu/VERSION ORIGINALE』オリジナル版(132分) - 1998年、作品生誕10周年を記念してフランスでリバイバル上映されたもの。仏初公開版と同じ物。日本でも同年、『グラン・ブルー/オリジナル・バージョン』として劇場公開。ベッソン監督は「これこそが磨きに磨きぬいた、一生大事にしていきたい、心の一本」と表明している。
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