鎌倉幕府 近代以降の研究

鎌倉幕府

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/18 07:26 UTC 版)

近代以降の研究

封建制としての中世

近代以降の歴史研究において、中世の武家時代は王朝文化が衰退した暗黒時代とする理解がなされていた。しかし、原勝郎石母田正らの研究により、中世は日本に封建制が成立した時代とされ、東国武士団はその改革の推進力と評価されるようになっていった[23]

東国国家論と権門体制論

1960年代には2つの中世国家論が登場した。佐藤進一は鎌倉幕府を朝廷と並ぶ中世におけるもう一つの国家とする東国独立国家論を提唱。一方、黒田俊雄は中世の政治権力を朝廷・寺社・武家といった権門による共同統治体制とする権門体制論を明らかにした。しかし学界での評価は好対照で、1970年代には既に「権門体制論一色」といった状況であり[24]、佐藤自身も少なくとも承久の乱までの鎌倉幕府は「朝廷の番犬として仕える権門体制的な状況」にあると認めざるを得なくなっていた[25]。佐藤は1983年に『日本の中世国家』で鎌倉幕府を「中世国家の第2の型」として改めて東国独立国家論を提起するが[26]、その要諦である両主制について研究者間での評価を得るには至らず[27][28]、権門体制論との類似を指摘される結果に終わっている。こうして東国武家政権を中世社会の変革の推進力とする見解は淘汰され[29][30][31]、権門体制論は21世紀においても有力な学説として重視されている[32]。もっとも、佐藤も黒田も「仮説」として東国国家や権門体制を唱えた筈なのにその「仮説」に対する検証が成されていないまま両説共に学説として一人歩きしているとする批判もある[33]

政権の実態

本郷和人によると、鎌倉幕府は、関東の在地領主たちが土地所有を保証するために源頼朝を祀り上げてつくった政権[34]が実態であるとしている。つまり、政権が安定してくると在地領主にとって源氏は必要でなくなり、排除され、頼朝の嫡流は断絶した[35]とする。

北条高時政権

金沢文庫の史料や鎌倉時代末期の政治動向を調査した永井晋によれば、北条高時は政治を顧みなかったのではなく、病弱のために中々政治の場に出られず、側近たちは改革よりも安定性を重視して高時の補佐に力点を置いたため、ゆるやかに政権が衰退していったというのが真相ではないかという[6]。永井は高時政権が崩壊した理由として、以下の4つを挙げている[36]

  • 13世紀末から、地球の気候は中世温暖期から小氷期へと変動しており、朝廷への優越性を確立した後の室町幕府江戸幕府とは違い、鎌倉幕府はこの寒冷化に対処する政治権限を持たなかった[36]。軍事担当の権門としては、可能な政策には限りがあり、その中で対策することしか出来なかった[36]
  • 前述した両統迭立という天皇家の内部矛盾に否が応でも巻き込まれてしまった[36]
  • 貨幣経済の浸透により、御家人制が破綻しつつあり、御家人制をその根幹とする鎌倉幕府も崩壊しつつあった[36]。無論、この問題については前2つと違い、鎌倉幕府自身が対処すべき問題であった[36]。また、当時、悪党と呼ばれる新興勢力が現れ、寺社の強訴が相次いでいたが、これに対する問題も後手後手だった[37]
  • 前項とも関連するが、幕府中枢部が改革に消極的だった[36]霜月騒動(弘安8年(1285年))・平禅門の乱(正応6年(1293年))・嘉元の乱(嘉元3年(1305年))など相次ぐ内紛で疲弊した幕府は、この教訓から、連署金沢貞顕を中心にして調整型の能吏によって構成されるようになった[36]。高時が病弱だったこともあって、協調路線が基本指針とされた[36]。高時政権は、漸進主義・安定志向の官僚集団としては優秀だった[38]

永井は、「この首脳部が鎌倉幕府の実力が充実した中期に政権運営を行っていれば、高時は平和なよい時代を築いた政治家と評価されたであろう」[39]「しかし、社会が求めていたのは新しい社会構造への移行であった。この意識のズレが、蹉跌の大きな原因となる」[39]と述べている。

後醍醐天皇の倒幕にいたる過程

2007年河内祥輔によって、新説の「冤罪説」が唱えられた。河内によれば、後醍醐は父である後宇多天皇の意志を継ぐ堅実な天皇であり、少なくとも元亨4年(1324年)時点ではまだ討幕を考えておらず、鎌倉幕府との融和路線を堅持していた。後醍醐派逮捕は、後醍醐の朝廷での政敵である、大覚寺統嫡流・邦良親王派もしくは持明院統側から仕掛けられた罠であったという。なぜ日野資朝が流罪になったかと言えば、後醍醐派を完全に無罪にしてしまうと、幕府側の捜査失態の責任が問われる上に、邦良派・持明院統まで新たに捜査せざるを得ず、国家的非常事態になってしまうので、事件をうやむやにしたかったのではないかという。すなわち後醍醐派が被害者であり、取り立てた失態もないのに自派だけ損害を受けた形になったという。2010年代後半以降、河内の冤罪説を支持する研究者も複数現れている。


注釈

  1. ^ ただし近年では逆に、武士の起源を有力農民ではなくて貴族の側とする見解が主流となった。詳細は『軍事貴族』『武士#「職能」武士の起源』の項目を参照。
  2. ^ 『百錬抄』寿永二年十月二十二日条によれば「十月十四日、(中略)東海・東山諸国の年貢、神社仏寺ならびに王臣家領の庄園、元の如く領家に随うべきの由、宣旨を下さる。頼朝の申し行いに依るところ也。」と記されている。『百錬抄』寿永二年十月二十日条参照。
  3. ^ 『吾妻鏡』には文治元年(1185年)10月18日以降の記述によれば「廿八、丁未、補任諸国平均守護地頭、不論権門勢家庄公、可充 課兵粮米段別五升之由、今夜、北条殿謁申藤中納言経房卿云々」とあるように、数度に渡り北条時政を通じて荘園公領を問わず反別五升の兵粮米の徴収権を与えられることを奏請した。さらに、九条兼実の日記『玉葉』によれば「二十九日、戊申、北条殿申さるるところの諸国守護地頭兵粮米の事、早く申請に任せて御沙汰あるべきの由、仰せ下さるるの間、帥中納言勅を北条殿に伝えらると云々」と記されている。『吾妻鏡』文治元年十二月六日条、『玉葉』『吉記』文治元年十二月二十七日条。参照。
  4. ^ もっとも、北村拓 著「鎌倉幕府征夷大将軍の補任について」、今江廣道 編『中世の史料と制度』続群書類従完成会、2005年、137 - 194頁。 のように、征夷大将軍はこの時代には完全に名誉職化しており、何らかの権限を付与されたものではないとする説もある。
  5. ^ 足利尊氏寄進状建武2年(1335年3月28日付(『神奈川県史』資料編3所収)[16]
  6. ^ 「将軍足利尊氏寄進状案」「将軍足利尊氏御教書案」(『神奈川県史』資料編3所収)、「惟賢灌頂授与記」(『鎌倉市史』史料編1所収)[16]
  7. ^ これら学説については井上光貞前掲書、国史大辞典編集委員会編前掲『国史大辞典 3』などに詳しい。

出典

  1. ^ 阿部猛; 佐藤和彦 編『人物でたどる日本荘園史』東京堂出版、1990年。 
  2. ^ 高橋富雄『征夷大将軍 もう一つの国家主権』中央公論社、1987年、73-74頁。 
  3. ^ 菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』汲古書院、2011年、161頁。 
  4. ^ 細川重男『鎌倉幕府の滅亡』吉川弘文館、2011年、132-133頁。 
  5. ^ 永井 2009, p. 53.
  6. ^ a b 永井 2009, pp. 3–24.
  7. ^ a b c 河内 2007, pp. 304–347.
  8. ^ 峰岸 2005, pp. 37–38.
  9. ^ 峰岸 2005, p. 57.
  10. ^ 峰岸 2005, p. 62.
  11. ^ 峰岸 2005, p. 63.
  12. ^ 永井 2003, pp. 148・150.
  13. ^ 『太平記』巻十「大仏貞直並金沢貞将討死事」
  14. ^ 『太平記』巻十「信忍自害事」
  15. ^ 『太平記』巻十「高時並一門以下於東勝寺自害事」
  16. ^ a b c d 「神奈川県:鎌倉市 > 小町村 > 宝戒寺」『日本歴史地名大系』平凡社、2006年。 
  17. ^ 佐藤弘夫 編『概説 日本思想史』ミネルヴァ書房、2005年。 
  18. ^ 鎌倉市. “鎌倉市のみどころ「大倉幕府」 かまくら GreenNet” (日本語). 2009年10月6日閲覧。 [リンク切れ]
  19. ^ 国史大辞典編集委員会編 編『国史大辞典 3』吉川弘文館、1983年、549頁。 
  20. ^ 岩田慎平 著「武家政権について」、元木泰雄 編『日本中世の政治と制度』吉川弘文館、2020年、316-330頁。ISBN 978-4-642-02966-7 
  21. ^ 川合康「鎌倉幕府の成立時期を再検討する」『じっきょう地歴・公民科資料』76号、2013年。/所収:川合康『院政期武士社会と鎌倉幕府』吉川弘文館、2019年、276-288頁。
  22. ^ 社会科Q & A — 歴史”. 帝国書院. 2022年1月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月17日閲覧。
  23. ^ 稲葉継陽 2012, p. 54.
  24. ^ 佐藤 1976.
  25. ^ 佐藤 1976, p. 5.
  26. ^ 佐藤進一 『日本の中世国家』 岩波現代文庫、2007年3月、66頁。
  27. ^ 村井章介「佐藤進一著『日本の中世国家』」『史学雑誌』第93巻第4号、史学会、1984年、95-96(p.510-521)、doi:10.24471/shigaku.93.4_510ISSN 0018-2478NAID 110002368296 
  28. ^ 吉田孝、上横手雅敬 「(書評)佐藤進一著「日本の中世国家」」『法制史研究』1984巻34号 1984年、177頁。
  29. ^ 奥山研司 「高校日本史における中世史像の変革 : 地頭制の取り扱いを通じて」『社会科研究』38巻 全国社会科教育学会、1990年、93頁。
  30. ^ 平雅行 「中世史像の変革と鎌倉仏教(1)」『じっきょう 地歴・公民科資料』No.65 実教出版、2007年10月、3-4頁。(2020年1月10日閲覧)
  31. ^ 安藤豊「歴史学習「鎌倉時代」に関する内容構成フレームの検討 : 中学校における中世史(「鎌倉時代」)学習内容再構築のための基礎的考察(その1)」『北海道教育大学紀要 教育科学編』第59巻第1号、北海道教育大学、2008年8月、40(p.39-42)、doi:10.32150/00005728ISSN 13442554NAID 110006825912 
  32. ^ 稲葉継陽 2012, p. 56.
  33. ^ 佐々木宗雄『日本中世国制史論』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02946-9, p.13・150-151・182.
  34. ^ 『本郷和人 日本史の法則 kindle版 位置NO.2898/3041』河出書房新社、2021年。 
  35. ^ 『本郷和人 日本史の法則 kindle版 位置NO.2761/3041』河出書房新社、2021年。 
  36. ^ a b c d e f g h i 永井 2009, pp. 40–42.
  37. ^ 永井 2009, pp. 48–52.
  38. ^ 永井 2009, pp. 53–56.
  39. ^ a b 永井 2009, p. 42.


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