教派神道 祭教分離―教導職の廃止と教派独立の促進

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教派神道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/09 21:21 UTC 版)

祭教分離―教導職の廃止と教派独立の促進

1882年(明治15年)1月、内務省による乙第7号によって、祭教分離が行われ、神官教導職についているものが祭祀を行うことを禁止されることで、祭祀を行う神官を続けるか、教法を説くかの分離が促進され、教派神道の形成が強固となった[22]

自今神官ハ教導職ノ兼補ヲ廃シ葬儀ニ関係セザルモノトス — 明治十五年一月二十四日内務省達乙第七号

この後、1882年(明治15年)5月15日、神宮教を含む6派が独立し、神宮教の所有に移った祭神論争のもととなった神宮遥拝殿は大神宮祠と改称し、神宮大麻は神宮教が頒布することになる[23]。千家尊福のようにこれを機に出雲大社の宮司を辞して弟に譲り、出雲大社教の管長となった例も見られる[24]。1884年(明治17年)8月11日の政官布達によって教導職は廃止され[25]、祭政一致を経た政教分離の意図のもとで祭教分離され、教派神道が明確に形成された[26]。教導職が廃止されると神道事務局は当初の開局の理由を失う[25]。1886年(明治19年)、教部省の神道側による管轄として、半ば、神道の公的中央機関であった神道事務局は、神道本局と改め、教派神道の一派となる。

教学分離―皇学研究機関

1868年(明治元年)12月には、京都に皇学所が設けられたが翌年廃止され、教部省が設置されると同省が講究にあたった[27]

1882年(明治15年)には皇学の研究機関があいついで設立される。その理由としては祭神論争において教学の必要性が痛感された背景がある[28]。国家神道による祭祀、教派神道の教法家による教義と教化、国学者による教学の学問的研究、祭神論争が教法家と国学者とに分かれ、教法家が一派独立を果たしていく中で、国学者が刺激され教学分離が進んだというものである[29]。4月30日、神宮教は、伊勢に神宮皇學館を設立する[29]。これは後の皇學館大學へとつながる。5月30日、東京大学に古典講習科が設置される[28]

皇典講究所

11月4日には、皇典講究所が設置される[29]。統一的な神道の宣教機関が神道事務局であり、その神道事務局の神職を養成するために設立された[30]。(創立されたのは、1881年で、御下賜金を財源に、麹町区飯田町(現千代田区)の邸宅を買収して行なわれた[30]。)

神道大会議直後に内務卿の山田顕義の建議により設置が決まり[28]、初代総裁に有栖川宮幟仁親王(-たかひと-)が就任し、日本独自の学問を講究するという意図を告諭している[31]。「皇典講究所創設告文」には、久保李茲、井上頼圀、逸見仲三郎、宍野半が連名で、国体維持のための人材養成という創設の意図を著した[32]。皇典講究所は地方に分所を設け、受講者に神職の資格を与えた[28]

國學院

1890年(明治23年)11月22日、皇典講究所内に國學院開院。皇典講究所と國學院大學は、国家の宗祀である神社の神職養成を内務省から委託されていた。両機関は基本的には国家の宗祀のための神職の養成を受け持った。(しかし、卒業資格があれば教派による教師試験の免除であったり、教授や各教派の管長となっている者も多い。)

日本大学は、皇典講究所との関係性から大正13年(1924年)から神道教師の再教育を目的に神道講座を開講し[要出典]、神道教派聯合会(現教派神道連合会)から神道奨学会が組織された[要出典]

各教派の独立公認

各教派は、神道事務局にいったん集結した神社や講社が、一定の条件を満たし分派独立していったものである。

分類

文化庁の『宗教年鑑』によれば、復古神道系、山岳信仰系、教祖の神懸かりや教えを重視する純教祖系などに分類される[2]。 井上の『教派神道の形成』によれば以下のような分類が見られる[33][34]

  • 従来の神道的伝統を継承している
    神道修成派、神習教、神道大成教、特に神理教を主要な考察対象としている[34]
  • 神社崇敬が基盤
    伊勢信仰を基盤とする神宮教、出雲大社を崇敬する出雲大社教。
  • 山岳信仰が基盤
    御嶽信仰の御嶽教。各講社が御嶽教一派にまとまってはおらず、神道修成派、神習教、神道大成教などに所属した講社もある[33]
    富士信仰の實行教と枎桑教、どちらも開祖は長谷川角行におく富士講諸派が母体[33]。實行教は富士講身禄派の食行身禄から派生した不二道の系譜である[33]。枎桑教は、浅間神社宮司で大教院の会計長でもあった宍野半が、吉田口から入山する身禄派以外にほかの場所から入山する富士講も包括する意図で各講の結集を図った[35]
  • 教祖が創唱した傾向が強い
    黒住教、金光教、天理教は特に教祖に宗教的回心の体験がある。禊教の教祖は回心体験は強くないものの修業を研鑽した。
  • 宗教行政が成立させた
    神道事務局(のち神道本局から神道大教へと至る)、神道大成教。

神道十三派

神道十三派という表現が一般化したのは、1908年の天理教の独立認可以降、1945年の宗教団体法の廃止まで約40年の間、政府公認の神道教派が以下13派であったからである[36]神道大教黒住教神道修成派出雲大社教枎桑教實行教、神道大成教、神習教御嶽教神理教禊教(正式には「示」へんではなく「ネ」と書く)、金光教天理教

神道系新宗教として区別する場合もある。このときは天理教、金光教などは教派神道から省かれ神道系新宗教に分類される[37][38]。阪本は、天理教と金光教は教派神道に分類されることを拒否しているとしている[34]。2011年現在、天理教については文化庁による『宗教年鑑』で教派神道系ではなく諸教に分類される[2]。これに対して、典型的な教派神道は神道修成派、出雲大社教、神習教、神理教とされる[38]

教派神道連合会

1895年(明治28年)に出雲大社教、黒住教、御嶽教、實行教、神習教、神道大成教、枎桑教、神宮教(後の財団法人神宮奉斎会)の8教派が参加し「教派神道連合会」の前身である「神道同志会」を結成した[39]1899年(明治32年)に神道本局(神道大教)、神理教、禊教が加盟し「神道懇話会」と改称し、更に1912年(明治45年)に金光教、神道修成派、天理教が加盟し13派の形が整い「神道各教派連合会」と改称する[39]1934年(昭和9年)に現名称となる[39]

1956年(昭和31年)に大本が加盟[39]1970年(昭和45年)に天理教が退会[39]1976年(昭和51年)に神道大成教が退会[39]。また1959年(昭和34年)に神習教が退会、1994年(平成6年)に復帰している。

1995年には、結成100周年を迎え「教派神道連合会結成百周年記念式典」が開催された[40]。禊教、神道大教、實行教、金光教、黒住教、枎桑教、御嶽教、神理教、大本、神習教、神道修成派、出雲大社教、12教派に加え、天理教、神道大成教の管長も出席した[40]

信者数

教団ごとの信者・教師・教会数『宗教年鑑』(令和5年版)
教団 信者 教師 神社・教会
神道大教 21,375 475 170
黒住教 297,165 1,201 302
神道修成派 6,702 190 51
出雲大社教 1,266,138 8,179 158
枎桑教 32,300 473 135
実行教 9,100 221 86
神道大成教英語版 18,965 113 23
神習教 91,797 181 87
御嶽教 27,750 983 325
神理教 39,750 782 132
禊教 78,300 464 60
金光教 363,731 3,320 1,454
大本 164,940 3,969 693
合計 2,418,013 20,551 3,677

その他の神道系教派

天社土御門神道

明治以前において安倍晴明の子孫である土御門家宗家として司っていた陰陽道も、江戸時代垂加神道の説を取り入れて土御門神道(天社神道)を興したが、占いやまじないを含むことから明治政府は邪教視し、「天社神道禁止令」を発令したため、教派神道としての結成は叶わなかった。戦後に宗教法人「天社土御門神道本庁」として復興したが、宗教法人としての登記上は教派神道でも神社神道でもなく、「(その他団体)」という注記が付帯されており、「諸教」に分類されている[41]


  1. ^ 戦後に神社本庁を形成する前身組織の1つ。
  2. ^ a b c d 文化庁編さん 2011, pp. 5–6.
  3. ^ a b c d 井上 1991, pp. 18–19.
  4. ^ a b c d 中村元ほか編『岩波仏教辞典』(第二版)岩波書店、2002年、220-222頁。ISBN 978-4000802055 
  5. ^ 井上 1991, p. 20.
  6. ^ a b c d 村上 1974, pp. 118–119.
  7. ^ 井上 1991, pp. 25–26, 35.
  8. ^ 井上 1991, pp. 25–26.
  9. ^ 村上 2007, p. 94.
  10. ^ a b c 菅田 1985, pp. 113–114.
  11. ^ a b 井上 1991, p. 21.
  12. ^ 村上 2007, pp. 103–104.
  13. ^ a b c 井上 1991, pp. 21–22.
  14. ^ 村上 2007, p. 104.
  15. ^ 井上 1991, pp. 38.
  16. ^ 井上 1991, pp. 33–34.
  17. ^ 井上順孝ほか編 1996, p. 556.
  18. ^ 井上順孝ほか編 1996, p. 41.
  19. ^ 村上 2007, p. 105.
  20. ^ a b c d 村上 2007, pp. 105–106.
  21. ^ a b 村上 2007, p. 107.
  22. ^ a b 井上 1991, pp. 27–29.
  23. ^ 村上 2007, pp. 117–118.
  24. ^ 菅田 1985, pp. 149–158.
  25. ^ a b c d 村上 2007, pp. 120–123.
  26. ^ 井上 1991, p. 31.
  27. ^ 村上 2007, p. 114.
  28. ^ a b c d e 村上 2007, p. 115.
  29. ^ a b c 井上 1991, p. 29.
  30. ^ a b 東京ライフ社刊. “皇典講究所から国学院へ”. 神道大教. 2016年3月16日閲覧。
  31. ^ 設置の趣旨等を記載した書類 - 大学設置室 - 文部科学省 (PDF)
  32. ^ 井上 1991, p. 115.
  33. ^ a b c d 井上 1991, pp. 13–18.
  34. ^ a b c 阪本 1991.
  35. ^ 井上 1991, pp. 36–37.
  36. ^ a b 井上 1991, p. 11.
  37. ^ a b 井上 1991, p. 46.
  38. ^ a b 『日本民俗大辞典〈上〉あ~そ』福田アジオ編、吉川弘文館、1999年、498頁。ISBN 978-4642013321
  39. ^ a b c d e f g 『いのりとつどいー教派神道連合会結成百周年記念史』1996年。10-12頁。
  40. ^ a b “結成100周年の記念式典”. 産経新聞. (1995年9月5日) 
  41. ^ 西野神社 社務日誌
  42. ^ 村上 1974, p. 121.
  43. ^ 村上 1974, pp. 117–122.
  44. ^ 村上 2007, p. 119.
  45. ^ 菅田 1985, p. 177.
  46. ^ 村上 2007, pp. 122–123.
  47. ^ 井上 1991, p. 47.
  48. ^ 村上 2007, p. 117.
  49. ^ 村上 2007, p. 184.
  50. ^ 中山 2009, p. 231.
  51. ^ a b 中山 2009, p. 228.
  52. ^ 中山 2009, p. 229.
  53. ^ 中山 2009, pp. 231–232.
  54. ^ 中山 2009, p. 232.
  55. ^ a b c 中山 2009, p. 238.


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