神坂四郎の陳述
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私はなぜこの二つの犯罪で疑いを受けているのか、理解に苦しむ。疑えばすべてそれらしく見えて来る。 三景書房への就職を世話してくださったのは今村先生で、彼が私の就職の心配をしてくれたのには、私が「日本文化」につとめていた時分、妻雅子に代理で原稿を取りに行かせたことがあり、先生が雅子の美貌により恥ずべき行為を求められたからである。雅子はその要求を拒むだけの強さを持たず、良人の職業に不都合を来すと考えたと弁明しているが、私には信じられない。その結果、妻への愛情を失い、その弱点を私に握られているので、就職を斡旋してくれた。だから、「東西文化」顧問になって社へ顔を出すたびごとに私の顔を見るのは辛かったのだろう。そこで先生は積極的に私も泥沼へ曳きずりこんで、ともに泥まみれになろうとした。先生とともに酒を飲み、乱酔をも求めたことはその第一歩で、私は逆に、先生の評論界での立場を利用して編集者としての仕事を成功させようとした。「東西文化」は当初は発行部数五万が十二万になっている。私にとってはこのことは立場を安定せしめ、私の存在を確実にするものであったが、先生からは目障りになってきたのだろう。 永井さち子は今村先生が紹介して三景書房出版部に就職させた女で、先生が冗談のように神坂は独身で、いい男だから世話してやろうと言ったらしいと本人から聞いている。今村先生としては、私と永井との間の関係を生じた場合に、私の弱点を握り、同じ立場になれるという考えだったと感じられる。悪意に解釈すれば、永井と結婚させれば、雅子に対して、さらに積極的になれるとまで考えていたのかも知れない。私はその罠に落ちないよう、永井さち子に対して厳しい態度を取ったが、失敗だった。永井は私の私行上にあらぬ噂をまき散らし、恰も永井にある種の関係を要求したかのように言いふらし、三景書房での自分の信用を破壊しようとした。原稿を紛失し、編集長の私の責任問題を引き起こすような悪辣なことをしている。激怒して辞表を書かせたが。社長は彼女を庇って握りつぶしてしまった。そこで、このままでは私は四方敵の中にいることになってしまうので、方針を変更し、今村先生の誘うがままに自分も泥に足を踏み込み、お互いの弱点を晒し合うことで妥協を求めることにした。永井さち子を誘って、築地の待合へも行ったが、もはや意地になっているので、誘いに乗らず、金銭で買収するのも失敗した。 永井さち子が媚態で社長を籠絡し、私を失脚させるための業務横領の疑いをほのめかしたのは成功だった。社長とは、仕事で部下を信頼しても、金銭問題では信用しないものだ。算盤の方はよく分かっているから、部下には任せない。雑誌編集長は業務交際と私的交際が混雑して区別のつけがたいという弱点を、永井さち子は悪賢くついてきた。私の敗北だ。「東西文化」の創刊にあたって、社長との間で交際費の相談があり、社長は広告料を予算に入れず、広告は自分の手腕に任せる、その方の二割を交際費にしよう、広告が沢山とれれば交際費も豊かになるだろう、と言明している。顧問の今村先生もご存じのはずだ。ところが、創刊以来雑誌は好評で、広告が予想外に多く、労せずして交際費を得られた。そのため、二割で毎月平均三万円を自由にできることになった。社長はこのお金を回収したいと考え、何らかの口実を設けて自分をやめさせるのがはやいと考えたのだろう。この五月に大腸カタルで七八日休んだが、その時に社長は奇貨として大森記者に命じて広告費の集金をさせたが、大東製薬と関東電気工業の二社はその前に私が受けとり済みになっていた。それを騷ぎ立てて、横領行為を今村先生にむかって訴えたのだろう。今村先生はこの機会をつかみ、嘗ての自分の非行の記憶を消し去ることができるというわけだ。先生はわざわざ酒場に連れて行き、人の見ている前で罵倒し、弁明を許さなかった。その時口惜しさで泣いた。 先の二社から広告料を受けとっていたのは自分の越度ではない。自分は広告料の二割を自由に仕えるのだから、この二つの広告料で二割にあてただけで、ほかの広告料は三景書房に渡してある。超過分ではない。いいがかりをつけているだけだ。用紙配給切符の横流しの件も、社長の言いがかりであり、名誉毀損の訴えを起こそうか検討中だ。紙の切符を横流ししたのは社長自身である。配給切符を受けとるのは私で、それを社長に渡す。その際に社長から受領証を取るわけではないので、渡したという証拠はない。社長が公定価の紙の切符を横流ししたというのは、単行本出版が近頃不振になり、予定の紙を使い切れないからだ。印刷紙の切符を高く売って、仙貨紙を安く買い、出版物には仙貨紙を使うやりくりを考えたこともある。社長には第二夫人がいるが、正妻の喧しさのため、第二夫人へ廻す金に苦しんでいたからでもある。切符を横流しした金の大部分は第二夫人のもとへゆき、戦災でなくなり、新たに吉祥寺に買うための費用になっったらしい。今村夫人が永らく肺を病んで、その療養費に苦心しているが、今村先生は顧問料を欲しいと社長に要求している。横流し金の一部は顧問料として今村先生に渡されているのだろう。私の女性関係のために必要とされたと喧伝されているのは、永井さち子か、今村先生から出ているのだろう。 私には女性関係があるが、業務上横領とは関係ない。妻は子供二人と平穏に暮らしているが、今村先生と過失があったため、愛情を継続することができず、週に一二度見舞っているが、生活は最低の経済に甘んじている。妻も自分の過失を悔いている。義務と責任の観念の強い女だが、感情の温かみがなく、性格的に気の毒だ。大部分の生活を戸川智子の家で過ごしている。満鉄本社以来の関係だが、深いつながり終戦後で、歌謡歌手として再起するのに骨折っている。私は俗に言うマネージャーのような形だ、妻とは円満にゆきどうもないので、子供を引き取って、戸川智子と再婚するつもりだった。できるだけはやく雅子の処置をつけるのが彼女のためにも良いと考えたので、指輪を戸川智子から貰いたいと申し出たが、意外に頑強な反抗に会って愕いた。ただ満洲の慰問旅行に行ったぐらいのことで、甘粕が戸川だけに宝石指輪を贈ったのは理解しがたい。私が満鉄事務所で打ち合わせをしている間に両者に何かあったと疑うため、あの指輪は見たくない。戸川は私よりも四歳年長で、姉のような気持ちで愛してくれ、困ったときには自分のポケットから金を出してくれた。合計凡そ七八万円になるか。すなわち私の女性関係は何ら大きな金銭上の負担にはなっておらず、会社の金の横領に結びつかない。 梅原千代の自殺幇助については、詳しく説明すると、岸本八重子(梅原)と知り合ったのは今村先生の宅で、双方ともに警戒心と危険を感じ合っていたので、積極的に泥醉し、今村先生宅に泊めて貰っていたので、そんな機会から知り合った。いつから二人に関係があったのかは不明だが、夫人は病気だったから、いわゆる第二夫人のようなかたちであった。梅原と先生の間がうまくゆかなくなったのは、夫人の嫉妬でもなく、梅原が先生を嫌ったのも真相ではなく。もっと複雑な事情がある。最初に先生が熱海に梅原を連れ出したのは事実だが、それから後は梅原が積極的で、先生は女房に対してこれ見よがしになっていると語っており、病室の夫人にわざと聞こえるような声で甘えたり、愛撫を求めたりした、いささか常軌を逸した激情家で、理性がまるで感じられず、ヒステリックな小娘のように我が儘で筋道の通らない感情家で、毎日のように髪の結い方を変え、眉の描き方が違い、淑やかな日があり、乱暴な日があり、心の定まらぬ女だった。和服や洋服の好みが混乱していて、彼女の考えも生活方針もその日によって違っていた。今村先生は最初の経験と言っていたが、それにより一種の錯乱した心理に陥ったようで、最初の経験にすがりつこうとした。正式な結婚を求めた彼女に先生も愕くと同時に困惑し、夫人が病死したら正式に、と答えたが、梅原はそれを侮辱と感じて家を出た。 私は先生に頼まれて紅葉館アパートに部屋を借りたが、今度は梅原の気が変わり、絶対に家を出ないと言いだした。その結果、彼女を三景書房に使いに出させ、私に処置をまかせるという詭計を用い、私は何も言わずに梅原をアパートに連れてゆき、すぐに荷物を運び込んで落ち着かせてしまった。先生と酒場で飲み、岸本について話し合って、綺麗な薔薇には棘があると先生は言ったが、自分は刺されてみたいと希望し、自分の手に渡った。肉体の経験を知り好奇心に燃えていた彼女にとって、他の男だろうと選ぶところはなかった。道徳感情は薄弱で、肺を病んでいたので、異常な欲望をもっていたとも思われる。彼女は私が自宅に帰るのを嫌がり、夕方に三景書房へ電話をかけてきて、是非ともアパートへ来てくれとねだった。そこで、自分も彼女を手放したくなくなり、偽名をさせた。 今村先生は手は焼いたものの、未練はあり、岸本のアパートを教えろと何度か言っていた。私は心の中では雅子の事件の復讐をしている痛快さを味わっていた。 梅原は一種の異常な想像力、幻想性をもっていたようで、空想を現実と勘違いしているようなところがあった。北海道の郷里で、父親は大地主、馬が三十匹と語っていたが、彼女の父は病気で死にかけており、小さな農場も人手に渡っていたと手紙にあった。彼女は津田英学塾の出身で、アメリカ人の先生に褒められ、会話はクラスで一番とも語っていたが、英語は街の看板も読めない程度で、友人に津田へ行っている人がいただけだった。向かいの部屋の青年が遅くに戸を叩いていきなり抱きついてキスしようとしたとか、今村からの手紙を焼きすてたとか、根も葉もないことを話し、一方で死を望むところがあった。死も一種のあこがれだった。 彼女の病気のために赤十字病院へ連れてゆこうとしたら、渋谷のレストランを出ようとしたところで、日本文化の頃の婦人記者に会って挨拶したら、いきなり怒りだし、婦人記者の発言で、独身だと嘘をついていたと分かったと言いだした。その婦人記者はそんな話はしておらず、不思議な感覚でそういうふうに会話を解釈した。あるいは病的直感か。 梅原の生活費は全部負担しており、その経費は戸川智子からの金と、自分の収入の一部でやっていけたほどだった。梅原は幻想で、海の見える丘の綺麗な療養所の白い部屋から海を毎日眺めながら死にたいと言っており、ダイヤを売るようにと頼まれたが、ちょっと見ても模造品と分かるものだった。売ると淋しくなるから持っていなさいと言った。彼女の話ではそのダイヤは彼女の父が上海で買ったといい、あるときは父は北海道を非常に愛しており、生まれて一度も北海道を離れたことはなかったと言っていた。仕方なしにそのダイヤを銀座の宝石屋へ持ってゆき、二千円なら買えるかもしれない、という返事で、彼女が信じないのっで、上野や新宿の宝石屋で見て貰ったという作り話をした。 その後、病気の悪化による梅原の幻想性が強くなり、しばらく遠ざからざるを得なかったが、何日かぶりに訪ねたら、自分が毎日十時に来ていたが、嘘つきだから開けなかったという独り芝居を語った。それだけ死期が近づいていた証拠かも知れない。十日ばかり離れていたが、梅原はダイヤが三十万円で売れたと言った。私も愕いたが、二千円そこらで売り払い、お米などを買い込み、三十万円と幻想していたようだ。警察の調査でもそれらしい貯金通帳は見つかっていないし、都内の銀行の預金の口座もなかった。私が売って、出版社設立の資金や横領しようとしたとは根も葉もない話だ。私が疑われているのはダイヤの金を取ろうと計画したことだが、ダイヤが偽物と分かれば自殺幇助の理由も自然消滅する。梅原には死についての一種の幻想があり、事件の二ヶ月前から肺患による一種の不眠症であり、一二度頼まれて催眠剤を買って与えたが、普通の分量ではまるで眠れないと申していた。 戸川智子が不眠症で、彼女の薬なら効くと、戸川が封を切ったばかりのものを持っていったが、最後の役に立ったのは偶然である。その夜しばらくぶりに見に行ってやったが、精神病的な傾向が強くなっており、しばらく近づかないでいたが、自分で外出できない病人をそのままにはできなかった。梅原は今晩は是非とも泊まってゆけと言って聞かなかった。やむなく梅原が眠ったら帰るつもりで承知した。梅原は一度床にはいってから起き上がり、五合の日本酒を夜十一時ごろ二人で全部飲もうと言い、ほんの少し飲んだところで酔ってしまい、私の胸にすがりつき、自分と一緒に死んでくれないか、と繰り返した。隣家の人が様子を聞きに来るような状態だったので、場を収めるつもりで、一緒に死ぬことを同意した、梅原は喜んだが、さらに信じはしない、きっと一人で逃げてしまうのだろうと心を見透かしたようなことを言った。慄然として、疑わないでくれ、どうやって死ぬんだ、手伝おうと言った。これは自殺幇助の疑いがあるが、私としては相手の手段を聞いて、防ぐ方法を考える、自殺防止が目的だった。安心した、と梅原は言い、まだ酒が残っている、十二時半だから、まだ寝るのははやい、みんな飲んで寝ようといい、錫の徳利に入れて鉄瓶で温め、疲れたから寝ようと言い、これだけ一気に飲んでおしまいにしようと、酒をコップに二つに分けて注いだ。そして、一気にあおってしまった。 私は三分の一ばかりで、嫌な味が混ざっている、そのまずさが合成酒の感じだと気にしなかった。梅原は飮み終わると私の首に両手を巻きつけてきた。私はそのままタバコをつけ、この女との関係は終わりと考えていたが、すると、崩れ落ちるようにずるずると滑り落ち、その頃になると自分も一種の胸苦しさを感じ、吐き気を催し、流しへ行って吐こうとしたまでは覚えており、気がつくと、管理人の部屋に寝せられていて、夜明けだった。 自殺幇助どころが、自殺の道連れにされようとしただけだ。梅原の日記は、彼女の幻想の手記であり、信頼するに足らない。 以上で、自分の釈明は終わるが、今回はからずも告訴され、人間社会をはじめて知り、人間の醜さを痛感した。名誉とは何なのか。彼らの業績の評価であり、社会的意義の称讃であれ、個人的な人格を称讃しているわけではなく、個人生活の醜悪さ、人格の劣等さに愕かされる。三景書房の社長はその一例で、相当の待遇と敬意を自分の編集長としての手腕に払ってくれたが、事業が順調に進むと、貪欲さと吝嗇さで自分の追放を計画した。狡兎死して走狗烹らるという諺の通りだ。今村先生はかくのごとき社会現象を評価せずに、みずから愚劣なる社会風潮に加わり、自分の醜行を掩うために神坂四郎を出版界から葬りさろうと考えた。この二人は恩人であり、仇敵で、自分のお人好しのために疑うことさえせず、雑誌編集のために骨身を削り、告訴された。今村先生も社長も、梅原千代も戸川智子も、雅子も都合の良い真相をお知らせするに違いない。 しかしながら、真相とは何なのか。犯罪容疑者にあらざる第三者の語る真相とは真相なのだろうか。真相はどこにあるのか、私には分からない。嫌疑を受けたものの努力と憤りと、無念さを持って関知した限りの真相を申し述べたに過ぎない。結局のところは、「真相」を発見し得ず、それらしきもを想定して、判決を与えられるのであろうことを知っている。私はそれに抗弁しようとは考えていない。裁判とは客観的な活動であっても、犯罪においては客観的な真相はない。 今日私が申し述べた真相はあるいは大部分が嘘かも知れないし、嘘であることも証明できない。妻雅子への愛情も、戸川智子との結婚も、今村先生への怨みも、それともどこまでもすがりつくつもりだったかも、証明できず、あるのは外部的資料に過ぎず、私の行為、言葉に過ぎず、心の中の真実は推察されるだけである。独立して出版事業を営みたいために、梅原千代を殺してダイヤ横領したのかも知れない。巧みに誘導して梅原を精神的絶望に導き、自殺させ、ダイヤをひそかに取ってしまおうとしたのかも知れず、ダイヤが本物であり、三十万円で売れたので、印鑑と貯金通帳を奪ったのかも知れない。梅原が誰の名義で貯金したかは何人も知らず、神坂名義の貯金をしたのかも知れず、今村先生が自分よりも先にダイヤに目を付け、ダイヤを手に入れる前提で梅原をものにしたらどうなるのか。梅原はダイヤを奪われる危険を感じて、家を出たのではないのか。 業務上横領についても、社長には広告料一万円と報告し、広告主からは一万三千円を受けとったのかも知れない。それを調べるには「東西文化」の創刊以来の広告主全部の帳簿を調べる流必要があり、何らかの金品を帳簿以外に受けた場合は調査できない。私の消費した金額が東西文化のためか、単なる遊蕩のためかその判定はどこでつけられるのか、私すらも知らないこの真実を誰が判定するのか。私はその真実を知り得た人に明確に裁かれたいと思う。しかし、私は判決に抗議する意志はない。人間社会においては、真相らしきものが真相なのだから。これ以上、申し上げる必要はあるまいと思う。
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