歴史・地理
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「デルスウ・ウザーラ (書籍)」の記事における「歴史・地理」の解説
アムール川の流域に住んでいたナナイ、ニヴフ、ウリチなどの先住民は、16世紀に清、17世紀にロシア帝国の進出を受け、清露国境紛争に巻き込まれた。先住民は当初はロシアに抵抗したが、18世紀からはニヴフを中心にロシア人と交易を行い、清を君主として朝貢をした。産業革命後の19世紀以降のロシアは、鉱物資源を得るためにシベリアや極東への領土拡大を積極的に進めた。そのため毛皮をとる狩猟民との取り引きに代わり、移民による農地、工場、鉱山の開発が増えた。人口が逆転して先住民は少数民族になり、キリスト教徒ではない先住民は宗教や文化の面からロシア移民に差別された。 ロシア帝国は1840年代からアムール川流域の探検を進め、清と条約改正を交渉した。1860年の北京条約では沿海州がロシア領となり、海鼠衛と呼ばれていた集落はロシア名のウラジオストックとなった。極東ロシアへの移住と開発を進めるためにシベリア鉄道が建設され、ヨーロッパ・ロシアからの移民が増えた。鉄道工事にともなって中国、朝鮮、日本からも出稼ぎ者が多く訪れ、ウラジオストックは多民族構成の都市として拡大した。1884年時点のウラジオストックは、全人口10094人のうちヨーロッパ系が6309人、アジア系が3785人だった。 先住民は土地所有権を認められず、交易の権益も縮小してゆき、未開の集団として扱われた。人類学者や民族学者が調査に訪れ、レフ・シュテルンベルクやブロニスワフ・ピウスツキらは、当時の社会運動ナロードニキの思想にもとづいて先住民の支援を試みた。地理学者のニコライ・ミハイロヴィチ・プルジェヴァリスキーはロシア人として沿海州を初めて調査し、1867年から1869年にかけての記録を『ウスリー地方における旅』(1870年)という本にまとめた。
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歴史・地理
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令制国一覧 > 畿内 > 河内国 > 高安郡 > 黒谷村 当地は高安山の麓の傾斜地に位置し、山麓の西側は教興寺地区と接しているが、かつて耕作地は教興寺村と複雑に入り組んでおり、その地域は恩智川を越えて近鉄高安駅付近まで達していた。また、府道山本黒谷線は終点が現在は教興寺2丁目であるが、東高野街道(国道170号線)との四つ辻の登記上の所在地がかつては大字黒谷で、名称の由来でもある。四つ辻南東角に宝永5年設置の旧い道標「和州信貴山毘沙門天王」が、南西角に「和州信貴道是四十(二丁)」の起点町石があり、ここから東は教興寺門前・黒谷集落を経て信貴山へ至る山道となる。 正保郷帳の写しとされる河内国一国村高控帳では701石余で、これには教興寺村の分も含まれている。元文2年の河内国石高帳では467石余。うち270石余が備中岡田藩支配地分、のこりが幕府直轄地から始まり幾度か支配者が変わり、寛文9年に淀藩領となり幕末に至っている。明治以降の市町村制施行で南高安村の大字となる。昭和47年の現住所表記施行時に教興寺地区とともに域内が整理され、教興寺より西側・大阪外環状線の東が教興寺、それより西は高安町北、高安町南に整理された。
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歴史・地理
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七大陸アジア大陸、ヨーロッパ大陸、アフリカ大陸、アメリカ大陸、オーストラリア大陸、南極大陸 七つの海イスラーム黄金時代のアラビア人の認識:大西洋、地中海、紅海、ペルシャ湾、アラビア海、ベンガル湾、南シナ海 中世ヨーロッパ人の認識:大西洋、地中海、黒海、カスピ海、紅海、ペルシャ湾、インド洋 大航海時代のヨーロッパ人の認識:大西洋、地中海、カリブ海、メキシコ湾、太平洋、インド洋、北極海(北氷洋) 19世紀以降の世界の認識(七大洋とも):北太平洋、南太平洋、北大西洋、南大西洋、インド洋、北極海(北氷洋)、南極海(南氷洋) ヨーロッパ人は大航海時代から既に南極海(南氷洋)を航海していたが、広く人々に認識され始めるのは、少なくともその時代の終盤より後である。大航海時代を経てようやく全ての大洋が知られることとなり、そののち、大西洋と太平洋は北半球と南半球で2分割する捉え方がされるようにもなった。 七大陸最高峰エベレスト(アジア大陸)、エルブルス山(ヨーロッパ大陸)、デナリ(北アメリカ大陸)、アコンカグア(南アメリカ大陸)、キリマンジャロ(アフリカ大陸)、コジオスコ(オーストラリア大陸)、ヴィンソン・マシフ(南極大陸) 世界七大聖山エベレスト(ネパール)、マチュピチュ(ペルー)、富士山(日本)、シナイ山(エジプト)、キリマンジャロ(タンザニア/ケニア)、セドナ(アメリカ)、シャスタ山(アメリカ) 世界七大禁断の地 - 観光旅行専門サイト「CNN Go」が2012年10月31日発表昆池岩(コンジアム)精神病院(韓国)、チェルノブイリ遊園地(ウクライナ)、セドレツ納骨堂(チェコ)、青木ヶ原樹海、軍艦島(日本)、ブードゥー崇拝市場(トーゴ)、人形島(メキシコ) 世界7大サイクリングルート - CNNが2014年5月選定日月潭(台湾)、モールズワース・ロード(ニュージーランド)、ブルージュ(ベルギー)、ツール・ド・ブルゴーニュ・ア・ヴェロ(フランス)、デスロード(ボリビア)、瀬戸内しまなみ海道(日本)
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歴史・地理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 09:18 UTC 版)
地名は白山神社から。縁起によれば、948年(天暦2年)に加賀一ノ宮の白山神社を分祀しこの地に祭った。徳川綱吉の信仰を受けた。 江戸時代まで武蔵国豊島郡小石川村、駒込村の各一部だった。1878年(明治11年)7月に郡区町村編制法施行により小石川区、本郷区にそれぞれ編入され、1889年(明治22年)5月市制施行で東京市に編入。1947年(昭和22年)に文京区の一部になる。1967年(昭和42年)1月、住居表示の実施に伴い、従来の丸山新町(現:白山1丁目)、指ヶ谷町(現:白山1・2・4・5丁目)、戸崎町(現:白山2丁目)、白山御殿町(現:白山3・4丁目)、白山前町(現:白山1・5丁目)、原町(現:白山3・4・5丁目)、などの合併により白山1 - 5丁目が成立した。 1丁目の円乗寺には八百屋お七(妙栄禅定尼)の墓があり、寺の門前、表通りに面してお七延命地蔵尊がある。2丁目の白山通り沿いは明治期は銘酒屋街、白山通りの西側低湿地(現在の白山1丁目の一部)は大正から昭和初期にかけては白山花街(三業地)として繁栄した。明治より盛り場だった指ヶ谷の料理屋店主・秋本鉄五郎が鳩山和夫(鳩山一郎の父、鳩山由紀夫の曾祖父)や地元選出の政治家の支援により警視庁に三業地指定の申請を行い、明治45年(1912年)に「白山三業地」が出来、関東大震災で被害が少なかったことから、大正中期以降、周辺一帯の人口急増を背景に隆盛した。樋口一葉の『にごりえ』は私娼窟だった白山の銘酒屋をモデルに書かれ、徳田秋声の『縮図』の主人公は白山花街の芸者である。関東大震災以後、小石川区に印刷工場が多く移転してきたことから労働者が集まり、昭和初期の白山御殿町には東京市最大の不良住宅地区(長屋が並ぶ細民居住地)が形成され、労働争議を描いた徳永直の『太陽のない街』は白山のそれら地域が舞台となっている。 5丁目の白山神社は、加賀(石川県)白山にある白山比咩神社(総本社)の分霊を勧請した古社。もと3丁目の地にあったが、1655年(明暦元年)白山御殿造営に際して現在地に移転。また本念寺には、江戸後期の文人大田南畝(蜀山人)の墓がある。 小石川植物園は東京大学大学院理学系研究科に付属する公開の植物園。5代将軍徳川綱吉が上野(群馬県)館林藩主だった頃の下屋敷(白山御殿)のあった所で、1719年(享保4年)雑司ヶ谷薬園がここに移された。青木昆陽が飢饉対策として甘藷(サツマイモ)の試作をしたり、庶民のための養生所(施療院)が経営されたことは有名。園内に甘藷先生の記念碑が立ち、また療生所の井戸が残存している。1877年(明治10年)、養生所は東京医学校(東大医学部の前身で、現存の校舎は国重文)となり、のちに東大付属の植物園となった。
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歴史地理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 10:06 UTC 版)
伝統的なスコットランドの地理では、ハイランド地方はダンバートンとストーンヘイヴン(英語版)を結ぶ直線的なハイランド境界断層(英語版)のスコットランド北西側を意味している。しかし、ネアンシャイア、マレー、バンフシャイア、アバディーンシャイアの平坦な沿海部は、ハイランド地域に特有な地理的ならびに文化的特徴がないとしてしばしば除外される。ヘブリディーズ諸島は通常ハイランド地方に含まれるが、ケイスネスの北東部もオークニー諸島、シェトランド諸島同様に、しばしばハイランドから除外される。ハイランド地方の定義はローランド地方とは言語と伝統において異なり、アングロ化後も数世紀に渡ってゲール語とその文化が保存されている点にある。このことは14世紀終わりごろにはハイランダーとローランダーの文化的隔絶として認識されるようになった。ディー川沿いにあるデネットの集落には、A39道路の脇に'You are now in the Highlands' (ハイランド地方入口) という石碑がある。但しこの東側にもハイランド地方の要素を有する地域がある。 スコッチ・ウイスキー産業はハイランド地方をずっと広く定義している。ハイランド・シングル・モルトはダンディーとグリーノックを結ぶ仮想的な境界の北側で生産されると定義されており、従ってアバディーンシャイアとアンガス全域が含まれている。 インヴァネスは伝統的にハイランド地方の中心地と見なされているが、アバディーンシャイア、アンガス、パースシャイア、スターリングシャイアのハイランド地域ではその度合いは低く、むしろアバディーンやダンディーをはじめ、旧スコットランド王国の首都が置かれたこともあるパースやスターリングといった都市を商業中心地として捉えている。ハイランド地方を広義に捉えればアバディーンこそハイランド地方最大の都市とも考えられるが、狭義のハイランド地方に典型的な、近年のゲール文化を欠いている。
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