富山県上新川郡時代
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1883年(明治16年)- 5月9日公布の太政官布告第15号の「今般富山佐賀宮崎三縣ヲ置ク」によって、本村該当区域は富山県下となる。 1884年(明治17年)-7月、富山県布達甲第75号により、戸長役場を針原中村に移転。内務省地理局の『地方行政区画便覧』には針原中村戸帳役場管轄地域に針原中村、金泉寺村、五本楓村、下飯野村、浜黒崎村、宮条村、宮成新村、中野新村、新保村、平榎村、針原横越村、道正村、一本木村、辻ヶ堂村、野中村、野田村、小西村、三上村、宮村、高島村、野中新村、高来村、針木村、日影村、町袋村、畠等村を掲げ、日方江村は大村戸長役場管轄地域となっている。 1887年(明治20年)- 6月、富山県達第539号の「本県々道左ノ通仮定ス」によって「従上新川郡水橋町経仝郡東岩瀬射水郡伏木港至射水郡氷見町」の所謂浜街道が指定された。 1889年(明治22年)- 4月1日、町村制施行に伴う富山県県令第46号により、上新川郡浜黒崎村、高来村、針原横越村、平榎村、野田村、日方江村、日影村、針木村が合併して浜黒崎村が発足して、富山県上新川郡浜黒崎村となり、村役場を大字浜黒崎に置く。同年、内務大臣伯爵松方正義より「明治二十二年五月二十四日稟請富山県上新川郡浜黒崎村条例第一号村長ヲ有給トスノ件」が許可され、8月22日初代村長宝田繁喜が任命された。 1890年(明治23年)- 初代村長宝田繁喜の死去に伴い、江上清右衛門が第二代村長となる。 1891年(明治24年)- 7月、常願寺川の氾濫によって当村も大被害を受ける。県内のべ家屋30戸流出、7596戸浸水、死者16人、田地1476町流失。ここに於て明治天皇は内務省雇工師ヨハニス・デ・レーケを招聘して、河川改修の業を企てられ、12月より工費総計105万円を以て着工する。 1893年(明治26年)- 新庄警察署岩瀬分署浜黒崎駐在所設置。1926年(大正15年)東岩瀬警察署浜黒崎駐在所となり、また1948年(昭和23年)富山市岩瀬警察署浜黒崎巡査駐在所となって、1968年(昭和43年)富山北警察署浜黒崎警察官駐在所となり現在に至る。2月、浜黒崎村平榎・西水橋町辻ケ堂間の常願寺橋梁完成。3月、常盤橋以北の常願寺川下流改修、一帯の築堤、及び河口における現白岩川との分離工事が完了。この時、上新川郡浜黒崎村内においては横越及び平榎域内の田圃が買上げられ、当該田地は常願寺川の川底に沈み、また西水橋町辻ヶ堂、新保、町村地域と分断された。 1894年(明治27年)- 7月、日清戦争勃発。8月、第3師団に召集令下る。当村内からは9名が陸軍兵士として出征した。 1895年(明治28年)- 浜黒崎村消防組結成。1936年(昭和14年)浜黒崎村警防団と改称。翌年の富山市編入により富山第二警防団第四分団に属し、1948年(昭和23年)岩瀬消防団第四分団と改称され、1960年(昭和35年)には富山市第二消防団第四分団に所属。のち1995年(平成7年)富山市消防団北部方面団浜黒崎分団となり、現在に至る。 1896年(明治29年)- 10月、「浜黒崎村有給村長条例廃止ノ」件を申請。1897年(明治30年)内務大臣より認可され、それまで第三代村長を有給村長として満期の任期4年を務めた長井清吉が同年2月24日、改めて浜黒崎村名誉村長に選ばれたが、彼はその後も満期と再選とを繰り返し八期も村長を務めた。その功績を讃えた石碑が1919年(大正8年)に「長井清吉翁頌徳碑」として建立された。彼は1923年(大正12年)5月に死去し、村民は村葬をもってその功に報いた。 1904年(明治37年)- 2月、日露戦争勃発。5月、第九師団に動員の令下り、6月、歩兵第35聯隊も出征する。当村内からは47名が出征し、戦死者11名、戦傷者は8名であった。 1905年(明治38年)- 1月、稲荷社の社殿を再建。 1906年(明治39年)- 12月、鉄道作業局より富山線敷設のため「富山県上新川郡長岡村ヨリ同県上新川郡浜黒崎村」に対する土地収用法適用を内閣に申請、西園寺公望内閣総理大臣はこれを認可する。 1907年(明治40年)- 1906年(明治39年)の勅令第96号の「府県ハ府県社、郡社又ハ市ハ郷社、市又ハ町村ハ村社ノ神饌幣帛ヲ供進スルコトヲ得」によって、常磐神社が幣帛料供進県指定村社となる。12月27日、諏訪社をはじめとする三社を稲荷社に合祀する。その諏訪社所在の針原横越村には、嘗て諏訪塚と称する塚があり、『三州地理志稿』に「諏訪塚 在針原郷横越村領、高二丈許、延十四間、袤八間許(宝永上記云、昔時米船為風所漂蕩、著于茲、即築塚、不知何故」という。 1908年(明治41年)- 2月、郵便局開設。『官報』7374号所収の逓信省告示第69号に「来二月一日ヨリ左記三等郵便局ヲ設置ス」として、浜黒崎郵便局が掲げられている。3月、住吉神社に諏訪社を合祀。4月、稲荷神社の社殿を新築。5月、浜黒崎村から東岩瀬町までの海岸地帯の古志の松原を保安林に編入。11月、逓信省告示第1045号による富直線の富山魚津間開業に伴い、当村内に当該路線竣工。12月、浜黒崎産業組合が浜黒崎に設置される。 1909年(明治42年)- 8月、常磐神社の社殿を新築する。10月、嘉仁親王(大正天皇)の行幸あり、浜黒崎村内を往復あらせられた。 1910年(明治43年)- 9月、天神社に神明社、熊野社を合祀。 1911年(明治44年)- 3月、常磐神社に悪王寺社を合祀。8月、天神社新築。 1914年(大正3年)- 8月、県内大洪水。死者194人、負傷者33人、家屋884戸流出。北陸本線常願寺川橋梁上を走行中の8月13日上野発富山行列車が立往生し、東岩瀬駅より応援列車を派遣するも転覆、重傷者1名。同月、対独宣戦。本村内からは1名が出征する。 1916年(大正5年)- 1911年(明治44年)12月に浜黒崎村長長井清吉等が県に陳情し、1914年(大正3年)県議会に於いて可決されていた常願寺川下流に於ける架橋が完了。今川橋と名付ける。 1919年(大正8年)- 11月、寶蔵寺に馬場はるの寄贈によって経堂を新築。 1920年(大正9年)- 了照寺改築。松本清吉が第四代村長に就任。4月、富山県告示第122号の「道路法ニ依リ本県内府県道ノ路線ヲ左ノ通認定ス」によって、「西水橋、東岩瀬線」(上新川郡浜黒崎経由)が指定される。 1921年(大正10年)- 海水浴場楽天閣開業。同年8月、三好学博士が史蹟名勝天然紀念物調査会委員として古志の松原を視察。なお、当該調査会の報告書たる『史蹟名勝天然紀念物調査報告第三十五号』は「樹幹ノ長大ナルモノ少カラズ幹囲五尺ヨリ一丈九尺ニ達スルモノアリ(中略)現ニ保護林ト為レリ風致上ヨリ保存スルヲ要ス」として、天然紀念物に指定するに相応と認めている。 1922年(大正11年)- 泉福寺が現在地に移転。7月、日本製薬株式会社設置、資本金2万円を以て泉福寺を借用し開業される。同月、湯川谷方面に於いて河流崩壊して土砂により堤防決潰、常西用水路は壊滅する。上新川郡浜黒崎村に於いては平榎附近に於ける堤防決潰、横越排水路の麻痺等の被害を受けた。 1923年(大正12年)- 第四代村長松本清吉の任期満了により、第五代村長として吉田久三が就任。同年、先年7月の水害によって麻痺していた横越用水路が、半田又兵衛によって復元される。4月、富山県告示第140号の「府県道路線左ノ通大正十二年四月一日認定セリ」によって、「浜黒崎、新庄線」が指定される。 1926年(大正15年)- 7月、浜黒崎海水浴場が人気を集めていたため、かねて金澤運輸局に出願していた北陸本線の臨時停車場設置が認可され、浜黒崎仮停車場を開設。『官報』所収の鉄道省告示第106号に「北陸本線東岩瀬水橋間ニ左ノ停車場ヲ設置シ毎年必要ノ時期ニ限リ旅客、手荷物及旅客附随小荷物ノ取扱ヲ為ス」として、富山県上新川郡浜黒崎村大字悪地にこれを設置するという記述がある。 1928年(昭和2年)- 寶蔵寺の御堂を再建。 1929年(昭和3年)- 6月、忠魂碑完成、東郷平八郎元帥の揮毫である。 1930年(昭和5年)- 7月、当村大字高来に富山常設競馬場を設置。 1931年(昭和6年)- 7月、浜黒崎村軍人分会が海浜テント村を設置、現在の浜黒崎キャンプ場となる。10月、神明社に日影の八幡社及び針木の諏訪社を合祀。 1932年(昭和7年)- 第六代村長に長井光雄が就任。1940年(昭和15年)の富山市編入までの2期8年間を務め、浜黒崎村最後の村長となる。4月、満洲事変以来の愛国的風潮の高揚により、県民の自主的募金によって製作された「立山号」が浜黒崎村に着陸。これに伴い同年7月、南弘逓信大臣が飛行場候補地として浜黒崎競馬場の視察を行うが、同年11月誘致合戦の末、飛行場建設地は婦負郡倉垣村に決定した。 1933年(昭和8年)- 5月、上新川郡奥田村より富山県立樹徳学園(現:富山県立富山学園)を現在地である浜黒崎村日影に移転。11月、長崎乗合自動車による富山駅より浜黒崎に至るバス路線(綾田線)が開始。12月、逓信省告示第2741号により浜黒崎郵便局に電話通話事務及び交換業務を開始。 1934年(昭和9年)- 帝国美術院長正木直彦が浜黒崎海岸一帯の松原を、「古志の松原」と命名し、同年11月紀念碑が建立される。同年7月、豪雨による増水で今川橋流出。 1936年(昭和11年)- 今川橋竣工。木桁であった。2月、二・二六事件起る。鎮圧に当った近衛師団内に一名当村出身者がいた。11月、浜黒崎産業組合を浜黒崎信用購買販売利用組合と改称し移転。 1937年(昭和12年)- 支那事変勃発。満州事変以来、1941年(昭和16年)12月の大東亜戦争勃発まで本村からは46名が出征し内6名が戦死。 1938年(昭和13年)- 12月、初めて浜黒崎村の富山市統合に係る幹事会を行う。爾来、昭和14年7月、8月、昭和15年1月、5月の幹事会を経るうちに、各村に於いて富山市への編入を希望する声が広がったという。 1939年(昭和14年)- 横越の海岸に30反歩の塩田をつくる。2月、浜黒崎松並木が史蹟名勝天然紀念物に指定される。 1940年(昭和15年)- 神明社新築。4月、富山常設競馬場を廃止。8月、浜黒崎村議会が全会一致で富山市への編入を可決する。同月、富山電気鉄道が滑川東岩瀬駅間を海岸沿いに結ぶ鉄道敷設免許申請書を鉄道省に提出、経過地は西加積、浜黒崎、大広田とされていた。9月、8月の富山県告示第590号により、浜黒崎村は富山市へ大広田村、東岩瀬町、針原村、豊田村、新庄町、広田村、島村、神明村と共に編入され、上新川郡より離脱し、浜黒崎村役場は富山市役所浜黒崎出張所に改組された。この時、当村域内の大字日影及び針木が合併され針日となり、且つ従来針原横越とも呼ばれていた横越を正式に横越と改めた。
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