外交交渉とは? わかりやすく解説

外交交渉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 17:18 UTC 版)

日ソ国境紛争」の記事における「外交交渉」の解説

一連の紛争のうち、外交的に解決されたものは少数であった例え1936年起きた152件の紛争に関して日本側から122件の抗議が行われたが、ソ連側から回答があったのは59件にとどまり遺体返還などの何らかの解決達したものは36件だった。 この間哈爾哈廟事件きっかけに、満州国モンゴルは独自の外交交渉を開始していた。1935年2月満州国軍興安警備軍司令官ウルジン・ガルマーエフ烏爾金将軍モンゴル側に書簡送って会合提案し同年6月3日から満州里興安北省長の凌陞ウルジン将軍モンゴルのサンブー(サンボウ国防大臣、ダンバ軍団長らが出席した最初会議開かれた満州里会議)。満州里会議1937年9月9日閉幕第5回会議まで行われたが、満州国代表団日系外交官要求した全権代表の首都常駐相互受け入れ・タムスク以東からの撤兵対しモンゴル側が難色示したこと、タウラン事件後に起きた凌陞内通容疑での処刑などで難航した紛争処理委員現地相互駐在などは妥結しけたものの、ソ連指示により1937年8月末から始まった粛清モンゴル関係者大半内通などの容疑処刑されたことで、最終的に打ち切りとなった

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外交交渉(1938-1939春)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 01:35 UTC 版)

冬戦争」の記事における「外交交渉(1938-1939春)」の解説

そこでソ連側は、1938年4月より、在ヘルシンキ大使館員ボリス・ヤルツェフ(NKVD職員)を通じてフィンランド政府非公式な交渉始めた今日伝えられているこの時の最終的なソ連側要求は、 レニングラード上の4つ島嶼割譲 上記代償として、ラドガ湖の北の東カレリアで、フィンランドとの係争地一部フィンランド割譲 というものであった。しかし、フィンランド側は応ぜず、この交渉は、1939年春に行き詰まってしまった。 1939年5月には、ソ連では比較西側協調路線であったマクシム・リトヴィノフ外務人民委員外相相当)を更迭されスターリンは、後任ヴャチェスラフ・モロトフ起用した

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外交交渉(1939年秋)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 01:35 UTC 版)

冬戦争」の記事における「外交交渉(1939年秋)」の解説

1939年8月23日ソ連ナチス・ドイツの間に相互不可侵条約調印されたが、この協定には、東欧を独ソの勢力圏分割する秘密議定書含まれており、この中でドイツフィンランドソ連勢力圏属することを認めたソ連ポーランド侵攻から、まもなくバルト三国外相は、モスクワ呼ばれ9月29日エストニア10月5日ラトビア10月10日にはリトアニアが、領土内にソ連軍基地設置認め自動延長相互援助条約強制的に結ばされた。 バルト三国との交渉より、やや遅れてソ連からフィンランド二国間懸案問題について協議したい申し入れがあり、直接交渉10月11日からモスクワ始まった。この時に提示されソ連側要求は、さらに厳しくなっており、おおよそ以下の条件であったレニングラード湾(フィンランド湾)の4つ島嶼割譲 カレリア地峡フィンランド国境を、ヴィープリの東30キロメートルまで西へ移動 カレリア地峡防衛線(マンネルハイム線)の防衛設備撤去 ハンコ半島30年間の租借および海軍基地設置と約5000人のソ連軍駐留 上記駐留ソ連軍交代為のフィンランド領内鉄道による通行権上の代償として、ソ連は、ラドガ湖の北の東カレリアフィンランド係争となっている領域大きく上回る地域フィンランド割譲 このソ連側要求については、フィンランド側では、2つ考えがあった。 ユホ・エルッコ外相らは、この要求最後という保証はなく、マンネルハイム線撤去してしまえば次の要求に対して軍事的に抵抗するすべもなくなる。よって、ソ連側要求には、応じられない一方パーシキヴィモスクワ派遣交渉団代表)、ベイノ・タンネル(蔵相社会民主党党首)、マンネルハイムらは、フィンランド軍現状欧州の情勢からしてソ連要求峻拒することは出来ないので、ソ連要求受け入れよ、という意見であった結局フィンランド政府は、レニングラード湾口島嶼割譲カレリア地峡国境線若干西へ移動させる譲歩案を示したが、ソ連側はそれには応ぜず交渉決裂し11月13日フィンランド交渉団は帰国したマンネルハイムは、交渉決裂後も政府再交渉求めていたが、11月26日には、とても現政権国防外交政策について責任持てないとして、国防評議会座長職の辞表政府提出した

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外交交渉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 01:07 UTC 版)

国際紛争の平和的解決」の記事における「外交交渉」の解説

詳細は「外交交渉」を参照 外交交渉は国際紛争当事者同士による話し合いであり、国際紛争の平和的解決手段形態としては最も基本的なのである国際紛争大部分は外交交渉によって解決されてきたといってもよい。単に交渉と言われることもある。外交交渉は二国間行われる場合もあれば多国間行われる場合もあるが、後述する非裁判的手続周旋仲介審査調停とは、第三国関与しないという点で異なっており、通常第三国関与する非裁判的手続先立って外交交渉が行われる。裁判的手続付託するためには外交交渉が尽くされていることが要件とする条約も多いが、そのような条約の規定ない場合には外交交渉が進行中であることが裁判的手続付託することを妨げるものではない。北海大陸棚事件ICJ判決漁業管轄権事件ICJ判決では、「誠実に交渉する義務」があることが示されている。こうしたICJ判決は、交渉の際に考慮すべき要因提示したうえで外交交渉を通じた紛争解決義務付けるものと言える。他の解決手続き比べて外交交渉は当事者自由な判断により国際紛争一挙に解決できるという利点がある。しかし一方で、外交交渉は当事国実力関係や交渉力反映され実力均衡している国同士では交渉決裂したり、弱小国に不利な解決強制されたりといった欠点もある。なによりも外交交渉によって国際紛争の平和的解決実現するか否かは、紛争当事者態度いかんによるものと言える

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外交交渉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)

ノモンハン事件」の記事における「外交交渉」の解説

一連の紛争のうち、外交的に解決されたものは少数であった例え1936年起きた152件の紛争に関して日本側から122件の抗議が行われたが、ソ連側から回答があったのは59件にとどまり遺体返還などの何らかの解決達したものは36件だった。 哈爾哈廟事件きっかけに、満州国モンゴルは独自の外交交渉を開始していた(実質的に日ソ交渉)。1935年2月満州国軍興安警備軍司令官ウルジン・ガルマーエフ烏爾金将軍モンゴル側に会合提案1935年6月3日から1937年9月9日まで満州里で5回の満州里会議開かれた満州全権代表の首都常駐相互受け入れ・タムスク以東からの撤兵要求したが、モンゴル側は難色示しタウラン事件後に起きた凌陞内通容疑での処刑などで難航した紛争処理委員現地相互駐在妥結しけたものの、ソ連指示により1937年8月末から始まった粛清モンゴル関係者大半内通容疑処刑され打ち切りとなったソ連側には単純な国境紛争で無い政略的意図があったとも言われる張鼓峰事件では、直前ゲンリフ・リュシコフ亡命事件があったため、ソ連側としては威信を示す必要があった。ノモンハン事件に関しては、日本局地戦一撃加えてソ連積極策を抑える狙い有していたとの見方がある。ソ連のスパイリヒャルト・ゾルゲは、日本陸軍板垣征四郎陸軍大臣急進派が、中国戦線縮小して対ソ戦の基地確保するため、中国東部モンゴル保持することを望んでいるなどの日本側の対ソ連方針に関する情報モスクワ送っており、ゾルゲ報告などの情報検討したソ連首脳部は、モンゴル東部国境での日本軍との軍事衝突不可避であるという結論達し1939年3月にはヨシフ・スターリン党大会で「我々はソ連国境接すすべての隣国平和的かつ親密友好関係維持することを支持する。」「我々は、侵略行為犠牲となって自国独立擁護のために戦っている諸国支持することを約する。我々は侵略者脅威恐れず、かつ、ソビエト国境不可侵性を穀指しようと試み戦争煽動者の攻撃に対して二倍打撃をもって、これにむくいる用意がある」という日本強く牽制する演説行い断固とした対応をすることを示唆したが、日本はこのソ連強硬な姿勢正確に認識することはなかった。

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外交交渉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 13:50 UTC 版)

D〜欧州蜃気楼〜」の記事における「外交交渉」の解説

外交交渉では、同盟締結同盟破棄停戦交渉他国援助宣戦布告コマンド実行できる同盟締結 友好度が高い交戦状態にない国家締結でき、締結した場合には宣戦布告コマンド使用できなくなり勝利ポイント上昇する。対CPUでは、友好度が概ね90上で成功しやすくなる同盟破棄 同盟締結している国家に対して行えコマンド同盟破棄をした場合には宣戦布告コマンド使用できるようになり、勝利ポイント低下する停戦交渉 交戦状態にある国家に対して行えコマンド停戦交渉成功した場合には敵国中立国変わり敵国存在していた自国ユニットがすべて消滅する友好度が95上で成功しやすくなる他国援助 交戦状態にない国家に対して行えコマンド実行する相手国家の総生産力及び友好度が上昇する宣戦布告 交戦状態及び同盟状態にない国家に対して行えコマンド実行する相手国家交戦状態になり、勝利ポイント低下する

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外交交渉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 01:21 UTC 版)

第二次エチオピア戦争」の記事における「外交交渉」の解説

ムッソリーニ政権下では当初エチオピアへの国民感情穏当な形で決着させる方針計画されていた。1928年8月イタリアエチオピア間で友好条約結ばれて国交回復したイタリアエチオピア友好条約 (1928年)(英語版))。ところが1930年11月エチオピア皇帝(ネグサ・ナガスト)を称するようになったハイレ・セラシエハイレ・セラシエ1世)はイタリア以外欧州列強との連携選択し始めたエチオピアハイレ・セラシエは「我が国は英伊両国によって密かに分割されており、イタリアは一番いところを獲得した」とイギリスイタリアへ敵意を口にしている。この状況植民地相エミーリオ・デ・ボーノはじめとする政界首脳らの間にエチオピア獲得論が持ち上がってきた。 1932年4月ムッソリーニファシスト大評議会においてエチオピア対す積極策を選択戦争前提英仏との関係改善乗り出したアフリカ大陸広大な植民地抱え地中海制海権握っているイギリスフランスの介入予想したからであるが、英仏国益侵害する意図がない以上は容易であると見ていた。エチオピア期待寄せた英仏主導国際連盟は「文明社会戦争」を止める為の組織であって文明社会による「蛮族への侵略」を阻止する組織ではなかった。英仏との意見調整最中イタリア植民地エチオピア国境地区であるワルワル(ウァルウァル)で小競り合い起きたワルワル事件)。 イタリア領ソマリランドエチオピア国境策定した条約では、ベナディール海岸から「21リーグ内陸平行した線とされていた。イタリア側はより大きくエチオピア領を侵食しようという意図から標準的なリーグではなく海事におけるリーグ解釈した1930年にはエチオピアオガデン地方オアシスであったワルワル要塞築き1932年にかけてイタリア領ソマリランドからの進出はますます顕著になり、明らかにエチオピア領内である場所にまで道路建設され始めた直接的な軍事衝突経緯ははっきりとしないが、こうした出来事背景ワルワル近辺にある幾つかの井戸巡って小競り合い起きた考えられている。戦闘イタリア植民地軍とソマリ系のアスカリ傭兵)に30数名損害出たが、エチオピア軍その3倍以上の100名が戦死した。これはイタリアにとって好機であり、元より侵攻賛成派多かった国内意見は完全に反エチオピア一色になった。

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外交交渉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:19 UTC 版)

金廠溝事件」の記事における「外交交渉」の解説

1月30日ソ連政府は、日本太田駐ソ大使に対して日本軍越境発砲があったとして抗議責任者処罰申し入れた。これに対し日本側は、2月2日満州国外交部の名で在ハルビンソ連総領事対しソ連兵不法発砲があったとして抗議をするとともに脱走兵引渡し求めた日本側は、脱走事件ソ連側扇動工作よるものだとして非難した日ソ間の外交交渉の結果現地調査国境線測量目的とした合同委員会設置することで合意したが、同年3月25日長嶺事件4月9日には綏芬河東方事件相次いで国境紛争発生したために合同委員会設置実現しなかった。

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