プロレスラーとしての経歴とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > プロレスラーとしての経歴の意味・解説 

プロレスラーとしての経歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 16:08 UTC 版)

ザ・グレート・サスケ」の記事における「プロレスラーとしての経歴」の解説

新日本プロレス学校修業したが、新日本プロテストには不合格その後本名・村政徳1990年3月1日ユニバーサル・プロレスリングから後楽園ホールモンキーマジック・ワキタ戦でデビューその後リングネームMASAみちのくとする。 デビュー当時素顔で、縞の合羽三度笠被り入場し上半身裸でロングタイツ着用するといった現在とは違うスタイルだったが(海外遠征する直前には、入場コスチュームを、白い学ラン応援団スタイル変更している)、その後メキシコ遠征した際に覆面レスラーとなったリングネームはニンジャ・サスケ、覆面コスチュームデザインは現在とほぼ同じだが、頭にちょんまげ付いていた。 1992年3月、謎のマスクマン“スペル・ニーニョ”として一時帰国シリーズ最終戦巌鉄魁(現・ディック東郷)に『マスク取れ! お前みちのくだろう!』と暴露されマスク脱ぎMASAみちのくであることをカミングアウトした。その後再びメキシコ遠征していたが、8月帰国機にザ・グレート・サスケ名乗る10月ユニバーサル後楽園大会でブルドッグKT(現:外道)と初のメイン張り勝利試合後にマイク東北六県にプロレス根付かせることを目標とした地域密着型プロレス団体みちのくプロレス」の設立宣言退団背景にはユニバーサルからまったギャラ支払われなかったという事情があり、ユニバーサルの代表である新間寿恒には「ユニバーサル東北支部として地方大会プロモート目的としたい」という話をしていたが、実質的に採算見込んだ動きであったみちのくプロレス11月岩手産業文化センターでのプレ旗揚げ戦を経て1993年3月16日岩手矢巾町体育館旗揚げ戦を行う。旗揚げ当初スペル・デルフィン率いデルフィン軍団との対戦主な対戦カードであった1993年7月岩手・マッハランドで団体初のビッグマッチを行いサスケ引退をかけてスペル・デルフィン対戦勝利し興行的に成功を収める1994年新日本プロレス主催行われた第1回スーパーJカップ」に出場当時30団体以上あったインディー団体うちのひとつでしかなく、試合東北限定していた「みちのくプロレス」での活動中心だったサスケ多くプロレスファンにまだその存在知られていなかったが、2回戦当時新日本プロレス所属だったエル・サムライ勝利し、続く準決勝では獣神サンダー・ライガーからフォールを奪う。決勝戦ではワイルド・ペガサス敗れたものの、当時ジュニア頂点立っていたライガーに勝ち、準優勝したサスケ一躍全国区人気を得、トップレスラーとなった。このスーパーJカップテレビ朝日系列ワールドプロレスリング」内で全国中継されたこともあって、サスケ、そしてみちのくプロレス存在全国プロレスファン知らしめる大きな契機となった4月29日東京・大田区体育館にてこの大会で『"真"八十八札所』として新崎人生対戦みちのくプロレス旗揚げ以来後輩選手シングルマッチ初めてのフォール負け喫する7月WAR両国大会でウルティモ・ドラゴン対戦当時両者ともに入場テーマ曲ルイス・ミゲルの「セパラドス」を使用していたが敗れたサスケはこの試合最後に「セパラドス」の使用放棄した以降は「みちのくプロレステーマ」を入場曲使用する10月30日には翌年5月での引退発表していた大仁田厚岩手滝沢村電流爆破デスマッチ対戦大仁田FMW以外の団体で、また東京・大阪など首都圏以外の地域電流爆破デスマッチ行ったのはこれが初めてのことであった。なおこの試合敗れたサスケ介抱したのは当時リング上で敵対関係にあった新崎人生であった(この2,3ヶ月前から人生は後の海援隊メンバー絶縁宣言されサスケ駆け寄るサスケ試合会場後方から観戦するなど伏線な行動は見せていた。)。 1995年7月、自らが提唱プロデュースした覆面ワールドリーグ戦(後に「ふく面ワールドリーグ戦」に改称)」第一回大会開催決勝戦ドス・カラス敗れる。この試合ドス放った場外へのパワーボムサスケ失神。この試合以降サスケドスの間に因縁生まれ、現在まで引き継がれている。 1996年4月29日新日本プロレス東京ドーム大会にてライガーを再び破ってIWGPジュニアヘビー級王座獲得以後5回の防衛成功した。なお、2回目防衛戦となった7月獅龍戦はみちのくプロレス矢巾大会で行われたIWGP選手権みちのくプロレス所属選手同士争われ試合はこの一試合のみである。 8月新日本プロレス両国大会にて行われた団体代表によるジュニア8冠統一トーナメント (J-CROWN) において、決勝ウルティモ・ドラゴン破って初代ジュニア8冠王者輝き日本ジュニアマット界の頂点極めた。しかしこの試合場外攻撃(鉄柱越えトペ・コンヒーロ仕掛けたが、膝の負傷で足の踏ん張り利かず不完全な体勢飛んだ為、結果的に鉄柱越え浴びせ蹴りの様な形になり、自身後頭部から床に転落)を仕掛けた際、頭蓋骨骨折重傷負い長期欠場追い込まれる10月10日団体初の両国国技館大会で強行復帰初代タイガーマスクミル・マスカラスタッグ組みダイナマイト・キッドドス・カラス小林邦昭組と戦った1997年WWF(現:WWE)からサスケ参戦オファーが届く。しかし交渉結果白紙に終わる。理由団体トップであり最大スターであるサスケ不在にする間のみちのくプロレスへの補償問題と言われている。サスケとの交渉不調に終わったWWFTAKAみちのく契約する両者1997年10月行われた二度目両国大会メイン闘い勝ったサスケ敗れたTAKAが「サスケみちのく潰すなよ」とヒールとして異例マイクを残す。 1998年怪我によりたびたび欠場繰り返していたサスケ経営難理由団体の活動休止発表する。しかし、スペル・デルフィン選手会がこれに反発選手会側は主催興業という形でシリーズを行う。サスケデルフィン団体運営めぐって対立以降サスケは青マスクの「SASUKEとなってヒール転向折原昌夫扮するサスケ・ザ・グレート、小野武志クレイジーMAX望月成晃茂木正淑らとルード軍「SASUKE組」を結成しデルフィン率いる、みちのく正規軍抗争展開する。だがここでSASUKEデルフィンプライベートな部分観客の前で暴露するなど暴走繰り返しデルフィン1999年1月みちのくプロレス離脱発表多く中堅若手選手デルフィン同調し追随していったため、みちのくプロレス存亡の危機見舞われる。この一件機にSASUKE改心して元のザ・グレート・サスケ戻った1999年2月闘龍門JAPAN横浜大会での1DAYトーナメント決勝マグナムTOKYO勝利しNWA世界ミドル級王座獲得。このベルト2003年5月ウルティモ・ドラゴン敗れるまで28回の防衛成功した4月ライガー組んでIWGPジュニアタッグ王座獲得初防衛戦大谷晋二郎高岩竜一組に敗れる。 7月第2回ふく面ワールドリーグ出場優勝したタイガーマスク準優勝ドス・カラス予選シード)に続く3位に終わる。 2000年みちのくプロレス主催開催され第三回スーパーJカップ出場1回戦でかつての獅龍WCW帰りカズ・ハヤシ対戦し勝利を収める2回戦佐野なおき敗れる。 10月プロレスリング・ノア丸藤正道対戦勝利する大晦日には「猪木ボンバイエ」に参戦松井大二郎高田道場)と組んで宇野薫小路晃組と対戦した2001年この年からみちのくプロレス復帰したディック東郷率いFEC抗争を展開。 2月FMW後楽園ホール大会にて互いに相手を裸にした方が勝利となる試合形式「ネイキッド・マッチ」で黒田哲広と戦うが、あまりの下品さ大顰蹙を買い、週刊プロレス試合掲載拒否した2002年5月WEW川崎球場大会出場大仁田厚組んで橋本真也大谷晋二郎組と対戦2003年3月岩手県議会議員選挙盛岡選挙区出馬表明トップ当選する当選後は、議会での覆面着用巡って全国レベル話題になった同年5月議員活動理由みちのくプロレス社長辞任することを発表新崎人生社長譲り自身会長職となる。 8月、「第3回ふく面ワールドリーグ戦」に参加する死国衛門三郎戦で負傷以後リーグ戦欠場する9月安比高原にて大仁田厚二度目電流爆破デスマッチを行う。この試合場外転落した際、爆風モロに浴びて肩に穴が開くという大怪我負いながら大仁田勝利。なお、この当時大仁田自民党所属国会議員であり、この試合は「史上初の議員レスラー対決」として宣伝された。 11月2日有明コロシアム行われたみちのくプロレス創立10周年記念大会メモリー」でスペル・デルフィン対戦サスケ離脱以降デルフィンのことを「絶対に許さない」と公言しており、当初この対戦カードにも強い難色示していたが大会直前仙台大会で新崎人生社長ファン説得を受け、受託した。試合デルフィン勝利したものの、両者緊張関係は解消されることなく終わった2004年3月アトランティス破り第三東北ジュニアヘビー王座に。翌年2月TAKAみちのく奪われるまで保持した同年からハッスル出場9月にはハッスルとのコラボレーション大会「ケッパレ1」を開催小川直也タッグ結成した2005年7月ディック東郷組んで第三東北タッグ選手権王者となった9月佐藤秀佐藤恵佐藤兄弟とニューセーラーボーイズを結成し、「キープオンジャーニー」を熱唱する12月後楽園大会で10タッグマッチ闘ったGamma場外自転車轢かれる。この試合が「宇宙大戦争」の契機になったと言われる2006年2月後楽園大会で佐藤兄弟対戦パートナー東郷)。ここからサスケ佐藤兄弟闘うたびにハチャメチャ試合繰り返すようになり、やがてそれは「宇宙大戦争」と呼ばれる特異なブランド昇華したネーミングの由来佐藤兄弟サスケについて「あいつは宇宙人だろ!!」と主張していたことによる)。これ以降サスケ佐藤兄弟試合サスケ不安定な脚立などに昇り落ちて自爆するなどの意味不明な内容名物となる。 11月岩手大会でこの年5月東北ジュニアヘビー王座になったスペル・デルフィン対戦しベルト奪回する。試合後、両者リング上で握手サスケ依然としてデルフィン許さない」と主張するものの、離脱以来続いてきた両者緊張状態一定の緩和見られた。 2007年3月岩手県知事選挙出馬表明。しかし選挙結果民主党推薦の前衆院議員達増拓也及ばず落選その後しばらくリング離れていたが、8月第4回ふく面ワールドリーグ戦にて復帰山籠り特訓行い復帰戦ではウルティモ・ドラゴン相手敗れたものの飛びまくるサスケ見せ付けたまた、ZERO1-MAXにも準レギュラー参戦し、かつての同胞である藤田ミノル抗争を展開。試合終了後サスケ藤田に手をさしのべ、それに藤田答えハッピーエンドになると思いきや藤田サスケ騙し変則DDT)により、サスケ騙されるといった内容名物化した12月には、その藤田ミノル扮するザ・グレート・フジタミノルとのタッグ佐藤兄弟との宇宙大戦争開戦。この試合初めて和使用される2008年折原昌夫率いメビウス主催興行第1回トーナメント戦にて初優勝を飾る。 12月みちのく後楽園大会にて、恒例となった宇宙大戦争」にて佐藤兄弟拉致されウルトラマンロビン救出するべく、サバイバル飛田とのタッグ結成。「宇宙大戦争最終決戦」と名付けられたこの試合サスケバットマン扮して登場するが、南野武にバイク轢かれるなど例年以上に散々な試合展開する2009年6月、「グレート・サスケデビュー20周年突入ツアー開幕戦後楽園大会でフジタ"Jr"ハヤト保持する東北ジュニアヘビー選手権挑戦する敗退8月には2年連続で「鉄人」に出場。このシリーズよりレスラーランディ "ザ・ラム" ロビンソンのオマージュキャラクターを演じランディコスチューム試合出場するうになる上半身裸で試合をするのはサスケ名義では初めて)。映画ランディ食品スーパーで働くのと同様にみちのくに自分居場所が無い」として盛岡市内の中華料理店アルバイト始めた8月31日みちのくプロレス社長に復帰12月には年末風物詩となった宇宙大戦争最終決戦ウルトラマンロビン救出大作戦〜」に獣神サンダー・ライガー組んで出場佐藤兄弟連れてきた「鉄腕くん」に苦しみながらも勝利2010年6月デビュー20周年記念興行映画アンヴィル』に影響受けたコスチューム登場試合でもディック東郷パートナーTAKAみちのくFUNAKIの「夢狩人」に勝利した11月7日岩手県営体育館行われたザ・グレート・サスケ20周年記念試合東北編最終章」で拳王破り第13代東北ジュニアヘビー級王座返り咲いた12月16日後楽園ホールにてリング解体マッチとして行われた宇宙大戦争ホント最終決戦〜ザ・音楽ロックウォーズ」ではKen45゜リッキー・フジ組んで佐藤兄弟野橋太郎(野はこの試合宇宙人として戦った)組に勝利試合後、「クレイジークルー」と称したロックバンド編成しホール北側ステージで熱唱した。 2011年5月8日岩手矢巾町総合体育館行われた東北ジュニアヘビー級王座初防衛戦日向寺塁敗れベルトを失う。なお、この防衛戦当初3月12日同所にて予定されていたが、前日3月11日)に発生した東北地方太平洋沖地震東日本大震災)の影響を受け中止5月延期となっていた。 6月新日本プロレス開催されたジュニアリーグ戦「BEST OF THE SUPER Jr.XVIII」に初出場勝敗以上にその内容注目された。9選手エントリーされたBブロック得点10(5勝3敗)を挙げ同率2位成績を残すが、「同点の場合直接対決勝者決勝リーグ進出」というルールのため決勝トーナメント進出はならなかった(決勝進出田口隆祐)。 7月3日ユニオンプロレス新木場大会でリッキー・フジとのタッグ高木三四郎澤宗紀組から大中統一中原タッグ選手権奪取。しかし7月24日DDT両国国技館大会におけるダークマッチ国技館全域使用したエニウェアフォール形式)で奪回された。 年末恒例宇宙大戦争では大仁田厚タッグ結成佐藤兄弟対戦敗者追放マッチというルール勝利を収め佐藤兄弟岩手県追放とする(以後佐藤兄弟みちのくマットでも「バラモン兄弟」を名乗って参戦)。 2012年8月第5回ふく面ワールドリーグ戦エントリー一回戦でビジャーノIV二回戦ヒート準決勝ウルティモ・ドラゴン決勝戦獣神サンダー・ライガー勝利し第5回にして悲願の初優勝を飾る。 11月全日本プロレスの「世界最強タッグ決定リーグ戦」にKENSO組んでエントリーするも、11月20日愛媛大会で試合中に左肩甲骨折し以後長期欠場となる。しかし年末宇宙大戦争だけは左腕を吊った状態で参加しパートナーのヤッペーマン1号、ヤッペーマン2号、ヤッペーマン3号超人関本奮闘にも支えられ勝利を奪った2013年11月4日盛岡行われたみちのくプロレス20周年記念大会で1年ぶりの復帰戦を行う。新崎人生組み拳王フジタJrハヤト組と戦った。この試合ファン投票によって決定された。 2016年1月1日地球防衛軍結成に関しては 「そうですね、やはり宇宙大戦争10年まずは一区切りつきました。もう私自身率先して他の星に行って闘うという事も、ちょっとお休みしようかなと。もう一度地球上で闘い言ってみれば地上戦地上戦をね、もう一度なおして見よう思います今年の私のテーマ地上戦地球上で地球守ります。はい!」 ●敵は一体何になるんでしょう? 「ええ、もちろん!邪悪な異星人です!」2016年1月14日 ザ・グレート・サスケ 12月宇宙大戦争では男性ストリッパー主人公にした映画マジック・マイク』の影響を受け、パートナーたちと共にリング上でセクシーなダンス披露。しかしこの試合宇宙大戦争開戦以来初めバラモン兄弟敗れ、「来年からの地球の危機に対して力を合わせよう」と、バラモン兄弟合体要求2014年からは新ユニットムー太陽」を結成し布教活動称し試合行っている。

※この「プロレスラーとしての経歴」の解説は、「ザ・グレート・サスケ」の解説の一部です。
「プロレスラーとしての経歴」を含む「ザ・グレート・サスケ」の記事については、「ザ・グレート・サスケ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「プロレスラーとしての経歴」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「プロレスラーとしての経歴」の関連用語

プロレスラーとしての経歴のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



プロレスラーとしての経歴のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのザ・グレート・サスケ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS