プロレスラーとの人間関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:57 UTC 版)
「ジャイアント馬場」の記事における「プロレスラーとの人間関係」の解説
力道山からは特別可愛がられた。これは馬場に「元巨人軍投手」という肩書きがあったことと、2mを超える身長に力道山が惚れ込んでおり「これはワシをも凌ぐスターになるかもしれん」と思ったからである。アントニオ猪木はいわば叩き上げであり、また従順でなかった猪木を力道山はあまり好んでいなかったとされ、ちょっとしたミスで殴られたり蹴られたりが当たり前だった中、馬場は一度も殴られたことが無いというエピソードがある。また、馬場は入門当初から付き人を経験しておらず、すぐにアメリカ遠征に出され、給料も出ていたなど完全な特別扱いであった。 馬場自身が「私は力道山に一度も殴られたことが無い」と発言していたが、それは理不尽な暴力を受けたことは無いという意味で、シゴキ自体は過酷なものであった。自伝によると力道山から空手チョップの手ほどきを受けた際、皮膚を鍛えるために農具を変形させたもので手を何度も思い切り叩かれたという。叩かれている間力道山に「どうだ痛いか」と聞かれたが、「痛くないと言えば『じゃあ痛くしてやろう』と余計に力を加えるし、痛いと言えば『そのうち痛くなくなる』と言って叩くのをやめないので、黙って耐えるしかなかった」と述懐している。また野球上がりで腕が細かったため(当時のピッチャーは腕を痛めるといけないという理由で腕立て伏せもしなかった)、巡業で津軽海峡を渡る際、青函連絡船で力道山の指示でいつも到着するまでバーベルを持たされていた。馬場は北海道へ行くたびにあのときのことを思い出すと語っていた。 力道山には弟子に酒の一気飲みを強要する癖もあり、馬場も何度も大量に飲まされたという(馬場自身は酒嫌いだった)。1963年夏、札幌市での試合を終えた馬場は力道山らとの酒宴に付き合わされたが、行き違いから機嫌を損ねた力道山を若手だった馬場がなだめることとなり、力道山に「ジョニ黒」ボトル一本を一気飲みさせられ、目の前に「火花が散った」という。一息ついた馬場が水を飲もうとしたところ、チェイサーに差し出されたのは「ビール」だったという。 後に馬場自身は力道山のことを「人間として、何一つ良いところのない人でした」と語っており、特別扱いを受けながらも辟易していた心中を吐露している。 新日本を旗揚げしてからの猪木の挑発には「何度もはらわたが煮えくり返る思いがした」と自伝に書いているが、猪木には基本的に「同じ釜の飯を食った男」という気持ちがあり、憎しみの感情はみられなかった(馬場が後期の猪木に一貫して持っていた感情は不信感だった)。猪木も同様で、表向きの発言と実際に馬場に会うときの態度はまったくと言っていいほど違っていた。なお、猪木とはまったく疎遠だったというわけでは無く、年に数回会っては話をしていたという。猪木の引退試合の際、馬場はねぎらいの電報を送った。しかしそれは結局読み上げられることはなかった。 新日本プロレス陣営の中で坂口征二については馬場も非常に信頼しており個人的に交流もあった。特に1990年2月新日本のドーム大会では、馬場は坂口の依頼に応え団体の壁を超え全日本の選手を貸し出した。また馬場が死去した際には坂口は真っ先に駆けつけた。 本当に馬場を憎んでいたのは上田馬之助で、日本プロレスを退団した馬場と、力道山の作り上げた日本プロレスに最後までこだわっていた上田の感情的なしこりは、日プロ崩壊後大木金太郎らと全日本に移籍する際、上田が仲介者の対等合併の言葉を本気にした(実際は吸収合併だった)ことと、馬場が大木・上田ら移籍組を冷遇した(馬場曰く「全日本創立に奔走した仲間と、新日本とうちを両天秤に掛けたような元同僚を同格に扱うことは出来ない」という理由)ことで決定的になったという。「猪木追放事件」も、一般には「猪木・馬場らによるクーデター計画の存在を上田が上層部に密告した」ことが原因とされているが、上田は近年になって「実は最初に密告したのは馬場である」と語っており(詳しくは上田馬之助の項を参照のこと)、このことも上田と馬場の関係悪化に大きく影響していたと思われる。ただ、竹内宏介によると「上田が『猪木が会社乗っ取りと馬場の追い落としを企んでいる』と馬場に話して、それを馬場が上層部に話した」という。ユセフ・トルコも自書での猪木の弟、猪木啓介との対談で「いや、あれを上層部に密告したのは間違いなく上田だよ」と語っており、元日本プロレスの経理部長である三澤正和も「実際の会議で猪木さんが『馬之助、テメェ、よくもばらしやがったな』と言っていた」と証言しており真相は依然謎のままである。また、越中詩郎も馬場に対して良い感情を持っておらず、新日本プロレスに移籍した理由も馬場に対しての不信感にあると発言し(越中詩郎#新日本プロレス移籍の経緯参照のこと)、ザ・グレート・カブキやタイガー戸口もプロレスラーとしての馬場は高く評価しているものの、プロモーターとしての馬場に対しては、海外で活動してた頃に比べ極端に悪くなった金銭面等での扱いに不満を持ち、最終的に他団体へ移籍する要因となっているなど、馬場に対して不信感や嫌悪感を持つプロレスラーも何人か存在している。 プロレスのプロモーター(興行主)としても、NWAに加盟し第一副会長までのし上がったことで世界的に有名であった。アメリカ武者修行時代にプロモーターの指示に絶対に逆らわなかったことや、馬場自身の人柄を買われたことで、全日本旗揚げ時にNWAのプロモーターだったドリー・ファンク・シニアや、当時ニューヨークの看板選手だったブルーノ・サンマルチノが協力を買って出た。そのため、国際プロレスや新日本プロレスが日本プロレスにより外人レスラーの招聘を妨害されたのに対し、旗揚げ当初から招聘ルートを確立し、豪華なレスラー陣を招聘している。そのような理由から、アメリカのプロモーターに対しても影響力が強く、渕正信がアメリカで武者修行していたさい、どのエリアに行っても現地のプロモーターが「こいつはババのところのボーイだから変なことをするな」とレスラーたちに警告していたので、嫌がらせやシュートを仕掛けられたことは無かったと回想している。 選手との約束を必ず守り、大物選手はファーストクラスで来日させ、遠征先でも高級ホテルを準備するなど丁重に扱ったことで、外国人レスラー間の評判が高かった。また移動・宿泊は選手任せであるアメリカマット界とは正反対に、それらもすべて全日本・馬場が責任を持ったことも、外国人レスラーの評判を高めた。アメリカ本土のプロモーターに対しても、全日本派遣をレスラーとの交渉道具に使うことができ、また選手を全日本に派遣することで参戦レスラーの顔ぶれのリフレッシュを行うことを容易にするというメリットをもたらした。NWA副会長に登りつめるほど馬場がアメリカマット界における存在感を高めたのは、こういった要因も関係している。外国人選手を丁重に扱っていたとはいえ、ズル休みなどは大物でも絶対できなかったという。また力が衰えてきてもかつての大物レスラーはそれなりのポジションで来日させ続け、ブッチャーやドリーなどは、1990年代も回数は減ったものの来日し続けている。 NWA副会長であり、WWWF(後のWWE)発足の頃すでに大スターだったことから、ビンス・マクマホン・ジュニアも、馬場に対しては頭が上がらなかった。マクマホンがWWF代表として日本マット界を傘下に治めようとしていたとき、馬場はそれを制し、「日米レスリングサミット」共催を実現させることでWWFの単独行動を抑えた。後に馬場は「マディソン・スクエア・ガーデンで世界王座に挑戦したときにほんの子供だったこんな小僧に翻弄されてたまるか」と述懐している。 付き人だった大仁田厚を特別可愛がり、一時は本気で養子縁組を考えたこともある。大仁田が馬場の付き人をしていた頃、興行に馬場の赤いパンツを持って行くのを忘れたことがあった。困った大仁田は、同じ会場に赤いパンツを履く身長2mの外国人選手がいたため、この選手の控室に忍び込んでパンツを盗んだ。馬場はそのパンツで試合に勝ったものの何かおかしいと気づき、「このパンツ俺の?」と大仁田に聞いた。大仁田は「外国人選手から借りてきました」とウソをついたが、馬場はこの嘘を即座に見破り「馬鹿野郎、貸すわけないだろ!」と怒鳴って張り手タイプの空手チョップを食らわせた。そして洗濯して返すようにと命じ、3日間口をきかなかったという。その後、大仁田は今度は馬場のスーツのズボンを忘れたが、素直に謝ったところ、馬場は何も言わず巡業中の約1か月間、スーツの上着に赤ジャージのズボン姿で通した。大仁田はこの一件を通じ「馬場さんから人間として一番大切なことを学んだ」と語っている。 1987年11月、南アフリカ共和国のプロレス興行でブックメーカーを務めていたタイガー・ジェット・シンから選手派遣要請を受け、馬場はそれに応えて全日本から所属選手のハル薗田を派遣することにした。結婚したばかりのハル薗田にポケットマネーを提供して、試合後に新妻と新婚旅行できる様にと取り計らった。ところが、パリ経由で南アフリカに向かう予定の筈が、南アフリカのプロモーターの勘違いで台北経由になり、その台北から南アフリカに向かう飛行機がインド洋上で南アフリカ航空295便墜落事故を起こし、薗田夫妻は事故死することとなった。馬場は生涯、薗田の派遣と新婚旅行を奨めたことを悔やんでいたという。リング上の追悼イベントで弔辞を読み、号泣した。 世界中のプロレス界を股にかけた大巨人・アンドレ・ザ・ジャイアントが最後に選んだリングは、天龍一派の大量離脱で黄昏時を迎えていた馬場の全日本だった。二人がコンビを組んでいた頃「馬場とアンドレが天の川で流しソーメンを食べていた」などという伝説が流れたこともある。実際二人は大変仲がよく、話し相手に困らないようにと、アンドレの若手時代からの親友であるマイティ井上を話し相手として同じバスに乗車させ、アンドレ参戦時の外国人用移動バスの冷蔵庫には、アンドレ好みのワインが常に置かれていたという。
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