デーモン・ヒル(イギリス)
BRMとロータスで2度も世界王座についたグラハム・ヒルの息子。2輪でモータースポーツを始め、23歳で4輪に転向。フォーミュラ・フォード、F3、F3000と、苦労しながら時間をかけてステップアップ。1992年にブラバムでF1デビュー。翌93年にウィリアムズに移籍し、A プロストやA.セナのナンバー2を務め、セナが他界したあとエースとなった。J.ビルヌーブをチームメイトに迎えた96年、全16戦のすべてをフロントローからスタート、うちポールは9回、8勝をあげるという堂々たるパフォーマンスで念願のワールドタイトルを奪った。だが97年は追い出されるようにアロウズに移籍。98~99年はジョーダンをドライブ。血統から予想された以上に苦労の連続だった。
デイモン・ヒル
(デーモン・ヒル から転送)
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デイモン・ヒル(デーモン・ヒル、Damon Graham Devereux Hill、OBE、1960年9月17日 - )は、イングランド出身の元レーシングドライバー。
- ^ 旧姓・シャブルック(Shubrook)。1954年のヨーロッパボート選手権でイギリス代表チームの一員として銅メダルを獲得[1]。1955年にグラハム・ヒルと結婚。
- ^ グラハム・ヒルは1958年にF1デビュー、1962年に自身初のF1チャンピオンタイトルを獲得した。
- ^ ヒルは自伝の中で自らの子供時代をとても幸福なものであったと評し、自らの人生最初の10年間である1960年代は父グラハムがF1で2度の王座、インディ500優勝、モナコ5勝を獲得した時期であったため、「ある種のカーニバル」「グラハム・ヒルをテーマにした世界」の中で育ったと語っている[4]。
- ^ イギリスの空域を飛行するために必要な免許のひとつ(IMC Rating)が更新されていなかった[8][7]ことに加えて、飛行機(1968年製造・パイパーPA-23アステカ)の耐空証明も切れており[7]、飛行機の機体記号は事故前年の1974年時点で取り消されていた[9][10]。このふたつの不備により保険金は支払われなかった[7]。
- ^ プロストのチームメイトにミカ・ハッキネンと契約したが、フランク・ウィリアムズは1993年シーズンのエントリーを忘れていたため、ウィリアムズがハッキネンを参戦させるには他の全チームの承認が必要となった。しかしハッキネンを取り返したかったピーター・コリンズ(ロータス)が認めなかったため、ウィリアムズはハッキネンとの契約を断念した[14]という説と、ロータス側は「93年もハッキネンは残留」と発表したが、それは口約束という情報を掴んだウィリアムズがロータスと交渉。コリンズは金銭的条件(6億円)次第では応じようと目論んでいたが、両者は決裂、結局1992年の12月14日にデイモンとの契約を発表した[15]という説がある。
- ^ フレンツェンは1998年でウィリアムズを離脱したため、契約した前後には在籍していたものの、供給が開始された年には全く関係ない状態であった。また、彼は1999年にジョーダンでのチームメイトとしてヒルを圧倒したが、両者の関係は良好であった。
- ^ 当時、ヤマハのプロジェクトリーダーだった木村隆昭は「107%圏内に入れたのは全くデイモンの技量のおかげです」と語っている。また、チームメイトのペドロ・ディニスは107%ルールをクリア出来ず、フリー走行でのタイムを考慮した上で決勝出走が認められた[33]。
- ^ 2016年にヒル親子に続く2例目の親子でのF1ワールドチャンピオンとなったニコ・ロズベルグ(父・ケケ・ロズベルグ)は、この年の最終戦終了直後に31歳で引退を表明している。
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- ^ ブラバム急転ミドルブリッジGr.がオーナーに グランプリ・エクスプレス 1990ブラジル号 30頁 1990年4月14日発行
- ^ ウイリアムズがヒルとテスト契約か 他にも候補としてD.ブラバム、E.アーバイン、P.マッカーシー、J.ベイリー、A.G.スコットらの中から本命はデーモン・ヒルのようだ。昨年は国際F3000に参戦していた。 GPX Off-Season Special 山海堂 1991年2月8日発行 30頁
- ^ 『F1速報 7月16日号「フランスGP号」』第9巻第13号、ニューズ出版、1998年7月16日、39頁。
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- ^ ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド DVD&Blu-ray(2011年11月26日時点のアーカイブ) - Amazon.co.jp
- ^ 『GPX』CANADA GP、山海堂、1997年、28頁。
- ^ “五輪の"デイモン・ヒル"に銀メダル”. ESPN F1. (2012年8月10日)
- 1 デイモン・ヒルとは
- 2 デイモン・ヒルの概要
- 3 他のドライバーとの関係
- 4 エピソード
- 5 個人記録
- 6 脚注
- デーモン・ヒルのページへのリンク