ヨアキム・ボニエ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/15 08:41 UTC 版)
ヨアキム・ボニエ | |
---|---|
![]() | |
基本情報 | |
国籍 |
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出身地 | 同・ユールゴーデン |
生年月日 | 1930年1月31日 |
没年月日 | 1972年6月11日(42歳没) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1956-1971 |
所属チーム |
'56-'58 マセラティ '57-'58 セントロ・スッド '58 スカルラッティ '58-'60 BRM '61-'62 ポルシェ '63-'65 ロブ・ウォーカー '63-'64,'66-'68 クーパー '64-'65,'66 ブラバム '57,'58,'66-'71 エキュリー・ボニエ '68,'70-'71 マクラーレン '68 ホンダ '69 ロータス |
出走回数 | 104 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 1 |
表彰台(3位以内)回数 | 1 |
通算獲得ポイント | 39 |
ポールポジション | 1 |
ファステストラップ | 0 |
初勝利 | 1959年オランダGP |
最終勝利 | 1959年オランダGP |
最終戦 | 1971年アメリカGP |
ヨアキム・ボニエ(Joakim "Jo" Bonnier, 1930年1月31日 - 1972年6月11日)はスウェーデン出身のレーシングドライバー。ジョー・ボニエ、ヨー・ボニエとも表記される。
経歴
1930年1月に学者の家で生まれる。
17歳からキャリアをスタートさせ、2輪レースやラリーに参戦。北欧仕込みの運転感覚で、氷上では無敵の強さを発揮したとされる。
F1
1956年最終戦イタリアGPにおいて、マセラティからF1デビュー。当時は珍しい北欧出身のF1レーサーとなったが、決勝はリタイヤ。翌1957年は4戦に参戦したが、うち3戦リタイヤとなり、完走は開幕戦のアルゼンチンGPのみとなった(7位)。
1958年も当初はプライベーターのマセラティから参戦するも、なかなか好成績を挙げられずにいた。しかし終盤にBRMのワークスチームに招かれると、移籍2戦目となる最終戦モロッコGPで4位に入り、初入賞を記録した。
1959年は第3戦オランダGPにおいて、予選でポールポジションを獲得。決勝でも、何度かラップリーダーの入れ替わる展開の中、ポールトゥーウィンを達成。自身およびBRMにとって初となる勝利を記録したが、その後は5位入賞1回という成績でシーズンを終えた。また結果的には、オランダGPがF1キャリア唯一の勝利・表彰台となった。

1960年もBRMから参戦するが、5位入賞2回という成績に終わる。1961年・1962年はポルシェからの参戦となるが、どちらも入賞は5位・6位が1回ずつという結果となった。
その後、1963年から1965年までは、プライベーターの名門として知られたロブ・ウォーカー・レーシングから参戦。1966年以降は自らマシンを購入し参戦したが、1969年以降は参加レースが極端に減少。1971年も5戦のみの出走に留まり、最終戦アメリカGPをもって、F1から去ることとなった。
スポーツカーレース
1954年・1955年にスウェーデンのツーリングカー選手権に参戦するなど、F1参戦開始以前より、スポーツカーレースで活動。主な戦績では、1962年セブリング12時間レースをフェラーリ250TRで、1964年ランス12時間レースを250LMで優勝。1966年のニュルブルクリンク1,000kmではフィル・ヒルと共にアメリカ製シャパラル・2Dで勝利した。
ル・マン24時間レースには、1957年から参戦。1964年にグラハム・ヒルとのコンビでフェラーリ330Pを駆り、2位となったのが最高位となる。
キャリア最後の優勝は、1972年のル・マン24時間レースである。
事故死

1972年のル・マン24時間レースには、ジェラール・ラルース、ジィズ・ヴァン・レネップと共にローラから参戦。計13度目の参加となった。
しかしレース中盤、ボニエのT280コスワースは下位クラスのフェラーリ・デイトナに接触し、ガードレールを飛び越えて木々を倒し、大破炎上。ボニエはマシンの中で即死していた。42歳。
逸話
BRM時代に同僚だったグラハムの息子、デイモンの命名者。
当時のモータースポーツでは珍しい、知性派のドライバーとして知られていた。
語学に長け人徳もあった為、F1においてはドライバーズ協会会長も務めていた。
ホンダとの関係
1964年ドイツGPにおいて、ホンダがロニー・バックナムを起用し、自社製マシンRA271で初参戦を図った。これに際し、当時GPDAの会長だったボニエは「難コースであるニュルブルクリンクにおいて、新参のチームが新参のドライバーで参戦することはあまりに無謀であり、危険」とその参戦に反対した(最終的にホンダは参戦している)。
4年後の1968年メキシコGPにおいて、プラクティス2日目に自身のマクラーレン・M5AのBRM V12エンジンを壊した際、急遽ホンダにスペアカーの借用を申し出、RA301の2号車で予選・決勝に臨み5位入賞。一旦活動を終えるホンダに、最後のレースでの入賞をプレゼントする結果となった。
レース戦績
F1
年 | 所属チーム | シャシー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | WDC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1956年 | マセラティ | 250F | ARG | MON | 500 | BEL | FRA | GBR | GER | ITA Ret |
NC | 0 | |||||
1957年 | マセラティ/セントロ・スッド | ARG 7 |
PES Ret |
ITA Ret |
NC (26位) |
0 | |||||||||||
マセラティ/ヨアキム・ボニエ | MON DNA |
500 | FRA | GBR Ret |
GER | ||||||||||||
1958年 | マセラティ/セントロ・スッド | ARG DNA |
GER Ret |
20位 | 3 | ||||||||||||
マセラティ/ヨアキム・ボニエ | MON Ret |
NED 10 |
500 | BEL 9 |
GBR Ret |
POR Ret |
|||||||||||
マセラティ/ジョルジオ・スカルラッティ | FRA 8 |
||||||||||||||||
オーウェン | P25 | ITA Ret |
MOR 4 |
||||||||||||||
1959年 | MON Ret |
500 | NED 1 |
FRA Ret |
GBR Ret |
GER 5 |
POR Ret |
ITA 8 |
USA | 8位 | 10 | ||||||
1960年 | ARG 7 |
18位 | 4 | ||||||||||||||
P48 | MON 5 |
500 | NED Ret |
BEL Ret |
FRA Ret |
GBR Ret |
POR Ret |
ITA | USA 5 |
||||||||
1961年 | ポルシェ | 787 | MON Ret |
NED 11 |
15位 | 3 | |||||||||||
718 | BEL 7 |
FRA 7 |
GBR 5 |
GER Ret |
ITA Ret |
USA 6 |
|||||||||||
1962年 | 804 | NED 7 |
FRA 10 |
GBR Ret |
GER 7 |
ITA 6 |
USA 13 |
RSA | 15位 | 3 | |||||||
718 | MON 5 |
BEL WD |
|||||||||||||||
1963年 | クーパー/ロブ・ウォーカー | T60 | MON 7 |
BEL 5 |
NED 11 |
FRA NC |
11位 | 6 | |||||||||
T66 | GBR Ret |
GER 6 |
ITA 7 |
USA 8 |
MEX 5 |
RSA 6 |
|||||||||||
1964年 | MON 5 |
15位 | 3 | ||||||||||||||
ブラバム/ロブ・ウォーカー | BT11 | NED 9 |
BEL Ret |
FRA | GBR Ret |
GER Ret |
|||||||||||
BT7 | AUT 6 |
ITA 12 |
USA Ret |
MEX Ret |
|||||||||||||
1965年 | RSA Ret |
MON 7 |
BEL Ret |
FRA Ret |
GBR 7 |
NED Ret |
GER 7 |
ITA 7 |
USA 8 |
MEX Ret |
NC (17位) |
0 | |||||
1966年 | クーパー/アングロ・スイス | T81 | MON NC |
BEL Ret |
NED 7 |
GER Ret |
ITA Ret |
USA NC |
MEX 6 |
17位 | 1 | ||||||
ブラバム/アングロ・スイス | BT22 | FRA NC |
|||||||||||||||
BT7 | GBR Ret |
||||||||||||||||
1967年 | クーパー/ヨアキム・ボニエ | T81 | RSA Ret |
MON | NED | BEL Ret |
FRA | GBR Ret |
GER 6* |
CAN 8 |
ITA Ret |
USA 6 |
MEX 10 |
15位 | 3 | ||
1968年 | RSA Ret |
ESP | 22位 | 3 | |||||||||||||
マクラーレン/ヨアキム・ボニエ | M5A | MON DNQ |
BEL Ret |
NED 8 |
FRA | GBR Ret |
GER DNA |
ITA 6 |
CAN Ret |
USA NC |
|||||||
ホンダ/ヨアキム・ボニエ | RA301 | MEX 5 |
|||||||||||||||
1969年 | ロータス/エキュリー・ボニエ | 63 | RSA | ESP | MON | NED | FRA | GBR Ret |
NC (25位) |
0 | |||||||
49B | GER Ret |
ITA | CAN | USA | MEX | ||||||||||||
1970年 | マクラーレン/エキュリー・ボニエ | M7C | RSA | ESP | MON | BEL | NED | FRA | GBR | GER | AUT | ITA DNQ |
CAN | USA Ret |
MEX | NC (36位) |
0 |
1971年 | RSA Ret |
ESP | MON | NED | FRA | GBR | GER DNQ |
AUT DNS |
ITA 10 |
CAN | USA 16 |
NC (26位) |
0 |
- 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key)
- * 印は1967年ドイツグランプリにおいてボニエは6位でフィニッシュしたが、5位の選手がF2ドライバーであったため規定上ポイントを獲得することが出来ず、よって5位の2ポイントを獲得した。
ル・マン24時間レース
年 | チーム | コ・ドライバー | 使用車両 | クラス | 周回数 | 総合順位 | クラス順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1957年 | ![]() |
![]() |
マセラティ・300S | S 3.0 |
73 | DNF | DNF |
1958年 | ![]() |
![]() |
S 3.0 |
142 | DNF | DNF | |
1959年 | ![]() |
![]() |
ポルシェ・718 RSK | S 2.0 |
182 | DNF | DNF |
1960年 | ![]() |
ポルシェ・718/4 RS | S 2.0 |
191 | DNF | DNF | |
1961年 | ![]() |
![]() |
ポルシェ・718/4 RS クーペ | S 2.0 |
262 | DNF | DNF |
1962年 | ![]() |
![]() |
フェラーリ・250TRI/61 | E 3.0 |
30 | DNF | DNF |
1963年 | ![]() |
![]() |
ポルシェ・718/8 GTR クーペ | P 3.0 |
109 | DNF | DNF |
1964年 | ![]() |
![]() |
フェラーリ・330P | P 5.0 |
344 | 2位 | 2位 |
1965年 | ![]() |
![]() |
フェラーリ・365 P2 | P 5.0 |
101 | DNF | DNF |
1966年 | ![]() |
![]() |
シャパラル・2D | P +5.0 |
111 | DNF | DNF |
1969年 | ![]() |
![]() |
ローラ・T70 Mk.IIIB-シボレー | S 5.0 |
134 | DNF | DNF |
1970年 | ![]() |
フェラーリ・512S | S 5.0 |
36 | DNF | DNF | |
1972年 | ![]() |
![]() ![]() |
ローラ・T280-フォード コスワース | S 3.0 |
213 | DNF | DNF |
Source:[1]
|
脚注
- ^ “All Results of Jo Bonnier”. RacingSportCars. 2019年1月12日閲覧。
関連項目
固有名詞の分類
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