フランシスコ会
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ヨーロッパ外への宣教
フランシスコ会は設立間もない頃から、東方宣教に力をいれ、すでにフランチェスコ在世時に当時イスラームの勢力下にあったイベリア半島やエジプトなどで活動する修道士がいたことが知られる。フランチェスコ自身も十字軍に同道し、中東で宣教をおこなっている。東方教会の根拠地である旧オスマン帝国領内などにあるカトリック教会は、現在でも、その多くがフランシスコ会によってその運営が支えられている。エルサレムの聖墳墓教会、ベツレヘムの生誕教会やミルク・グロットなどはその好例である。
また、対抗改革の時期には、イエズス会やドミニコ会とならび、「新大陸」と称された北アメリカ大陸・南アメリカ大陸やアジアなどの海外宣教に積極的にたずさわった。
モンゴル帝国での活動と宣教
フランシスコ会の成立した13世紀は、イベリア半島ではレコンキスタ、中東・地中海地域では十字軍のさなかにあったが、ユーラシア大陸ではモンゴル帝国が広大な版図を築いた世紀でもあった。ローマ・カトリック教会は、イスラーム勢力を挟撃するためにもモンゴルと和親を結ぼうとして、プラノ・カルピニ、ウィリアム・ルブルック、ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ、ジョヴァンニ・デ・マリニョーリを相次いでモンゴルに派遣したが、かれらはいずれもフランシスコ会の会員であった。特にモンテコルヴィーノは約30年間中国(元朝)に滞在し、大都(いまの北京)に教会を営み、『新約聖書』のモンゴル語訳・中国語訳を著述するなど、単に外交使節としてではなく宗教者としての活動が顕著であった。
インディアス宣教
クリストファー・コロンブスの「インディアス」発見当時、フランシスコ会はドミニコ会とならんで多くの会員を擁し、活動的な修道会であった[23]。その一部には一種の終末論的傾向もあって新大陸への福音活動に対する熱意には強いものがあった[23]。フランシスコ会はコロンブスの計画の良き理解者として知られており、一貫して熱心な支持者でもあった[23]。コロンブスの1492年の航海の帰還報告はフランシスコ会士のあいだで大反響をよび、その2回目の航海に際しては少なくとも2名の会士が航海に同行し、サント・ドミンゴ島(イスパニョーラ島)での宣教の草分けとなった[23]。1503年、最初の修道院がサントドミンゴに創設され、1505年にはサンタ・クルス管区が設けられてフランシスコ会士による宣教の恒久的な組織化に道をひらいた。
今日のアメリカ合衆国のカリフォルニア州、アリゾナ州、ニューメキシコ州などの宣教もまた、メキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)より北上するフランシスコ会士によって始められた[23]。このように、インディアスの中心から地方に、さらに辺境へと向けて宣教していくことに関しては、フランシスコ会は先駆的役割を担い、また、宣教活動の範囲も数ある修道会のなかでも最も広かったものと推定される[23]。なお、ワシントンD.C.には、アメリカ・フランシスコ会史学会という学術機関があり、その歴史的研究をすすめている[23]。
日本での活動と日本宣教
日本でのフランシスコ会の活動は、1593年のペドロ・バブチスタの宣教を嚆矢としている。
- 1593年(文禄2年) - フィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタが来日[注釈 5]し、肥前国名護屋で豊臣秀吉に謁見。
- 1594年(文禄3年) - 京都に「天使の元后教会」(聖母マリア教会)を建立。
- 1596年(文禄5年) - サン・フェリペ号事件。ペドロ・バプチスタ、京都で捕縛される。
- 1597年(慶長元年)- ペドロ・バプチスタやマルチノ・デ・ラ・アセンシオンなどフランシスコ会員6名をふくむカトリック教徒26人が長崎で処刑される(日本二十六聖人の殉教)。
- 1603年(慶長8年) - フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロが来日して徳川家康・徳川秀忠に謁見。日本での布教に従事し伊達政宗との知遇を得て東北地方にも布教開始。
- 1613年(慶長18年) - ソテロ、慶長遣欧使節団の正使としてローマに派遣されたが、日本でのキリスト教弾圧にともない外交交渉成功せず。
- 1622年(元和8年) - ソテロ、長崎に潜入を図るが捕らえられ、1624年(寛永元年)肥前大村で殉教。
- 1867年(慶応3年) - 教皇ピウス9世がソテロを列福。
- 1907年(明治40年) - フランシスコ会、再宣教を開始。
- 2007年(平成19年) - フランシスコ会再宣教100周年。
16世紀のキリスト教伝来以降、フランシスコ会はすでに日本人の修道者会員・在世会員を獲得していた。17世紀なかばまで60名あまりが伝道に従事したが、秀吉ついで江戸幕府の禁教政策の下、そのほぼ半数が殉教した[1]。開国後の1862年(文久2年)、これらの殉教者の一部がピウス9世によって列聖されている[1]。
現在、日本では3派合同して第一会約300名が活動しており[1]、フランシスコ会の聖書研究所ではカトリックの公認日本語訳聖書であるフランシスコ会訳聖書を刊行している。なお、1985年から2004年まで新潟教区長を務め、翌2005年1月に死去したフランシスコ・佐藤敬一司教もフランシスコ会の出身だった。
注釈
- ^ 現在、中世史家ジャック・ルゴフの提唱によって、ヨーロッパの都市化進行の経過を托鉢修道院の数や分布を1つの指標として検討しようという研究が進んでいる。佐藤&池上(1997)p.290
- ^ ジャン・ピエール・トレル『カトリック神学入門』によれば、ボナヴェントゥラをアウグスティヌス主義、トマス・アクィナスをアリストテレス主義というふうに一面的に断じるのは適切ではなく、また両者の思想がそれぞれの学派を代表したというのも事実とは微妙に異なるという。トレル(1998)
- ^ 教会の異端審問では、拷問の適用にはきびしい規制が課せられており、死刑を科すことはできなかった。死刑判決は世俗の裁判所の管轄となっていたので、強情な異端者はそこに引き渡され、刑の宣告や執行がなされた。マックスウェル・スチュアート(1999)p.197
- ^ 1536年、教皇教皇パウルス3世はカプチン会の活動をイタリア国内に限定したが、1574年に教皇グレゴリウス13世によって禁令が解除され、活動は世界各地に拡大した。
- ^ スペイン王国アビラ出身。メキシコを経てマニラで布教中、フランシスコ会遣外管区長となった。
参照
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 石井(2004)「フランシスコ会」
- ^ a b c d e f 石井(2004)「フランチェスコ(アッシジの)」
- ^ a b c d e f g h 今野(1989)pp.338-341
- ^ a b c d e マックスウェル・スチュアート(1999)p.140
- ^ a b c ミルワード(1993)pp.85-90
- ^ a b c d e 佐藤&池上(1997)pp.289-290
- ^ a b 堀米(1974)pp.226-227
- ^ 『世界を創った人びと7』(1978)
- ^ a b c d ロバーツ(2003)pp.154-156
- ^ a b c d 藤沢(1991)pp.53-78
- ^ a b c d e f g 小田内(2010)pp.198-203
- ^ a b c 橋口(1988)p.102
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 小田内(2010)pp.204-209
- ^ 近代科学を準備したのは何か-補助線としての宗教(信仰)(下)(小冊子「定有」)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 小田内(2010)pp.209-213
- ^ a b c d マックスウェル・スチュアート(1999)pp.167-169
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 小田内(2010)pp.213-217
- ^ a b c ロバーツ(2003)pp.162-164
- ^ a b 小田内(2010)pp.249-250
- ^ 小田内(2010)pp.227-231
- ^ a b マックスウェル・スチュアート(1999)pp.194-195
- ^ a b c d e 下村&長塚(1981)p.145
- ^ a b c d e f g 小林(1988)pp.102-103
- 1 フランシスコ会とは
- 2 フランシスコ会の概要
- 3 沿革
- 4 ヨーロッパ外への宣教
- 5 年譜
- 6 関連作品
- 7 関連項目
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