フランシスコ会 フランシスコ会の概要

フランシスコ会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/20 22:48 UTC 版)

フランシスコ会
Ordo Fratrum Minorum
フランシスコ会の会章
略称 OFM
設立 1209年
設立者 アッシジのフランチェスコ
種類 カトリック教会の修道会
目的 キリスト教宣教、他
本部 イタリア
関連組織 クララ会(女子修道会)
フランシスコ第三会(在俗会)
コンベンツァル聖フランシスコ修道会
カプチン・フランシスコ修道会
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狭義には男子修道会、すなわち男子修道士による托鉢修道会である第一会に相当する3つの会のことを指し、特にそのなかの主流派である改革派フランシスコ会のみを指すこともある。この3つの会はいずれも「小さき兄弟会」Ordo Fratrum Minorum (OFM) の名を冠している。また、イングランド国教会系の聖公会でもフランシスコ会が組織されている。

フランシスコ会は、無所有清貧を主張したフランチェスコの精神にもとづき、染色を施さない修道服をまとって活動している。

概要

アッシジのフランチェスコ
生前にフランチェスコを描いたといわれる肖像

13世紀前葉に活動した聖人アッシジのフランチェスコは、男子修道会である第一会、女子修道会である第二会、在俗信者の会である第三会をそれぞれ創設した。

男子修道者の会である第一会(狭義の「フランシスコ会」)は、1209年頃中部イタリアアッシジで成立し、1210年に教皇インノケンティウス3世によって「第一会則」の認可を経て、その創設承認が口約され、1221年のフランチェスコ自身による「第二会則」の制定ののち、その修正を経て、1223年、教皇ホノリウス3世によって正式に認可された[2][3][4]。「第二会則」を受け入れた人びと(穏健派)と拒んだ人びと(厳格派)は、こののち長く争うこととなり、厳格派は代々のローマ教皇に活動を禁止された。また、厳格派のなかのいくつかの主張は異端としてしりぞけられてきた[4]

フランシスコ会の修道士から生まれた中世の神学者スコラ哲学者に、ボナヴェントゥラ(1221年?-1274年)、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス1266年?-1308年)、オッカムのウィリアム1285年-1347年)らがいる[5]。また、大都市に修道院がつくられることの多かったドミニコ会に対し、フランシスコ会は小都市に設立されることが多かったことが確認されている[6]

観想的な女子修道者の会である第二会クララ会(キアラ会)とも称され、1212年にアッシジで創設された。この修道会の中心となった女性がフランチェスコにとって最初の女性の弟子となったアッシジのキアラであり、修道女たちの活動の中心となったのがアッシジ郊外のサン・ダミアノ修道院英語版であった[2][3]。この修道会は1253年、キアラが没する2日前に教皇インノケンティウス4世の許可を受けた[4]

第三会(在世フランシスコ会)が創設されたのは1221年頃で、世俗にありながら、托鉢修道士や修道女と同じ理念にしたがい、同じ誓願を立てたいと望む信徒のためにつくられた団体であり[4]、「律修会」「修道女会」「在世会」から成る[1]。この会は、1447年、教皇ニコラウス5世の許可を受けている[4]

広義のフランシスコ会は以上3つの会の総称であるが、狭義には第一会のみをフランシスコ会と称する。さらに、フランチェスコの死後、第一会は「小さき兄弟会」「コンベンツァル聖フランシスコ修道会(コンベンツァル会)」「カプチン・フランシスコ修道会(カプチン会)」の3つの会派に分かれたが、最狭義の「フランシスコ会」は以上のうち改革派フランシスコ会「小さき兄弟会」を指している。

基本理念と会則

フランシスコ会の基本理念は、貧しいイエス・キリストの生涯を範として、その福音使徒と同様忠実に生き、ローマ教皇に対してはあくまでも従順をつらぬき、人びとに「神の国」と改悛(悔い改め)を説くことにあった[1]。かれらは粗衣に裸足宣教しながら各地をめぐり、とくに会として個人として一切の所有権を放棄し、貧しいなかで手仕事により生計を立て、不足する部分については他者の喜捨にたよった[1]

フランシスコ会は、同時代に設立されたドミニコ会とともに、居住する家屋食物ももたず、人びとの施しにたよったところから「托鉢修道会」ないし「乞食僧団」とよばれ、どの教会管区にも属さず、ただローマ教皇にのみ属した[7]。フランシスコ会は、清貧と禁欲の生活を理想としており、その戒律ベネディクト会のもの(服従、清貧、童貞)と大きな点で相違はなかったが、ただし、これを文字通りに、また、徹底的に実行した点で従来のベネディクト派の修道会とは異なる性格を有している[7]

1221年につくられたフランシスコ会の会則は、以下のような内容である[8]

われらの主イエス・キリストの福音を守り、服従のうちに生き自分の物な何も持たず、常に貞節のうちにあらんことを。修道士は頭巾付き上着1枚だけ持ち、履物は必要な者だけに許される。衣服は着古したもので、袋地か、ぼろでつぎはぎさるべきこと。高価な衣装を着、美味な飲食物を食べている人を見ても軽蔑したり裁いたりしてはならず、むしろ自分自身を裁き軽蔑せよ。直接にせよ間接にせよ金銭を受け取ってはならず、何物も所有せず、清貧と謙譲のうちに主に仕え、喜捨を請うことを恥じず、清貧を友とせよ。

注釈

  1. ^ 現在、中世史家ジャック・ルゴフの提唱によって、ヨーロッパの都市化進行の経過を托鉢修道院の数や分布を1つの指標として検討しようという研究が進んでいる。佐藤&池上(1997)p.290
  2. ^ ジャン・ピエール・トレル『カトリック神学入門』によれば、ボナヴェントゥラをアウグスティヌス主義、トマス・アクィナスをアリストテレス主義というふうに一面的に断じるのは適切ではなく、また両者の思想がそれぞれの学派を代表したというのも事実とは微妙に異なるという。トレル(1998)
  3. ^ 教会の異端審問では、拷問の適用にはきびしい規制が課せられており、死刑を科すことはできなかった。死刑判決は世俗の裁判所の管轄となっていたので、強情な異端者はそこに引き渡され、刑の宣告や執行がなされた。マックスウェル・スチュアート(1999)p.197
  4. ^ 1536年、教皇教皇パウルス3世はカプチン会の活動をイタリア国内に限定したが、1574年に教皇グレゴリウス13世によって禁令が解除され、活動は世界各地に拡大した。
  5. ^ スペイン王国アビラ出身。メキシコを経てマニラで布教中、フランシスコ会遣外管区長となった。

参照



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