象山義塾設立から死去までとは? わかりやすく解説

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象山義塾設立から死去まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 22:17 UTC 版)

津田応助」の記事における「象山義塾設立から死去まで」の解説

1934年昭和8年)、妻よ提言され応助は、自宅を建て、それまでの手狭な借家から移り住むことにした。ちょうどこの頃売り物件として名古屋市白壁町角に尾張藩剣道指南役だった杉山保次郎40坪程の旧邸宅女中部屋湯殿と共に建替えのため売り出されていて、これを購入することにした。旧杉山邸は借家時代陸軍中佐橘周太名古屋陸軍幼年学校校長勤めていたとき(当時少佐)に住んでいたこともあった。応助はこれを解体し天理教小牧大教会南の敷地移築した。この敷地親族からの寄贈である。自宅落成したのは1934年昭和9年3月のことであった。 そして同1934年12月16日、応助は私塾象山義塾」を自宅敷地に開塾した。 第一条 本塾は象山義塾称す第二条 本塾は愛知県東春日井郡小牧町大字小牧古戦場小牧山東南麓に置く第三条 本塾は皇漢籍及び書道並に算数を講し国民教養精神修養主眼とし実用学科講習せしむるを以て目的となす第四条 本塾は開講に先ち東方に向ひ礼拝し 皇恩謝し奉り訓言下賜の諸閣下謝意を表す第五条 本塾の就学期間を各三ヶ年定むヶ年毎に之れを一期となす第六条 入塾希望者は其男女年齢を問はず住所範囲を論せす義務教育修了後にして修養に志あるものは何時だれとも入塾することを得第七条 入塾せんとする者は一定の志願書に父兄認印具し提出することを要す第八条 入塾者にして退塾せんとするときは其旨を申出つへし第九条 本塾は学費月謝を徴せす但し其他何等費用要せ第十条 本塾は月曜日休講日と定む第十一条 本塾は昼夜二回開講するものとす但し昼間午後一時より夜間夏期に於ては午後九時より冬期午後七時より始講するものとす第十二条 本塾の学科講説及び講書の両途に分ち随時指導するものとす 但し講説古今偉人学徳講演し立志立身の伝を述へ講書皇漢籍の中精神修養に益ありと認めたるものより撰定第十三条 本塾は毎年春秋二回知名の士を聘し精神練磨講演を催す第十四条 本塾は随時歴史参考資料見学の為め出行することあるへし第十五条 本塾は必要に応し社会事業及び公益事業等に参加奉仕することあるへし第十六条塾生にして学業親します性行粗暴改悛見込なきもの退塾処分を行うことあるへし — 象山義塾々則 開塾して最初入塾生は27名で、毎夜20名ほどがこの塾に無償通ったという。塾生には教科書として『近古志談』、『日本外史』、『国史略』、『十八史略』、『四書』等を用い漢籍を学ばせた。自習教材としては『早稲田大学法科講義録』を使った塾生舟橋孝一によれば講義課程は、まず孔孟思想講義から入り日本近世史として『近古史談』次に日本外史』を一年かけて読み、そして『国史略』へと日本史習ったその後は『十八史略』と中国史移り合間平田篤胤本居宣長著書挟みつつ、『四書』へと至った舟橋は、最後まで講義を受けきる生徒少なく四五程度だったと言うまた、閉塾後最晩年門下生であった丹羽伊久夫は、応助の講義様子として、まず生徒自分教科書本文を読ませ、それを応助がそこはこうだ、それはああだ、という具合指摘するやりかただったと語る。 また、1936年昭和11年)には遠方からなかなか通えない生徒のために寄宿舎建造した。この費用捻出するために応助は寿量品観音経阿弥陀経写経しこれにより売家購入することができた。このとき手に入れた家は、1877年明治10年)ごろは愛知県土木課長黒川治愿住家でもあり、名古屋市久屋町にあった1936年1月解体し母屋の東隣に移築竣工したのは6月だった。1937年昭和12年)の盧溝橋事件以降日中戦争突入する出兵により塾生減っていったが、戦争激化1945年昭和20年3月31日から1946年昭和21年5月6月頃までの中断挟み1955年昭和30年)まで塾は存続した。一般修学した塾生は千二百余人に及ぶという。 1942年昭和17年)春、応助は織田信長清州城から小牧山城への移城を記念した碑を小牧山上に建設する計画立てた小牧山城信長によって建造された城であったがそれを示す記念碑山上にいまだないことを応助は常日頃気にしていた。そんな折、この計画聞き是非に、と同意していた妻ていが5月16日43歳で死去した急性の心臓病であった突然の死別に悲嘆にくれるも応助は計画続行した。妻亡き後はその母が津田家家事行ったこのころ病がちだった応助は長男義理の母門下生代理にやって、京都船岡山織田信長祭神とする建勲神社宮司前田康三に建設計画告げ、これの後援を得ることができた。また、建設費用は妻の香資金と寄贈写経布施賄われた。山上建設される計画が、碑の建設徳川家から賛助得られなかったため津田家門前変更され、碑は1943年昭和18年10月31日建てられた。碑面選文は応助自身が行い、「建勲不朽」の題額元首相若槻禮次郎が、題字陸軍大将奈良武次揮毫担当した。それに附属する大石灯篭元首相清浦奎吾石灯篭海軍大将古賀峯一加藤隆義石手洗海軍大将豊田副武それぞれ自筆署名の上寄贈した建碑式典祭司前田務めた。 応助は塾運営傍ら執筆活動続けており、1936年昭和11年)、『北里村誌』の編纂校訂1938年昭和13年)、『尾張本宮山美濃荢纑池山姥物語』、1940年昭和15年)、編纂主任就任し『続木津用水史』(木津用水通用水組合)、1944年昭和19年)、やはり編纂主任就任し郷瀬川悪水通水組合沿革誌』、1949年昭和24年)、妻との思い出中心とする自伝的随筆櫻桃の實熟する頃』と書き綴っていった。 1957年昭和32年)、応助は、南極地域観測隊第一次越冬隊引き上げの際、已む無く南極残していった樺太犬15匹を哀れみ、この陶像を作ることにした。その費用は応助が徳川家康遺訓350書写充て余った6万円地域記録のためと8ミリカメラを購入した像の制作は、当時東春日井郡旭町(現尾張旭市)に住んでいた陶芸家星合信令に頼み、高さ尺2寸の2躯の志野焼できあがった裏面には「昭和三十三年日本在住の者が樺太犬十五頭の横死憐れみ、この像を現地安置する、願はくは、佛恩を埀れて南極住する一切生物冥護を埀れ給へ」という内容の文を漢文にし刻んだ実際タロとジロの2頭が翌年第三次越冬隊によって生きているのが発見された)。観測隊長永田武宗谷船長松本満次が松坂屋講演に来た際、この像を現地安置することを願い出たところ受諾され、内1躯は昭和基地据えられたという。 1958年昭和33年)、応助は、義理の母飛行機旅行きっかけに、高齢者への孝行にと小牧市内の90歳以上の老人7名を飛行機での空の旅へ招待した飛行機恐ろしいと断った婦人4名以外の最高齢94歳とする3名がこれに応え小牧空港(現県営名古屋空港)からセスナ機で、25分間尾張地方上空遊覧飛行した。また、続いて1961年昭和36年)、中日本航空協力得て2回目招待飛行行った85歳上の老人61名を招待し27人が参加30分間濃尾平野遊覧飛行した。これら諸費用写経によって捻出された。 1960年昭和35年)、「津田応助先生後援会」が設立された。5月1日にその第1回会合開かれ五十数名参加した発起人小牧市神戸真で、後援会設立趣旨は、 一、津田応助先生顕彰碑建立二、国宝的な書籍文書等永久保存確立三、小牧山天正小牧山合戰史跡碑の建立四、津田先生の家庭の援助する以上 と定められた。 浄財四十数万円を集め顕彰碑1961年昭和36年8月津田家敷地内建てられた。材は黒曜石題額苦学力動」は尾張徳川家19当主徳川義親が、標書「津田應助先生顯彰碑」は愛知県知事桑原幹根揮毫小牧市神戸真が『論語』から取って漢詩作り碑文とした。除幕式典は11月5日催された。また、同年11月、応助が蒐集した資料保存するために土建業営んでいた市議会議員三津沢治郎によってブロック作り書庫、「象山書庫」が14平方m で建築収蔵された。 1964年昭和39年1月23日愛知県教育委員会より文化功労者として表彰された。翌1965年昭和40年10月5日には小牧市市政十周年記念文化功労者選ばれまた、記念式典際し開催された「小牧市育てた人々写真展中日新聞社主催)に選出された。1966年昭和41年)頃より応助は病で臥せり勝ちになり、同年10月病状悪化、翌1967年昭和42年1月7日から危篤状態になり12日深夜没した77歳だった。

※この「象山義塾設立から死去まで」の解説は、「津田応助」の解説の一部です。
「象山義塾設立から死去まで」を含む「津田応助」の記事については、「津田応助」の概要を参照ください。

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