象山義塾設立から死去まで
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「津田応助」の記事における「象山義塾設立から死去まで」の解説
1934年(昭和8年)、妻より提言され応助は、自宅を建て、それまでの手狭な借家から移り住むことにした。ちょうどこの頃売り物件として名古屋市白壁町角に尾張藩の剣道指南役だった杉山保次郎の40坪程の旧邸宅が女中部屋、湯殿と共に建替えのため売りに出されていて、これを購入することにした。旧杉山邸は借家時代に陸軍中佐橘周太が名古屋陸軍幼年学校の校長を勤めていたとき(当時は少佐)に住んでいたこともあった。応助はこれを解体し天理教小牧大教会南の敷地に移築した。この敷地は親族からの寄贈である。自宅が落成したのは1934年(昭和9年)3月のことであった。 そして同1934年12月16日、応助は私塾「象山義塾」を自宅敷地に開塾した。 第一条 本塾は象山義塾と称す第二条 本塾は愛知県東春日井郡小牧町大字小牧古戦場小牧山東南麓に置く第三条 本塾は皇漢籍及び書道並に算数を講し国民教養上精神修養を主眼とし実用の学科を講習せしむるを以て目的となす第四条 本塾は開講に先ち東方に向ひ礼拝し 皇恩を謝し奉り亦訓言下賜の諸閣下へ謝意を表す第五条 本塾の就学期間を各三ヶ年と定む三ヶ年毎に之れを一期となす第六条 入塾希望者は其男女年齢を問はず住所範囲を論せす義務教育修了後にして修養に志あるものは何時だれとも入塾することを得第七条 入塾せんとする者は一定の志願書に父兄の認印を具し提出することを要す第八条 入塾者にして退塾せんとするときは其旨を申出つへし第九条 本塾は学費月謝を徴せす但し其他何等の費用を要せす第十条 本塾は月曜日を休講日と定む第十一条 本塾は昼夜二回開講するものとす但し昼間は午後一時より夜間は夏期に於ては午後九時より冬期は午後七時より始講するものとす第十二条 本塾の学科は講説及び講書の両途に分ち随時指導するものとす 但し講説は古今偉人の学徳を講演し其立志立身の伝を述へ講書は皇漢籍の中精神修養に益ありと認めたるものより撰定す第十三条 本塾は毎年春秋二回知名の士を聘し精神練磨の講演を催す第十四条 本塾は随時歴史参考資料見学の為め出行することあるへし第十五条 本塾は必要に応し社会事業及び公益事業等に参加奉仕することあるへし第十六条 本塾生にして学業に親します性行粗暴改悛の見込なきものは退塾処分を行うことあるへし — 象山義塾々則 開塾して最初の入塾生は27名で、毎夜20名ほどがこの塾に無償で通ったという。塾生には教科書として『近古志談』、『日本外史』、『国史略』、『十八史略』、『四書』等を用い漢籍を学ばせた。自習用教材としては『早稲田大学法科講義録』を使った。塾生の舟橋孝一によれば、講義課程は、まず孔孟思想の講義から入り、日本近世史として『近古史談』、次に『日本外史』を一年かけて読み、そして『国史略』へと日本史を習った。その後は『十八史略』と中国史に移り、合間に平田篤胤や本居宣長の著書を挟みつつ、『四書』へと至った。舟橋は、最後まで講義を受けきる生徒は少なく、四五人程度だったと言う。また、閉塾後最晩年の門下生であった丹羽伊久夫は、応助の講義の様子として、まず生徒に自分で教科書本文を読ませ、それを応助がそこはこうだ、それはああだ、という具合に指摘するやりかただったと語る。 また、1936年(昭和11年)には遠方からなかなか通えない生徒のために寄宿舎を建造した。この費用を捻出するために応助は寿量品や観音経、阿弥陀経を写経しこれにより売家を購入することができた。このとき手に入れた家は、1877年(明治10年)ごろは愛知県土木課長の黒川治愿の住家でもあり、名古屋市久屋町にあった。1936年1月に解体し母屋の東隣に移築、竣工したのは6月だった。1937年(昭和12年)の盧溝橋事件以降、日中戦争に突入すると出兵により塾生も減っていったが、戦争激化の1945年(昭和20年)3月31日から1946年(昭和21年)5月6月頃までの中断を挟み、1955年(昭和30年)まで塾は存続した。一般修学した塾生は千二百余人に及ぶという。 1942年(昭和17年)春、応助は織田信長の清州城から小牧山城への移城を記念した碑を小牧山上に建設する計画を立てた。小牧山城は信長によって建造された城であったがそれを示す記念碑が山上にいまだないことを応助は常日頃気にしていた。そんな折、この計画を聞き是非に、と同意していた妻ていが5月16日、43歳で死去した。急性の心臓病であった。突然の死別に悲嘆にくれるも応助は計画を続行した。妻亡き後はその母が津田家の家事を行った。このころ病がちだった応助は長男と義理の母、門下生を代理にやって、京都船岡山の織田信長を祭神とする建勲神社宮司、前田康三に建設の計画を告げ、これの後援を得ることができた。また、建設費用は妻の香資金と寄贈、写経布施で賄われた。山上に建設される計画が、碑の建設に徳川家から賛助が得られなかったため津田家門前に変更され、碑は1943年(昭和18年)10月31日に建てられた。碑面選文は応助自身が行い、「建勲不朽」の題額は元首相若槻禮次郎が、題字は陸軍大将奈良武次が揮毫を担当した。それに附属する大石灯篭は元首相清浦奎吾、石灯篭は海軍大将古賀峯一と加藤隆義、石手洗は海軍大将豊田副武がそれぞれ自筆署名の上寄贈した。建碑式典の祭司は前田が務めた。 応助は塾運営の傍らも執筆活動を続けており、1936年(昭和11年)、『北里村誌』の編纂校訂、1938年(昭和13年)、『尾張本宮山、美濃荢纑池山姥物語』、1940年(昭和15年)、編纂主任に就任し『続木津用水史』(木津用水普通用水組合)、1944年(昭和19年)、やはり編纂主任に就任し『郷瀬川悪水普通水利組合沿革誌』、1949年(昭和24年)、妻との思い出を中心とする自伝的随筆『櫻桃の實。熟する頃』と書き綴っていった。 1957年(昭和32年)、応助は、南極地域観測隊第一次越冬隊が引き上げの際、已む無く南極に残していった樺太犬15匹を哀れみ、この陶像を作ることにした。その費用は応助が徳川家康公遺訓を350幅書写し充て、余った6万円は地域の記録のためと8ミリカメラを購入した。犬像の制作は、当時東春日井郡旭町(現尾張旭市)に住んでいた陶芸家星合信令に頼み、高さ尺2寸の2躯の志野焼ができあがった。裏面には「昭和三十三年日本在住の者が樺太犬十五頭の横死を憐れみ、この像を現地に安置する、願はくは、佛恩を埀れて南極に住する一切の生物に冥護を埀れ給へ」という内容の文を漢文にし刻んだ(実際はタロとジロの2頭が翌年の第三次越冬隊によって生きているのが発見された)。観測隊隊長の永田武と宗谷船長の松本満次が松坂屋に講演に来た際、この像を現地に安置することを願い出たところ受諾され、内1躯は昭和基地に据えられたという。 1958年(昭和33年)、応助は、義理の母の飛行機旅行をきっかけに、高齢者への孝行にと小牧市内の90歳以上の老人7名を飛行機での空の旅へ招待した。飛行機を恐ろしいと断った婦人4名以外の、最高齢を94歳とする3名がこれに応え、小牧空港(現県営名古屋空港)からセスナ機で、25分間尾張地方上空を遊覧飛行した。また、続いて1961年(昭和36年)、中日本航空の協力を得て2回目の招待飛行を行った。85歳以上の老人61名を招待し27人が参加、30分間濃尾平野を遊覧飛行した。これら諸費用は写経によって捻出された。 1960年(昭和35年)、「津田応助先生後援会」が設立された。5月1日にその第1回会合が開かれ五十数名が参加した。発起人は小牧市長神戸真で、後援会の設立趣旨は、 一、津田応助先生顕彰碑の建立二、国宝的な書籍文書等の永久保存の確立三、小牧山に天正小牧山合戰史跡碑の建立四、津田先生の家庭の援助する以上 と定められた。 浄財四十数万円を集め、顕彰碑は1961年(昭和36年)8月に津田家敷地内に建てられた。材は黒曜石、題額「苦学力動」は尾張徳川家第19代当主徳川義親が、標書「津田應助先生顯彰碑」は愛知県知事桑原幹根が揮毫、小牧市長神戸真が『論語』から取って漢詩を作り、碑文とした。除幕式典は11月5日に催された。また、同年11月、応助が蒐集した資料を保存するために土建業を営んでいた市議会議員の三津沢治郎によってブロック作りの書庫、「象山書庫」が14平方m で建築、収蔵された。 1964年(昭和39年)1月23日、愛知県教育委員会より文化功労者として表彰された。翌1965年(昭和40年)10月5日には小牧市市政十周年記念で文化功労者に選ばれ、また、記念式典に際し開催された「小牧市を育てた人々」写真展(中日新聞社主催)に選出された。1966年(昭和41年)頃より応助は病で臥せり勝ちになり、同年10月に病状が悪化、翌1967年(昭和42年)1月7日から危篤状態になり12日深夜に没した。77歳だった。
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