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1次車(1960年度製) 3001 - 3016号 1961年(昭和36年)1月から南千住 - 仲御徒町間最初の開業用として2両編成8本が落成した。 前面下部にアルミニウム製の排障器(スカート)が設置され、連結器はこの中に格納された。 側窓は下窓の上部に枠(サッシ)がなく、下窓に上窓が直接載る構造である。 車内天井には軸流送風機(ファンデリア)を設置し、屋根上の通風器(ベンチレーター)は八角形状のものである。 7次車までの側扉の窓は大窓のものが採用された。 ← 中目黒 北千住 → 形式3000形(CM1) 3000形(CM2) 車両番号30013003:30133015 30023004:30143016 2次車(1961年度製) 3017 - 3028号・4029 - 4056号 北千住 - 南千住間・仲御徒町 - 人形町間延伸開業用として1961年(昭和36年)11月から翌1962年(昭和37年)3月に落成した。 4両編成6本(24両)と1次車の中間増備車2両ユニット8本(16両)で、日比谷線全体では4両編成14本となった。 この時点で、東武伊勢崎線との相互乗り入れが開始されたが、当時はATSや列車無線などの保安装置は未整備であった。 保守に手間がかかることから新製時より排障器(スカート)は省略された。前面方向幕位置をやや下げ、側窓は安全のため下窓を100mm大きくした形状とした。 ← 中目黒 北千住 → 形式3000形(CM1) 4000形(M2) 4000形(M1) 3000形(CM2) 1次車4両化後30013003300530073009301130133015 40304032403440364046404840504052 40294031403340354045404740494051 30023004300630083010301230143016 2次車編成車301730193021302330253027 403840404042404440544056 403740394041404340534055 301830203022302430263028 3次車(1962年度製) 3057 - 3060号・4061 - 4064号 1962年(昭和37年)12月に搬入した人形町 - 東銀座延伸開業用の4両編成2本である。 台車がミンデンドイツ式(両板ばね式軸箱支持)のFS348形となった。 誘導無線の使用を予定し、誘導無線送受信器と送受信アンテナを車両に取り付けた。 3057編成は新製時からATO装置を搭載した(後述)。 3058号車は4次車で採用されるロータリー式空気圧縮機の試作品R-2000形を搭載していた。試験終了後はレシプロ式に戻された。 ← 中目黒 北千住 → 形式3000形(CM1) 4000形(M2) 4000形(M1) 3000形(CM2) 車両番号30573059 40624064 40614063 30583060 4次車-1(1963年度製) 3029 - 3032号・4001 - 4004号 輸送力増強用4両編成2本で、1963年(昭和38年)8月に搬入された。 これより丸ノ内線以来の連番方式から空番号を埋める形となり、以降の3000形と4000形では車両番号と製造時期が揃わなくなった。 前面窓のワイパーを窓上部設置の電動式から窓下部設置の空気式に変更し、さらに窓下には通気口が設置された。ワイパーは在来車も同様のタイプに改修されている。 側窓については下窓の上面に枠(サッシ)が追加され、ガラス寸法が縮小された。このため、同一形式で3種類の側窓が並ぶこととなった。 空気圧縮機は従来のレシプロ式からロータリー式を採用した。 4次車-2(1963年度製) 3033 - 3056号・3061 - 3068号・4005 - 4028号・4057 - 4060号・4065 - 4068号・4501 - 4548号 1964年(昭和39年)3月の霞ケ関 - 恵比寿間開業用(7月の中目黒開業分含む)の4両編成7本と全線開業用の増備車(6両編成9本と4次車-1までの車両の6両化用中間車13編成分)で、3回にわたり増備され、最終的には6両編成24本、4両編成10本となった。この4次車は全体で120両が製造された。 ← 中目黒 北千住 → 形式3000形(CM1) 4000形(M2) 4000形(M1) 3000形(CM2) 4次車北千住口増発用30293031 40024004 40014003 30303032 4次車中目黒開業用3041304330453047305330613063 4014401640184020402640584060 4013401540174019402540574059 3042304430463048305430623064 ※なお、この表では全線開業用の6両編成車と中間車の増結については省略する。 5次車(1964年度製) 3069 - 3072号・4069 - 4072号・4549 - 4558号 1964年(昭和39年)秋の輸送力増強用の車両で6両編成2本と、以前の車両の6両化用中間車3編成分が製造された。全体では6両編成29本、4両編成7本となる。 5次車の仕様は4次車とほぼ同じである。 ← 中目黒 北千住 → 形式3000形(CM1) 4000形(M2) 4500形(M1) 4500形(M2) 4000形(M1) 3000形(CM2) 5次車新造車編成30693071 40704072 45494551 45504552 40694070 30703072 ※なお、5次車以降では6両新造車のみ記載し、中間車の増結については省略する。 6次車(1965年度製) 4559 - 4564号 1965年(昭和40年)10月搬入の6両化用中間車3編成分で、全体では6両編成32本、4両編成4本となる。下記の床下機器の変更以外は4次車とほぼ同じである。 従来床下では重量や配線等のバランスを考慮して主制御器、断流器を車体中央に配置し、それを挟むように抵抗器を両側面に搭載していた。しかし、保守に非常に手間がかかることから抵抗器は片側にまとめて配置し、主制御器はその反対側への配置に変更した。 7次車(1966年度製) 3073 - 3076号・4073 - 4076号・4565 - 4576号 1966年(昭和41年)8月搬入の6両編成2本と6両化用中間車4編成分で、この増備をもって日比谷線は全車両6両編成となり、38編成の陣容となった。 このグループの増備に伴い、千住検車区が手狭となるために東武鉄道西新井電車区を譲り受け、営団「竹ノ塚検車区」(現・千住検車区竹ノ塚分室)として発足させた。 前照灯は従来、白熱球式であったが、1965年(昭和40年)からシールドビーム式に改修を開始したため、7次車は新製時からシールドビーム式を採用した。 従来の側窓は下降の枠(サッシ)は細くて曲がってしまうため、骨組みを入れて枠を太くして強化した。後に全車両がこのタイプに改造された。 従来は下降窓構造であった妻面窓を二段式としたり、天井板のパネルエッジを平板の押し面に変更するなど細かな点で変更されたが、仕様は4次車と大差はない。 4576号車は1966年(昭和41年)12月に東武線内での衝突事故で廃車となり、同一番号で代替車が造られている(後述)。 ← 中目黒 北千住 → 形式3000形(CM1) 4000形(M2) 4500形(M1) 4500形(M2) 4000形(M1) 3000形(CM2) 7次車新造車編成30733075 40744076 45734575 45744576 40734075 30743076 8次車(1968年度製) 3077・3078号・4077・4078号・4577・4578号 1968年(昭和43年)6月製造の輸送力増強用の6両編成1本である。最後の編成増備車で、これにより6両編成39本となる。この車両では大きな変更が加えられた。 従来の軸流送風機(ファンデリア)に代わって扇風機を設置。これは営団地下鉄が開発し、将来的に採用を想定した振りかけ冷房の使用を視野に入れたものである。合わせて屋根上の通風器(ベンチレーター)は八角形状から箱型形状に変更をした。 乗務員室内の配色をクリーム色からライトグリーン色に変更した。 つり革をばねで戻るリコ式をやめ、通常のベルトを用いた三角形の形状となった。さらに客用ドアを大窓タイプから上下方向を縮小した小窓タイプに変更した。 電動発電機は2台の分散型から1台に集約したものに変更した(前述)。 ← 中目黒 北千住 → 形式3000形(CM1) 4000形(M2) 4500形(M1) 4500形(M2) 4000形(M1) 3000形(CM2) 8次車3077 4078 4577 4578 4077 3078 9次車(1970年度製・8両編成化用) 3505 - 3574号(70両) 千住検車区の拡張工事が完成し、日比谷線の8両編成運転が可能となったことから製造された車両である。編成の中央に組み込まれ、編成の分割を考慮して簡易運転台を設置する。また、従来は6両編成39本で運用されてきたが、8両編成では38本で間に合った。このため、6両編成2本から4500形を抜き取り簡易運転台を設置した3500形に改造し、残った4両編成2本は組み合わせて8両化された。 正規の3500形を組み込んで6両編成→8両編成化:35本 6両編成から2両を抜き、4両編成化:2本→この2本を組み合わせて8両編成化:1本 前述の抜いた中間車を3500形に改造して8両編成化:2本 この車両は従来の車両と仕様が異なり、電動発電機・扇風機付きの車両を組み込むため、車両の電気回路が複雑なものとなった。 荷棚がパイプ式から金網式に変更など、細かな点で変更がある。このほか空気圧縮機は再度レシプロ式に変更された。 3500形組み込み後は編成の両端6両が大窓ドア車、中央の2両(3500形)が小窓ドア車となった編成が大半となった。後述するB修開始後は在来車も小窓ドアへと交換が実施された。 これをもって本形式は8両編成38本が出揃い、以降は1988年(昭和63年)7月に営業運転を開始する03系登場までこの状態が続いた。 車両搬入について 基本的には千住検車区に直接搬入されている。1次車は車両メーカーの汽車製造・東急車輌製造からトレーラートラック(陸送)で千住検車区に搬入した。2次車以降は北千住駅まで線路が完成したため、甲種車両輸送により常磐線と東武伊勢崎線を経由して北千住駅から搬入された。 ただし、霞ケ関 - 恵比寿間(中目黒間)開業用の車両(4次車の一部・4両編成7本)は当時北千住側の線路とはつながっておらず、東急東横線経由で搬入された。 車両メーカーから横浜線経由で菊名駅から搬入し、菊名駅から深夜に東急碑文谷工場内の留置線へ回送し、各種整備を実施した。整備後の1964年(昭和39年)2月中旬から3月中旬にかけて3回に分けて中目黒駅から日比谷線に搬入された。 これは東横線終電後に、東横線上り本線のレールを切断し、営団日比谷線の仮線のレールと接続させ(当時は中目黒 - 恵比寿間は未開業)、本形式のエアータンクに空気を溜めた上で、東急デハ3450形の重連に押された本形式を切換点にて突放し、搬入させた。その後は千住検車区広尾出張所へ自力回送された。なお、全線開業までは広尾駅付近の地下に設置した留置線(千住検車区広尾出張所)を一時的な車両基地として使用していた。 中目黒駅までのトンネル(地下区間)は順調に完成していたが、同駅付近の地上部の建設工事は大きく遅れており、車両搬入を行うために突貫工事で仮線1線の敷設を間に合わせている。同様に車両搬入のため、B線(北千住方面)地下区間の架線設備は先行して完成させていたが、地上部の架線設備は臨時に架線設備を施工し、一時的に搬入に間に合わせている。 東武線内での衝突事故 3075編成に組み込まれていた4576号車は衝突事故により廃車となり、1967年(昭和42年)9月に代替車両を新製している。 これは1966年(昭和41年)12月15日深夜に東武伊勢崎線西新井駅構内において、西新井駅到着の大師線電車(2両編成)が曲線部で脱線し、隣の伊勢崎線下り線を走行中の本形式の6両編成による竹ノ塚行き電車の3両目に衝突したものである。この事故で営団3000系も3両が脱線、大破した。
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1次車(1985年度製)9001F (量産先行形) 2次車(1987年度製)9002F - 9007F 3次車(1988年度製)9008F - 9013F 4次車(1989年度製)9014F 5次車(1990年度製)9015F 量産先行形の9001Fは制御装置の形式や車内補助送風機、車外車側灯台座形状の違いなど量産形車両と多少の違いがある。また、3次車以降は外板幕板と腰板を溶接構造からプレス加工構造に変更している。
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1次車(1991年度・1992年度製) 6101F・6102F 2次車(1993年度製) 6103F - 6107F 3次車(1994年度製) 6108F - 6112F 4次車(1995年度製) 6113F - 6117F 5次車(1996年度製) 6151F - 6155F 6次車(1997年度製) 6156F - 6157F 7次車(1998年度製) 6158F 1 - 4次車は西武では初となる軽量ステンレス車体を採用した。幕板部と腰板部はビード加工でベルトグラインド仕上げ、吹寄せ部はダルフィニッシュ仕上げとしている。ステンレス鋼の採用で、在来車両に比べて軽量化が図られている。車両番号は0番台で、側面に戸袋窓を持つ。 5次車はさらなる軽量化のため、西武鉄道で初のアルミ製車体を採用した。構体はアルミの大形押出形材を組み合わせたもので、既存の6000系のイメージを残すためにグレーに塗装がされている。車両番号は識別のため50番台となった。基本的な仕様はステンレス車に準拠したものとなっている。 6次車以降は、製造時の工数低減、さらなる車両軽量化のため、側面戸袋窓を廃止した。これによって編成あたり1.5tの軽量化が達成されている。台車の変更もあり、合計で15.0tの軽量化となった。 編成重量は、1 - 4次車で339.2t、5次車で325.1t、6・7次車でで310.1tとなっている。1 - 4次車と6・7次車の編成重量の差は29.1tにもなる。
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「東京都交通局5300形電車」の記事における「次車分類」の解説
4次車12編成(2008年7月) 6次車22編成(2008年7月) 1次車・01 - 02編成(1990年度)/日立製作所製 2次車・03 - 06編成(1991年度)/川崎重工業製 3次車・07 - 10編成(1992年度)/日本車輌製造製 4次車・11 - 14編成(1993年度)/日立製作所製 5次車(日本車輌)・15 - 17編成(1994年度)/日本車輌製造製 5次車(近畿車輛)・18 - 21編成(1994年度)/近畿車輛製 6次車・22 - 26編成(1995年度)/日立製作所製 7次車・27編成(1997年度)/近畿車輛製 7次車は、5200形の6両編成2本から8両編成1本への変更に伴い、不足となった1本を置き換える目的で新製された。 4次車からは東京都シンボルマークの位置を、1 - 3次車落成当初の前面は左側急行灯の下、側面は種別行先表示機横から、前面は非常用貫通扉、側面は中央扉の横(先頭車は乗務員扉の横)に移設された。 5次車からは前面下部のスカート(排障器)形状を変更し、大型化された。連結面貫通扉は、5次車までは2両に1か所の片側設置(4・5号車間は両側設置)であったが、6次車からは1両に1か所片側設置に増設された。 7次車の5327編成は落成当時、京急線内で都営車両の快特による120km/h運転が計画されていたために性能を変更した。在来車は性能上で120km/h運転は可能ではあるが、高速域での加速性能が低かったためである。主電動機は新設計のもので出力を165kWから180kWに増強し、制御装置は三田線用の6300形1・2次車と同形の制御容量(T-INV1A形・素子容量4500V-2300A)に変更し、120km/h運転が十分に可能な性能に向上させた。ただし、その後都営車による120km/h運転の快特の計画は見送られた。これ以外の仕様は在来車と同じだが新製時より転落防止幌を設置している。
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次車分類
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下記の次車分類は東西線用を基本として記載し、千代田線投入分の車両は別途記載する。 編成両数の変遷は以下のとおり 東西線用3両編成→7両編成→(暫定8両・9両編成)→10両編成 千代田線本線用3両編成→5両編成→10両編成(5両編成2本を連結) 千代田線北綾瀬支線用3両編成 増備過程は複雑であるが、基本的には編成車として東西線用7両編成41本(287両)と千代田線用5両編成10本(50両)が製造された。その後、1977年(昭和52年)以降に東西線用には輸送力増強用として中間車86両を、千代田線には北綾瀬支線車両捻出用に中間車3両が増備された。 これをもって全426両の増備を完了するが、1981年(昭和56年)9月14日には千代田線用は53両のうち北綾瀬支線用の6両を残して、47両が東西線に転属した。
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