各校の特徴
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中央大学 出場回数、連続出場回数など、多くの部門で1位の記録を持つ大学。60年代に達成した6連覇を含めて14回の優勝を誇るが、これも最多回数である。戦前にはトラックでもオリンピックで入賞した村社講平、60年代の黄金期にはテレビ中継の解説者としても活躍した横溝三郎や碓井哲雄、1964年東京オリンピック代表の岩下察男が活躍。同じく東京オリンピック銅メダリストの円谷幸吉は当時自衛隊体育学校にも在籍していたため箱根駅伝には出場していない。円谷の銅メダル獲得は6連覇を果たした最終年にあたり、円谷の活躍と7連覇が期待されたものの出場は認められず、これが7連覇を逃す一因ともなった。近年ではセビリア世界陸上マラソン銅メダリストの佐藤信之がいる。長年シード校の常連だったが第89回大会での途中棄権を境にシード落ちが続き、OBの藤原正和を監督に招聘するも第93回大会予選会で落選。連続出場記録が87回で途切れてしまった。それ以降も予選は通過するもシード権獲得には至っていなかったが、第98回大会で総合6位に入り10年ぶりのシード権を獲得した。OBを中心とした「箱根駅伝を強くする会」なども設置されている。練習拠点は八王子市。たすきの色は赤。(中央大学駅伝応援サイト) 早稲田大学 「早稲田大学競走部」を参照 日本大学 優勝回数12回を誇り、戦前初の4連覇を果たした。この際に優勝旗を永久授与されたが、太平洋戦争によって焼失してしまい、竿だけが残ってしまった。戦後も中央大学と共に50年代から60年代にかけて覇権を争った。しかし第50回大会を最後に50年近く総合優勝から遠ざかっている。シード校の制度が導入された第33回大会から第72回大会までの間、第62回大会を除き全ての大会でシード権を獲得し続けてきたが、10年ぶりの予選会出場となった第73回大会の予選会で敗退し、連続出場が47回で途切れた。近年ケニアからの留学生ランナーを招聘し、巻き返しを狙っているものの、上位になかなか届かない状況が続いており、第88回・第94回・第97回・第98回では予選会で敗退し本大会に出場できなかった。3度のオリンピックマラソン代表となった宇佐美彰朗は同好会出身者でありながら箱根駅伝を走った。練習拠点は世田谷区の文理学部キャンパスだが、大学の学部が東日本各地に分散している。近年は毎年のチームが考えてメッセージ入りのTシャツを作るようになっている。たすきの色は桜色。(日本大学陸上競技部 特別長距離部門) 法政大学 これまでに往路優勝・復路優勝の経験が1回ずつあるが、総合優勝はまだなく、最高順位は3位。戦前に短距離選手ながら箱根駅伝を走った大木正幹はその後オリンピックで400mを走った。60年代まではシード校の常連であったが、その後の出場成績は下位に沈むことが多くなり、予選会で敗退することも度々あった。元監督の成田道彦は第54回大会の2区で瀬古利彦を破って区間賞を獲得した経験がある。その成田監督の下で上位戦線を賑わした2000年代前半は、選手全員がスクールカラーのオレンジに髪を染めて出場したり、選手の多くがサングラスを着用するなど、派手なチームカラーを前面に押し出していたが、これは第76回大会1区区間賞、第77回大会2区2位の徳本一善の影響が大きかった。第78回大会では、徳本の走行中の怪我により2区で途中棄権しているが、スタート地点から28.3km(2区7.3km)での棄権は大会史上最短記録となっている。2020年東京オリンピックでは、5000mに坂東悠汰、3000mSCに青木涼真が出場した。練習拠点は町田市。たすきの色はオレンジに紺の縁取り。(法政大学陸上競技部) 東洋大学 「東洋大学陸上競技部」を参照 日本体育大学 初出場は1949年であり前身である日本体育専門学校(略称 日体)の出場回数(1)を含む。優勝回数は10回。70年代に5連覇を達成。この時代は学園紛争の時期にもあたり、その影響が少なかったことも追い風になった。応援団が行う優勝の雄たけび「エッサッサ」は有名。初出場からの連続出場記録を保持し、現在もなお更新中。また、上記の中央大学の連続出場記録のストップ以降、現在まで続いている連続出場記録としても最長となっている。80年代まで順天堂大学・早稲田大学と共に覇権を争った。第33回大会から第68回大会まで36回連続シード権獲得の最長記録を持つ。東京世界陸上マラソン金メダリスト・バルセロナオリンピック8位入賞の谷口浩美、1500mの前日本記録保持者石井隆士、ボストンマラソン優勝・ミュンヘン五輪マラソン代表の采谷義秋、ソウル五輪マラソン・ロサンゼルス五輪10000m・モスクワ五輪5000mの代表である新宅雅也、シドニー五輪マラソン代表の川嶋伸次、世界陸上シュトゥットガルト大会10000m代表の平塚潤など名選手が多く、大学が保健体育教員養成系の伝統校であることから体育教員(指導者)として全国各地にも多数のOBがいる。80年代は指導者(監督)不在で学生主導のチーム作りが行われた為に90年代の不振を招いたが、当時を知る世代が現在各大学の指導者として活躍。第89回大会で30年ぶりの総合優勝を果たした。練習拠点は横浜市青葉区の健志台キャンパスで、陸上競技長距離記録会のさきがけである日体大長距離競技会もここで行われる。たすきの色は白、花桜のシンボルマークと日本体育大学の青色刺繍文字。1969年の初優勝時に使われていた紺地で胸に花桜のシンボルマーク(Tのロゴマーク-Tは体育大学TAIIKUDAIGAKUのT)がついたユニホームは、第75回大会を最後に使用していない。現在のユニホームは白地に横じま青ラインに白抜きで日本体育大学の文字を使用。短パンは青色、右側縦書きで日体大の文字。(日本体育大学駅伝部) 専修大学 「専修大学陸上競技部」を参照 東京農業大学 最高順位は2位で、往路優勝の経験がある。沿道で応援団が繰り広げる大根踊りは箱根駅伝の風物詩として有名。60年代後半や2000年代に空白の期間があるが、それ以外は継続的に出場していた。不出場明けの70年代は服部誠らの活躍で優勝戦線に食い込んだ。第86回大会では5位に入り、14年ぶりのシード権を獲得している。しかし第90回大会の出場を最後に予選落ちが続いている。練習拠点は世田谷区。たすきの色は松葉緑。(東京農業大学 農友会陸上競技部) 明治大学 「明治大学体育会競走部」を参照 順天堂大学 1980年代に4連覇を達成するなど、優勝回数11回を誇る。復路に強く『復路の順大』『逆転の順大』とも呼ばれている。また、医学部を擁する大学の特性を生かしてスポーツ医学を取り入れた科学的なトレーニングや調整方法を行っている。女子マラソンの有森裕子、鈴木博美、高橋尚子を育てた小出義雄も同校OB。黎明期のエースだった澤木啓祐はその後母校の監督として『澤木マジック』と言われる独自の調整法を築き、日本陸連の強化委員長としても腕を振るった。4校しかない大学駅伝三冠の1校であり、1960年代後半から2000年代にかけて優勝争いの常連校であった。初代・山の神と呼ばれた今井正人を擁して優勝した第83回大会を最後に表彰台から遠ざかっていたが、第98回大会では総合2位に入り復活を遂げた。2016年リオデジャネイロ五輪では当時在学中の塩尻和也が、2020年東京五輪では在学中の三浦龍司とOBの松枝博輝がそれぞれ日本代表に選出されている。 練習拠点は印西市で、スポーツ健康科学部もここに存在する。たすきの色は白赤のツートーンだが、むしろユニフォームの茄子紺(深い青色)の方が有名と言えそうだ。(男子駅伝 - 順天堂大学) 筑波大学 「筑波大学陸上競技部」を参照 駒澤大学 優勝回数は7回。第43回の初出場時は同好会であった。長らく予選会の常連だったが90年代後半から急激に力をつけ、第76回大会で初優勝後、平成初の4連覇を達成するまでに成長。マラソン前日本記録保持者の藤田敦史、エドモントン世界陸上マラソン代表の西田隆維などを輩出するまでに至った。これは同校のOBでもある大八木弘明がスタッフに加入したことが大きい。第84回大会の優勝以降は東洋大学や青山学院大学などの強豪校に阻まれ2位や3位となることが多かったが、第97回大会で13年ぶりの総合優勝を果たした。練習拠点は世田谷区。たすきの色は藤色。(駒澤大学陸上競技部) 神奈川大学 「神奈川大学陸上競技部駅伝ブロック」を参照 国士舘大学 60年代から70年代にかけて何度も優勝争いを演じる。第39回大会から4年連続で1区区間賞を獲得するなど、往路前半区間でリードを奪う戦い方で強みを発揮し『突進の国士舘』と呼ばれた。しかし、要所でのブレーキに泣かされることが多く、最高順位の3位が示すように優勝を勝ち取るまではいかなかった。80年前後から長く低迷が続き、90年代に入ってからは第69回大会予選会で敗退し36回続いた連続出場が途切れ、その後の予選会でもあと一歩のところで出場を逃し続けるなど苦戦してきた。第80回大会で10年ぶりに出場を果たし、その後は数度の予選落ちを挟みながらも出場を続けている。練習拠点は多摩市。たすきの色は長年黄土色が採用されていたが、第88回大会からスクールカラーの青に赤の縁取りがされたものに変更された。(国士舘大学陸上競技部) 大東文化大学 出雲駅伝・全日本大学駅伝・箱根駅伝の大学駅伝三冠を初めて成し遂げた大学。日本大学OBの青葉昌幸の指導で強豪校へと上り詰め、4回の優勝を誇る。練習拠点は東松山市にあり、近くの森林公園でクロスカントリーをトレーニングに導入している。その為伝統的に山のスペシャリスト養成に長けている。山の区間での快走が優勝に絡んでおり、『山の大東』と称される。中でも4年連続5区区間賞の大久保初男は有名。ソウルオリンピック代表の米重修一、アトランタオリンピックマラソン代表の実井謙二郎も同校出身者。90年代半ばに低迷期を経験するまでは長く上位入賞の常連だった。第84回大会で初の途中棄権。第87回大会は予選会で敗退し、初出場からの連続出場が43回で途切れ、第96回大会以降も予選会敗退が続いている。たすきの色はライトグリーン。(大東文化大学陸上競技部) 東海大学 「東海大学陸上競技部」を参照 拓殖大学 「拓殖大学陸上競技部」を参照 山梨学院大学 「山梨学院大学陸上競技部」を参照 亜細亜大学 第43回大会で初出場。後に初優勝時の監督となる岡田正裕はこの時に主将として9区を走っている。以後、何度かシード権を獲得し、連続出場を続けていたが第54回大会予選会で敗退し、以後出場してもシード権を獲得出来ず、予選会落ちも度々経験した。第72回大会ではエチオピアからの留学生であるビズネ・ヤエ・トゥーラが1区区間賞を獲得し、20年ぶりのシード権を獲得するも、第74回大会予選会で再び敗退する。ニコニコドーで松野明美を育てたことで知られていた岡田が監督に就任後、夏合宿に酷暑の九州地方を選んでスタミナ養成をはかり、高校時代は無名の選手たちを成長させ、第78回大会で本大会復帰を果たし、第82回大会で初優勝。14番目の優勝経験校となった。練習拠点の日の出町からは、部員たちが挨拶運動を行うなどして町から感謝状が贈られている。岡田監督の退任後は第86回大会を最後に予選落ちが続いている。たすきの色は緑に空色の縁取り。(亜細亜大学陸上競技部) 慶應義塾大学 第1回大会の出場校で、優勝も1回あるが、第70回大会を最後に出場がない。これは特に戦後に波及した駅伝有害論(選手が故障したり選手寿命が尽きることを懸念するもの)を早稲田大学と協調して唱えて1951年の第27回大会出場を辞退したことが大きいと言われている。これにより選手が集まらなくなってしまい、以後10年近く参加できなかった(なお早稲田大学は大会への参加は継続している)。ようやく59年の第35回大会に予選会をクリアし復帰したものの60-70年代は予選会はクリアするもシード権を1度も獲得できず、1971年に出場した後は出場枠の多い記念大会であった1974年の第50回大会、1984年の第60回大会、1994年の第70回大会に出場できたのみであり、以後は予選会突破にすら長く苦しんでいる状況である。田町駅前を通る1区・10区、藤沢市内を通る3区・7区は地元にあたる。練習拠点は横浜市港北区および川崎市中原区。たすきの色は水色(第1回)、青・赤・青(第70回)。(慶應義塾体育会競走部) 立教大学 最高順位は3位。第44回大会以降、チームとして本大会の出場は無いが、60年代前半に山登りで活躍した浜崎真造が、第82回大会の5区コース変更によってクローズアップされている。2002年、箱根駅伝出場を支援する組織である「立教箱根駅伝プロジェクト」が設立。2018年には第100回大会での復活出場を目指す「立教箱根駅伝2024」事業が開始された。第84回・第85回・第97回・第98回大会には関東学連選抜・関東学生連合のメンバーとして選手が出場した。練習拠点は新座市。たすきの色は紫紺。(立教大学陸上競技部) 青山学院大学 「青山学院大学陸上競技部」を参照 帝京大学 「帝京大学陸上競技部」を参照 中央学院大学 順天堂大学OBの川崎勇二が1985年にイチから駅伝部を立ち上げ、第70回大会で初出場を果たした。最高順位は第84回大会の3位。4年ぶりの出場で初シードを達成した第79回大会以降連続出場を続けていたが、第97回大会で19年ぶりの予選落ちを喫した。練習拠点は我孫子市。たすきの色は薄紫。(中央学院大学駅伝部) 日本歯科大学 最高順位は3位。最後の本大会出場は第21回大会。第3回大会に初出場以来、草創期においては毎年のように出場していたが、近年は予選会への参加も無い。(日本歯科大学陸上競技部) 城西大学 以前から箱根駅伝予選会には出場していたが、2001年に日本体育大学OBでシュトゥットガルト世界陸上代表の平塚潤を監督に、早稲田大学OBで1時間走日本記録保持者の櫛部静二をコーチに迎えて男子駅伝部を創設し、本格的に強化に乗り出した結果、2004年の第80回大会で初出場を果たす。創部3年目での箱根初出場は黎明期を除くと史上最短記録。第82回大会でチーム初の区間賞を獲得したが、わずか10秒届かずシードを逃し、その後3大会連続で11位となった。第85回大会で途中棄権を経験するも、翌第86回大会で初のシード権を獲得した。しかし第87回大会ではわずか3秒差でシード権を手放した。第93回大会予選会で落選し初出場からの連続出場が13年で途切れたが、翌年の第94回大会では7位に入り3年ぶりにシード権を獲得した。2009年から櫛部が男子駅伝部監督に就任した。練習拠点は坂戸市。たすきの色は黄色。(城西大学男子駅伝部) 國學院大學 「國學院大學陸上競技部」も参照 第77回大会で初出場。第79回大会で初めての区間賞を獲得する。2009年に駒澤大学OBの前田康弘が監督に就任した。第87回大会では、ゴール直前でコースを間違えるアクシデントに見舞われながらも、初のシード権を獲得。第96回大会では過去最高の3位に入った。練習拠点は川崎市多摩区および横浜市青葉区。たすきの色はスクールカラーの古代紫に黒の縁取り。(國學院大學陸上競技部公式ホームページ) 横浜国立大学 前身である神奈川師範学校(略称 神師)の出場回数(3)を含む。神奈川師範学校時代の25回大会では、3区で箱根駅伝史上初となる途中棄権を経験している。2区・9区は地元にあたる。最高順位は8位。練習拠点は横浜市保土ケ谷区。たすきの色は青。(横浜国立大学陸上競技部) 上武大学 以前から箱根駅伝の予選会には出場していたが、2004年に早稲田大学OBの花田勝彦を招聘して陸上競技部から独立した駅伝部を創設、第85回大会で初出場を果たす。群馬県の大学では初の箱根駅伝出場となった。第86回大会では10区でチーム史上初の区間賞を獲得。初出場以降第95回大会まで11年連続出場を果たしたが、まだシード権を獲得したことは無い。練習拠点は伊勢崎市。たすきの色はプレミアムブラックに銀の縁取り。(上武大学駅伝部) 東京学芸大学 最高順位は11位。第31回大会から第37回大会まで連続出場。第60回大会で23年ぶりに本大会出場。以降、本大会の出場は無いが、関東学連選抜に選手が登録されている。練習拠点は小金井市。たすきの色は紺。(東京学芸大学陸上競技部) 横浜市立大学 最高順位は13位。練習拠点は横浜市金沢区。たすきの色は赤。(横浜市立大学陸上競技部) 関東学院大学 予選会には第32回大会から参加しているが、本大会の初出場は日本体育大学OBの中田盛之が監督に就任した後の第70回大会になってからである。最高順位は12位で、まだシード権を獲得したことは無い。第80回大会を最後にチームとしての出場が無く、2000年代後半からは予選会でも苦戦が続いている。練習拠点は横浜市金沢区。たすきの色は金。(関東学院大学陸上競技部) 東京国際大学 総監督に横溝三郎、監督に大志田秀次と2人の中央大学OBを招聘し2011年に創部。創部2年目から関東学連選抜に選手を輩出し、創部5年目の第92回大会で初出場を果たす。翌第93回大会は予選敗退も、関東学生連合のメンバーとして出場した選手が参考記録ながら10区で一番速く走ったことで話題となった。第96回大会で5位となり初のシード権を獲得、以降3大会連続でシードを守っている。練習拠点は坂戸市。たすきの色は紺青に赤のラインが入ったものであったが、第96回から紺青に金の格子状のラインが入ったものに変更された。(東京国際大学駅伝部) 東大農学部実科(東京農工大学) 1935年東京高等農林学校として独立、東京農工大学の前身。東京農工大になってからの出場は無い。(東京農工大学陸上競技部) 創価大学 1990年代から予選会ではあと一歩の成績が続き、関東学連選抜にも毎年のように選手を輩出していたが、第91回大会で初出場を果たす。2019年に中央大学OBの榎木和貴を監督に招聘すると成績が急上昇し、第96回大会で初のシード権を獲得、翌第97回大会では往路優勝・総合2位と躍進した。練習拠点は八王子市。たすきの色は縦縞のユニフォームと同じ赤・青のツートーン。(創価大学陸上競技部駅伝部) 関西大学 第9回・12回・13回大会に招待出場。最高順位は8位。(関西大学体育会陸上競技部) 防衛大学校 第37回・39回大会に出場、共に15位。第79回・第95回大会では関東学連選抜・関東学生連合で選手が出場している。(防衛大学校陸上競技部) 成蹊大学 第28回大会に出場、14位。(成蹊大学陸上競技部) 埼玉大学 第35回大会に出場、14位。第91回大会では関東学生連合に選手が登録された。(埼玉大学陸上競技部) 東京大学 第60回大会に出場。「赤門軍団」として話題になった。以降は、第81回・第95回・第96回大会に関東学連選抜・関東学生連合で選手が出場している。たすきの色は淡青。(東京大学陸上運動部) 平成国際大学 第77回大会に出場。留学生ジョン・カーニーなどの活躍で、創部からわずか5年で初出場を果たした。以後、チームとしての本大会への出場は無いが、関東学連選抜・関東学生連合で選手が出場している。練習拠点は加須市。たすきの色はフラッシュオレンジ・青のツートーン。(平成国際大学陸上競技部) 駿河台大学 1987年陸上競技部創部。2011年に法政大学OBの徳本一善を招聘し駅伝部が独立する。第91回大会以降毎年関東学生連合に選手を輩出、第98回大会で初出場を果たした。練習拠点は飯能市。たすきの色はアクアブルー・黒のツートーン。(駿河台大学駅伝部) 立命館大学 第40回大会に招待出場。オープン参加(11位相当)。たすきの色はえんじ。第80回大会では日本学連選抜で選手が出場した。(立命館大学陸上競技部) 福岡大学 第40回大会に招待出場。オープン参加(13位相当)。2区ではウィンザーマラソン優勝者の重松森雄が区間最高タイムを記録した(オープン参加のため参考記録扱い)。たすきの色は赤。(福岡大学陸上競技部) 関東学生連合チーム 第79回大会から、予選会に落選した各大学の個人成績優秀者が「関東学連選抜」としてチーム編成された。第80回大会は日本学連選抜が編成されたため関東学連選抜は出場しなかったが、第81回大会から再び編成された。第82回大会まではオープン参加。第83回大会から第89回大会まで正式参加。第84回大会では過去最高の4位に入った。第90回大会では編成されず、第91回大会には名称が「関東学生連合チーム」に変更されて復活したが、チームとしての出場校が1校増えたことから再びオープン参加となった。 日本学連選抜 第80回大会に出場。オープン参加(6位相当)。 出場回数順で表記。同数の場合は初出場が古い順、総合成績の優勝回数順、最高位順で表記。
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