京浜アスレチックス・投手
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「ストッパー毒島」の記事における「京浜アスレチックス・投手」の解説
毒島 大広(ぶすじま たいこう) 身長193cm、背番号55、左投げ左打ち。1978年10月22日生まれ。 経歴/広橋中-間柴高校中退-京浜アスレチックス(1995年8位) 本作の主人公で、アスレチックスの若きリリーフエース。幼少期は体が小さくいじめられっ子であり、幼馴染の貴恵を除いて同世代にはまともに相手にしてもらえなかった。中学時代にはすっかり腕白少年に育ち、中学時代の一時期はエースを務めていた一方で川上曰く素行も悪くなっており、評判を落としていたという。間柴高校に入学するが、中学時代に「真夏のダブルヘッダー事件」 を起こしたため野球部には入っておらず、登板機会無し。その後中退し、各球団の入団テストを目指すも、実戦テストに辿り着けず、プロを諦めかけるが、スカウトの木暮の後押しにより京浜アスレチックスに1995年ドラフト8位で入団する。 MAX163km/h の速球を投げる豪腕。ボールの握り方(縫い目への指の掛け方)には無関心で、握り方を気にせず直球しか投げていなかったが、結果的に投球は自然なムーヴィング・ファストボールとなって常に違う変化をし、打者を惑わせることに成功していた。反面コントロールに難があり、入団テストで投げた時には1球もストライクが入らず、さらに前述の通り変化球を全く投げられなかった。力みからか物語の初期には投げる時に「おっほえ」という奇妙な声を上げていたが、物語の終盤では少なくなった。ルーキーイヤーは開幕1軍を果たし、イチローを抑えてプロ初セーブをマークするが、制球難で通用しなくなり2軍落ち。その後チックくんの指導と特訓により制球難を克服する。プロ入り後にはカーブを覚えるが、ストレートとの腕の振りの違いは一目瞭然で落ち方もいまいちだったため、あまり通用しなかった。次にサークルチェンジ習得を目指すが、左手を怪我した際に偶然編み出した「ブスジマチェンジ」 を武器に加え、リーグ屈指のストッパーに成長していく。 尊敬するピッチャーは大野豊と、チームメイトである暮海明夫。兄の影響で広島カープのファン。テレビのインタビューでは前田智徳と釣り談義に花を咲かせたいとも語っている。 最初は一度暴れたら誰にも手の付けようのない「バイオレンス毒島」と謳われる程の凶暴ぶりで、起用法などで首脳陣に襲いかかり罰金を払わされた。未成年だが、喫煙と飲酒をしている。また、先輩選手にも敬語はあまり使わず、わがままな性格だったが、2軍落ちや中継ぎにされるなどの苦い経験を積んで徐々に丸くなり、チームメイトとの信頼を深め合う大人なプロ野球選手に成長している。一方で髪は最初から最後まで金髪に染めていた。 三木監督には「打者転向を本気で考えていた」と言わしめ、打撃練習では川岸から「バッターの方がメシを食えるんじゃないか」と言われるほどのバッティングを見せていたが、本人は兄を念頭に「上には上がいる事を子供の頃から知っている」と、投手一本に賭けている。しかし、パ・リーグ同士の試合では珍しく、オリックス戦に打者として打席に立ち、その打席で満塁本塁打を記録している。 『BECK』の中で登場人物が読んでいたスポーツ新聞では、その後「今季絶望か」と書かれるほどの怪我をしたらしい。 幼馴染の貴恵については、当初は恋愛関係を否定していたが、実は早くから異性として意識していた。しかし貴恵からの反応は鈍く、別の女の子に興味を抱く時期もあったが、最終的には貴恵を選んだ。 愛用するグラブは玉澤。 清水 良馬(しみず りょうま) 背番号13、右投げ右打ち。17歳。 経歴/立花東中-岡村学園高校中退-カンザスシティ・ロイヤルズ-京浜アスレチックス(1995年1位) 名門の岡村学園高校の野球部で1年生エースとして活躍し、甲子園出場を決めるも監督と反りが合わず中退。木暮の世話でアメリカ留学すると、1Aで11勝を挙げ、一躍名を上げる。本来ならドラフトでも競合となるはずの有望選手だったが、木暮との関係を考慮して他球団が入札を見合わせ、ドラフト1位で単独指名したアスレチックスに入団。しかし本人はメジャー志向が強く、新人入団時に、早くも「2年後にはメジャーへ挑戦する」という条項を盛り込んで契約を交わしている。150km/h近い直球と、強力なフォークボールを武器に、すぐにエース格となる。主に先発として登板し、1年目は11勝14敗。片平監督の下ではストッパーも経験したことがあるが、本人曰く「向いてない」と言うとおり、何度も敗戦投手になっている。 当初はアスレチックス入団をメジャー移籍までの腰掛け程度にしか考えておらず、やる気もなかったが、2年目には15勝を挙げ、最終戦では「メジャーに行く前にこのチームで優勝がしたい」という思いを覗かせたり、試合中のアクシデントによる怪我をおして続投しようとするなど、チーム愛が芽生えた様子が伺える。抜群の実力と整った容姿で人気も高いが、本人はクールで気分屋の扱いにくい性格で、大のマスコミ嫌い。「真夏のダブルヘッダー事件」で母から貰った財布を盗まれたため、犯人とされた毒島とは犬猿の仲。毒島の実力は認めているものの、斉木からは対抗心を剥き出しにされるなど、同期入団の2人とは仲が良いとは言えない。 斉木 哲也(さいき てつや) 背番号21、右投げ右打ち。17歳。 経歴/兵庫吹石高校中退-京浜アスレチックス球団職員-京浜アスレチックス(1995年3位) 兵庫吹石高校時代は地区予選止まりで甲子園には出場できなかったが、「兵庫のドクターK」と呼ばれ、知る人ぞ知る存在だった。高校を中退し駒沢フィールド職員を経てプロ入り。抜群のコントロールと切れのあるスライダーが武器で、鋭い牽制など冷静なマウンド捌きも持ち味。プロ入り後にチックくんの勧めでサイドスローへとフォーム改造する。1997年シーズンの序盤は主に先発を務め、中盤に毒島が不調で二軍落ちしてから終盤までは抑えを任され、優勝を懸けた最終盤では中継ぎで連投と、チームの苦しい投手事情の中でフル回転する。東尾修を尊敬しており、彼の現役時代と同じ背番号21を背負う。当初は清水が付ける予定だったが、「約束が違う」と斉木がごねたため、清水があっさりと譲った。 入団直後には清水に対抗すべく、球団職員を買収してスピード表示をごまかしてもらうなど、関西人らしいいたずらを随所に織り成す人を食った性格。入団当初は同期生の2人に対抗心を燃やしていたが、毒島とは憎まれ口を叩きあいながらも親交が芽生え、優勝争いをしている最中にはお互いを気遣う様子が描かれている。「闇雲にやっても意味がない」と言いつつも練習熱心であり、本人曰く「騙し騙し」登板過多に耐える様子は毒島にも認められている。プロ初登板の際にリリーフカーの運転手の女の子をナンパするなどプレイボーイな一面も。木暮曰く「したたかな男」。 黒田 正弘(くろだ まさひろ) 背番号26、右投げ右打ち。29歳。 毒島加入以前のアスレチックスの抑え投手。ストレートの球速は最高123km/hと遅い(132km/hという描写もある)が、様々な変化球に緩急をつけ、実質21球種を投げる技巧派。劇中で「小江夏」と言われている。 リリーフ時代は作中で打ちこまれることが多く、特に千葉ロッテマリーンズの堀幸一にはよく打たれ、堀は劇中「黒田キラー」と呼ばれていた。三木監督就任後は先発に転向し、相性が合ったようで一定の活躍をする。 アスレチックスのメンバーを取り巻く一つの派閥を作っており、球団の内部事情にも詳しく、しばしば後輩を脅す。 最初は不真面目で練習嫌いなキャラだったが、毒島ら若手に影響されて少しずつだが真面目に野球に取り組むようになる。名前のモデルは黒田正宏。 チーム一の酒豪で、二日酔いのまま登板した事もある。「野球は頭や」という著書を出している。 ウェイク 国吉(ウェイク くによし) 背番号41、右投げ左打ち。28歳。 沖縄県出身。本来は外野手。高校時代の友人で現スポーツ新聞記者の金城の発言から、高校時代は200万円かけて特別にネットが設置されたほどの強打者であったことが分かる。チーム一の努力家だが、過度の練習による疲労骨折や脱臼癖など故障の連続で、11年にも渡る日陰暮らしが続いていた。 解雇の危機が迫る1997年シーズン、練習の合間に習得したナックルボールをチックくんに見出され、投手(ナックル・ボーラー)に転向して大ブレイク。オールスター以降に先発ローテーションの一員となり、8月と9月の月間MVPを獲得する活躍を見せる。10月に仰木彬監督の「待球作戦」 でめった打ちにされるも、チック君の指導で自信を取り戻す。アスレチックスのコーチ・選手内でチックくんの中の人が三宅武ではないことを知っている唯一の選手。モデルは同じく野手からナックルボールを武器に投手に転向したティム・ウェイクフィールド(彼の名は作中でウィルソンが言いかけている)。 陳 文治(チェン ウェンジ) 背番号18、右投げ右打ち。 台湾人投手。1995年シーズンには10勝を挙げたアスレチックスのエースで、1997年は開幕投手を任されており、新エース候補の清水には対抗心を燃やしている。プレイボーイで、日本人のガールフレンド達から日本語を教わったため女言葉で話す。一度「オカマ」と言われると激怒し、兵役時代に身に付けた得意の太極拳で暴れ出す。またイラストが得意で、右肘の治療でジョーブ博士の治療を受けるために渡米した際、三木監督を励ますために、『いけない!ルナ先生』のイラストを添えた手紙を送ったこともある。 序盤で崩れる癖があり安定感は今ひとつ。清水同様、片平監督の下でストッパーも経験したことがあるが、何度も敗戦投手になっている。武器は外角のスライダー。ピンチを抑えるとマウンド上で「文治ダンス」なるものを繰り広げる。モデルは名前や特徴から郭源治。 牧 司郎(まき しろう) 背番号19、右投げ右打ち。36歳。 投手コーチ兼任のベテラン投手。ただしコーチとしての実力はいまいちで的外れな指導が多く、彼の指導を受け現役引退を決意した投手は多い。毒島も彼の指導を受け、一時アンダースローを試していた。 毒島曰く「肩書きだけのコーチ」。そのため、投手陣からの信頼の多くはもう一人の投手コーチであるチック君に寄せられている。一方で片平だけは牧の指導方針を支持しているようであり、片平の監督在任時代には行動を共にすることが多かった。新人の時は暮海に将来有望な若手として認められていたりと、ピッチャーとしての能力はそこそこあるようで、毒島1年目には先発ローテーションの一角として密かにチーム2位の8勝をあげている。赤羽に建てたマイホームのローンに苦しむ。名前と風貌のモデルはマギー司郎。 植西 克美(うえにし かつみ) 背番号47、右投げ右打ち。 経歴/社会人-京浜アスレチックス(1996年3位) 150km/hを超えるストレートとスプリットフィンガード・ファストボールが武器の抑え候補。顎が特徴的で、風貌は門倉健によく似ている。 不遜な性格の自信家で、毒島から抑えの座を奪うつもりでいたが、抑えの厳しさを目の当たりにして毒島にその役目を譲る。主に中継ぎ(セットアッパー)として活躍し、連戦が続く最終盤には先発も務めている。 暮海 明夫(くれみ あきお) 背番号11、左投げ左打ち。41歳。 経歴/?-京浜アスレチックス(1977年1位) 毒島が尊敬するアスレチックスの大ベテランで、毒島のよき理解者。新人でいきなり21勝を挙げ新人王と最多勝利を獲り、全盛期にはノーヒットノーランも達成するなど、エースとして華々しい活躍をしてきたが、晩年は故障に苦しむ。オープン戦で打ち込まれていた1996年シーズン前、ペナント初登板試合で結果を出さなければ引退するよう監督から勧告を受けてしまう。そんな中で臨んだ試合では勝ち投手の権利を得たまま最終回に絶体絶命の危機を迎えた場面で降板、後を託した毒島が何とか凌いで通算200勝目を挙げる。シーズン終了後に引退、翌年からの監督候補となるが、辞退して解説者として外からアスレチックを見守る。また、毒島が忘れていた「ブスジマ・チェンジ」の握り方を思い出させた。著書「マウンドを楽しむ 人生を楽しむ」の著者であり、大広はこの本に暮海のサインを貰おうとしていた。ルーキーの時は毒島と同じノーコンだったと語っている。 青山(あおやま) 背番号49、左投げ左打ち。 経歴/ふじしろ信用金庫-京浜アスレチックス(1995年5位) ふじしろ信用金庫軟式野球部出身の左腕。ドラフト入り直前に毒島と既に1回会っており、小暮の紹介でふじしろでの経験を積む予定であった毒島の暴れん坊振りを見て「小暮さんに刃向かうなんて度胸があるね」と評した。都市対抗野球大会の貸し出し選手(補強選手)として4イニング投げたのがスカウトの目に留まり、毒島と同期のドラフト5位でプロ入り。 貴重な左のサイドスローで、キレのある変化球が武器。専ら中継ぎ(解説には敗戦処理と言われているが)として起用される。 森口(もりぐち) 背番号16、右投げ右打ち。 経歴/?-横浜ベイスターズ-京浜アスレチックス 横浜ベイスターズから解雇されて移籍して来た。先発ローテーションの谷間を埋め、地味に活躍している。名前のモデルは森口益光か。 川本(かわもと) 背番号12、左投げ左打ち。 毒島入団前に活躍していた中継ぎの左投手。しかし開幕前のノック中に伊藤と交錯し全治1ヶ月の脳挫傷を負う。おかげで左不足になり、毒島が開幕1軍に入れることになるきっかけになった。その後は影の薄い選手に。 伊藤(いとう) 背番号32、右投げ右打ち。 川本と同じく中継ぎ投手。ノックの最中に川本と交錯してアキレス腱を断裂し、全治3ヶ月の重傷を負う。以後あまり活躍しなくなる。
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