ネオ‐プラスティシズム【neo-plasticism】
新造形主義
【英】:NEO-PLASTICISM
【別称】:ネオプラスティシズム
ネオプラスティシズム。20世紀前半の芸術運動。新造形主義の名称は、モンドリアン(1872〜1944)が、スフーンマーケルスの神秘的・超越論的思想とそれを幾可学的に表現する考えに影響を受け、彼の用語「新しい造形」(de nieuwe beelding)を引用しながら、色彩と線の純粋な関係が普遍的なものとして、絵画、彫刻、デザイン、建築を統一した原理で捉える見解を表明。1917年にドゥースブルフ(1883−1931)とモンドリアンが中心となってレイデンで刊行した『デ・ステイル』誌が運動の中核になった。1925年にモンドリアンは『デ・スティル』から離れるが、バウハウス、構成主義、ダダとも交流し、モホリ・ナジらが創刊した『i10』が両者の橋渡し役をはたした。絵画、彫刻、デザイン、建築といった幅広い分野に渡って影響を与え、20世紀の抽象芸術運動として大きな役割をはたした。
デ・ステイル
(ネオ・プラスティシズム から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/21 19:17 UTC 版)
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デ・ステイル (De Stijl) は、1917年にテオ・ファン・ドースブルフ(英: Theo van Doesburg, 1883年 - 1931年)がオランダのライデンで創刊した雑誌、及びそれに基づくグループの名称。「デ・ステイル」とはオランダ語で様式(英語:The Style)を意味する。
その理念は、グループの重要なメンバーでもあるピエト・モンドリアンが主張した新造形主義(ネオ・プラスティシズム、英: Neoplasticism、蘭: Nieuwe beelding)であった。しかし、リーダーであるドースブルフの考えは、絵画よりもむしろ建築を重視し、1924年には、垂直と水平だけでなく、対角線を導入した要素主義(エレメンタリズム)を主張した。そのため、両者の対立は決定的となり、モンドリアンは、1925年にグループを脱退する。
その後、雑誌は1928年まで刊行され、グループ自体はドースブルフの死(1931年)まで続いたが、短くて大きな潮流になることはなかった。その洗練されたスタイルはディック・ブルーナの「ミッフィー」(1955年)やイヴ・サン=ローランの「モンドリアン・ルック」(1955年)[1]などに影響を与えた[2]。
このグループは、建築や抽象絵画の重視、バウハウスへの大きな影響、ダダと 構成主義の橋渡し、など、国境や美術の分野を越えた活動をおこなったと評価できる。
このグループの他のメンバーとしては、
- ヘリット・リートフェルト(Gerrit Rietveld; 1888年-1964年)
- J.J.P.アウト(J. J. P. Out; 1890年-1963年)
- ジョルジュ・ファントンゲルロー(Georges Vantongerloo; 1886年-1965年)
- フィルモス・フサール(Vilmos Huszár; 1884年-1960年)
- バート・ファン・デル・レック(Bart van der Leck; 1876年-1958年)
- コーネリス・ファン・エーステレン(Cornelis van Eesteren; 1897年-1981年)
- ヤン・ヴィルス(Jan Wils; 1891年-1972年)
- ロバート・ファント・ホッフ(Robert van't Hoff; 1887年-1979年)
などがいる。
脚注
外部リンク
- デ・ステイル:現代美術用語辞典 - artscape
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