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馬謖Ma Su

バショク

190?~228?)
丞相参軍

字は幼常襄陽郡宜城の人。馬良の弟《馬良伝》。

馬謖は荊州従事となって先主の蜀入り随行し緜竹成都県令越巂太守叙任された《馬良伝》。身の丈八尺器量才能人一倍軍略好んで論じ丞相諸葛亮はその器量をいたく評価した馬良伝・襄陽記》。先主薨去臨んで「馬謖の言葉実態からかけ離れておるゆえ重用してはならん。君はそれを心得ておけよ」と告げたが、諸葛亮はそれを失当だと考えた。馬謖を参軍とし、いつも招き入れ談論昼から夜まで及んだ馬良伝》。

馬謖は越巂太守であったが、越巂の夷帥高定元が属県の新道包囲したとき、隣郡の太守李厳討伐当たっているところを見ると、馬謖は現地赴任せず成都にあって劉備諸葛亮らと軍略練っていたもの思われるだからこそ劉備彼の欠点指摘できたのである

建興三年二二五)、諸葛亮南征することになると、馬謖は数十里先まで見送った諸葛亮が「年を重ねて一緒に計画立ててきたが、いま改め良策授けてくれるかね」と訊ねると、馬謖は「南中険阻遠路頼り長らく服従しておらず、たとい今日打ち破ったとしても明日にはまた反逆いたすばかりでありましょう。いま公は国家挙げて北伐し、強敵当たろうとされておりますが、奴ら官軍空虚知れば、その叛逆もまた速やかに到来いたします一人残らず殺し尽くして後難絶とうとするのは仁者の情に背きますし、しかも早急に済ませられることではありません。そもそも用兵の道は心を攻めるを上、城を攻めるを下となし、心の戦いを上、兵の戦いを下となすもの。公よ、奴ら心服させられませ」と答えた諸葛亮がその策略採用して孟獲赦免する南方心服し諸葛亮時代南方が再び反乱することはなかった《馬良伝》。

六年春、諸葛亮は斜谷道経由で郿を奪取する喧伝し、趙雲鄧芝を囮部隊とし、諸葛亮自身諸軍率いて祁山攻めた南安天水安定の三郡は魏に叛いて諸葛亮応じ関中震えおののいた諸葛亮伝》。諸葛亮宿将魏延呉壱らを先鋒にすべきとの意見斥けて馬謖を抜擢し馬良伝》、彼に諸軍監督させて街亭派遣し、少し下がった柳城には高翔を屯させた《郭淮諸葛亮伝》。

馬謖は諸葛亮言い付け背き水道のある街亭城を捨てて南山登り采配煩雑混乱していた。王平はたびたび馬謖を諫めたが、馬謖は聞き入れなかった《張郃王平伝》。魏将張郃街亭到着して水道遮断し攻撃をかけると、馬謖軍は大敗して軍勢星屑のように散った張郃王平伝》。ただ王平率い千人だけは太鼓打ちながら堅持したので、張郃伏兵疑って近寄らなかった《王平伝》。高翔もまた郭淮打ち破られた《郭淮伝》。

諸葛亮進軍するにも拠るべき場所がなく、軍を引き払って漢中帰り、馬謖を獄に下した馬良伝》。諸葛亮が馬謖を殺そうとしたとき、参軍李邈が「秦は孟明を赦免して西戎制圧役立て子玉誅殺して(父祖の)二世代から格落ちいたしました」と諫めたが《楊戯伝》、諸葛亮聞き入れず、馬謖および将軍張休盛を誅罰し、将軍黄襲らは兵士没収王平伝》、諸葛亮はそれによって軍中謝罪し、みずから右将軍となり官位三等落とした諸葛亮伝》。長史向朗は馬謖と親しく、馬謖が逃亡したとき、実情知りながら検挙しなかったため免官になった向朗伝》。

このとき同じく敗退した高翔はそれ以後重用されており、馬謖が殺されたのは敗戦の責を問われたものでなく、諸葛亮言い付け背いたからだと分かる。しかし命令違背が馬謖の判断によるならば配下張休らが処刑され理由説明できない。おそらく違背主犯張休らであり、馬謖はそれを制止する立場ありながらそうしなかった監督責任問われたのではないだろうか。

馬謖は死を目前にして諸葛亮手紙送っている。「明公は馬謖を我が子のように見てくれましたし、馬謖も明公を父のように見ておりましたどうかくれぐれも殺して禹を取り立てた義を思い出してくださいますよう。平素の交わりがここに来て傷付けられることがなければ、馬謖は死んで黄泉路にあって恨みを抱くことはないのでございます」。馬謖は、ときに三十九歳《馬良伝》、十万軍勢彼のために涙を流した馬良伝》。諸葛亮はみずから祭祀行い彼の遺児平時のごとく待遇した馬良伝》。

のちに参軍蔣琬漢中来て「むかしが得臣を殺すと(晋の)文公喜びました天下はまだ平定されておらぬのですから、智計の士を殺すのは惜しいことではありますまいか」と訊ねると、諸葛亮は「孫武天下勝利を収められたのは法の運用明確だったからだ。それゆえ楊干が法を逸脱したとき魏絳がその従僕殺したのである四海分裂し戦争始まったばかりだ。もし法をないがしろにするならばどうやって賊徒討伐できようか」と涙を流したであった馬良伝》。

馬謖誅罰反対した李邈諸葛亮の勘に触れて帰国を命ぜられ、やはり誅罰批判した蔣琬以後重用されついには諸葛亮後継者となった諸葛亮人材運用不可解である。

参照】禹 / 王平 / 郭淮 / 魏延 / 魏絳 / 呉壱 / 高翔 / 黄襲 / / 子玉(得臣) / 諸葛亮 / 向朗 / 蔣琬 / 晋文公 / 孫武 / 張休 / 張郃 / 趙雲 / 鄧芝 / 馬良 / 孟獲 / 孟明 / 楊干 / 盛 / 李邈 / 劉備先主) / 安定郡 / 越巂郡 / 街泉亭街亭) / 漢中郡 / 関中 / 魏 / 祁山 / 宜城県 / 荊州 / 襄陽郡 / 蜀 / 秦 / 成都県 / / 漢陽郡天水郡) / 南安郡 / 南中 / 郿県 / 緜竹県 / 斜谷道 / 列柳城 / 右将軍 / 県令 / 参軍 / 従事 / 丞相 / 太守 / 長史 / 西戎


馬謖

(masu から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/20 16:25 UTC 版)

馬謖
馬謖(代『三国志演義』より)
蜀漢
越巂太守
出生 初平元年(190年
荊州襄陽郡宜城県
死去 建興6年(228年)5月
拼音 Mǎ Sù
幼常
主君 劉備劉禅
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馬 謖(ば しょく、190年 - 228年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将。幼常荊州襄陽郡宜城県の出身。兄は馬良(四男)、ほか三名(実名不詳)。襄陽の名家であった「馬氏五常」の五男(末子)。

生涯

劉備が荊州を支配するようになると、兄の馬良と共に従事に取り立てられた[1]

劉備の入蜀に随行し、益州平定後は綿竹成都県令越巂太守を歴任した[1]

並外れた才能の持ち主で、軍略を論じることを好み、その才能を諸葛亮に高く評価された。ただ劉備は彼を信用せず、白帝城で臨終を迎えた際にも「馬謖は頭はいいが実行力がないため軍隊の指揮は任せてはならない」と諸葛亮に厳しく念を押したという。しかしながら「才器、人に過ぎ、好みて軍計を論ず」と、俊英な馬謖の才能を愛した諸葛亮は[2]、劉備の死後に彼を参軍(幕僚)に任命し、昼夜親しく語り合った[3]

建興2年(224年)春、建寧郡の豪族の雍闓らは西南夷の有力者の孟獲を誘って蜀に謀反を起こした。諸葛亮が馬謖に「数年に渡って共に謀を考えてきたが、今再び良計を授けてくれ給え」と言うと、馬謖はこれに答えて「南中はその遠方かつ険阻な事を恃みとして久しく服従しませんでした。今日これを撃ち破っても明日にはまた反逆するだけでしょう。今、公 (諸葛亮)は国家の力を傾けて北伐を行い、以って強力な賊にあたられるおつもりです。官軍の勢力減少を彼らが知れば、反逆もまた速いでしょう。もし反乱兵だけでなく、残った者まで尽く滅ぼし、以って後の禍を除こうとすれば、それは仁徳の情に外れる上に、急に成す事も出来ません。そもそも用兵の道は、心を攻める事を上策とし、城を攻める事を下策とします。また心を屈する戦いを上策とし、兵を以って戦う事を下策とします。公は寛容さを以ってその心を帰服させられます様に」と述べ、諸葛亮もこの言葉を全面的に受け入れたため、これが七縦七擒などの作戦に繋がり、南征の成功と蜀の後背地の安定に寄与する事になった[4]

京劇の馬謖。演目は「失街亭」

建興6年(228年)春3月、諸葛亮は第一次北伐に際し周囲の反対を押し切って馬謖を先鋒に抜擢、彼に戦略上の要所である涼州(現在の甘粛省天水市秦安県)の守備を命じた(街亭の戦い)。馬謖はこれを達成するため街亭の付近の山の頂に陣を敷いた。このため副将の王平は山を降りるよう再三進言したが、馬謖はその進言を却下した。 その結果、張郃に水源を断たれて山頂に孤立し、蜀軍は惨敗を喫した[5]

同年5月、諸葛亮は馬謖を獄に下し、『蜀書』馬良伝の記載ではそこで故人となり[6]、王平伝では処刑されたと記載される[5]。享年39[7]。諸葛亮は涙を流しながら処刑を命じ、これが後に「泣いて馬謖を斬る」と呼ばれる故事となった[6]。副将の李盛や部下の張休も敗戦の責任を取らされ処刑された[5]

華陽国志』によると、李邈は諸葛亮を諫めて「春秋時代は敗軍の将・孟明を赦したおかげで西戎を制圧でき、楚は子玉を誅殺したため、二代にわたって振るわなかったのです」と述べて諸葛亮の機嫌を損ね、蜀に帰還した。

裴松之が注に引用する習鑿歯の『襄陽記』によると、馬謖は処刑される前、諸葛亮に宛てて「明公(諸葛亮)は私めを我が子のように思ってくださり、私も明公の事を父のように思ってまいりました。古代のを誅し、その子のを取り立てたように(私の遺族を遇し)、生前の交遊を大切にして下さるならば、私は死すとも何も心残りはございませぬ」と手紙を書き残した。馬謖の遺児は処罰されることなく、以前と同様に遇されたという。

習鑿歯は『襄陽記』で、諸葛亮が馬謖を処刑して有用な人材を失った事を批判している。

晋書陳寿伝によると、『三国志』の撰者である陳寿の父は馬謖の参軍であり、馬謖に連座して髠刑(コン刑、剃髪の刑で宮刑に次ぐ重罰だという)に処されたという[8]

小説『三国志演義』では、馬謖は司馬懿涼州への赴任を志願し蜀への対策を行なっているという話を聞き、司馬懿が謀反を企んでいるという噂を流すよう諸葛亮に進言する。噂を信じた曹叡らが司馬懿を疑ったため、司馬懿は役職から外された。これを聞いた諸葛亮は出師表を上奏し、北伐を行なうことになる[9]

死についての異説

通説では馬謖の死は処刑によるものと見なされているが、陳寿の正史においても以下のようにばらつきがみられる。

  • 「亮、西県の千余家を抜きて漢中に戻り、謖を戮して以て衆に謝す」(諸葛亮伝)
  • 「丞相亮、既に馬謖及び将軍張休・李盛を誅し、将軍黄襲等の兵を奪う」(王平伝)
  • 「亮、進むに拠るところ無く、軍を退きて漢中に還る。謖、獄に下されて物故す。亮、これがために流涕す」(馬謖伝)
  • 「朗、もとより馬謖と善し。謖、逃亡し、朗、情を知れども挙げず。亮、これを怨み、免官せられて成都に戻る」(向朗伝)

「諸葛亮伝」「王平伝」では泣いて馬謖を斬るの故事どおりに処刑されたとあるが、「馬謖伝」に記述されている「獄に下されて物故す」は処刑ではなく獄死である、と解釈する[10]

脚注

  1. ^ a b  三國志 蜀書九 董劉馬陳董呂傳 (中国語), 三國志/卷39#馬良, ウィキソースより閲覧。  - 良弟謖,字幼常,以荊州從事隨先主入蜀,除綿竹成都令、越雋太守。
  2. ^ 陳舜臣監修『三国志ハンドブック』1998年、186頁。
  3. ^  三國志 蜀書九 董劉馬陳董呂傳 (中国語), 三國志/卷39#馬良, ウィキソースより閲覧。  - 才器過人,好論軍計,丞相諸葛亮深加器異。先主臨薨謂亮曰:「馬謖言過其實,不可大用,君其察之!」亮猶謂不然,以謖為參軍,每引見談論,自晝達夜。
  4. ^  三國志 蜀書九 董劉馬陳董呂傳 (中国語), 三國志/卷39#馬良, ウィキソースより閲覧。  襄陽記に引く - 《襄陽記》曰:建興三年,亮征南中,謖送之數十里。亮曰:「雖共謀之歷年,今可更惠良規。」謖對曰:「南中恃其險遠,不服久矣,雖今日破之,明日復反耳。今公方傾國北伐以事強賊。彼知官勢內虛,其叛亦速。若殄盡遺類以除後患,既非仁者之情,且又不可倉卒也。夫用兵之道,攻心為上,攻城為下,心戰為上,兵戰為下,原公服其心而已。」亮納其策,赦孟獲以服南方。故終亮之世,南方不敢復反。
  5. ^ a b c  三國志 蜀書十三 黃李呂馬王張傳 (中国語), 三國志/卷43#王平, ウィキソースより閲覧。  - 建興六年,屬參軍馬謖先鋒。謖捨水上山,舉措煩擾,平連規諫謖,謖不能用,大敗於街亭。眾盡星散,惟平所領千人鳴鼓自持,魏將張郃疑其伏兵,不往逼也。於是平徐徐收合諸營遺迸,率將士而還。丞相亮既誅馬謖及將軍張休、李盛,奪將軍黃襲等兵。
  6. ^ a b  三國志 蜀書九 董劉馬陳董呂傳 (中国語), 三國志/卷39#馬良, ウィキソースより閲覧。  - 〉建興六年 ,亮出軍向祁山,時有宿將魏延、吳壹等,論者皆言以為宜令為先鋒,而亮違眾拔謖,統大眾在前,與魏將張郃戰於街亭,為郃所破,士卒離散。亮進無所據,退軍還漢中。謖下獄物故,亮為之流涕。
  7. ^  三國志 蜀書九 董劉馬陳董呂傳 (中国語), 三國志/卷39#馬良, ウィキソースより閲覧。  - 良死時年三十六,謖年三十九。
  8. ^  晉書 卷八十二 列傳第五十二 (中国語), 晉書/卷082#陳壽, ウィキソースより閲覧。  - 壽父為馬謖參軍,謖為諸葛亮所誅,壽父亦坐被髡,
  9. ^  『三國演義』第九十一回 第九十一回 祭瀘水漢相班師 伐中原武侯上表 (中国語), 三國演義/第091回, ウィキソースより閲覧。 
  10. ^ 「物故」については、「『誅之』の誤りではないだろうか(然疑物故是誅之二字之誤)」(周寿昌)、「馬氏の私的な書をそのまま収録し、書き直さなかったのだろう(蓋録馬氏私書而未改)」(銭振鍠)とする見方がある(盧弼『三国志集解』)。

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